水無月の名前
(雨の音)
啓:6月にしてはひどく寒い、雨の日だったように思う。
(猫の声)
啓:『………猫?』
啓:私の心臓に沁みこむように。私の脳髄に響くように。……声が、聞こえた。
ラジオドラマ 水無月の名前
朔:片田舎の商店街の隅にひっそりと佇む店、東雲堂。日本家屋然とした、こじんまりとしたその店には、この世のものならざる悩みを持った者たちが集まるという。かくいう僕、冬野朔もその一人。
(引き戸の音)
桐吏:『いらっしゃい。………ってまたお前か。』
朔:『そんな露骨に嫌な顔しないでくださいよぉ、桐吏さん!』
朔:墨をかぶったみたいに、髪も目も着流しも真っ黒なこの人は、東雲堂の店主である桐吏さん。愛想の無さと格好の不精さには定評のある、客商売にはあるまじきお人だ。
桐吏:『声がでかいうるさい喧しい。』
朔:『なんてこと言うんですか!お客様は神様ですよ!?』
桐吏:『……うぜぇ、なっ。』
朔:『痛い!!ボールペン投げないで桐吏さん!!』
桐吏:『で?今日は何の用だよ。さっさとしろ。』
朔:『……半分はあんたが悪いんでしょう。まぁいいや。実は一昨日の夜から金縛りになるんです。僕、何かに憑かれてません?』
桐吏:『……あー?……あぁ、憑かれてるな。白いワンピースの女の地縛霊に。』
朔:『……わぁ、やっぱり。桐吏さーん、祓ってください……。』
桐吏:『七千円。』
朔:『うぐ、わかってますよぉ……。』
朔:もうおわかりかも知れないが、僕はこの店の常連だ。そしてこの店は、言うなれば、霊や妖の類いの悩みを抱える人専門のお助け屋。僕は子供の頃から霊媒体質というやつで、それはもう色んな体験をしてきた。悪寒耳鳴り金縛り、ラップ音に神隠し未遂。高校生の頃にこの店を知ってからは、半月に一度のペースで利用している。
桐吏:『そこ座れ。』
朔:『はい。』
桐吏:『前髪上げろ』
朔:『ん。』
桐吏:『諸々の禍事・罪・穢有らんをば、祓え給い、清め給えと申すことを聞こし召せと、畏み畏み申す』
(拍手)
桐吏:『……どうだ?』
朔:『……あ、体、軽くなりました!有難うございます!』
桐吏:『七千円。』
朔:『……だからわかってますって。はぁーあ、今月厳しいのに。はい、七千円です。』
桐吏:『確かに。』
(戸を叩く音)
朔:『誰か来たみたいですね。』
桐吏:『……チッ』
朔:『……?』
(引き戸の音)
猫:『こんにちは。』
桐吏:『……いらっしゃい。』
朔:『……綺麗な人だなぁ……。』
朔:店の入り口に立っていたのは、どこか現実離れした雰囲気を持つ美人だった。白磁の肌と透き通るような水浅葱の髪、紫苑の瞳。そして灰色の振袖。からころと音を立てる下駄が涼やかだ。その綺麗な人は、これまた綺麗に頭を下げた。
猫:『……お頼みしたい、ことがあるのです』
桐吏:『聞けないな。他を当たってくれ』
猫:『…………そうですか』
朔:『ちょ、桐吏さん!いくらなんでも酷くないですか!?こんなに真摯に頼んでるのに!』
桐吏:『お前は黙ってろ』
朔:『なっ……、黙りません!内容も聞かずに依頼を断るなんて道理に合いませんから!』
桐吏:『聞けないもんは聞けないんだよ。』
朔:『だからそれがおかしいって言ってんでしょう!もういいです!僕が聞きます!』
桐吏:『馬っ鹿お前……!』
(下駄の音)
猫:『あ、やっと入れていただけましたね。』
朔:『へ?……そういえばなんで今まで店の外に……?』
桐吏:『〜〜〜っ!こいつは人間じゃねーんだよ!内部の人間が許可しなけりゃ店内には入って来られなかったんだ!それをお前は……っ』
朔:『……人間じゃ、ない……?』
猫:『ええ、まぁ。』
桐吏:『責任取れよ……?』
朔:『………えっ?』
朔:僕はとことん、霊的なモノを引き付けてしまう体質らしい。
朔:話を聞いてみると、彼女は猫の妖らしかった。猫の尾が二又に分かれた九十九神、猫又。本来は長く生き過ぎた猫がなる妖だそうだけれど、彼女は少し事情が違ったようだ。交通事故で瀕死の状態だった時、死にたくないと強く願って、気づいたら猫又になっていたとか。
猫:『……逢いたい方が、いるのです。』
桐吏:『……依頼は、それか。』
猫:『……はい。』
朔:『?、会いに行けばいいんじゃ……』
猫:『逢いに行けるものならば。その方は人間なのです。私がまだただの猫だった頃、私とよく遊んだ人間。けれど、普通の人間に私の姿は見えません。……一目でいい、一言でいい。その方に逢わせてくださいませんか。』
朔:彼女は澄んだ声音に懇願を滲ませて、再び深く頭を下げた。
(雨の音)
猫:あれは確か、紫陽花の咲く季節。少し寒い雨の日でした。幼猫だった私は、雨宿りできる場所を探して、気づけば人家の庭に迷い込んでいたのです。
(猫の声)
啓:『………猫?』
猫:高い位置から、柔い声音が響いて。私はその声に引き寄せられるように、木の陰から庭の真ん中へと出て行きました。
啓:『……お前、ひとりなのか?』
(足音)
猫:そう言って、黒い傘を差した人間の男が1人、庭に下りてきました。当時の私には分かりようもなかったけれど、成熟しきらない華奢な体躯は十代後半の人間特有のものだったのでしょう。
啓:『広いばかりで何の取り柄もないのだけど。……お前、うちに来るか?』
猫:そうして私は、彼に拾われました。彼の名は、啓といいました。啓の家は、まさに豪邸と言うに相応しかった。林か森のような庭の中に佇む白壁の洋館。啓はそこに父親と兄と三人で住んでいました。あとは、通いのお手伝いさんが何人かいたようです。
啓:『僕の家は代々医者の家系なんだ。兄も父も祖父も曾祖父も、みんな医者だった。……多分僕も、医者になるんだ』
猫:いつか、そう言って微笑んだ彼の表情は、どこか歪に見えました。私と啓は、彼に暇さえあればずっと一緒に過ごしました。啓には、人間の友達はあまり居なかったのだと思います。兄や父親とも上手くいってはいなかったのでしょう。彼は、絵を描くことが好きでした。私と遊ぶのと同じくらいの時間を、絵を描くことに裂いていたようです。ある時、私の姿を描きながら、ぽつりと呟いたのです。
啓『僕はさ、来年医大を受けて、医師免許を取って、医者になって。きっと順風満帆に人生を送るんだ。……それが幸せなことだって知ってる。今だって何不自由ない生活をさせてもらって、幸せなんだってわかってる。……わかってるけど……』
(猫の声)
啓:『……なんて、お前にはわからないな』
猫:そう言って微笑む彼は、酷く厭世的で。私には何故かそれが哀しくて、私を抱き上げる腕に頬を摺り寄せたのを覚えています。
啓:『……そういえば、お前には名前がまだ無かったなぁ。いつまでも“お前”じゃ可哀想だからな。考えておくよ』
猫:『……私が事故に遭ったのは、それからすぐのことでした。結局私の名前を聞くことは出来なかった……。私にはそれが心残りなのです。……それから、彼の行末も。どうか、どうか、一度だけでいい。啓に会わせて下さい』
朔:頭を下げる姿があまりにも小さくて、切なくて、哀しくて。
朔:『桐吏さん、お願いです!この人を助けてあげてください!』
桐吏:『俺の仕事は慈善事業じゃねぇんだよ。』
朔:『知ってます。はい、これ!』
桐吏:『………1万円……』
朔:『報酬なら僕が払います!だから猫さんを助けてあげて!』
桐吏:『………はぁ。わかったわかった。そんなだからお前は魔に好かれるんだ、よ!』
朔:『いてっ。もー、はたかないでくださいよぉー。』
桐吏:『ほら、行くぞ』
朔:『はい!』
猫:『……ありがとうございます……っ』
朔:『大きい家だなぁ……』
朔:猫さんの案内で訪れた啓という人の家は、門の先に森のような庭があり、その奥に白い洋館が建っている豪邸だった。
桐吏:『おい、妖。これを飲め』
猫:『これは……丸薬、ですか?』
桐吏:『この薬を飲めば、何の力も無い者でもお前の姿が見えるようになる。1時間だけだけれどな』
猫:『本当に、ありがとうございます』
桐吏:『……先に忠告しておく。啓という男はただの人間だろう。お前の話を信じるかはわからないぞ』
猫:『わかっています。……それでも』
桐吏:『……そうか』
朔:『インターホン、押しますよ?』
猫:『はい』
(ピンポーン)
啓:『はい、どちら様でしょう』
桐吏:『東雲堂という者だ。あんたに会いたいと言ってる奴がいる。出てきてもらえないか』
朔:『桐吏さん失礼すぎ……』
啓:『……いきなり訪ねて来て出てこいだなんて、些か不躾ではありませんか?』
桐吏:『と言われてもな。悪いが怪しい奴らなんだ。だが悪いようにはしないと約束すしよう。……あんたの猫が、会いたいと言っている。信じないというならそれで良い。少しでも心が動いたのなら、出てきて欲しい』
朔:『…………こんなんで出てきてくれるんでしょうか』
桐吏:『さあな。あとはこいつの運次第』
猫:『……自分の運の悪さは自覚していますけれど……』
(門の開く音)
朔:『あっ』
啓:『……何なんですか、貴方たちは。どうして僕が猫を飼っていたと知って……』
猫:『あの……!』
啓:『……君は………』
猫:『貴方の、猫です。信じてもらえるかはわからないけれど、貴方と共に過ごした、猫です!』
啓:『……からかっているのだったら、怒るでは済みませんよ?』
猫:『………名前を、聞きに来ました。貴方がつけてくれる筈だった名前を』
啓:『……どうして、それを……。まさか、本当に………?』
(雨の音)
朔:『雨………』
啓:『………………。お前と、初めて会ったのも……こんな、雨の日だったなぁ……』
猫:『……!』
啓:『6月にしては、随分寒い日で……。そうだ、夢と義務に押し潰されて、あの頃は全然余裕がなくてさ……。僕はあの日、本当に久しぶりに、季節とか自然とかを思い出したんだ………。お前と過ごすようになってからはさ、世界に色がついたみたいだった……。長いこと描いてなかった絵も描けるようになった。……それなのに、お前は急に居なくなった』
猫:『……事故に、遭ってしまったの。名前を聞けなかったのが、どうしても心残りで……』
啓:『そうだったのか……。僕はてっきり、嫌われたのかと思っていたよ』
猫:『そんなはずないでしょう?』
啓:『そっか、そっか………。また、会えて、良かった……』
猫:『……ええ。私の名前を、教えてくれる?』
啓:『……夕立にも、色々別名があるのを知っている?時雨とかは有名かな。夕立は、豊穣をもたらす喜びの雨とも言われるんだ。……こんなこと言うのはクサいかもしれないけど、君はまさしく、夏の夕立の日に恵みをもたらしてくれた存在だったんだ。だから、君の名前は、白雨。明るい日の夕立のことだよ』
猫:『白雨……。私の名前は、白雨。……ありがとう、啓』
啓:『どういたしまして。…………え?白雨、君、姿が透けて………』
朔:『え、まだ一時間は過ぎてないですよ?というか、なんで僕らの目にも透けて……』
桐吏:『……やることが、終わったんだろ』
猫:『……成仏、ということなのかしら。元々、未練からこの世に留まっただけだから……』
啓:『そんな、せっかく………』
猫:『……大丈夫よ。貴方なら、大丈夫。ねえ。人間の生も、色々だと思うの。例えば貴方がこれから医者になって、その後の何十年もの時を使って何百人、何千人という患者を救っても。例えばこの先、絵の勉強を始めて、人生を絵のために費やしても。どちらの生き方にも、優劣なんて無いのよ。だから、貴方の好きなように生きて。……どうか、自由に』
啓:『……自由に……』
猫:『ええ。…………そろそろ、時間みたい』
啓:『白雨……』
猫:『はい』
啓:『ありがとう。僕の世界に彩りをくれて。……僕を、生かしてくれて』
猫:『……はい。どうか貴方に、両手で抱えて余りあるほどの幸せがあらんことを』
啓・猫:『………さよなら』
朔:『………消えちゃった………』
桐吏:『悪いことじゃあない。転生の輪に、戻るだけだ』
啓:『……あの、ありがとうございました。白雨を連れてきてくれて』
桐吏:『………あんたはこれから、どうするんだ?』
啓:『ゆっくり、考えてみます……。この先の、人生のことを』
桐吏:『そうか』
朔:『頑張ってくださいね!』
桐吏:『さ、帰るぞ』
朔:『はい!』
(ED)
ラジオドラマ 水無月の名前
キャスト
朔
桐吏
猫
啓
朔:『桐吏さーん、身体が尋常じゃなく重いぃー』
桐吏:『うるっせえなまたお前かよ』
朔:『だって身体があー』
桐吏:『あーあーわかったわかった。8千円』
朔:『値上がりしてない!?』
脚本風。