第五章:深夜の書架
エターナル・アーカイブの夜は、昼とはまったく異なる表情を見せる。無限に続くかのような書架の間に、青白い非常灯の光だけが点々と浮かび、まるで星座のように瞬いていた。
イリアは深夜勤務の巡回を続けていた。着任から一週間、夜勤は初めてだった。静寂に包まれた図書館は、昼間では感じられない神秘的な雰囲気を漂わせている。
「深夜二時……」
彼女は手首の時刻表示を確認した。古代理論物理学のセクションを巡回中だ。ここには、人類が宇宙の謎に挑戦してきた記録が眠っている。
ふと、風のような音が聞こえた。
「誰か、いらっしゃいますか?」
声が書架の間に吸い込まれていく。返事はない。
イリアは懐中照明を取り出した。光を照らすと、書架の影が長く伸び、天井まで届くような錯覚を覚える。
その時、背後で微かな光が揺らめいた。
振り向くと、一冊の本が、まるで自ら光を放っているかのように見えた。それは第四書架の、ちょうど手の届く高さに置かれていた。
「これは……」
イリアは慎重に本を取り出した。表紙には題名も著者名も記されていない。しかし、手に取った瞬間、不思議な温もりを感じた。
その時、廊下の向こうから足音が聞こえてきた。
「メリディアンさん?」
声の主は、エレナ・シルバーストーンだった。
「シルバーストーンさん、こんな遅くまで」
「ええ、古文書の修復作業が長引いてしまって……」
エレナは言葉を切り、イリアの手元の本に目を留めた。その瞬間、彼女の表情が変化した。
「その本……」
「ああ、これですか? 今、書架で光って……」
「光?」
エレナの声が震えた。
「私、夢で見たのです。青い光を放つ本と、それを手にする若い司書を……」
イリアは息を呑んだ。確かに本は青みがかった光を放っていた。しかし、今はただの古い本のように見える。
「それ、データベースに登録されている本ですか?」
「確認してみましょう」
イリアは携帯端末を取り出し、本のスキャンを試みた。しかし、画面には「データなし」という表示が浮かび上がるだけだった。
「おかしいわ。エターナル・アーカイブの本なら、必ずデータベースに……」
その時、本が再び微かに輝きを放った。同時に、遠くで何かが倒れるような音が響く。
「何かしら?」
「調べてきます」
イリアが音のした方向へ向かおうとすると、エレナが腕を掴んだ。
「待って! 私も行きます」
二人は慎重に音源に向かって歩き始めた。足音を立てないように気をつけながら、書架の間を進んでいく。
そして、特別収蔵庫への通路に差し掛かったとき、二人は同時に立ち止まった。
廊下の突き当たりに、一人の人影が立っていた。
「タリア・ノクターン!?」
エレナが息を呑む。確かにそれは、昼間図書館を訪れていた謎めいた女性だった。しかし、タリアは二人に気付いていないようだった。彼女は特別収蔵庫の扉に向かって、何かを……まるで探るように手を翳していた。
「彼女、夜間の入館許可を……」
イリアの言葉は途中で途切れた。タリアの姿が、まるで霧のように薄れ、消えていったのだ。
「これは……」
「幻? でも、私たち二人とも確かに見たわ」
エレナの声が震えている。イリアは本を強く握りしめた。すると、本の中から一枚の紙が滑り落ちた。
それは古い手書きのメモだった。インクは薄れかけているが、かろうじて文字を判読できる。
『真実は、時として幻となって現れる。しかし、それもまた現実の一部なのかもしれない』
サイラスの筆跡だった。
「これは……」
イリアが言葉を探していると、突然、館内放送が鳴り響いた。
『深夜巡回報告を』
通常の定時連絡だ。現実の時間が、再び流れ始めたことを告げている。
「私、戻らないと」
エレナが小声で言う。
「ええ。でも……」
イリアは本を見つめた。今は何の変哲もない古い本に見える。しかし、確かに何かが起きた。そして、それは始まりに過ぎないという予感がしていた。
「この本のこと、サイラス館長に報告した方が……」
「いいえ」
エレナが意外な強さで言った。
「私の夢のこともあるわ。きっと、これには意味があるはず。もう少し、私たちだけで見守ってみましょう」
イリアは迷った。規則では、未登録の本は直ちに報告しなければならない。しかし、心の奥底で、エレナの言葉に共感もしていた。
「分かりました。でも、もし何か変わったことがあれば、すぐに報告します」
エレナはほっとしたように微笑んだ。
「ところで、私の修復室に来てみません? お茶を飲みながら、ゆっくり話をしましょう」
イリアは頷いた。この夜の出来事は、誰かと共有しなければ、まるで夢のように消えてしまいそうだった。
二人が去った後、特別収蔵庫の扉が微かに震えた。まるで、内側から何かが呼びかけているかのように……。
エレナの修復室は、図書館の地下一階に位置していた。部屋の中央には大きな作業台が置かれ、その上に古い本が幾つも並んでいる。壁際には修復用の機材が整然と並び、部屋全体に古書特有の香りが漂っていた。
「お茶を入れますね」
エレナは古風なティーポットを取り出した。
「伝統的な方法で入れるんです。機械じゃない温もりが、古い本たちには必要なんですよ」
その言葉に、イリアは思わず微笑んだ。エレナの本に対する愛情が、そんな些細なことにも表れている。
「あの、シルバーストーンさん」
「エレナでいいわ。こんな夜中に、あんな経験をした後では、もう他人じゃないでしょう?」
エレナは優しく微笑んで、二つのカップにお茶を注いだ。温かい香りが、緊張した空気を少しずつ和らげていく。
「エレナさん、その夢のこと、もう少し詳しく聞かせてもらえませんか?」
イリアは机の上の謎の本を見つめながら尋ねた。
「ええ。でも、その前に……」
エレナは立ち上がり、部屋の奥にある古い棚から一冊の本を取り出した。
「これを見て」
それは、エレナの個人的な記録帳だった。表紙には「不可思議記録」と、控えめな文字で書かれている。
「私、この図書館で起こる不思議な出来事を、こっそり記録していたの」
ページを開くと、様々な記録が丁寧な筆跡で記されていた。本が自ら移動する現象、深夜に聞こえる謎の音、そして……。
「これは!」
イリアは息を呑んだ。ページの一つに、青い光を放つ本のスケッチが描かれていたのだ。しかも、それは一年以上前の記録だった。
「私だけじゃないの。何人かの司書が、同じような本を目撃しているわ。でも、誰も正式には報告していない。なぜって……」
「報告したら、即座に調査が入りますよね」
「ええ。そして、その本は二度と姿を現さなくなる。まるで、私たちを試しているみたい」
イリアは自分が持ってきた本を、改めて注意深く観察した。確かに、ただの古い本には見えない何かがある。
「でも、なぜ今、私たちの前に……」
その時、本が再び微かに震えた。ページが自然に開き、文字が浮かび上がり始める。
『求める者にのみ、道は開かれる』
「これは……」
エレナが身を乗り出してきた。
「待って。これ、どこかで……」
彼女は自分の記録帳を慌てめくり始めた。
「ここ!」
五年前の記録に、全く同じ文章が記されていた。しかも、その時の目撃者は……。
「サイラス館長!?」
イリアとエレナは顔を見合わせた。まるで、全ては最初から繋がっていたかのような感覚が、二人の心を捉えた。
「これは偶然じゃない」
エレナが静かに、しかし確信を持って言った。
「私たちは、何かに選ばれたのかもしれない」
その言葉が、部屋の空気を震わせた。遠くで、図書館の大時計が三時を告げる。
その瞬間、イリアの持っていた本が、まるで脈動するように青い光を放ち始めた。その光は、エレナの記録帳にも反応するように広がっていく。
「エレナさん、これって……」
「ええ、始まるのね」
二人は息を呑んで、眼前で起こっている現象を見守った。本の中から漏れ出る青い光は、次第に部屋全体を包み込んでいく。その光の中で、二人は確かな予感を共有していた。
これが、単なる深夜の不思議な出来事で終わるはずがないことを。そして、自分たちがもっと大きな何かの一部になろうとしていることを。
窓の外では、夜明けまでまだ時間があった。しかし、二人の心の中では、既に新しい夜明けが始まっていたのだった……。