第八章:揺らぐ真実
翌朝、イリアは早めに図書館に出勤した。頭の中は昨夜の出来事でいっぱいだ。「全知の書」と呼ばれる本。その存在は、彼女の司書としての価値観を大きく揺るがせていた。
朝の書架の間を歩きながら、イリアは考えを整理する。本来、知識とは客観的で不変のものではないのか? しかし、読む者によって内容が変化するという本の存在は、その前提を覆すものだった。
「おはよう、イリアさん」
振り向くと、タリアが立っていた。昨日と同じ優雅な立ち姿で、微笑みを浮かべている。
「タリアさん……」
「昨日の本のことだけど、もう少しお話しできるかしら?」
イリアは警戒心を抱きながらも、タリアの真摯な様子に、話を聞いてみる価値はありそうだと判断した。
「私たちは『真理探究者』という組織の一員よ。その本が示す真実を、人類の進歩のために活用したいと考えているの」
「真理探究者……?」
突然自ら所属する組織を明かしたタリアにイリアは訝し気な目を向ける。
「そう。宇宙には、人類がまだ理解していない真理が無数に存在する。その本は、私たちをそこへ導く鍵になるかもしれない」
タリアの言葉には説得力があった。しかし、イリアの中で何かが引っかかる。
「でも、本の内容は読む人によって変わるんですよね? それなら、それは本当の真実と言えるのでしょうか?」
タリアは意味深な笑みを浮かべた。
「その疑問こそ、あなたがその本に選ばれた理由かもしれないわ」
その時、図書館内のアラームが鳴り響いた。非常事態を知らせる警報だ。
「申し訳ありません。私は持ち場に戻らないと」
イリアが立ち去ろうとすると、タリアが腕を掴んだ。
「待って。この警報は……」
タリアの言葉が途切れたその瞬間、図書館全体が大きく揺れた。イリアは反射的に「全知の書」を胸に抱きしめる。
「私を信じないでしょうね」
タリアが静かに言った。その表情には、どこか諦めのような色が浮かんでいる。
「でも今は、それを説明している時間もない。イリアさん、その本を守って!」
タリアが叫んだ直後、廊下の向こうから黒い影が迫ってきた。まるで濃密な霧のような存在が、図書館の空間を侵食していく。
「抹消者たち……」
タリアは両手を広げ、イリアの前に立ちはだかった。すると彼女の体から、青白い光が放射され始める。それは「全知の書」の放つ光とよく似ていた。
「タリアさん?」
「説明は後で。サイラス長老!」
暗闇の中から、サイラスの姿が現れる。
「やはり君も、守護者の血を引いていたか」
サイラスの手には古い杖があった。それは図書館の創設以来、代々の司書長が受け継いできた「知識の杖」だ。
「私の姉も、この図書館の守護者でした」
タリアの声が震える。
「しかし彼女は……抹消者たちによって」
「分かっている」
サイラスが静かに頷く。
「十年前の事件だ。私は彼女と共に戦った。そして彼女は、最後の力を使って『全知の書』を封印した」
イリアは息を呑む。タリアの行動の真意が、少しずつ明らかになってきた。
黒い影がさらに接近する。タリアの放つ光の障壁が、徐々に押し戻されていく。
「タリア、私の判断は正しかったようだな」
サイラスが前に出る。
「イリアが『全知の書』に選ばれた時、私は君の中に姉の面影を見た。そして、これは単なる偶然ではないと確信した」
「サイラス長老……」
「もう疑う必要はない。私たちは皆、知識を守護する者たち。そして今こそ、力を合わせるべき時だ」
サイラスが「知識の杖」を掲げる。タリアの放つ光が、それに呼応するように強まった。
「イリアさん」
タリアが振り返る。その瞳には、もう迷いはなかった。
「私の姉は言っていました。真の守護者は、必ず現れると。そして、その時は皆で力を合わせなければならないと」
イリアは固く頷いた。「全知の書」が、彼女の手の中で確かな温もりを放っている。
三者三様の光が交差し、闇を押し返していく。それは、まるで知識の灯火が、無知の闇を照らすかのようだった……。
「サイラス長老、もう説明している時間はないわ。『彼ら』が動き出した」
サイラスは顔をしかめた。
「分かっている。イリア、私たちについてくるんだ。特別収蔵庫まで案内しよう」
「でも、私にはアクセス権が……」
「今は非常事態だ。それに、その本を持っている君には、特別な資格がある」
三人は急いで図書館の深部へと向かった。普段は立ち入ることのできない区画を、次々と通り抜けていく。
そして、巨大な扉の前で立ち止まった。扉には複雑な幾何学模様が刻まれており、「全知の書」の表紙に似たデザインだった。
「この先が特別収蔵庫よ」
タリアが説明する。
「でも、なぜ私が?」
「その本は、君を選んだ」
サイラスが静かに告げる。
「図書館には古くからの言い伝えがある。『全知の書』は、真実を正しく扱える者を自ら選ぶと」
イリアは本を見つめた。確かに、この一週間の出来事は偶然とは思えない。本との出会い、タリアの登場、そして今回の事件。すべてが、あらかじめ定められていたかのようだ。
「扉を開けるわ」
タリアが扉に手をかざすと、幾何学模様が光り始めた。そして、重たい扉がゆっくりと開いていく。
中に入ると、そこは想像をはるかに超える光景が広がっていた。
無数の本が、まるで生きているかのように浮遊している。天井は見えないほど高く、壁面には謎めいた装置が並んでいる。
「これが、エターナル・アーカイブの心臓部」
サイラスが説明を始めた。
「ここには、人類の歴史上最も重要な、そして最も危険な知識が保管されている。そして……」
突然、警報が再び鳴り響いた。
「彼らが来たわ!」
タリアが叫ぶ。
「イリアさん、その本を守って! サイラス長老、私が時間を稼ぎます」
タリアは扉の方へ走り出した。その背中から、まるで光が放射されているような異様な輝きが見える。
「イリア、こっちだ」
サイラスは奥へと進んでいく。イリアは混乱しながらも、彼に従った。
「一体、何が起きているんですか?」
「説明している時間はない。ただ、君に知っておいてほしいことが一つある」
サイラスは足を止め、真剣な表情でイリアを見つめた。
「その本は、単なる知識の集積ではない。それは、人類の『理解』そのものを映し出す鏡なんだ」
その言葉の意味を考える間もなく、遠くで大きな爆発音が響いた。