109.晩夏の休息
晩夏の優しい小雨が降っていた。風除けの魔法のお陰で雨粒はほとんど当たらずに済んでいるが、少しだけ肌寒い。
僕は黙々と馬を走らせていく。一人で動くなら馬車よりも直接、馬を駆った方が楽だし早くて済む。
鬱蒼と茂った森の切れ間に、四つの尖塔がチラホラと見え隠れして来たあたりで、僕は旅の連れに声を掛ける。
「クロ、もうすぐ着くよ。」
外套の下でもぞもぞと小さな生き物が動く気配がする。しばらくしてその外套の隙間からひょこっと小さな黒猫が顔を出した。
『お疲れ様。済まんな寝てしまって。』
そう言いつつ黒猫は大きな欠伸をした。その様子を見て僕は苦笑しつつ、気にしないで、と声を掛けた。
実際、どう考えても僕が馬を操るしかないのだから。
そうこうするうちに煙る古城が姿を現わす。ベルツ城だ。合宿所とも呼ばれているが。
馬車を回頭させる為の前庭をぐるりと半周して、正面玄関脇の小道からさらに奥へと馬を進める。
城の裏手に回った所で、使用人用の馬屋に自分の馬を止めた。
「よしよし!お前もお疲れ様!長距離をありがとうな!」
僕は馬から降りると、まず鞍などの馬具や荷物一式を下ろし、飼葉と水を用意する。それから馬の体全体に丁寧にブラシをかけてやった。
今年の頭にベルツに拠点を移した時に、ある方からお祝いに頂いた栗毛の雌の駿馬だ。僕には勿体無いくらいの良い馬だ。大切にしなければ。
一通り馬の世話を終えると、あたりをぐるりと散歩して来たらしいクロと合流して、城の裏戸から中へ入る。
台所の煙突から細く蒸気が出ていたから、先生は恐らくそこにいるはずだ。
「ただ今戻りました。」
僕がフードを取りつつ台所へ入って行くと、スープでも作っていたのか、鍋の前に立った人影がこちらを振り返った。
「おやおやレオナード君、それにクロ君。意外に早い戻りだったね。おかえりなさい。」
平時用の簡素な執事服の上にエプロンをつけた白髪の男性、ダラス先生が、にっこりと笑って出迎えてくれた。
「今年の夏は例年に比べて雨が多めですよ。」
ため息をつきつつダラス先生が言っていた通り、ぱらつく小雨はあれから三日ほど降り続いている。
僕はというと、あっという間に元のベルツでの生活に戻っていた。
朝から植物園や家畜たちの世話を焼き、そのかたわらでダラス先生から借り受けた書物で知識を蓄える。
唯一、夏前と変わった事と言えば、ダラス先生と同伴なら、例の温室への出入りを許可された事だ。
「不用意に触らないように気をつけて下さい。普通の植物に見えるもの程、危険だったりもしますから。」
温室に入る時のダラス先生の目は、いつにも増して真剣で鋭い。
『これなんかどう見ても野に咲く小さな花だがな…。』
クロが見つめているのは黄色い花蕊を持つ、小さな白い花だ。すっと立つ姿はいっそ凛々しささえ感じる。
「それはスイセン、もしくはナルキッソスという名で呼ばれる植物です。」
クロと一緒に僕がじっとその花を見ているのに気づいたのだろう、ダラス先生が名前を紹介してくれる。
「こう見えて花、葉、鱗茎と呼ばれる根の部分、その全てに毒を含みます。毒性は弱い部類ですがそれでも一歩間違えば死に至こともあるので気をつけて下さい。」
先生のその言葉に僕とクロはギョッとして後ずさった。
「ああ、その後ろにも気をつけて。」
僕とクロがそっと振り返ると、そこには下向きに黄色い花を咲かせた、大人ほどの背の高さの植物が生えていた。
「なんか、ラッパみたいな形ですね…。朝顔の一種ですか?」
何が危険なのか分からないが、その花の形はとても可愛らしかった。
「その通り。ダチュラ、別名、天使の角笛。危険なのはその葉に含まれる成分です。強力な幻覚作用があり精神を操作して人を操ることすら可能です。間違っても口にしないように。」
頭の中に、廃人になってしまったとある衛兵の姿がよぎった。
この可愛らしい花を付ける植物でも同じような事ができるかもしれないと思うと、言いようのない寒気がしてくる。
「そちらの足元の花壇も毒草の一種です。」
ダチュラを取り囲むように花壇が作られ、白、黄色、紫など、色違いの同じ花がたくさん咲いていた。
ダチュラと同じように下向きに花が咲いているが、花弁の広がりは大人しく、どちらかというと清楚な雰囲気だ。
「ジギタリスという植物です。子猫の手袋、なんて呼び名もあります。」
確かにクロの小さな前足ならスポッと入りそうだ。
花の手袋をしたクロを想像して思わず笑ってしまう。僕の心を読んだのか、クロがギロっと睨んできた。
「そちらも全体に毒を持つ植物なので迂闊に触れないように。」
僕はすぐにその想像をかき消した。
「ただし、ジギタリスはきちんと処理、精製すれば薬にもなります。傷薬として使用出来ますし、突発的な心の臓の病にも効果があります。」
『毒にも薬にもなるわけか…。』
クロがしきりに感心している。
「このあたりで育成している植物は未開の野山にも普通に生息しています。ジギタリスのように、きちんと取り扱えば薬になるものも多くあります。例えばニフラ。あれももともとは死神草という名前で忌み嫌われていました。」
「え?あんなに有用な植物なのに…、意外です。」
僕の驚いた顔に、然もありなんと頷くダラス先生。
「ニフラはもともと、動物の死骸に根を張る植物です。野山に動物の死骸が転がっているとどうなりますか?」
「…他の動物が食べに来る。ですか?」
少し考えて僕はそう答える。
「その通りです。ニフラは苗床にした死骸が持つ毒素を濾過しその身に溜め込みます。私たち生物は多少なりともその身の中に毒を併せ持ちますからね。」
先生のその言葉に僕は頷く。多少医療を勉強した者には常識の範囲だ。
「苗床の死骸の肉と共にニフラを食した動物は遅かれ早かれ濃い毒に侵され、最終的には死に至ります。そしてニフラがまた新しい苗床を手に入れるのです。」
「…結構、強かな植物なんですね…。」
僕の言葉にダラス先生がニヤリと笑った。
「実はニフラの実はとても甘くて美味しいんです。それを利用して昔は罪人の処刑に使われた、という記録があります。罪人を打ち棄てた場所はニフラの群生地になったとか…。」
風にそよぐニフラの群生。その下には無数の人の死体。そんな光景を思わず思い浮かべ、背中の毛がぞっと逆立った。
そんな青い顔の僕を見てダラス先生は愉快そうに笑う。
『上手いことからかわれたな。』
悔しいがどうあがいても勝てそうにはなかった。
そんな穏やかなベルツでの暮らしの合間に、幾つか気になる話が入って来た。
『やはりティアが行動を起こしたようだぞ。』
朝の鍛錬終わりに唐突にクロからもたらされた情報。
「行動…、というとセミラミスを弁護するための?」
クロが頷いた。
クロはこうして王都の情報を時々教えてくれる。部下のフクロウが目を光らせてくれているらしい。感謝しなければ。
「危ない事しなけりゃ良いけど…。」
『大丈夫だろう。エレンたちもいるし。それに牢を破って、なんていう過激な性格じゃない。』
完全にとばっちりだったとはいえ、一度、牢から逃げおおせた事がある身としては苦笑いするしかなかった。
『身の安全に関してもあの番犬がいる。』
僕はティアの影に潜む、灰色と黒の狼のような大型犬を思い出す。
『前にも言ったが、万が一ティアに何かあれば王都は壊滅だ。クエレブレは、普段はああいう奴だが、俺たちの常識や考えは通用しない。祈るしかないな。』
僕の脳裏に、美人の母娘の尻に敷かれる異形の男の顔が思い浮かぶ。それと同時に威容を誇る漆黒の龍の姿も。
彼が凄まじい力を持っているのも事実だ。
無駄に心労の種が一つ増えた事に僕は嘆息した。
「さて、明後日から毎年恒例の合宿が行われます。今日の午後からお手伝いの皆さんがいらっしゃいますので、しっかりと挨拶をお願いしますね。皆さんもうすっかり慣れているので案内などは要らないと思いますが、もし助けを必要としていたらお願いします。」
はい、分かりました。と短くはっきりと返事を返すと先生は満足気に頷いた。
後期課程が始まって一週間。去年はまさか自分が迎える側に立つとは思いもしなかった。
「あと、フォルテウス様も明日からいらっしゃいます。朝食会、楽しみにしているそうなのであの時の皆さんにお声を掛けておいて下さいね。分かっているとは思いますが、周りには悟られないように…。」
そう言ってダラス先生はため息をつく。
フォルテウス様の前では言えないが、特定の生徒とだけ仲良くするのは余り良くないのでは…?と心配しているのだ。
その心配は、フォルテウス様の事はもちろんだが、僕らの事を案じてなのだ。要は周りからの嫉妬ややっかみの対象になるのでは?という心配だ。
クリストファー様がアルと幼馴染という噂が広がり、おまけに僕らにべったりなので、先生の心配はもはや杞憂なのだが…、と思いつつその気持ちは嬉しいのであえて黙っておく。
『俺もその方が良いと思うぞ。』
そう言ってクロがにゃあと鳴いた。先生はその様子を見て、クロを抱き上げる。
「クロ君は、気にせずにどんどんフォルテウス様のお相手をして下さいね。なんせあなたは、あの方の大のお気に入りなのですから。」
クロが再び、にゃあと返事をする。すると先生はにっこりと人の良い笑顔を浮かべた。
…先生も本当はクロの声が聞こえてるんじゃないだろうか…?




