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後編



戻られたばかりのジェンセン様にお聞かせする話ではないと思い、部屋に戻ってからナンシーに話を聞くことにした。


「お騒がせして申し訳ありません。ジェンセン様、お帰りなさい」


「ありがとうございます。やはり、間が悪かったようですね。父に挨拶をしに行くところでしたので、これで失礼します」


ジェンセン様は気を使ってくださったようで、小さく頭を下げてから静かに去って行った。


ケイトが離宮へと戻された理由は、殿下の子を懐妊したからだった。王太子である殿下の子を身ごもったケイトを、牢に入れておくわけにはいかなかったということだ。

大罪を犯したというのに、ケイトは処刑を免れることになる。子を産んだ後も、処刑されることはない。お腹の子が、王位継承権を持つことになるかもしれないからだ。王の生母を、処刑するわけにはいかない。ただしそれは、男の子を産んだ場合に限る。


タイミングが良すぎるのが引っかかるけれど、そんな嘘をついたところで、処刑を先延ばしにするだけだ。本当に懐妊しているのだろう。

もしかしたら、子が出来ていたからあんなことをしたのかもしれない。


「ナンシー、ごめんなさい。まさか、こんなことになるなんて……」


ナンシーにとって、ケイトは姉の仇だ。スーザンが処刑されたのに、それを指示したケイトは生きている。悔しい気持ちでいっぱいだろう。


「アシュリー様が謝る必要はありません。でも、すごく理不尽です……」


エプロンの裾をギュッと握りながら、必死に怒りを堪えているように見える。

スーザンは脅されて、妹の命を守る為に仕方なく従った。それなのに、スーザンだけが罰を受けるのはおかしい。だけど私には、どうすることも出来なかった。



その日の夕方、王妃様から部屋に来るようにと言われ、部屋の中に入ると国王様がいらっしゃった。

何かあったのかと思い、王妃様の顔を見る。


「ごめんなさい、アシュリー。私ではなく、陛下があなたに用があるの。座ってちょうだい」


言われるままソファーに腰を下ろすと、王妃様の侍女がお茶を注いでくれた。


「お話とは、何でしょうか?」


国王様からお話があるのなら、なぜ王妃様の部屋に呼ばれたのだろうか。


「王妃の部屋に呼んだのは、ルーファスにジェンセンが戻ったことを知られる前に、アシュリーと話したかったからだ。話をする前に、邪魔をされては困るからな」


ますます、わけが分からなくなった。お兄様が戻ったことを、殿下に知られたら困ることがあるのだろうか? 思わず首を傾げる私に、国王様はとんでもないことを言い出した。


「ルーファスとの婚姻を無効にし、ジェンセンと婚姻してくれないか?」


冗談……で、言っているわけではなさそうだ。

国王様のお顔は真剣そのもの。だけどあまりに突然で、頭がついて行かない。


「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」


国王様は、ルーファス殿下が側妃を迎えると言ったあの日から、ずっと考えていたようだ。ルーファス殿下の思想が王太子に相応しくないと判断した。そして、グラインに送られたジェンセン様を呼び戻した。

殿下に貴族達が味方する理由は、聖女である私が彼の妻だからだ。私が殿下の妻でなくなれば、殿下に味方する貴族はほとんど居なくなる。ケイトが大罪を犯したことで、ケイトの実家には何の力もなくなった今なら、私の家族を陥れることも出来ないだろう。


私が殿下と夜を共にしていないことは、王宮の誰もが知っていた。殿下自ら、そう言っていたからだ。初夜に寝室からすぐに立ち去ったことも、知らない者などいない。それからは、一度も私の元へ訪れていないのだから、婚姻を無効にするには十分。つまり、今なら王太子をかえることが出来るというわけだ。


「ジェンセン様は、このことをご存知なのですか?」


先程お会いした時は、そんな素振りを全く見せなかった。


「アシュリーがここに来る少し前に、ジェンセンには話をした。この国の為、そして何よりアシュリーの為に受け入れてくれた」


「私の為……ですか?」


私の為に、そんな大事なことを決めてしまうの?


「気付かなかったのだな……」


国王様が何かを言おうとしたところで、王妃様が口を開いた。


「余計なことを言って、アシュリーを混乱させないでください。理由は、本人の口から聞きなさい。アシュリー、あなたはこの国唯一の聖女だけれど、私にとっては大切な娘よ。あなたが決めたことを応援するわ」


王妃様は、終始お辛そうな顔をされていた。ルーファス殿下も、ジェンセン殿下も愛しているから、私がどんな決断をしても喜ぶことは出来ないのだろう。それでも、王妃様は私の気持ちに寄り添ってくれている。


「……少し、考えさせてください。ジェンセン様とお話しして決めたいと思います」


すぐに返事をすることが、出来なかった。

やっと彼から自由になれるのだから、受け入れてしまえば楽になる。そして私は、他の方の妻になる。


答えは決まっている。


「分かった。ゆっくり待ちたいところだが、あまり時間がない。一ヶ月後には、どちらかをグラインに送らなければならないのだ。それまでには、結論を出して欲しい」


ジェンセン様は、自由になったわけではないようだ。一時的に、帰国を許していただいただけ。

私が選ばなかった方が、グラインに人質として送られるということのようだ。それがなかったとしても、時間をかけることは出来ない。ルーファス殿下に気付かれて、策を講じられては困る。


「分かりました」


私の選択肢は、ジェンセン様を選ぶことしかない。答えは出ているのに、私には心の準備が必要だった。


愛する人を、捨てる覚悟を決めるために。



国王様が執務室に戻り、私も部屋に戻ろうとしたところで、王妃様に呼び止められた。


「アシュリーに、全てを聞いてもらいたいの」


そう仰った王妃様の表情は悲しげで、今にも泣き出してしまうのではと思うほど切ない声だった。

私がもう一度ソファーに座るのを待ってから、王妃様は話し始めた。


「十年前、王宮にある噂が流れ始めたの。その噂が、ルーファスを変えてしまった原因だと思うわ。その噂とは、『王子の一人は王妃の子ではない』というもの。二十一年前、私はまだ側妃だった。その時、王妃様はご懐妊されていた。そして私も、同時期に子を宿したの……」


前王妃様は長い間、子が出来ないことに悩んでいらっしゃったそうだ。やっと授かったことを喜び、王妃様が子を授かったことも喜んでいた。しかも、同じ日に出産をした。


「……私の子は、死産だった」


王妃様の手が、小さく震えている。


この時、察してしまった。『王子の一人は王妃の子ではない』というのは、噂ではないということを。

ジェンセン様は、今二十歳……そして、前王妃様は二十年前に亡くなっている。つまり……


「ジェンセン様のお母様は、前王妃様なのですね……」


王妃様は、頷く。


「ジェンセンを産んだ王妃様は、出血が止まらなかった。死を悟った王妃様は、私にジェンセンを託したの」


前王妃様のご実家は、公爵家だったけれど、あまり力を持ってはいなかった。

前王妃様がお亡くなりになれば、次の王妃を探すことになる。新しい王妃を迎え、子が出来た時にジェンセン様を排除しようという動きが出るのは必然だった。前王妃様は、ジェンセン様の身を案じ、王妃様に託した。


王妃様は、ジェンセン様を自分の子として育てることをお決めになったそうだ。我が子を守る為に、国王様もそれを受け入れた。そして側妃だった王妃様が王妃に即位し、国王様はそれ以来側妃を娶らなかった。


二年後、ルーファス殿下がお生まれになった。


「二人に同じくらい愛情を注いでいるつもりだったけれど、気付かぬうちにジェンセンに気を使っていたのかもしれない。優秀な兄に、ルーファスが劣等感を抱いていたことさえ気付いてあげられなかった」


自分の子ではないからこそ、必要以上に大切にしてしまっていたということだろう。ルーファス殿下は、自分が愛されていないと感じ、噂は自分のことを言っているのだと思った。そして、私に近付いたようだ。


殿下は、王妃様に愛されたかっただけなのかもしれない。愛されたい思いが歪んでしまい、今のルーファス殿下になってしまった。


「それでも殿下は、王妃様を愛していらっしゃいます」


王妃様は、涙を浮かべながら微笑んだ。


「ありがとう、アシュリー……。あの子がたとえ悪魔だろうと、私は愛し続けるでしょう。けれど、あなたにそんな義務はない。あの子を捨てることを、ためらわないで」


王妃様はこんなにも殿下を愛しているのに、本人は全く気付いていない。ジェンセン様のことを考えると、真実を話すことは出来ない。王妃様は、ずっと苦しんで来たのだ。

十年前に、私が殿下の闇に気付いていたら、何かが変わっていたのだろうか。そのような素振りを見せなかったとはいえ、愛する人が苦しんでいたことに気付かなかったことが悔やまれる。



王妃様の部屋を出て、自室に戻ろうと歩いていると、噴水の前に居るジェンセン様の姿が見えた。


「モニカ、少しここで待っていてくれる? ジェンセン様と二人きりで話したいの」


もう少し気持ちが落ち着いてから、ジェンセン様に会いに行くつもりだったけれど、彼の後ろ姿がどこか寂しそうで、声をかけずに通り過ぎることが出来なかった。

その場にモニカを待たせ、ジェンセン様に声をかけた。


「今日は、肌寒いですね。何か考えごとですか?」


冷たい風が、頬をかすめていく。


「アシュリー様……お話はもう、終わったのですか?」


振り返った彼からは、後ろ姿で感じた寂しげな感じはしなかった。

もしかして、待っていてくれたのだろうか。


「私のせいで、ジェンセン様が他国に行くことになってしまったのに、また私のせいでジェンセン様を振り回すことになってしまい、申し訳ありません」


私がルーファス殿下に騙されなければ、ジェンセン様はグラインに行くこともなく、そのまま王太子になっていた。


「謝るのは、私の方です。家族のゴタゴタに巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした。グラインに行くと決めたのは、私です。王太子は、ルーファスがなるべきだと思っていました。……本当の息子のように育ててくれた母を、悲しませたくなかったのですが、このようなことになってしまい残念です」


「ジェンセン様……? まさか……」


自分が王妃様の本当の子ではないと、気付いていたの?


「その様子だと、やはり聞いたのですね。真実を話すことができ、少しは母の心も楽になったのでしょうか……」


良く考えれば、分かることだった。

ルーファス殿下が、あの噂を聞いて自分は本当の息子じゃないと思ったのなら、ジェンセン様もそう思っていても不思議じゃない。気を使われている方は、余計に気付いてしまうものだ。

ルーファス殿下は心が歪み、ジェンセン様は育ててくれたことに感謝した。

まるで違う考え方を持った二人に、複雑な気持ちになっていた。


「そこで何をしているんだ!?」


怒りのこもった声が聞こえて振り返ると、そこにはルーファス殿下が立っていた。



「兄上、アシュリーは僕の妻です。気軽に話さないでいただけますか!?」


私の腕を強引に掴み、自分の背に隠す。

これではまるで、嫉妬しているように見える。

自分の兄が数年ぶりに戻って来たというのに、このような態度をとるルーファス殿下に呆れた。


「ルーファス、すまなかった。元気そうで、何よりだ」


感情的になるルーファス殿下に、冷静に対応するジェンセン様。ジェンセン様の性格は、どこか王妃様に似ているように感じた。血の繋がりはなくても育ての親に似るなんて、素敵なことに思えた。


「行くぞ、アシュリー!」


ジェンセン様を無視して、掴んでいる私の腕を無理やり引いて立ち去ろうとする殿下。その殿下の腕を、ジェンセン様が掴んだ。


「乱暴にするな。アシュリー様は、物ではない」


先程まで穏やかな表情を浮かべていたジェンセン様が、急に真剣な表情をされた。


「兄上には、関係ない! それとも、まだアシュリーが好きなのですか!?」


予想もしていなかった言葉に驚き、思わずジェンセン様の顔を見る。するとジェンセン様は、切なそうに私を見ていた。


「私の気持ちは、関係ない。その手を離せ」


睨み合ったまま、気まずい空気が流れる。二人とも、引くつもりはないようだ。

突然のことで驚いたけれど、ジェンセン様が私を好きだなんてありえない。


「ルーファス殿下、私に関わるのはおやめください。聖女としての務めなら、どんなことであろうとやり遂げます。それで、文句はないはずです! 私は義理の兄であるジェンセン様とお話ししていただけです。殿下の指図は受けません!」


掴まれていた腕を振り払い、ルーファス殿下を睨みつける。

私は今、ものすごく腹が立っている。殿下は、子供そのものだ。王妃様の愛情にも気付かず、ジェンセン様の想いにも気付かず、自分が愛されていないからとひねくれた大馬鹿者だ。


「僕は君を……」


「私がなんだと言うのですか? 今更、愛しているだなんて仰らないでくださいね! 私の愛を拒絶したのは、殿下ご自身です! 王妃様の愛も、ジェンセン様の愛も分からないような子供には、未練はありません!

ジェンセン様、申し訳ありませんが、お話はまた今度。では、失礼します」


そのまま振り返らずに、部屋へと戻る為に歩き出す。こちらの様子を窺っていたモニカが、『よくやった』と言わんばかりに拍手しているのが見えた。

自分でも、そう思っていた。はっきりと、殿下に未練はないと告げたことで、私の心はスッキリしていた。



自室に戻りドアを閉めた瞬間、両手を広げて深呼吸をする。やっと自由になれた気がしていた。


「アシュリー様? どうされたのですか?」


事情を知らないナンシーが、不思議そうな顔で見ている。その時、ある考えが頭をよぎった。


「これから、ケイトに会いに行こうと思う。ナンシー、ついて来て」


「ケイト様のところへですか!?」


ケイトがどういう性格なのかを、思い出した。思い出したといっても、昔のではなく王宮に来てからのケイトだ。


「私を信じて欲しい」


ナンシーは力強く頷き、私達は離宮へと向かった。

ケイトは自室に軟禁されている。牢から出されたといっても、罪人であることには変わりない。



「開けて」


ケイトの部屋の前に居る見張りの兵は、私を見て目を見開いた。私がケイトに会いに来るとは、思っていなかったようだ。


「アシュリー様!? なぜこちらに!? ここは、罪人の部屋です。アシュリー様が来るような場所ではありません。危険ですので、王宮にお戻りください!」


「心配してくれてありがとう。自分の身は守れるから大丈夫よ」


「……分かりました」


見張りの兵は渋々ドアの鍵を開け、中に通してくれた。中に入ると、ケイトはソファーに寝転がりながらこちらに視線を向けた。


「あら、アシュリーじゃない。何しに来たのよ。 私の惨めな姿を笑いに来たの?」


ソファーに寝転がりながら話すケイトを、ナンシーは睨み付けている。


「お別れを言いに来たの。たとえ処刑を免れたとしても、あなたは一生ここから出ることは出来ないのだから、もう会うこともない」


一生出られないと分かっているからか、ケイトには全く生気がない。


「そうね……誤算だった。殿下が助けてくれると思っていたのに、牢にいる時も離宮に移されてからも、一度も会いに来てくれない。この子の父親が、別の人だと気付かれたのかな? 使用人に話しかけても、何も答えてくれない。……孤独なの。こんな暮らし、もう耐えられないのよ」


無表情で淡々と話しながら、ケイトの目には涙が浮かんでいる。それに、サラッととんでもないことを口にした。

幼い頃から、周りにはたくさんの人がいた。だけど今は、ワガママを言う相手も聞いてくれる相手もいない。一人ぼっち……それが、ケイトにとって何より苦痛だったようだ。


「ナンシー、言いたいことはある?」


ケイトの様子を見て、ナンシーは満足した顔をしている。あのままケイトのことでモヤモヤしているよりも、今のケイトを見た方が少しは気持ちが楽になると思ってナンシーを連れて来た。


「お姉ちゃんの分まで、苦しめばいい……」


先程の暴露話がなくても、ルーファス殿下が王太子ではなくなるのだから、子を産んだらケイトは処刑されることになる。ここで一生孤独で生きるより、処刑された方がケイトにとって幸せなのかもしれない。


「もう行くわ」


「待って! アシュリー、待ってよ! 私達、親友でしょう!? ねえ、ここから出して? アシュリー、お願いよ!」


ようやくソファーから起き上がると、縋りつこうと近付いて来た。


「アシュリー様に近付くな!」


ケイトは見張りの兵に止められ、泣きながらこちらを見ている。

その親友を裏切ったのは自分だということを、忘れているのだろうか。


「あなたを信じることは二度とない。さようなら、ケイト」


私達は、そのまま部屋を出て行った。



ケイトの部屋から戻って来ると、いつものナンシーに戻っていた。


「アシュリー様、お茶になさいますか?」


少しは吹っ切れたようで、安心した。


「ええ、お願い」


全てが解決……とはいかないけれど、少なくとも前向きになってくれたと思う。

それにしても、子供の父親はいったい誰なのだろうか……

今頃は、見張りの兵が国王様にそのことを伝えている。ケイトのことだから、その相手がまだ生きている可能性は低い。もしかしたら、ケイトは処刑されることを望んでいるのかもしれない。だからあんなにあっさり、重大なことを話したのだろうか。そう考えると、納得がいく。


「アシュリー様、申し上げにくいのですが……」


モニカが、綺麗にラッピングされた箱を差し出した。


「……また?」


贈り物を直接返して迷惑だと告げてから、まだ一日も経っていないというのに、また贈り物をしてくるなんてどういう神経をしているのか。


「先程の、お詫びだそうです」


今までの贈り物も、ラッピングは全部違っていた。贈り物のストックでもしているの?


「モニカ、また返しておいて」


あんなにハッキリ伝えたのに、全く伝わっていない。


「かしこまりました」


もう殿下に関わるつもりはない。何度贈り物を贈って来ても、会いに行くつもりもない。

今日は遅くなってしまったから、明日、国王様に覚悟を決めたことを話す。

私はもう、殿下に利用されていた弱い聖女ではない。親友も、愛する人も失ってしまったけれど、私にはやるべきことがある。聖女として、王太子妃として、この国の為に生きる。



翌日、朝食を終えた後、国王様がいらっしゃる執務室へと向かう。廊下を歩きながら、頭の中に色々なことが蘇ってきた。王宮に来てから、まだ一年も経っていない。それなのに、永遠だと思える程長い月日が経っているように感じる。それほど辛かったのだ。今は、懐かしく思えるほど私の心は穏やかだった。


「アシュリー、座りなさい」


執務室に入ると、国王様は笑顔で迎えてくださった。ソファーに座るよう促され、言われた通り腰を下ろす。


「決めたのだな」


何を話に来たのか、国王様は察しているようだ。


「はい。ジェンセン様との婚姻を、お受けいたします」


これで、私とルーファス殿下の縁は切れる。


二週間後、王宮で夜会が開かれることになった。その場で国王様は、ルーファス殿下と私の婚姻無効と、ジェンセン様と私の婚姻を発表するようだ。臣下達一人一人に伝えるよりも、いっせいに話す方がいいと考えた。そしてその夜会が、ジェンセン様との結婚式になる。


執務室を出ると、次はジェンセン様に会いに行くことにした。部屋を訪ねようと歩いていると、ジェンセン様はまた噴水の前に立っていた。


「噴水がよっぽどお好きなのですね。私はこちらでお待ちします」


モニカはそう言うと、笑顔で送り出してくれた。


「ジェンセン様、お邪魔してもよろしいでしょうか?」


声をかけると、振り返ったジェンセン様は驚いた表情をされていた。


「よくお会いしますね」


驚いていたジェンセン様は、すぐに優しい笑みを見せてくれた。


「本当ですね。これで、三度目です」


「昨日ここでお会いしたのは、アシュリー様をお待ちしていたので、二度……ですかね。残念です、それも偶然だったら、運命かもしれないと言えたのに」


おどけたようにそう言うジェンセン様。


「ふふっ。面白いことを仰るのですね。王宮の中なので、偶然会う確率は高いのではないでしょうか?」


「それもそうですね」


可笑しくなって二人で笑いあっていると……


「ずいぶんと楽しそうだな」


ものすごく不機嫌な声が聞こえた。

昨日の今日で、また同じ展開になるとは思っていなかったけれど、振り返ると思った通りルーファス殿下が立っていた。


「また邪魔をするおつもりですか?」


まだあのことを、ルーファス殿下に知られるわけにはいかない。どんなことをしてくるか、分からないからだ。だからこその、夜会だ。


「いや、今日は僕も仲間に入れてもらおうと思ってね」


昨日はあれほど激怒していたのに、急にどうしたというのだろうか。


「話すのは久しぶりだな、ルーファス」


ジェンセン様は、嬉しそうだ。こんなに素直に表情に出てしまうジェンセン様が、何だか可愛く思えた。そんな純粋なジェンセン様とは、まるで違うルーファス殿下。話したいだけなんて、ありえない。


「ケイトに会いに行かれたらいかがですか? 一度も会いに来てくれないと、嘆いていましたよ」


あんなに愛していると言っていたのに、あっさり見捨ててしまった。王妃様を愛しているからなのは分かっているけれど、あまりにも簡単にケイトを捨てた。


「会いに行ったら、僕はケイトを殺すだろう。それでも、行った方がいいと思うのか?」


冗談のように、笑顔でそう言った。笑顔だけど、目が笑っていない。殿下は、本気でケイトを殺すかもしれない。


「冗談でも、そんなことを言ってはいけない」


真剣に弟を叱る兄。

ジェンセン様は、本気でルーファス殿下を愛しているのだと伝わって来る。殿下には、この純粋な思いが伝わらないのだろうか。


「兄上は、つまらないな。そういえば、また贈り物が返されたんだが、いつになったら受け取ってくれるんだ?」


私が昨日言ったことを、全く聞いていなかったのだろうか。


「受け取るつもりはないと、昨日ハッキリと申し上げたはずです。殿下にとっては、今まで私にして来たことがなかったことになっているのですか?」


何もなかったように普通に話す殿下に、腹が立っていた。


「すまないと思っている。だから、償おうとしているんだ」


贈り物を贈れば償えると思っていることが、ズレている。


「償いなどいりません。ただ私を、放っておいてください。ジェンセン様、すみません……失礼します」


私達はもうすぐ婚姻が無効になることを、言ってしまいそうになった。

あと二週間は、我慢しなければならない。


その日の夜から、私に護衛がついた。万が一殿下が婚姻無効になることに気付いて、私が襲われない為だ。既成事実を作られてしまったら、無効にすることが出来なくなる。

部屋の前で見張られていると思うと落ち着かないけれど、安心して眠れることに感謝した。




あれから一週間が過ぎた。

私に護衛がついたことを、ルーファス殿下が不審がっていたこと以外は、拍子抜けするほど平穏な日々だった。


ジェンセン様を、毎日噴水の前でお見かけした。王妃様にそのことを聞いてみると、ルーファス殿下が噴水を見るのが好きだったそうだ。

ルーファス殿下を追いつめることになってしまい、心を痛めているのかもしれない。


「今日も、噴水の前にいるのですね」


噴水を見つめているジェンセン様の後ろ姿は、いつも寂しげだ。


「お話ししてくるわ」


いつも通りモニカには待っていてもらい、ジェンセン様に話しかける。


「今日は、良いお天気ですね」


噴水の前でお話するのが、日課になっていた。他愛のない話くらいしか出来ないけれど、少しでもジェンセン様を元気付けられたらと思っていた。


「そうですね。昨日は曇っていましたから、天気がいいと気持ちがいいです」


何気ない会話をしながら、噴水の流れる水を見つめる。ジェンセン様と居ると、心が穏やかになる。


「お聞きしても、よろしいでしょうか?」


夜会まであと一週間に迫り、怖くて聞けなかったことを聞いてみることにした。


「はい。何でも聞いてください」


「ジェンセン様は、これから私達がすることをどのように思っておいでですか?」


ジェンセン様は、ルーファス殿下を愛している。大切な弟だと思っていることが分かっているから、聞くのが怖かった。その大切な弟の妻である私を、ジェンセン様は妻にしなければならない。


「少し、昔話にお付き合いください。

十歳の時、兵士と共に戦場へ向かう一人の少女を見ました。まだ幼いその少女は、危険な戦場で兵士達の治療をする為に同行していたのです。私には、その少女が天使に見えました。その日から、その少女のことばかり考えるようになり、いつの間にか恋に落ちていました。ですが次に会えた時には、少女は弟の婚約者になっていました。

ルーファスは、あなたを傷付け、苦しめました。二人は幸せなのだと思っていたのに、父からの手紙でそれが違っていたのだと知った時、初めて弟に怒りを抱きました。この国の為、そして大切な人を守る為なら、私は何でもします」


ジェンセン様の話を聞きながら、ルーファス殿下の言ったことを思い出していた。『まだアシュリーが好きなのですか』あの言葉は、ジェンセン様の気持ちを知っていたから出た言葉だ。

私が聖女だから近付いたのだと思っていたけれど、本当は違ったのかもしれない。ジェンセン様を苦しめる為に、殿下は私に近付いた……


ジェンセン様の気持ちを知り、なんて答えたらいいのか分からなかった。私は知らないうちに、ジェンセン様を傷付けていた。それなのに彼は、ずっと私の幸せを願ってくれていた。

申し訳ないと思いながらも、私を想っていてくれた人がいたことに嬉しさが込み上げてきた。


「ジェンセン様……」


「何も言わないでください。困らせるつもりはありませんでした」


今にも泣きそうなくらい切ない顔をしているのに、私には何も言わせてくれない。そうは言っても、正直何を言ったらいいのか分からなかった。



部屋に戻ると、ナンシーが慌てて駆け寄って来た。


「アシュリー様、どちらに行かれていたのですか!? ご実家から、お手紙が届いています!」


「手紙?」


実家から手紙が来るのは、月に一度だった。つい先日来たばかりなのに、早すぎる。何かあったのかと、急いで手紙を読んでみる。


「大変……! ナンシー、外出の準備をしておいて! 王妃様に、外出の許可をいただいて来るわ!」


手紙には、弟のライトがケガをして意識が戻らないから、すぐに来て欲しいと書いてあった。ライトはまだ五歳。早く行ってあげないと……


王妃様に許可をいただき、馬車に乗り込む。同行するのは、モニカと護衛が五人。ナンシーには、王宮に残ってもらった。

実家までは、馬車で五時間ほど。馬車に揺られながら、ライトのことで頭がいっぱいになっていた。


王宮を出てから、三時間が経った。


「アシュリー様、困ったことになりました」


護衛の一人が乗っている馬を馬車に近付け、そう言った後すぐに馬車から離れた。そう言った意味は、すぐに分かった。


後ろからすごい勢いで馬に乗った兵が近付いてきて、私達が乗っている馬車を止めた。その兵は、ルーファス殿下の護衛だった。



「アシュリー、実家に行く必要はないよ」


馬車のドアを開き、ルーファス殿下はそう言った。


「……あの手紙は、殿下の仕業ですか?」


お父様とは筆跡が違うとは思ったけれど、急いでいたから要点を伝えて使用人に書かせたのかと思っていた。まさか今更、殿下がこんな手の込んだことをして来るなんて思ってもみなかった。


「こうでもしないと、アシュリーとゆっくり話すことが出来ないと思ってね。ほら、最近は兄上とばかり一緒にいるし」


「ゆっくりお話しするつもりなどありません。手紙が嘘なのは分かりましたから、王宮に戻ります」


殿下はそれを、許してはくれなかった。


「残念だな。王宮には、戻れない」


いつの間にか、馬車は殿下の護衛だけでなく、兵士達にも囲まれていた。こちらの護衛は五人……とモニカ。数では勝てそうにない。


「私の力を分かっていないのですか?」


私が回復し続ければ、数など関係ない。彼らは、私に指一本触れることは出来ない。


「分かっているつもりだ。だから、保険をかけておいた。君が王宮に残して来た侍女を捕らえさせてもらったよ」


「どうしてそのようなことを!?」


ナンシーを人質にするなんて、酷すぎる……


「あの侍女は、母上に毒入りの菓子を届けたスーザンの妹だそうじゃないか。ケイトを殺せないなら、彼女に死んでもらっても僕はかまわない。僕と話をするというのなら、彼女を離すよ」


二度も人質にされたナンシーの気持ちは、どうでもいいのだろうか。やっぱり殿下は、何も変わっていなかった。彼は、悪魔だ。


「分かりました。ここで話しましょう。モニカ、降りて待っていて」


モニカに馬車を降りてもらい、殿下が馬車に乗り込む。こんな手を使ってまで、いったい何を話したいのかは分からないけれど、私の心は完全に離れていた。


殿下は対面に座り、悪いと思っていないのか、私の目を真っ直ぐ見つめながら話し出した。


「やっと二人きりになれた。君が悪いんだよ? 僕があんなにアピールしたのに、兄上とばかり仲良くするから」


自分は悪くないと思っているところが、殿下らしい。今までして来たことはすっかり抜け落ちているのか、反省もしていない。それなら、思い出させてあげる。


「私が悪いと仰いましたが、殿下は私に何をなさいましたか? ジェンセン様のお気持ちを知っていて、ジェンセン様を苦しめる為に私に近付いたのではありませんか?」


確信はなかったけれど、これでハッキリすると思った。真っ直ぐ見つめる殿下の目に、不機嫌な色が浮かんだ気がした。


「兄上は、想いを伝えたのか……。僕の妻だと知りながら、最低だな!!」


やっぱり……

殿下は、ジェンセン様の気持ちを知っていたから私に近付いたのだと確信した。


「最低なのは、殿下ではありませんか! ご自分は、何をしても許されると思っているのですか? なぜ今更、私と話したいだなんて仰るのですか? 私のことが、大嫌いだったのですよね?」


殿下が変わり始めたのは、王妃様がお元気になられた時からだった。だけど、あれほど私を嫌っていたのに、急に気持ちが変わるなんておかしい。


「今までのことは、本当に悪かったと思っている。だが、君は誤解している。僕は君を嫌いだと思ったことは、一度もない。君の言う通り、兄上を苦しめる為に君に近付き、王太子になる為に君を利用した。君は純粋で、穢れを知らない……それが、僕の計画の邪魔だったんだ。君を愛していると認めてしまったら、僕が僕でなくなりそうで怖かった……」


まさか、そんなことを本気で言っているの? 彼の目は、真剣そのものだ。


「ケイトのことは、どういいわけするおつもりですか?」


「ケイトを愛していたわけではない。君に嫌われる為に、利用していた。彼女から誘惑して来たんだ。ケイトは自業自得だろう? 君に惹かれていく気持ちを、止めたかっただけだ。相手は誰でもよかった」


身勝手過ぎるいいわけに、呆れて言葉も出ない。

すぐに側妃を迎えたのは、私を遠ざける為だったようだ。それともう一つ、両親に自分達のせいだと分からせる為。

何一つ、共感なんて出来ない。自分勝手に他人を傷付けておいて、今更愛しているなどと言っていることに心底ガッカリだ。これならいっそ、嫌われていた方がマシだった。 こんな話を聞かされて、私が喜ぶとでも思っているのだろうか。


「お話は分かりました。ではなぜ、今までのようにしないのですか? 急に謝ったり、贈り物を贈ってきたり、無理やり話そうとしたり、殿下の考えていることが私には分かりません」


あのまま私を放っておいてくれたら、殿下の本心なんて知らずにお別れ出来た。


「母上を苦しめたくて……母上のせいで、僕がこんな風になったのだと思い知らせたかった。だけど母上が毒で意識を失い、どれほど大切なのか気付いたんだ」


「それで、私を遠ざける理由がなくなったということなのですね」


殿下が話したかったこととは、このことだった。話し終わった彼は、まるで私が許すと思っているみたいに穏やかな顔をしている。


「愛していたのに、私が王妃様に毒入りのお菓子を贈ったと思ったのですね……」


「それは、あの状況では君しか考えられなかったんだ。すまないと思っている」


殿下、あなたの愛はずいぶん薄っぺらいのですね。


私を信じられなかったのに、今更愛していたなどと言えることにも幻滅していた。あんなに私を傷付けておいて、何事もなかったように接している態度にも嫌気がさす。殿下はある意味、天才なのかもしれない。愛していると言われているのに、こんなにも嫌悪感を抱かせているのだから。


「殿下のお気持ちは分かりました。殿下を、許します。そろそろ王宮に戻りませんか?」


そう笑顔で告げた。

殿下を許すつもりなんて、さらさらない。

殿下が私にしたことと、同じことをしようと考えた。こんな話をする為に、トラウマになっているかもしれないナンシーを、また同じ目にあわせたことが許せなかった。まだ五歳の弟を心配する私の気持ちを、利用したことも許せなかった。


私はあなたのせいで、純粋なんかじゃなくなった。ジェンセン様の言うような、天使でもなくなった。

殿下には、あと一週間、幸せでいてもらいます。

そして夜会で、殿下は私の苦しみを理解することになる。


それが私の、復讐だ。



王宮に戻ると、ナンシーはすぐに解放された。

私に許されたと思っている殿下は、機嫌が良かった。


「殿下、ナンシーは私の大切な侍女です。このようなことは、二度となさらないでください」


悲しそうな目で彼を見つめながら、そうお願いをした。彼は二つ返事で了承してくれた。


戻って来たことを報告する為に、王妃様の部屋を訪れた。王妃様にとっては、ルーファス殿下は大事な息子……だけど私は、心に決めたことを全てお話しした。


「あの子が、あのようになってしまったのは私のせい。私も一緒に罰を受けるわ」


王妃様は、反対しなかった。


「王妃様は、すでにこんなにも苦しんでおいでではありませんか」


初めてお会いした時から、王妃様は優しくしてくださっていた。王宮に来てからも、私のことを気遣ってくださっていた。そんな王妃様を苦しめるようで心苦しいけれど、どうしても殿下を許すことが出来なかった。


「あなたの思うようにしなさい。あの子は、反省しなければならない。人の痛みを知ることも大切だわ。これから、他国へ行かなければならないのだから」


王妃様は、どこまでも王妃様だ。優しくて厳しい。私も、王妃様のようになれるのだろうか。


殿下に幸せでいてもらうとは言ったけれど、私から何かするつもりはなかった。彼に対する態度を、少し変えただけだ。護衛もそのままだし、部屋の中に入れるつもりもない。

贈り物は、受け取ることにした。夜会が終わった後、まとめてお返しする。

それでも殿下は機嫌がいい。その姿は、まるで子供のようで……彼の心は、八歳の時のまま止まってしまっているみたいに思えた。


「ナンシー、危険な目にあわせてしまってごめんなさい。怖かったでしょう?」


「アシュリー様が謝るようなことではありません! 私が捕まってしまったばかりに、殿下の言いなりになるしかなかったとか……申し訳ありませんでした!」


ナンシーは何も悪くない。

安全なはずの王宮なのに、辛い目にあわせてしまった。

頭を下げたままのナンシーをそっと抱きしめ、頭を撫でる。


「アシュリー……様?」


たった一人の姉を失い一人ぼっちになったナンシーを、私は妹のように思っている。私には、愛する家族がいるし、優しい王妃様や誠実なジェンセン様、幼い頃から仕えてくれているモニカもいる。ナンシーは、私なんかよりもよっぽど辛い目にあっている。そんな彼女を、私は守りたい。


「私があなたを守りたいの。だから、謝らないで」


私を見上げたナンシーの目から、涙が流れた。一人じゃないのだと、思って欲しかった。



「アシュリー様、殿下から贈り物が届いております」


翌日、さっそく贈り物が届いた。


「今日は、手紙がついていますね……」


手紙には、『夜会で着て欲しい』と書いてあった。その夜会が、私達の別れだということを殿下はまだ知らない。

『ありがとうございます。素敵なドレス、嬉しいです』と返事を書き、モニカに頼んで殿下に届けてもらった。そのドレスを、着ることはない。

夜会で着るドレスは、すでに王妃様が用意してくださっていた。



いつものように、噴水の前にいるジェンセン様に話しかける。


「今日は、風が気持ちいいですね」


風が吹く度に、庭園に咲いている花の香りが漂う。自然の香水のようで、心がリラックスする。


「昨日のことを聞きました。あなたが危険な目にあっていたというのに、私は何も出来なかった。自分が情けないです」


噴水を見つめながら、自分が何も出来なかったことを後悔するジェンセン様。

私のことを、心配してくださっていた……。

聖女である私は、誰かを守るのが当たり前だと思っていた。こんな風に心配されるのは、くすぐったいけれどなんだか嬉しい。


「そのように思っていただけるだけで、十分です。ジェンセン様は、お優しいのですね」


そう言った私の顔を、ジェンセン様は真剣な眼差しで見つめた。


「好きな人を守りたいと思うのは、当然のことです。私は一度、あなたを諦めました。ですが、これからは迷いません」


彼の言葉は、凍り付いていた私の心を少しずつ溶かしていく。

また誰かを愛し、裏切られるのが怖かった。無意識に私は、壁を作っていたようだ。

その壁を無理やりこじ開けるのではなく、彼は少しずつ壊してくれる。ジェンセン様は私を天使のようだと言ったけれど、彼の方が天使みたいだ。


「これは、妬くところか?」


私達が見つめ合っていたところを見て、ルーファス殿下が不機嫌な顔でこちらを見ていた。


「殿下がヤキモチですか? 雨が降るかもしれませんね。お仕事は順調ですか?」


ルーファス殿下が私にあまり関われないように、国王様が大量の仕事を任せていた。仕事といっても、あまり国政に関わりのない苦情処理だ。それでも、国王様に頼られているのが嬉しかったのか、文句も言わずに処理している。


「大切な夫に、お茶を届けるくらいの優しさは欲しいところだが、昨日は酷いことをしてしまったから仕方がない」


酷いことをしたという自覚はあるようだ。

お茶なんて届けるつもりはない。わずかな時間でも、密室で二人きりにはなりたくないからだ。


「そうですね、一週間くらいしたら昨日のことは許せそうです。それまで、私のお茶は我慢してください」


「分かった、我慢するよ」


素直な殿下は、気持ちが悪い。

彼は誠実とは無縁だ。気に入らないことがあったら、また同じことを繰り返すだろう。


「身体が冷えて来たので、部屋に戻りますね。ジェンセン様も、早めに戻らないと風邪を引いてしまいますよ。殿下、大変でしょうけど、お仕事頑張ってください」


幸せそうに微笑む殿下と対象的に、心配そうに私を見ていたジェンセン様。母が違っても二人は兄弟なのに、全く似ていない。


こうして、殿下に疑われることもなく日々は過ぎていき、夜会の日が訪れた。



やっと、この日が訪れた。

あの初夜の日に、私の心は大きく抉られ、息をするのも苦しかったことを思い出す。


王妃様が用意してくださった、真っ白なドレスに身を包み、モニカにメイクをしてもらう。いつもは薄めのメイクが、今日は華やかだ。鏡に映る自分を見ながら、辛かった日々を思い出す。


ケイトが王宮に来てから、毎日が死ぬほど苦しかった。愛する人が親友とキスしているところを見せられ、どれほど傷付いたか……

全てはもう、過去のことだ。


私は今日、ルーファス殿下の妻ではなくなり、ジェンセン様の妻になる。


夜会がもうすぐ始まる。

ルーファス殿下は、今日の夜会はもう一度グラインへと留学するジェンセン様の、お別れパーティーだと思っている。

今日も機嫌が良かった殿下は、国王様と共に先に会場へと入っている。


「アシュリー様、ようやく自由になれるのですね」


メイクをしながら、鏡の中でモニカは私の目を見つめてそう言った。


「そうね。モニカが来てくれなかったら、今まで耐えられなかったかもしれない。感謝しているわ」


王妃様がモニカを呼んでくれなかったら、今こうしていられたかは分からない。


「今日は旦那様も奥様も、いらっしゃるのですよね? めいっぱい綺麗にしましょう!」


両親にも、ようやく本当のことを話すことが出来る。

今日から私は、新しい人生を歩むことになる。


会場へ行くと、すでに夜会は始まっていた。ドレス姿をルーファス殿下に見られないように、私はわざと遅れてきたのだ。

国王様が挨拶をした後、ルーファス殿下とジェンセン様がステージの上に呼ばれることになっている。それまで、私は入口で待っている。


中から明るい音楽が流れてきて、楽しそうに談笑する声が聞こえる。

少しだけ、足が震えた。ルーファス殿下との、結婚式を思い出してしまった。あの時は幸せいっぱいだったのに、その夜地獄へと突き落とされた。臆病な自分に戻りたくなんかないのに、どうしても思い出してしまう……


その時、右手が優しく包まれるように握られた。


隣を見上げると、ジェンセン様が優しい眼差しで私を見ていた。


「どうして……?」


ジェンセン様は、すでに会場に入っているのだと思っていた。


「あなたが不安な時は、いつでもそばに居ます。だから、安心してください」


いつの間にか、震えはおさまっていた。

ジェンセン様と一緒にいると、なんだか安心する。


「父上の挨拶が、終わったようですね。先に行きます」


私を安心させる為に、会場を抜け出して来てくれた。そんなジェンセン様の優しさが、すごく嬉しかった。


「ありがとうございます、もう大丈夫です」


握っていた手が離され、寂しいと思ってしまった。会場へ入って行くジェンセン様の後ろ姿を見送りながら、気合いを入れる。


「頑張れ、私!」


「頑張ってください、アシュリー様!」

「負けないでください!」


モニカもナンシーも、応援してくれた。

国王様が私の名を呼んだところで、


「行こう!」


会場の扉が開かれる。

眩しいくらいの光り輝くシャンデリアの光に照らされ、堂々と歩き出す。

私の姿を見たルーファス殿下は、自分が贈ったドレスではないことに気付き、顔をしかめている。そんな殿下よりも、私の瞳にはジェンセン様の笑顔が映っていた。

私がステージに上がると、国王様が話し始める。


「今日集まってもらったのは、重大な発表をする為だ。王太子であるルーファスと、王太子妃であるアシュリーは一度も夫婦としての行為が認められない。よって、二人の婚姻を無効とする!」


思いもよらなかった重大発表に、会場に居る貴族達は慌て始める。

ルーファス殿下も、何が起こっているのか分からずに国王様と私を交互に見ながら慌てふためいている。


「ルーファス、お前には失望した。この時をもってルーファスを廃太子とし、ジェンセンを王太子とする!」


私との婚姻が無効になったからか、ルーファス殿下が廃太子となったことには驚いてはいるものの、異を唱える者は誰一人いない。ルーファス殿下を除いては……


「父上! それは、どういうことなのですか!? アシュリーとは愛し合っています! 僕はアシュリーなしでは生きていけません!」


耳を疑った。ルーファス殿下は、廃太子となったことよりも、私との婚姻無効に対して抗議している。


「アシュリー、そうだよな? 僕を許してくれたではないか! これから僕達は、二人で幸せになるんだ!」


こんなに取り乱している殿下は、初めて見た。

近付いて来た殿下から、私を庇うように前に立つジェンセン様。


「ルーファス、悪いがアシュリーは私の妻となる。お前に、彼女は渡さない!」




ジェンセン様の言葉に、ルーファス殿下も会場に居る方達も動揺している。こんなことは、前代未聞……後にも先にもないだろう。


「兄……上……? 何を仰っているのですか? アシュリーは僕の……」


ルーファス殿下の顔が、真っ青になっていく。

真っ白なドレスを着ている私を見ながら、やっとこの状況を理解したようだ。


「ルーファス殿下、私達の間には、もう愛など存在しません。あなたは自分勝手な理由で、私の心を弄び、踏みにじりました。それでも殿下を愛し続けていると、本気で思っていたのですか?」


どれほど謝られても、どれほど愛していたと言われようとも、あの時の痛みは消えることがない。何を言われようと、もう遅い。


殿下は私を見つめたまま、立ちすくんでいる。


「ジェンセンが先に話してしまったが、アシュリーはジェンセンと婚姻する。今日の夜会は、二人の結婚式ということだ。このような形になってしまったが、事情を察して欲しい。今宵の主役の二人に盛大な拍手を!」


立ちすくんだままの殿下をよそに、会場が拍手で包まれる。

ジェンセン様はそっと私の手を握ると、いつものように優しく微笑んでくれた。


殿下がどんなにショックを受けたところで、私の心が晴れることはなかったけれど、ジェンセン様の手の温もりを感じ、そんなことはどうでも良くなっていた。


「アシュリー、なぜ話してくれなかったのだ!?」

「そうよ! あなたが辛い目にあっていたことを、王妃様から聞いたわ」


両親には、何も話さなかったことを叱られてしまった。


「ごめんなさい……。心配かけたくなかったの」


お父様に無実の罪を着せると言われたことは、話すつもりはない。王妃様にも、そのことは話さないで欲しいとお願いしていた。自分達のせいで私が苦しんだと思って欲しくなかった。騙され、信じてしまったのは私自身だ。私のせいで、心を痛めて欲しくなかった。


「アシュリー、踊っていただけますか?」


ジェンセン様に手を差し出され、その手を取る。

ゆっくりとフロアの真ん中に行き、踊り始める。


「辛くはありませんか?」


踊りながら、気遣ってくださるジェンセン様。


「私は大丈夫です。ジェンセン様の方こそ、お辛くありませんか?」


ルーファス殿下と少し話しただけで、あんなに嬉しそうだったジェンセン様が、辛くないわけがない。


「私は兄ですから、どのようなことをされても弟を見捨てることは出来ません。ですが、あなたを傷付けたことは許されるようなことではありません」


「ふふっ」


王妃様と同じようなことを言うジェンセン様に、思わず笑ってしまった。


「すみません、あまりにもジェンセン様が王妃様と似ていたので。お二人は、本当の親子に見えます」


傷付いていたのは、ジェンセン様も同じだ。自分は邪魔なのだと、ずっと思って来たのかもしれない。それなのに、ジェンセン様はどこまでも真っ直ぐでどこまでも優しい。本当に素敵な方だ。


「……ありがとうございます。そんな嬉しいことを言われてしまったら、泣いてしまいますよ?」


冗談のように言っているけれど、瞳から涙が今にもこぼれ落ちそうだ。

私はこの方の妻になることが出来て、幸せなのだと感じる。


「まだ踊っていたいので、泣かないでください」


私も冗談風に返す。だけど、まだ踊っていたかったのは本心だった。

ジェンセン様への気持ちはまだ分からないけど、私の中で彼の存在が大きくなっていた。


そんな私達を、ルーファス殿下は立ちすくんだまま全く動くことなく見つめていた。


夜会が終わると、一歩も動かないルーファス殿下の元に、ジェンセン様がゆっくり近付いていく。目の前で足を止めると、殿下を抱きしめた。


「すまない、ルーファス。お前が、こうなってしまったのは私のせいだ。もっと早く、お前が苦しんでいたことに気付いていたら、こんなことにはならなかったかもしれない」


ジェンセン様は、自分が本当の子ではないと知っていることを王妃様に話した。そして、王妃様に殿下もそう思っていることを聞いた。

ジェンセン様が王妃様の子ではないことは、公には出来ない。前王妃様や、王妃様の親族、そして臣下達を欺いていたことになるからだ。前王妃様との約束通り、このことは王家だけの秘密にしなければならない。


「噂は、真実ではない。お前は、母上が産んだ子だ。そんな噂に惑わされず、母上のお前への愛を信じてくれ」


ジェンセン様は、ルーファス殿下に真実を伝えなかった。それは、王妃様が望んだことだった。殿下を、信じることは出来ないと判断したのだ。ジェンセン様が王妃様の子ではないと知られたら、臣下達が何をするか分からない。前王妃様のご実家は、それほど力を持っていないのだ。王妃様が、ジェンセン様のことを考えて決断した。


国の為に嘘をつかなければならないのだと理解しながらも、すごくお辛そうな顔をしていた。それでも、王妃様は愛しているのだとルーファス殿下に伝えたかった。


そこに、国王様と王妃様も姿を現した。


「お前が誤解していることに気付けず、すまなかった」

「十年も、私の子ではないと思っていたなんて……。ルーファス、あなたは紛れもなく私の子よ。どれほどあなたを愛しているか……」


王妃様の言葉を聞いて、やっと殿下は動き出した。そして、子供のように泣きじゃくった。


十年の月日は戻らないけれど、殿下はようやく母の愛情を確信した。



ひとしきり泣いた後、殿下は私を見た。

その眼差しは、今までとは違っていた。


「すまなかった……アシュリー。今日まで、君にしたことがどれほど酷いことだったのか、僕は分かっていなかった。許されるはずがなかったんだな……」


心から謝ってくれているのが分かる。

全てをなかったことには出来ないけれど、少なくとも殿下は子供から成長しようとしている。


「謝罪は受け取ります。ですが、私は生涯殿下を許すことはないでしょう。だから、殿下も生涯悔いてください」


優しい言葉をかけるつもりはない。それだけのことを、彼はしたのだから。


「分かっている。今更遅いというのも……。君は、幸せになるべき人だ。僕はグラインに行くよ」



一週間後、ルーファス殿下はグラインへと出発した。見送ったのは、国王様と王妃様、そしてジェンセン様だけだった。最後のお別れも、私はしなかった。あっけない終わり方だけれど、これでもう苦しむことはなくなった。




「アシュリー様、ジェンセン様がお見えになっています」


あれから一年が経ち、ジェンセン様と平穏な日々を送っている。

ケイトは出産した後、刑が執行され処刑された。十ヶ月近く離宮に軟禁され、話し相手もいなかったケイトは、精神を病んでいた。処刑されることがよほど嬉しかったのか、笑ったまま死んで行った。生まれた子は、罪人の子だと分からないように出生の記録を抹消し、隣国の平民夫婦に養子に出した。子を欲しがっていたから、可愛がってくれている。子供の父親は使用人の一人で、ケイトにすでに殺されていた。あれほど自分勝手に生きたケイトは、最後まで改心することはなかったけれど、子供には幸せになって欲しい。


「ジェンセン様、お仕事は終わったのですか?」


忙しい合間を縫って、毎日何度も会いに来てくれる。


「急いで終わらせた。アシュリーに会いたい気持ちが、私を有能にしてくれているらしい」


彼は最初から優秀な人だ。

ジェンセン様が王太子になってから、国同士のいざこざもなく安定している。ルーファス殿下が留学したグラインとも、友好な関係を築くことが出来、聖女の私は必要ないのではと思えるほどだ。


「ジェンセン様が忙しいことは理解しています。私にもこの子にも、いつでも会えるのですから、無理はなさらないでください」


私のお腹には、新しい命が宿っている。

一年前は、こんなにも幸せになれるなんて思ってもみなかった。


「無理をしたいんだ。この子が生まれたら、君との二人きりの時間は終わってしまう。もちろん、この子が生まれて来る日を心待ちにしているけど、君との時間も大切にしたいんだ」


愛おしそうに私を見つめる目が、少しずつ近付いてくる。彼の唇が私の唇にそっと重なる。


「……この為に、早くお仕事を終わらせたのですか?」


「意地悪だな」


そう言って、また彼の顔が近付いてくる。






END

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