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第58話

それほどの時間を待たずに、俺とスラムの男がいる背後からカサッという物音がした。


大きな音ではなかったが、神経が過敏になっていたのかいち早くそれに気がつく。


冒険者たちは少し離れたところにいる。彼らは獣が通る動線を見てそちらを重点的に見張っていた。近くにいるのはスラムの男だけだ。


音がした方に目を凝らした。


赤茶色の体毛を持つ何かがいた。時折、こちらを窺っている。


あれがクルトーなのだろう。顔立ちはグレイハウンドに似ていた。以前見たヒグマに比べれば迫力に劣るが、肉食獣特有の雰囲気に背中がゾワッとする。


音を立てると注意を引くだろう。


どのようにして冒険者に伝えるべきかと思ったが、狼は最高で時速70キロメートルで走ることができる。瞬発力はネコ科のライオンなどよりは劣るが、それでも人間がまともに対峙できるような相手ではない。


冒険者を呼んだところで、こちらに来るまでに襲われてしまうだろう。そうであれば、束の間だけでも時間稼ぎをしなければならない。


俺は腰に吊るしたバッグから小さな樽を取り出した。バッグは大型のシザーバッグのような形状をしており、所持品を入れるために出発する前に購入したものだ。中には様々なアイテムを入れてある。


樽は非常に高価なものだが、液体を持ち運ぶとなると他に選択肢がない。薬や酒を入れるガラス瓶やコルク栓はすでに存在しているのだが、量産できる工場がなく非常に高価だったのだ。


前世で初めてガラス瓶の工場ができたのは1690年だという。この世界の今の技術でいくとガラス瓶は職人の手作業による生産となり、なかなか安くそして数が作れない。それに割れやすさも考慮すると使い勝手も悪いといえる。


液体を入れて持ち運べる物としては、皮の水筒が一般的で水が漏れないように内側は動物の胃袋や膀胱が用いられていた。しかし、そういった素材を使うとなるとあまり小さな物は作れない。


そのような事情もあり、俺が所持している小さな樽はエタノールを入れるために必要だと判断して、直接職人からコーンシロップと交換で手に入れたのである。老舗のうどん屋や蕎麦屋にある七味唐辛子が入った木筒程度の大きさと解釈してもらうとわかりやすいかもしれない。


木でできた樽の栓を抜き、手枷の鎖を巻いた左腕にエタノールをかけた。このエタノールはコーンから作った原液のもので、いわゆる無水エタノールである。ここに精製水を加えて濃度調整をすると消毒用のエタノールを作ることができるのだが、今回はこの原液を対クルトーに使う。


あまり長時間放置しておくと、エタノールが肌の水分を奪い炎症などの皮膚異常が出てしまう。引火性もあり危険度が高い液体だが、狼に状態異常を起こさせる可能性が高いと考えたのだ。


愛犬家なら必須の知識といえるが、犬にアルコールは厳禁なのである。


人は飲酒しても肝臓のアルコール脱水素酵素で分解して、アセトアルデヒドという物質に変化させることができる。しかし、犬はそういった分解酵素を持っていないのだ。少量でも体内に入ると死に至る可能性がある。


狼はイヌ属であるため、そういった性質は変わらないだろう。あるデータによると、大型犬種でもアルコール度数40%のウィスキーを数百ミリリットル摂取すると致死量だといわれている。


クルトーは大型犬種以上の体を持っているが、こちらが使うエタノールのアルコール度数は80%を超える可能性があるのだ。無水エタノールによる人間の致死量は1~3グラムともいわれているため、少なからず効果はあると考えられる。


うまく鎖を巻いた左腕に噛みつかせ、さらに樽に残ったエタノールを口や顔に浴びせることができれば、最悪の場合でもクルトーの動きを鈍らせることができるのではないかと思えた。


もちろん、即効性があるかどうかはわからない。場合によっては数十分から1時間くらいは意識や体に異常を来さないかもしれない。


しかし、エタノールの強烈な匂いは人間の嗅覚の100倍はあるといわれている狼には有効なはずだ。それに、目に浴びせた場合は視界を奪うダメージが期待できる。


対人ならともかく、獣相手に戦える術を持たない俺にとっては、現状で考えられる最善策だと思えた。


ただ、怖くないというと嘘になる。気を抜くと腰を抜かしてしまうかもしれない。そもそも、動物が嫌いではないので、このような行為に及ぶことに少なからず抵抗があった。


狼は基本的に人を襲わないといわれている。元の世界で記されている狼の襲撃は、そのほとんどが狂犬病を発症したことが原因とすらいわれているのだ。


しかし、今は違う。


相手は魔獣で、すでに人を食い殺している。背中を見せて逃げれば迷わず襲いかかってくるだろう。


ここで腹をくくって対峙しなければ、生き残ることも難しくなってしまう。




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