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第二章:最後の試験

 銀河図書館学院の試験室は、古い知識の香りに満ちていた。数百年の歴史を持つこの部屋で、どれほど多くの司書候補生が運命の時を迎えたことだろう。


 イリア・メリディアンは、静かに深い息を吐いた。緊張で指先が僅かに震えているのを、誰にも悟られないように机の下で握りしめる。


 壁に掲げられた時計が、試験開始まであと十分を示していた。


「メリディアンさん」


 声に振り向くと、同期生のレイチェル・ブラウンが心配そうな表情で立っていた。


「大丈夫? 顔色があまり良くないわ」


「ええ、平気よ。ありがとう」


 イリアは微笑みを返したが、内心では激しい不安に襲われていた。最終試験。それは単なる知識の確認ではない。司書としての適性、そして何より、知識に対する姿勢が問われる究極の試練だった。


 レイチェルは机に置かれた古い手帳に目を向けた。それは入学時からイリアが使っている、革装の手帳だった。表紙には無数の書き込みの跡が、彼女の研究の軌跡を物語っている。


「その手帳、今日が最後になるのね」


「ええ。でも、きっとこの先も、大切な記録は続けていくわ」


 イリアは手帳を優しく撫でた。その仕草には、知識への深い愛着が滲んでいた。


 突然、部屋の扉が開く音が響いた。


「試験官、入室」


 声を聞いた受験生たちが一斉に起立する。そして、イリアの心臓が大きく跳ねた。入ってきた試験官の中に、あの伝説の司書、サイラス・ウィンターフロストの姿があったのだ。


「着席」


 淡々とした声が響く。しかし、イリアの動揺は収まらなかった。サイラスの名は、図書館学の教科書にも登場する。その人物が、自分の試験官だというのか?


「これより、銀河図書館学院最終試験を開始する」


 主任試験官が告げる。机上には一枚の紙が置かれ、それが静かに光り始めた。ホログラム試験用紙だ。


「第一問」


 イリアは紙面に浮かび上がる文字に目を凝らした。


『知識とは何か。そして、それを守り継承する司書の使命とは何か。具体例を挙げながら論じよ』


 イリアは一瞬、目を閉じた。この問いには、既に準備していた回答があった。しかし、何かが違うと感じた。その時、不思議な衝動に駆られるように、彼女は用意していた答えを心の中で消去した。


 そして、ペンを取る。


「知識は、生きている」


 その書き出しは、彼女自身も意外だった。しかし、言葉は自然に流れ出ていく。


「それは固定された事実の集積ではない。読み手との対話を通じて、常に新しい意味を生み出していく。それは時として、予期せぬ方向に私たちを導く。そして、その不確実性こそが、知識の本質的な価値なのかもしれない」


 イリアは書きながら、自分の中で何かが変化していくのを感じていた。これまで積み重ねてきた研究や思索が、まるで万華鏡のように新しい形を作っていく。


「司書の使命は、単にその知識を保管することではない。知識と読み手の出会いを守り、時には導き、そして……」


 ペンが一瞬止まる。しかし、すぐに確信を持って続けた。


「そして、時には知識自体の変容を受け入れる勇気を持つことだ」


 その時、不思議な感覚に襲われた。まるで誰かが、あるいは何かが、自分の背後で微笑んでいるような……。


 振り返ると、サイラスと目が合った。彼の瞳に、何か深い理解の色が浮かんでいるように見えた。


「残り時間、十分」


 アナウンスが響く。イリアは再び原稿に向かった。しかし、それは最早、試験のための回答ではなかった。それは、彼女自身の、知識への愛の告白だった。


 手帳の中の走り書きが、ふと目に入る。入学直後に書いた夢。「いつか、本当の図書館で、本当の知識と出会いたい」


 イリアは密かに微笑んだ。その夢は、もうすぐ叶うのかもしれない。


 試験室の窓から差し込む光が、彼女の原稿用紙を優しく照らしていた。その光は不思議なことに、どこか青みを帯びているように見えた……。


 試験終了の合図が鳴り、受験生たちがペンを置く音が響いた。レイチェルが小さなため息をつくのが聞こえる。


「メリディアン」


 サイラスの声に、イリアは身を正した。


「ちょっと試験官室まで来てくれないか」


 同席していた他の試験官たちが、わずかに表情を変える。通常、個別の呼び出しは試験終了後、結果と共に行われるはずだった。


「はい」


 イリアは立ち上がり、手帳を胸に抱きしめるように持って試験官室へと向かった。廊下に響く足音が、どこか運命的な響きを持っているように感じられた。


 試験官室は、図書館学院の最上階に位置している。そこからは、学院の広大な敷地と、その向こうに広がる宇宙空間が一望できる。


「座りなさい」


 サイラスは窓際の重厚な椅子を指し示した。そこに腰掛けたイリアは、自分の手帳を強く握りしめている自分に気がついた。


「君の答案を読ませてもらった」


 サイラスは静かに、しかし何か特別な響きを持った声で語り始めた。


「正直に言おう。あれは、模範的な回答ではなかった」


 イリアの気持ちが昏く沈んでいく。しかし、サイラスは意外な言葉を続けた。


「しかし、それこそが素晴らしい。なぜなら、君は『生きた答え』を書いたからだ」


「生きた、答え……ですか?」


「そうだ。君は準備していた回答を捨てたね? 書き始める直前に」


 イリアは驚いて目を見開いた。まさか、それを見抜かれていたとは。


「図書館には、時として不思議なことが起こる。本が私たちに語りかけ、知識が予期せぬ形で姿を現す。そして時には……」


 サイラスは言葉を切り、イリアの手帳に視線を向けた。


「時には、まだ見ぬ本との出会いを予感することもある」


 その瞬間、イリアの手帳が微かに震えたような気がした。しかし、それは彼女の緊張のせいかもしれない。


「サイラス先生、私には分からないことがあります」


「何かな?」


「なぜ、私は用意していた答えを捨てたんでしょう? まるで、誰かが……いいえ、何かが、私を導いているような……」


 サイラスは深い理解を示すように頷いた。


「それこそが、真の司書の資質だよ。知識は時として、私たちの理解をはるかに超えた形で現れる。それを恐れず、しかし慎重に受け止められる者こそが、エターナル・アーカイブの司書として相応しい」


 窓の外で、流星が青い光を引きながら落ちていった。


「メリディアン、君に提案がある」


 サイラスは机の引き出しから一通の書類を取り出した。


「エターナル・アーカイブで、私の直属の司書として働かないか?」


 イリアは息を呑んだ。エターナル・アーカイブは、銀河系最大の図書館。その上、サイラスの直属とは……。


「でも、私にはまだ経験も実績もありません」


「必要なのは、それらではない」


 サイラスは静かに微笑んだ。


「必要なのは、知識の本質を理解する心と、未知なるものを受け入れる勇気だ。そして君は、既にそれを持っている」


 その時、イリアの手帳が確かに震えた。開いてみると、最後のページに見覚えのない文字が一行、浮かび上がっていた。


『道は既に開かれている』


「これは……」


「ああ、面白い」


 サイラスは意味ありげな表情を浮かべた。


「図書館は、既に君を選んでいるようだね」


 イリアは自分の目の前で起きていることが、現実なのか夢なのか判断できなくなっていた。しかし、確かな予感があった。これが、自分の運命の分岐点なのだと。


「お受けします」


 その言葉を口にした瞬間、部屋の空気が微かに震えたように感じた。


「よろしい」


 サイラスは立ち上がり、窓際に歩み寄った。


「これからの道のりは、決して平坦ではない。時には、理解を超えることと向き合うことになるだろう。それでも?」


「はい。それこそが、私の求めていたものです」


 イリアの声には、迷いがなかった。


 窓の外では、銀河の光が静かに瞬いている。そして、どこか遠くで、青い光を放つ一冊の本が、彼女の到着を待っているのだった……。


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