第111話
試食会が終わり、あとは料理長にまかせて調理室を後にした。
ティファやビジェとともにユーグの執務室を訪れる。
ここの屋敷を出てからそれほど長い時間が経過しているわけではないが、執務室の様相は思っていたよりも変化していた。
紙の束や書籍がそこら中に積み上がり、整然としていたかつての様子がまったくイメージできないほど様変わりしている。
「散らかっていてすまない。」
紙の束の一番上に目をやると、収支や原料の生産試算書などであることがわかった。
「大変そうだね。」
「ああ、これがソーがいなくなった影響の一部だ。君が残してくれたツールなどを活用してもこの有様だよ。今更ながら、君の頭の構造がどうなっているか毎日のように考えてしまう。」
こういったものは、基本の知識が備わっていればそれほど難解なものにはならない。
定まったフォーマットに項目名と数値を入力すれば、すぐに解答が出るといえばいいだろうか。
不慣れな者にとっては、初めて事業収支計算書を作成する程度には難解である。ユーグとて他の執務で忙しいのだから、合間を縫って行うのはかなりの負担だろうと思った。
「事業が軌道にのれば、専任の事務官を雇用すべき作業だからね。ただ、最初は数値や問題点など把握するために自ら取り組む方がいい。人に任せるにしても、基本が理解出来ていないと容易に誤魔化されてしまう。」
「そうだな。君がここを出るときにくれたアドバイスの重大さが、実務を通していろいろと理解できたよ。」
ユーグは頭脳明晰である。
ただ、そうだからといって万能な者などいない。例えるなら、離婚訴訟専門の弁護士に国際訴訟を依頼するようなものだ。
誤解するものも多いが、士業と呼ばれる者は資格試験を突破するほど優秀であったり努力できる人間である。しかし、有資格者だからといっても、得意なものや専門分野はそれぞれに異なるものだ。
もっと簡単にいえば、音楽の先生に数学の授業をしろと言っているに等しい。
「私も万能ではないから必要に応じて勉強してきた。それは今でも変わらない。ただ、根を詰めてするには負担が大きいだろう。」
「ああ、確かにそうだ。実は商業ギルドに依頼できないか模索中だったんだ。」
その方がいいだろう。
最終的なチェックをしっかりとできる体制にしておけば、ある程度は他に投げた方がいい。それに、そのうちこういった執務からは遠ざかることになるのだから。
「それで、慌てていた理由を聞いても?」
これが本題である。
ある程度予測はついていたが、あまりにも対応が速かったため少し驚いていた。
「先ほど会談に突然呼ばれた。君からの推薦で大使に任命すると王命を受けたのだが···」
これには同席していたティファも驚いていた。
「あの···何気についてきてしまいましたが席を外しますね。」
傍にいたビジェがそう言って退室しようとする。
「ああ、気が動転していた。彼女は君の護衛だったね。いや、いてもらってかまわないよ。」
このあたりは難しいことだといえた。
いくら知己があるからといって、今の俺は会談相手の協力者である。
ユーグが個人的に呼び出したとはいえ、内容は会談の中での機密扱いとなるのだ。
ビジェは帝国に属する立場のため、同席してもらうことで密談扱いにはならない。
「王命だから断るわけにはいかない。でも不満ということかな?」
王城から嘱望されるほど優秀な人材であるユーグだが、辺境審議官から領主を目指す際には様々な根回しをしたに違いない。
任期の終了前から動いていたからこそ、身の振り方を自分の意思で決められたのだ。しかし、それも王制や貴族社会ではグレーゾーンに近いものだったろう。公爵家の直系だからこそ押し通せたというのもあるはずである。
「正直にいうと、不満というよりも不安だ。王命なのだから反意を唱えることは難しい。しかし、今この都市を離れるというのはどのような結果を招くのかと。」
「そのあたりについては問題ないと思う。すぐといってもまだ時間はある。それに、この都市が新しい国との窓口になるはずだから。」
「しかし聞いた話によると、新国の中心となる都市は南の辺境伯領が最寄りとなるだろう?」
「第一に辺境伯領との国境には山脈がある。そこを切り開くには費用と時間がかかり過ぎる。それに建国でバタついているときに、信頼できない者に来られるといろいろと困ることも多いからな。」
実際には他にも重大な理由がある。
それについて俺からユーグに語らない方がいいだろう。国王や公爵などは気づいているはずだ。
「それで私を推薦したわけか。」
「この都市は問題ないと思う。交易に関わることでその恩恵も受けるだろうし、数年も経てば人の流入も増えるはすだ。」
「ああ、なるほど。それも君の計略ということか。」
「計略というほどでもない。新しい国が機能すれば、人族は自然とこちら側に集まるはずだ。」




