第01話 王女様は夜に舞う
静寂に包まれた回廊。
黄色のドレスを見に纏ったエマは、王宮に差し込む月明かりに照らされながらふらふらと歩いていた。手すりに掴まなければ自分の体を支えられないほどに酷く衰耗している。
(私ってなんて惨めな人間なのかしら・・・)
今日の出来事は瞬く間に王国中に広く知れ渡るだろう。そして婚約者に捨てられた哀れな令嬢というレッテルを貼られ、陰で面白おかしく笑われるに違いない。
「ゔっ!!」
考えただけで吐き気を催し、エマが手すりの向こうに顔を乗り出した。
伯爵令嬢としてのせめてものプライドか、何とか端ないことは回避しようと、込み上げてくるものを必死に胃の中に押し返す。
「・・・・・・誰か、これは夢だと言って頂戴」
消え入りそうな声は誰に向けられたものでもない。ただ、エマの心が嘆いていただけだ。
もはや前を向いて歩くことさえ叶わない。先ほどから手すりの向こうに見える中庭をボーッと眺めるばかりである。
(この場所ともお別れね・・・)
タイラーとの婚約以後、王室としての教養を身に付けるべく、実家を離れて王宮に住まいを移していたエマ。この中庭でも乗馬の練習や民間医療の取得のために薬草栽培などを行なっていた。
だが、こうなった以上は王宮には居られない。必然的に実家に帰ることになるのだが、ありのままを両親に話すのはあまりに心が痛むというもの。何より、二人の期待に添えられなかったことが悔しくて、悲しくて、情けなくて、先ほどは我慢できた涙も今度ばかりは頬を伝う。
今まさに失意のどん底にいるエマ。この三階から飛び降りれば、不名誉な人生に幕を下ろすことができるだろうか。そんな思いが頭をよぎる。
(何を考えているの、私!)
零れ落ちる涙を必死に手の甲で拭い、両手で頬を思い切り叩く。じんわりとした痛みが彼女を正気に戻したようだ。
そんな折である。視界の端に動く人影を見つけたのはーー
(誰?)
中庭で華麗に舞う一輪の花。
剣をしなやかに振るたびにシルバーアッシュの長髪が月夜に光り、スラリと伸びた手足は雪のように白く、薄い唇は苺のように赤く染まっている。その所作や見た目全てが、彼女が特別な人間であることを物語っていた。
「リリアーナ王女殿下・・・!」
現国王の次女にして、王位継承権第3位に名を連ねる者。それが、エマの視界の先にいる少女の正体だった。
(なんて綺麗な殺陣なのかしら。見ていて惚れ惚れするわ。・・・けど、リリアーナ王女殿下が剣術を扱うなんて知らなかった)
分単位のスケジュールで動く王女様にとって、日中に剣を握る時間などあろうはずがない。きっとこうして夜な夜な稽古を積んだ結果が今の美しい剣捌きを生んだのだろうとエマは推測していた。
(どうしよう、声を掛けたいけど迷惑よね)
伯爵令嬢と言えど、王女様と話す機会はそうあるものではない。事実、リリアーナとの接点はほぼ皆無であり、下手すれば向こうはこちらを認識していない恐れすらある。それに、貴重な稽古の時間を止めてしまうのも好ましいとは言えなかった。
(でもこんなチャンス二度とないかもしれないし・・・)
エマにとってもリリアーナは憧れの女性だった。12歳で鮮烈なデビュタントを経て、白銀の女神として社交界を席巻したのは記憶に新しい。最近では公務に顔を出す機会も増えており、王族としてその地位を確立している。歳はリリアーナの方が2歳年下だが、憧れを抱かずにはいられない存在なのだ。
(決めた、後悔はしたくない!)
意を決したエマは、大きく息を吸ってリリアーナに自身の存在をアピールしようとした。
ーーだが、それは叶わなかった。何故ならリリアーナの背後に忍び寄る黒い影に気付いてしまったからだ。
「ーー王女殿下、後ろ!!」
どこからともなく届いた危険を知らせる声。
リリアーナが反応して振り返ると、全身黒ずくめの男がダガーナイフを片手に襲い掛かろうとしていた。
「ーーッ!!」
リリアーナは持ち前の反射神経を生かし、体を半身に捻る。靡いた髪の隙間をナイフが通り過ぎた。
「王女殿下!!」
居ても立っても居られず、無意識に走り出していたエマ。階段を降り、最速で中庭に到達した頃には、既にリリアーナと謎の黒ずくめの応酬が繰り広げられている。形勢は、リリアーナがやや不利だった。
(やっぱり、王女殿下には実戦の経験がない)
リリアーナの剣術が「見せる剣」になってしまっていることは、先ほどから感じ取っていたエマ。しかし、それは致し方ないこと。何せ王女様が実際に現場に出て戦うことなど、万に一つもないのだから。
(私が加勢するしかない!)
エマが左手を前に突き出す。刹那、彼女の掌が一瞬光を放ち、リリアーナの目の前に半透明のバリアを形成した。
黒ずくめのダガーナイフがバリアに弾かれるのを確認したエマは、注意を引き付けるために叫んだ。
「こっちを見なさい! 王女殿下を手にかけようとする不届き者め!」
怒気を孕んだ声音を背に受け、黒ずくめの男がエマの方に体を向ける。表情は覆面で分かりかねるが、ナイフを持つ右手には相当力が入っていることが見て取れた。
(右から左への一文字斬り)
鈍く光るナイフが、エマに向かって水平に振り抜かれた。当然、予測していたエマはその餌食にはならない。
(甘いわ)
直前でエマが重心を落としたことで、彼女の頭上をナイフが通過。そのまま芝生の上を滑るようにして黒ずくめの男の脇の下を通り抜けた。
「王女殿下、お怪我はありませんか!?」
目の前に颯爽と現れたドレス姿の女性に、リリアーナは困惑しているご様子だ。
「え、ええ。大丈夫ですわ。それより貴女はどうしてこんなところにーー」
「ーー説明は後です! 今はまず、目の前のピンチを乗り切ることに専念してください!」
懸念材料としては二つある。
一つはエマに攻撃手段がないということ。武器を持っていないのは勿論、元々魔法能力が高くない彼女は攻撃魔法を扱うことができない。この場で有効な魔法と言えば、先ほど見せたような光の防御魔法くらいである。
二つ目は既に露呈しているリリアーナの実戦経験の無さ。ここまでは何とか乗り切っているようだが、いつ斬られてもおかしくない状況だ。
(どうする、逃げるか、戦うか)
出来ることなら、リリアーナに危険な真似はさせたくない。だけども、相手は十中八九、殺しのプロ。そう易々と逃がしてくれるとは到底思えない。寧ろ背を向ける方が危険度が高いと言える。
(やはりここは王女殿下のポテンシャルにかけるしかない・・・か)
そう判断したエマは、振り返らずにリリアーナに問う。
「リリアーナ王女殿下、魔法剣技の心得はございますか?」
「い、いえ、存じてませんわ」
想定内の返答だった。
この瞬間、エマはリリアーナの頭脳になることを決意する。
「リリアーナ王女殿下、身分は弁えているつもりですが進言させて頂きます。今から私の言う通りに動いてもらいます。宜しいですね?」
「・・・あの男を倒すために必要なことなのですね?」
コクリと頷くエマを見て、リリアーナは剣を構え直す。
「分かりました、貴女に全てを任せます!」
エマ・グレイセス。
リリアーナ・ルイズ・アステリア。
ーー後にこの国の伝説となる二人の少女の初陣である。