73.匂い
俺は暗闇の中で大きく伸びをした。レオナードは小さな寝息を立てている。
いつかのように月の無い夜だった。いつものように魔法を使って窓を開け、ひらりと風に乗って外へ出る。いつもと違うのは、足を着いた地面が芝生ではなく砂浜というところか。
(誰かが王都の星空と違うと言っていたな…。)
俺はちらりと空を見上げると、屋敷の裏手、フクロウの鳴き声が響く林に向かって歩き出した。
『…クロ様、お待ちしておりました。』
林に入って程なく、一話のフクロウが俺の目の前に降り立つ。待たせたな、と言う俺にとんでもないお言葉です。と首を振る。
『それで、首尾の方は?』
『はい、やはり南方公の館に頻繁に出入りしている者がおります。』
俺は少し気になることがあり、フクロウに命じて南方公の館を見張らせていたのだ。
『どこの者か調べはついているか?』
『ブラッドー商会という所の者のようです。』
『会っているのは?』
『南方公の代理、息子のようです。屋根裏に忍び込む事が出来ましたので少々会話を盗み聞く事が出来ました。』
俺は身を乗り出して続きを促した。
『会話の内容は氷の値段の引き上げの承諾要請と、税の引き上げ。南方公の息子の方は酷く興奮気味でした。なぜ我々がないがしろにされねばならぬ!南の奴らは我々を敬う気持ちが無い。自分たちが南の中心だと思っている!父上のやり方は甘い!などといった内容です。』
『ふむ…。おかしな匂いはしなかったか?』
『申し訳ありません…。私、鼻はあまり良くないもので…。ただ室内で何か香のような物を焚いているのは確かに見ました。』
『やはりか…。』
俺の疑惑が確信に変わった瞬間だった。
『南方公の容態はどうだ?』
『残念ながら昼でも窓を閉め、中の様子は伺えませんでした。ただ二階の自室に居るのは確かかと…。服用している薬を提供しているのもブラッドー商会のようです。』
これは完全に黒だが…、しかし正直なところ、人間同士の利権の争いなど俺にとってはどうでも良い。バルトロメオには悪いのだが、この旅の間、レオナード達の安全が確保できる事が俺にとっての最優先事項だ。
『…悪いが、バハラに戻って今度はブラッドー商会を監視してくれ。』
俺の指令に何の疑いも無く、かしこまりました。と頭を下げるフクロウ。これはこれで思考停止で困るのだが…。
『いいか、深入りはしなくていい。相手は恐らくそれなりに力のある魔法士だ。危険を感じたら即刻退避しろ。絶対に死ぬなよ?』
ハッ!と先程よりも熱の入った返事が返って来る。彼…だと思うが…だって大切な俺の手札の一つなのだ。こんな所で死なせるわけにはいかない。
フクロウが北へ向かって飛び立つのを見送って、俺は屋敷への道を引き返した。だが目的地はレオナードの部屋では無く浜辺。鍛錬の時にアーノルドとバルトロメオが座っていた流木の上に二つの影がある。
『やあ、良い夜ですなクロ殿。しかし本当に美しい光景だ。』
最初に声をかけてきたのはパズの使い魔、鳩のアスールだ。隣でエレンの使い魔、ペルシャ猫のルビィがうっとりと海を眺めている。しかし鳩って夜目がまったくきかないんじゃなかったか?まあ、魔物だし、関係ないのか…。
『ノクティルカ《夜の光》か…。不思議な光景だが正体は魚の餌となる海中のごく小さな虫らしいぞ。』
『…んもう…クロ様ったら。』
ルビィにプイっとそっぽを向かれた。俺は何か変な事を言っただろうか…?
『ところで、例の件ですが…。』
ぽっぽっぽっと笑いながらアスールが切り出す。
『やはり南方で勢力を伸ばしているのはブラッドー商会で間違いないようですね。南方公家に取り入って氷の卸を一手に取り仕切るようになったとか。ただ…』
ただ?と俺とルビィが同時に訊き返す。
『元々がどこの出の商会なのかが不明です。急に現れた、としか言いようがないですね。』
『それは私の方にも入って来た情報だわ。』
ルビィが賛同した。
『街の猫達に聞いて回った時の話なんですけどね。まあどこに居ても猫は噂話が好きなのね。特に淑女達は。あちらの店の魚が美味しいとか、向こうのは管理が甘くて傷みやすいとか…。』
確かにそうだろうなあ…と俺はばれないように小さなため息を漏らす。
『…それで、例のブラッドー商会?魚も香辛料もまったく取り扱ってないそうなのよ。』
『…どういう事だ?』
『このあたりで昔からある大きな商会となると、必ずと言って良いほど魚の取り扱いがあるらしいのね。だって主産業ですもの。あとは香辛料。特産品ですから。魚料理には欠かせませんしね。それがどちらも無く、氷の卸だけを扱う。つまりこの地に根の無い流れ者って事ですわ。あと…』
あと?と今度は俺とアスールの声が重なる。
『時々、妙な匂いをさせる男がブラッドー商会の支店に来るらしいのよ。その匂いを嗅ぐと頭がクラクラして気持ち悪くなるらしいわ。ただの香水の類いじゃない、本能的に受け付けない匂いだって話よ。』
当たりだな。概して人間よりも動物の方が危険に敏感なものだ。
『どんな顔の男か分かるか?』
『暑くても黒いマントをまとっていて、目つきの悪い薄笑いの男だって。こんな所でマントなんか着てる人間は居ないからすぐ分かるって言ってたわ。』
『それは確かに分かりやすい。マントの男に注意ですな。』
アスールが頷いている。
さて、旅の終わりまで何事も無ければ良いのだが…。




