第59話
クルトーの注意を引くように、わざとゆっくりと近づく動きをする。
草が足に触れ音を立てた。
予測できない動きをされるよりも、まっすぐに向かってくる方が対処はしやすい。
恐怖で自壊しないように視界の先にいる魔獣にだけ集中する。一挙手一投足を見落とさないようにして呼吸をしずめた。
人とは違うが、気を合わせるという意味では違わない。集中し、相手を見る。
投げや極め技は使えない。しかし、受け流しは可能だろう。右手には中身の残った樽を持ち、いつでも左腕で防御できるように自然体を意識した。
クルトーがこちらを見て視線を止める。
恐ろしい目だ。
冒険者の言葉からすると、討伐難度はそこまで高い相手ではないだろう。
しかし、それは普段から戦闘に従事している者から見た目線だ。命のやりとりとは無縁だった俺にとってはヒグマと似たようなものである。
クルトーがこちらに体の向きを変えた。俺を標的にして真っ直ぐに向かってくるだろうか。
「お、おい···」
スラムの男が俺の動きに気づいたようだ。しかし、視線を外すと一瞬の間に距離を詰められ、最悪の場合は喉を噛み切られてしまうだろう。
来るなら来い。
そう思い、意識を強く持った。
人は強い意識を持つと不可能を可能にする。もちろん現実味のないことは難しいが、気持ちを強く持つことで様々な困難を克服することができる。
それほど長い人生を生きてきたわけではないが、無理だという思考や気持ちが折れたら何事もなせないということは経験で感じてきたことだ。
逆にいえば、車ではねられた時も、友人の顔を見て動揺しなければ避けられたのかもしれない。
どれだけ体を鍛えて武術を修めていようと、精神状態は結果を大きく左右するものなのだ。
クルトーの身体が沈んだ。
次にその身体が上向いたときにはこちらに向けて走り出していた。
左右には木があり、ジグザグに動くようなことは難しいのだろう。真っ直ぐに向かって来る。
まるでスローモーションのように、クルトーが徐々に大きくなっていくのを感じた。あと数メートルでぶつかる。口が大きく開き、跳躍の気配を見せた。
そして···
近くに小さな川があったので左腕のエタノールを洗い流した。
他の面々も衣服や装備についた汚れを各自で落としている。
「あんた、死ぬ気かと思ったよ。」
「まったくだ。まさか自分から囮になってくれるとはな。」
スラムの男や冒険者のリーダーが笑みを浮かべてそう言う。
別に囮になるつもりでもなかったのだが、結果的にはそうなった。
俺をめがけて跳躍したクルトーは、その直後に弓で撃たれて体勢を崩し、着地した瞬間に剣を首に叩きこまれた。それでも倒れずに剣を持った冒険者に襲いかかったところを、二発目の弓矢が頭蓋を撃ち抜いてようやく息絶えたのだ。
「結果的にあまり役には立ちませんでしたね。」
俺自身への反省を含めてそういった。
「いや、大したものだったよ。あれがなければ犠牲が出ただろう。俺たちが不意をつける機会を作ってくれた。」
冒険者のリーダーはそう言ってまた笑顔を見せた。
俺としては自戒の念が強い。
対処としては間違っていなかったと思う。ただ、あれで左腕に食いつかれ、想定以上に顎の力が強かったらどうなっていたのか。また、前脚で攻撃されていたら回避できたのかなど、後になって深慮が足りなかったように感じてしまった。
対魔獣の戦闘経験がないので仕方がないともいえる。しかし、ちょっとしたミスで命を落としたり、手足を欠損する可能性があることを考慮しておかなければならない。
武器を所持して、いざというときに迎撃できるかといえばひとりでは難しいだろう。
これまで外出するときにはティファが護衛として近くにいてくれた。しかし、これからはそういったことを期待できない。
帝国に渡るまでは冒険者が護衛をしてくれるが、その後についてはどういった動きになるのかはまったくわからないといっていい。
帝国と武器商人が今回の件で手を結んでいないことを願うしかないが、帝国が本当に賢者という存在を欲しているのであれば、武器商人の単独犯行であると考えられる。
国境を越えて向こうの有力者に出会えたなら、まずは詳細を話して戦争が起きないように働きかけるしかなかった。
そして俺を必要とするのであれば、人道的に問題がないかを判断した上で最大限の尽力を行うと決めている。
帝国側がアヴェーヌ家のように柔軟な接し方をしてくれるのであれば、むしろ色々とやりやすいのかもしれない。現時点では何の確定要素もない話だが、今から不安がっても結果は変わらないのである。
「見えてきたぞ。あの川を越えれば帝国領だ。」
再出発してからしばらくすると、国境線でもある川が視界に入ってきた。