90.山頂にて
「ティアラさん!どうしたんですか?!ぼうっとして!」
医療系魔法の女教師の叱責が飛び、ティアがハッと顔を上げる。
「す、すいません…。」
「…構いませんが…、体調が優れないのならお休みなさい。もし大丈夫なら教科書の32ページ、火傷の手当てに関する薬学の項目を読んでくださるかしら?」
「はい…。」
そう言ってティアは静かに立ち上がって朗読を始めた。
昨日の朝、クロと話して以来、ずっとこうだ。僕もどう声をかけて良いのか分からずに戸惑っているし、それとなくクロに聞いても何も答えてくれない。
『今はそっとしておいてやれ。』
そう言ってだんまりを決め込まれてしまった。
そんなティアに変化があったのは、さらに丸三週間経った夜のことだった。
最初の二、三日は様子がおかしかったティアも、時折、深く考え込んでいる素振りを見せる以外は、だいぶ調子を取り戻してきていた。
「レオくん、邪魔してごめんね。明後日の休息日って空いてる?」
合宿所の外庭で素振りの鍛錬をしていた僕を見つけてティアが声を掛けてきたのだ。
「特に予定はないよ。こんな辺鄙な所だしね。」
僕は手を止め、やあ、と短く挨拶を返してティアにそう答える。
「その…ちょっと付き合って欲しいところがあって…、ほら私たち来週にはもう王都に戻っちゃうし…。」
もじもじと言い出すティアに僕はどきりとした。こ、これはいわゆるデートの誘い、というやつなのだろうか…。
「ぼ、僕で良ければ…。ど、どこに行きたいの。」
僕がそう答えると、ティアはすっと合宿所の裏にそびえる山を指差した。
「あの山の頂上に…。」
僕は少しだけ眉をしかめた。気軽な散歩やピクニックというわけにはいかない。下手をしたら一日がかりの登山になるくらいの山だ。
「どうしたの?登山道も無いし、野生の獣もいるかもしれないよ?大丈夫?」
僕の言葉にティアは少し緊張した表情を見せた。だがしっかり目を合わせて頷く。その目には何かの決意が込められているように思われた。
「大丈夫。行かなきゃいけないの…。それにレオくんと一緒なら、大丈夫…。」
最後の言葉に僕は顔が赤くなるのを感じる。
「あ、ありがとう!しっかり準備しておくね!」
それに気づいたティアもぱっと顔を赤くすると。
「ご、ごめんなさい。でもお願いします!」
そういって振り返らずに合宿所になっている古城に駆け込んで行った。
背後からクロの盛大なため息が聞こえてきた。
そして二日後の安息日、僕とティア、そしてクロはほとんど獣道同様の山道を登っていた。
「ティア、大丈夫?辛くなったら休憩入れるから言ってね。」
僕の言葉にティアは額に玉のような汗を浮かべながら無言で頷いた。
僕は手にした鉈で邪魔な下草や小枝を切り落としつつ進む。クロが先頭に立ち、周囲を警戒してくれているお陰で危ない目にも遭わずに済んでいた。
様子がいつもと違うのはティアだけではなかった。何故かクロも緊張しているように見えるのだ。そして出発前も変だった。
『レオナード、済まないが荷物にインクを一瓶、入れておいてくれ。』
僕が登山の準備をしている時にクロはそう頼んできたのだ。最初は帰り道に迷わない為に目印でも付けるのかと思ったがどうも違うようだ…。
途中、何度かの休憩を挟みつつ、僕らが山頂に到着したのは昼をだいぶ過ぎてからだった。日も結構傾いている。
『ふむ…。素晴らしい見晴らしだな。』
僕とティアはクロに並んで無言で景色を見渡した。
山頂はちょっとした広場になっていた。剥き出しの土肌に所々申し訳程度に草が生えている。
遠くまで見渡す事ができ、はるか南の方に街らしきものが見える。
「あれって王都かな?」
『おそらくそうだろうな。』
僕の疑問にクロが答えてくれた。ちなみにベルツ城は山の陰になって見ることが出来ない。
『…さて、準備にかかるか。レオナード、悪いがインクをくれないか?そしてティア、ゆっくり休んでてくれ。』
ティアは小さく頷くと近くにあった小さな岩に腰掛ける。僕は疑問だらけで鞄からインクを取り出し、クロの目の前に置いた。
『レオナード、蓋を開けたら少し離れていてくれないか?』
そう言われた僕は、瓶の蓋を開けると、所在無さげなティアの隣の地面に腰を下ろした。
気流操作魔法か何かを使ったのか、クロが尻尾を振るとインクが瓶の中からひとりでに飛び出してくる。そしてそのインクと共にクロは地面に何かを描いていった。
「…魔法陣?」
僕は小さく呟く。どうやらクロはかなり大きな魔法陣を描こうとしているようだが…。
「…レオくん…私、怖いわ…。」
僕を呼ぶ小さな声に振り返るとティアが小さく震えていた。
理由は分からない。分からないが僕は震える小さなその手をそっと握りしめた。しばらくしてその震えが治っていくのを感じる。
どれくらいそうしていただろう。僕ら二人は手を繋ぎ無言でクロを見守っていた。
『…待たせたな。準備ができたぞ。』
どれくらいそうしていたのだろう。日はかなり傾き、僕はここで野営をすることさえ検討し始めていた。
ティアが最後に僕の手をぎゅっと握ると、その手を離して立ち上がる。そして魔法陣を消さないように気をつけながらクロの待つその中央へと歩いて行った。
『準備はいいか?』
短いクロのその一言に小さく頷くティア。そして二人で東へと向きなおるとティアが朗々と歌い始めた。
暗く哀しげな歌だった。いつもティアが歌うような明るく喜びに溢れた歌とはまったく違っていた。
「何が…始まるんだ…いったい…。」
誰ともなく僕は小さく呟く。だが今の僕にはその場に立ち竦む事しか出来なかった。
やがて、魔法陣が白く輝き出す。それと共に僕は二人が顔を向ける東の空の彼方に小さな影を見つけた。それは暗くなりかけた空を切るようにこちらに向かって来る。それも凄まじい速さで…。
「な、なにあれ?!」
僕は後ずさる。背中を冷たい汗が流れている。
そんな僕の様子に構う事なく歌い続けるティアと微動だにしないクロ。
やがて、その影の全貌がはっきりと見えてきた。
まず目に入るのは四対の蝙蝠を思わせるような大きな羽。だがほとんど羽ばたかない。いったいどんな原理で宙を飛んでいるのか…。
その巨体は二階建ての家屋程の大きさだろうか?長い尾が後方へと伸びている。間違いなくイネスのゴーレムより大きい。
全身がラージシールド程の黒い鱗で覆われ、四本の手足にはこれまた漆黒の鋭く大きな爪が付いていた。
恐怖を体現した様な威容だったが、六つある瞳は黒曜石の様な輝きを放ち、理性と知性を伺えさせた。
「嘘だろ…こいつは…ドラゴン…!?」
『待たせたな。』
あたりに大音声が鳴り響く。いや、これはクロと同じ、念話だ!
『久しいなクエレブレ。それともオーベロンと呼んだ方がいいのかな?』
クロは臆する事なくその巨体に話しかけている。
『どちらでも構わんよ。どちらも数ある私の名前のうちの一つだ。』
再び大音声が響く。効果が無いと分かっていても僕は思わず耳を塞いでしまった。
『てはクエレブレ、済まないが人型に変わってもらえたりするか?その姿は目立ちすぎるし、声が大きすぎる。』
『おお…済まんな。』
そういうやいなや、クエレブレと呼ばれたその巨体は四対の羽を閉じ、体を包み込んだ。すると眩しい光が溢れ出す。その形がどんどん小さくなっていき、僕らの近くへと降りてくる。
そして光が消え去った後には一人の男がそこに立っていた。
黒とも青ともつかぬ長い髪。白磁のような肌に黒い法衣の様なものを纏っている。唯一、以前と変わらないのは三対、計六つの煌めく黒い瞳だ。それがその男が人間でない事を証明していた。
「久しいな北の魔王。どうしたんだその姿は?」
そしてその男は肉声で話しだした。
『何度も言っているが俺は魔王ではない。故あってな、しばらく前からこの姿だ。』
ふむ…、と小さく呟いて男はクロをじっと覗き込む。
「…魂の形はさほど変わっていないようだが…。以前と違う力を感じるな。なるほど、何者かから大いなる祝福を受けたな?」
『ああ、エルフの祝福を受けた。そちらの世界だと《聖なる夜》の名前の方が今は通じるのではないかな?』
「ははあ、新しき星はそなたであったか。」
何に納得がいったのかまったく分からないが、男はしきりに感心していた。
「それで今日は何用かな?暇潰しに私を呼んだわけではあるまい?」
『ああ…、この少女の事だ。』
僕はハッとなってティアの方を見た。ティアは両手を口元に当て、その顔は蒼白になっている。
「…もしや、その少女…。」
『恐らくシャナの、シャルルナの娘だ。』
「なんと!!」
異形の男は驚いたように六つの瞳を見開く。こんな超常の存在でも驚くことがあるのかと、僕は変な所で感心してしまった。
「…手を。」
異形の男が短くそう言って法衣の長い袖から自分の手を出してティアへと差し伸べる。その爪先からは変化前のかぎ爪を彷彿とさせる、黒く長い爪が伸びていた。
ティアがおずおずと手を差し伸べる。そっと二人が触れ合った部分が淡く白く光り出した。
「…確かに。これはシャルルナと同じ力だ。なんという事だ…。」
異形の男がそう言うとティアはそっと手を引っ込めた。男は名残おしそうに自分の手の平を握る。
そして顔をあげ真っ直ぐティアを見つめると次の瞬間、信じられない言葉を口にした。
「初めまして。我が娘よ。」
「…ええええええええっ!!!!」
一瞬の間の後、僕は思わず大きな声を上げてしまった。




