3-3
◆
「ちょっとアンタ、なんでこんな所にいるのよ」
「……」
少女の声に、私は膝に埋めていた顔を持ち上げた。少女は険しい顔付きで私の事を見下ろしている。
「ちょっと探しちゃったじゃないの。こんな事ならあんまり離れるなって言うべきだった……」
「なあ……君は、どうして私の町に来たんだ?」
私の口は勝手に動いた。少女は私を見下ろした。
「……は?」
「疚売りを探しているっていうのは知ってるよ。けれど、どうして私の町に来たのかと思ってさ……何か手掛かりでもあるのか? あるなら教えてくれないか」
少女は首の横をガリガリと掻き、天を仰いだ。分厚い、心なしか淀んだ色に見える雲をしばしの間見つめた後、疲れたように溜息を吐く。
「臭いを辿ってきたのよ」
「……臭い?」
「疚売りの臭い。なんていうか、死人一歩手前の病人の臭いを、さらに拗らせたような臭いがするのよ、アイツ」
どういう臭いだ。想像出来なかったし、想像したいとも思わなかった。
「それでその臭いを頼りにアンタのいた町まで来たんだけれど、どうしてか途中で途切れたのよ。それでその辺をウロウロしていたらちょっと薄いけど疚売りと同じ臭いがして……」
「それで……あの教会に入り込んだのか……」
「臭いは家の方からしていたけど、ちょっと疲れたし……寝てからにしようと思ったのよ。そしたら明け方ぐらいかしら、あの爪の長い疚人が教会に入ってきて……」
「……ちょっと待て」
少女の言葉に、凄まじく嫌な予感がした。聞いたら駄目だ。取り返しのつかない事になる。しかし、私の口は、私の意に反して勝手に動く。
「疚人が教会の中にって……なんで」
「知らないわよ。偶然じゃないの?」
偶然。偶然なら、いい。まだいい。まだ許せる。けれど、そうじゃないと誰かの声が脳の中で響いている。
「……君を……、君を、追って、きたんじゃないのか?」
「……何が言いたいの?」
「あの疚人が言っていたんだ……『臭いがする』って。君も言っていた。『多分最初は教会に行く』『あそこが一番臭いが強い』。それって、疚人の臭いって事だよな? 私にはよくわからないけど、疚人からは何か妙な臭いがするんじゃないのか? 教会で出くわした男は、祥吾と清華を、新太と天良を殺した男は、疚人の臭いを、君の臭いを追ってあの教会に来たんじゃないのか!? それで、物音か何かがして、子供達が教会に……!」
「つまり、あのガキ共が死んだのは、私のせいだと言いたいの?」
少女は、何の光もない瞳で私の事を睨み下ろした。闇よりずっと濃い黒なのに、光なんてちっとも宿ってなんて見えないのに、妙にギラギラとしている。光とは異質の何かを黒の奥に宿す瞳に、私の喉が忙しく震える。
「……だ、だって、そうとしか考えられないじゃないか。そうじゃなけれどうしてあの男が教会に」
「そんな事、私が知るワケないじゃない」
「……だ」
黙れ。黙れ。ふざけるな。ふざけるな。ふざけるな。人殺しが。人殺しのくせに。私の家族を殺したくせに。直接手を下さなくても、見殺しにしたくせに。見捨てたくせに。助けてくれなかったくせに。祥吾を、清華を、新太を、天良を、私から奪った元凶のくせに! 声が、頭の何処かをグルグル回り、ドス黒く重く汚い何かが胃の底の底から湧き上がる。止めろ、やめろ、そんな事を考えるのは。仕方ない。仕方なかったんだ。ただ運が悪かっただけなんだ! 運が悪かったって? この女のせいで私の家族は殺されたんだ! 違う違う違う、恨んじゃいけない、恨んじゃいけない。人に恨みを持ってはいけない。恨んではいけない。憎んではいけない。呪ってはいけない。この女は、人殺しなのに? 振り払えない。だめだって、止めろって、仕方ないって、頭の表面に貼り付いた部分が必死に私に訴えるのに、腹の底からどろどろと湧き上がるものが止まらない。返してくれよ、私の家族を! 会わせてくれよ、私の家族に! いつまで続くんだこんな事。もう嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。泣いて喚いて叫びたくて、でもそんな事は許されなくて、どうすればいいのかわからなくて、誰かに助けて欲しくって、
気が付けば私は、空っぽになった靴箱の前に独り座り込んでいた。
「………………え?」
私は、首をわずかに上げ、呟く事しか出来なかった。靴箱? なんだ、これは。なんで、ここに。一体どうして靴箱なんか。立ち上がって見てみると、そこはどうやら学校の玄関のようだった。
「……え?」
学校……学校……学校? 何故、どうして、学校なんかに……まさか今までのは全部夢だったのかと淡い期待を抱いたが、私の浅はかな願望はすぐに打ち砕かれる事になる。
ガラスは粉々に砕けていた。砕けた玄関のガラスの向こうに、落雷に遭ったかのような枯れ茶色の何かがあって、かつてはそれなりに立派な姿の松の木だったと気が付いた。駐車場には色褪せた妙な形のオブジェがあり、それは車の残骸なんだとしばらくしてから気が付いた。靴箱に目を向けると、靴はほとんどなくなっていて、わずかに残った履き潰れた靴も例外なく埃を被っていて……こんな、寂れ果てた、廃墟になった学校で、青春を送りたがる酔狂はそれ程多くはないだろう。
「あれ、ここ、何処かで……」
呟いて、ここが祥吾の通っていた高校だと気が付いた。来た回数はそれ程多くはないけれど、祥吾の入学式とか、学園祭とか、そういう行事で何回か来た。記憶を頼りに靴箱を探してみると、「篠宮祥吾」とシールの張られた埃塗れのスペースが。急に膝から力が抜けて、私はその場にへたり込んだ。右手でシールをなぞり、左手で鼻を押さえ、しばらくその場に座り込んで泣く事しか出来なかった。
しばらく気の済むまで泣いた後、立ち上がり、私は靴箱の群れの前から廊下へ足を踏み出した。確か私はついさっきまで、スーパーの近くに座り込んでいた筈なのに。
「そうだ、り……」
言い掛けて、咄嗟に歯を食い縛った。あの少女の名前を、口に出す事は出来なかった。数日前に出遇っただけの同行人。ましてや人殺しの少女。加えて、私の家族が殺される原因を作ったかもしれない、 。さすがに、名前を口にするのも躊躇われる。それが使父としての在り方として相応しくないとわかっていても。
いやむしろ、これは僥倖かもしれない。あの少女が一体何処に行ったのか、そもそも私は何故ここにいるのか、それはわからないけれど、このままあの少女と離れる事が出来るかもしれない。
ただ、それが出来たとして、私は一体この先どう行動すればいいんだろう。疚売りを探す。私と、あの少女に、疚を植え付けた疚売りを。疚売りを探して、疚の事を聞き出して、もっと率直に、疚を治してもらう。それ以外に私が生き延びられる道はない。
けれど、探し出せるだろうか。私一人で。何の情報も手掛かりもないのに。疚売りを探し出すにはあの少女が必要なんじゃないか? 協力が必要なんじゃないか? あの烏のように黒い少女の。私の家族を見殺しにした少女の。
人殺しの少女の。
私は、目を瞑って首を振った。考えてはいけない。恨んではいけない。憎んではいけない。憎んでは! 別の事を考えるんだ。そもそも私は本当に疚に罹っているんだろうか。その前提さえ崩せれば、これ以上旅をする必要はなくなるんだ。
その前提を、どうやって崩せばいいのだろう。
ガタッ
「…………!」
突然、聞こえてきた物音に大きく肩を跳ねさせた。な、なんだ、今の音……何かが倒れたような音だったけど、
「だ、誰か……いるのか……?」
呟いても、廃墟と化した学校はシンと静まり返っていた。逃げた方がいいんじゃないか? どうしてこんな所にいるのかもわからないし、これ以上ここにいて何かあったらどうするんだ。でも、もし、誰かいて、その誰かが疚売りだったら? ゴクリと喉を鳴らし、私は音がしたとおぼしき方へと歩いていった。学校は歩く程に廃墟だった。床は砂と埃に塗れていて、壁は剥げ、天井からはだらりと褪せたチューブが下がっている……窓も薄汚れ、ほぼ概ね穴が開き、この静まり返った空間に独りという事実が怖くなる。せめて誰かいてくれれば……黒いダッフルコートを思い浮かべ、私は首を横に振った。決して縋りたくはない黒い影を振り払い、廃墟にさらに足を踏みだす。とりあえず教室を一つ一つ覗いてみたが、埃を被った机と椅子が雑然と並んでいるだけだ。誰もいない。人の気配も全くしない。階段に差し掛かり、とりあえず二階に上がろうかと考えた所で、ペタン、ペタン、と、上から、ゴム底が降りてくる音がした。
「……!」
誰かいる。誰かが階段から降りてくる。その前提は頭にあった筈なのに、いざ音が聞こえてくると私の足は硬直した。動けない。足が身体が動かない。音のする方向をじっと見上げる事しか出来ない。
ペタン、ペタンと、音が近付き、ついに薄汚れたスニーカーが私の視界に映り込んだ。パーカーを着た少年が、高校生ぐらいの少年が、ポケットに手を入れて立ち尽くす私を見下ろしている。
疚人。
「あ……あ……」
瞬時にそれが頭を過ぎった。疚人。疚人。私の家族を殺し、私を殺そうとしたあの疚人と同じ! 対峙した恐怖が瞬時に私の脳を上がり、喉が慌てて声を張る。
「ま、待て! 待ってくれ! 落ち着いて! 私は怪しい者じゃないんだ! 落ち着いてくれ! 頼む、頼む!」
何を言っているんだ私は! 自分で言いながらそう思った。言っている事がめちゃくちゃだ。怪しい者じゃないだって? そんな言葉に何の意味が!
だが、そう思ってみても、私の口は止まりはしない。とにかく時間を稼がなければ。思い留まってもらわなければ。死にたくない。死にたくない。死にたくない。死にたくない!
「君も、疚人なんだろう? 焦る気持ちはわかる……でも、落ち着いてくれないか……? あと一年しか生きられないからって、焦る気持ちはわかるけど、でも、だからって、だからって人を殺すなんて……」
「アンタ、何言ってんだ?」
「ひっ」
刀を振り下ろそうとした疚人の姿が頭に浮かび、思わず腕で顔を庇った。階段を降りる気配がして、一層顔を覆い隠す。
「殺さないでくれ、頼む、頼むから殺さないでくれっ!」
「おい、アンタ落ち着いてくれよ。殺す? おいおい、会っていきなり人殺し呼ばわりしないでくれよ」
笑い混じりの声が聞こえ、私はおそるおそる腕を退けた。見上げれば薄汚れたパーカー姿の少年が、踊り場に立ち半笑いで私の事を見下ろしている。
「何かあったの? 俺は見ての通り何処にでもいる普通の高校生なんだけど。ダチと肝試ししている最中でさ、そんでここにいんだけど」
「き、肝試し?」
「だって目ェ覚ましたらいきなりこう……廃墟? なんか寂れてやがんだろ? 最初はビックリしたけどさァ、どうせなら肝試しでもしようぜって」
「ほ、他にも、誰かいるのか……」
すっかり腰が抜けてへたり込んだ。良かった、と思うと同時にひどく恥ずかしくなってしまった。こんな快活そうな少年を、出会っていきなり人殺し呼ばわりするなんて……いくらここ数日の事で頭がパニックになったとは言え、人として恥じるべき行為だ。人を無闇に疑うなんて……心から反省しなくては。
「す、すまない、気が動転していたんだ。変な事を言って悪かったよ」
「別に気になんかしてねェよ。ところでアンタ何処から来たの? 見た事ねえ顔だけど」
「ああ、隣町から来たんだ。ちょっと用事があってね……でも、君以外にも人がいるんだな。安心したよ。厘が妙な事を言うから……」
「妙な事?」
「この町の人が全員死んでるって。確かに人の死体が、まるで内側から爆発したみたいに飛び散っているのを目の当たりにしてしまったけれど、だからってみんな死んでいるなんて……」
言ってから、自分の言葉にゾッとした。人が、あんな異常な状態ですぐ近くで死んでいて、家に閉じ籠ったまま誰も出てこない、なんて事があるのだろうか。もし仮に、隣人に無関心を貫く人ばかりの町だとしても、厘と二人であれだけ散々大騒ぎして、誰の姿も見ない、なんて事はないだろう。厘の言う通りじゃないか。私が目を逸らしているだけじゃないか。そしてそんな状況で、そうでなくてもこんな異常な状況で、廃墟でのんきに肝試しなど出来る者がいるだろうか。
「き……君は、ここには本当に、肝試しで来たんだよな……」
「だからそうだって言ってんじゃん」
「他にも誰か、いるんだよな?」
「いるよ。よければ案内しようか?」
「ここに、呼んでくれないか? 大声で呼べば一発だろう?」
「……」
「……」
「はは」
寒気が、一瞬にして首に背筋に襲い掛かった。少年が踊り場から飛び降りるのと、私が悲鳴を上げるのはほぼ同時だったと思う。慌てて左側に駆け出すと、背後で爆風が巻き起こり背中を押されて倒れ込んだ。首を捻ると色褪せたリノリウムに小さく穴が開いていた。人間の手のひらの大きさ程の、まるで爆発したような穴が。
「うわ、避けられた。ドン臭そうに見えたのになァ。ま、そっちの方が楽しめそうでいいかもな。もうみんないないんでちょっと暇してた所なんだ」
「みんないないって……き、君が、町の人達を殺したのか……?」
「それ、聞くの野暮でねえの? ま、おしゃべりは後でにしようぜ。アンタの両足、吹っ飛ばしてからでもさァ!」
言って、少年は床を蹴り私に襲い掛かってきた。はっきりとはわからないがあの右手に触れたらまずい。私の脳が叫びを上げる。足が床を強く蹴って遙か向こうの出口を目指す。
「う、う、うああああああっ!」
「ははは! なっさけねえ悲鳴!」
少年が笑いながら追い掛けてくる音がした。情けない。情けない。その通りだ。だが私にはこれしか出来ない。廊下を直線に走って、咄嗟に玄関に行くのを止めて右側に見えた階段を上がる。階段に救いを見出した訳ではなかったが、真っ直ぐに走って外に出たとして助かる気が全くしない。
「はっ……はっ……ぜっ……ぜっ……」
少し走っただけなのにもう息が上がり始めた。苦しい。涙が出る。でも足を止められない。止めた瞬間殺される! 一番上まで上がり切って目に入った扉を開く。急な段差にバランスを崩し、盛大に泥に汚れた床の上へと倒れ込んだ。そのまま這いずるように少しでも遠く、遠く、遠く、遠く。
「ひ、ひひっ、無様ァ。四つん這いで逃げるヤツとかマジで現実にいるんだなァ」
「は……はあ、う、う、うう……」
「頑張った所で非常に残念ってヤツだけど、どっちにしろ逃げ場なくねェ? 無駄に疲れただけじゃねェ?」
「だ、だって……君は、私を、殺す気なんだろ?」
「トーゼン」
軽薄な言葉を吐きながら少年は床に降り立った。少年を見上げ、泥の床を這いずりながら震える喉で問い掛ける。
「ど、どうしてだ? なんで殺す必要があるんだ? 誰かに何か言われたのか?」
「はあ? 人が人を殺す理由なんて、『子供の時から人を殺してみたかったんですゥ~』、とかで十分じゃね?」
少年はそう言って、ゲラゲラと笑い出した。私は呆然と少年を見上げる事しか出来なかった。
「そ、そんな理由で、町の人達を殺したのか……」
「だから、それ聞くの野暮でねえのって言ってんのよ。だって仕方ないじゃ~ん。突然人を内側から爆発させるなんておもしろ能力が手に入っちゃったんだも~ん。せっかくだから使わないと損じゃん? なあ」
「そ、そんな理由で、人を殺して許されるとでも思っているのか!?」
「例え許されなくっても、許さねェ人間はみんな殺せばいいんですゥ~」
狂ってる。腐ってる。心の底からそう思った。少年はにやりと歯茎を剥きだし、鼠をいたぶる猫のように私の方へと近寄ってくる。
「質問はもう終い? どうせならもうちょっとおしゃべりしようぜ。調子に乗って一気に殺しちまったからマジで暇してたんだよなァ」
「き、君は疚人なのか? どうしてその能力を?」
「疚人? んだそれは。さっきも何か言ってたよなァ。この能力を手に入れた方法かァ、メイドのなんたらでサービスしてやろうかなァ~。なんか黒い布被った変なヤツにさァ、変な注射打たれたんだよ。そんでなんか色々爆破出来るようになったワケ」
疚売り!
疚売りが、この少年に疚を打ったという事か!? でも、だとしたら何故厘は何も言わないんだ? 厘が言うように疚売りの臭いがあるのだとしたら、この町でもその臭いがしたはずだ。私に黙っていただけか? どうして。
「さーて、とりあえずおしゃべりはここで一旦一区切りして、そろそろ足の一本ぐらい頂いてしまいますかねェ」
少年の声は、急に私を現実へと引きずり戻した。殺人鬼は目を三日月より細く細めて、一歩、一歩、近付いてくる。
「ま、待て、待ってくれ!」
「待てませーん。っていうか今まで結構待ちました~。とりあえず足の一本ぐらい吹っ飛ばさせろって。おしゃべりならその後また付き合ってやるから。な?」
ガシャン、とフェンスが背中の後ろで音を立てた。いやだ、いやだ、死ぬのは嫌だ。殺されるのはいやだ。私の懇願とは裏腹に、少年は笑みを浮かべながら右手を大きく振りかぶり、
「……っつから、離れろこのクソッタレがァ!」
その時、ここ数日で耳慣れた声が背後から真っ直ぐ突き刺さった。少年は右手で何かを撃ち落として後ろに飛びのき、私の足下に砕けたナイフがガチャンと落ちて音を立てる。
「誰だ!」
「人に名前を尋ねる時は自分からって赤の他人に教わらなかった?」
トン、と私のすぐ斜め前に黒い人影が降り立った。伸ばしっぱなしの黒い髪。垢と砂埃に汚れた皮膚。そこから覗く獣のようにギラついた瞳……
「り、厘! どうしてここに」
「それはこっちの台詞だっての! いきなり人の前から消えやがって……臭いと勘を頼りにここまで走ってきてやったのよ。ちったあ感謝して欲しいものだわ」
「なんだ? 汚ねえ女だな」
「そいつは非常にご挨拶。で、今こいつに何しようとしてたワケ?」
「厘、この少年は疚人だ……多分。あの右手で触ったものをなんでも爆発させられるみたいだ……」
「ああ、あの町の惨状はこいつの仕業。で、なんでアンタはここにいるワケ?」
「それは私が聞きたいよ。っていうか厘、何処から来たんだ? ここって屋上……」
「急げば壁三階分ぐらい、駆け上がるのはワケないわよ」
絶句した。いともあっさりとこの少女は一体何を言っているんだ? 少年は何がおもしろかったのかゲラゲラと声を上げている。
「マジで? すっげェ。アンタアメコミの登場人物? ドン臭い男を悪から救う正義のヒロイン?」
「こいつがドン臭いのは同感だけど、そんなダサい例えを持ち出さないで欲しいわね」
「ひっでェ。アメコミに対して失礼じゃねェ?」
「正義ってヤツが気に喰わないのよ」
厘は折れたナイフを拾い、少年は一層深く笑った。動いたのは少年が先だった。アスファルトの床を蹴り、右手を厘の頭に伸ばす。
それに対し、厘は消えた。否、消えたのではない。少年の右手から逸れるべく体勢を低くして、同時に拳を握り締めて少年の腹部に突き入れる。
「ぐふっ」
少年の動きが止まったのを見逃さず、厘はそのまま背後に回り、左腕で少年の首を捕らえてぐっと絞め上げた。少年は右手を持ち上げ厘の腕を掴もうとしたが、その前に右手の甲に折れたナイフが突き刺さる。
「いでェっ!」
「弱っ。よくその程度の動きで今まで生きてこられたものね。ま、確かに疚人の臭いがするし、とっとと死んでもらいましょうか」
厘の言葉に、無意識に緩んだ視界が一瞬遠退いた。とっとと死んでもらうって……死んでもらうって、
「だ、駄目だ厘、殺すなんて!」
「はあ? 何言ってんのよ。こいつは疚人で、その上もう人殺しでしょ? 生かしておく義理も理由もないじゃない」
「おいおいおい、物騒だな。正義のヒロインがそんな事……ぐゥっ」
「だから違うって言ってんのよ」
締め上げられて、少年の顔がみるみる色を失くしていく。黒目が瞼の裏に隠れ、唇が紫に変色する。駄目だ。ダメだ、だめだ。これ以上人を殺すなんて、
「厘! ダメだ、やめろ、やめてくれっ!」
私は駆け出し、少年の首を絞める厘の腕に掴み掛かった。黒い瞳がぎょっと見開き焦ったような声を上げる。
「な、何すんのよ、離せ!」
「君こそ離せ! ダメだ、それがどんな相手でも人の命を奪うなんて!」
「いい加減に……」
厘がそう言い掛けた、その時、厘の口からごふ、と赤い何かが零れ落ちた。厘の左腕から力が抜け、同時に少年が身を翻して厘を床に叩きつける。
「り、厘!」
「あー、あんがとなァ、これから俺に殺される人。おかげで命拾いしたわァ」
少年は厘の頭を右手で押さえ付けたまま、首を左右にこきこき鳴らした。厘の右腹部に爆発したような傷があり、そこから黒赤い液体が円を描いて広がっていく。
「あ、あ……」
「マジでイっちまうかと思ったぜ……しかし何なのこの女。いきなり人の首絞めようとするとかさァ……ま、いいや、とりあえずゥ!」
少年はにっと笑みを浮かべると、厘の頭を、爆発させた。灰色とピンクと赤と黒と黄色と白を混ぜたような、何かが一瞬にして床の上に飛び散って、少年は人の残骸が少しこびりついた顔で笑う。
「これでよォ~し。人を殺そうとするって事は、逆に相手に殺される覚悟が出来てるって事……とかあったよなァ。つまりこの女は殺してヨシ! そういう事でいいんだよなァ?」
「あ……ああ……」
「そんじゃ、気を取り直して名前も知らねェ誰かさん、これから俺に殺されちゃって? 大丈夫大丈夫、痛くなんてしねェから。なーんてとびきり痛くするか……ら?」
少年は、私の方へ踏み出そうとした足を止めて下を見た。そこには包丁が刺さっていた。ズボンから血に濡れた刃先が少し飛び出していて、その先には腕があった。持ち主の頭が吹っ飛んだ腕が。
「え……な、なに、なんだこれ……がァッ!」
「ほうヂョウ……ネンのダめもだッデおィデヨガっだわ……いきなり人の腹と頭吹っ飛ばしやがってクソ野郎が」
半分千切れた舌が、不器用に音を紡いでいた。血の膜を被った右眼が、眼球だけで睨んでいた。頭を吹き飛ばされた死体が、吹き飛ばされたはずの、厘が、半ば千切れた顔半分をアスファルトから持ち上げる。
「り、厘! 生きて……」
「な、なんで、あれで生きてやがるんだ!」
「私の能力はね……『不死身』なの。首を切り落とされたって死なないし、全身をグチャミソに砕かれたって死にやしないわ。もっとも、『元に戻る』にはそれは素晴らしくクソみたいな時間が掛かったけれど」
「く、クソッ」
少年は両足を刺されたまま身を翻そうとしたようだが、より深く包丁が刺さり「ぎゃあああ!」と大きく悲鳴を上げた。膝をついた少年と対照的に厘は床から身を起こし、右足を上げて少年の側頭部を蹴り飛ばす。
「ぎゃっ」
「あー、本当に最悪……鼻の奥に血の塊がこびりついているじゃない。口の中もジャリジャリするし……まあ細かい事はどうでもいいわ。くたばれこのクソッタレがァッ!」
厘は少年のすぐ近くまで歩いていくと、その腹部に一撃鋭い蹴りを叩き込んだ。一撃では飽き足らず、執拗に、何度も何度も。
「死ね! 死ね! 死ね! 死ねッ!」
「うごッ! ごぶっ! おぼッ……」
「り……厘、止めろっ! 殺す気か!? それ以上やったら死んでしまう!」
「はあ? 殺す気でやってんのよ。ほらとっとと死ねクソが! 死ね! 死ね! 死ね! 死ねェッ!」
少年が腹を庇うように身体を丸く折り曲げると、厘はあろう事か今度は少年の頭部に狙いを変えた。ブーツが顔の中心に刺さる。ぐちゃっと嫌な音がした。
「厘……厘、止めろぉっ!!」
手を伸ばして厘に駆け寄ろうとした瞬間、私の目の前には何故か黒いダッフルコートがあった。突然現れた厘の背中に混乱したが、そんな事は言ってはいられない。私はダッフルコートを着た少女を後ろから羽交い締める。
「!? ……アンタ、瞬間移動したの?」
「知らないよそんな事は! とにかく止めろ、止めるんだ! もう鼻が折れてしまっているじゃないか!」
「うう……あが……ううう……」
「それが? 人の頭をグチャミソにしたっていう事は、逆に相手に頭グチャミソにされる覚悟が出来てるって事でしょう?」
ゾッとした。何の光も見当たらない、なのに妙にギラギラとした、黒に黒を重ね続けた真っ黒な瞳にゾッとした。どうしてそんな事が言えるんだ。どうしてそんな躊躇いもなく人を傷付ける事が出来るんだ。どうして、殺す事が出来るんだ。止めるはずのこの腕さえ、震えて離れそうになるけれど、離してしまう訳にはいかない。これ以上人が死ぬ事を許してしまう訳にはいかない。
「止めよう、もう、止めようよ。もういいじゃないか。この少年は、人殺しだけど、だからといって殺していい訳じゃない。誰にも誰かを殺していい権利なんてない。それがどんな相手でも、殺していい人間なんてこの世には存在しないんだ」
「…………」
「君も、もう止めようよ。君が何もしないなら、私達はここを立ち去るから。だからもう君も、誰かを殺すなんてそんな事は止めてくれ。生きて罪を償ってくれ。だから、もうこれ以上……」
「ははは」
厘の声が、私に羽交い締めにされる少女の声が私の言葉を遮った。黒い髪を揺らし、首をひねって、どこまでも黒くギラギラした瞳で私を覗き込む。
「アンタ……ふっ、ふふ……はっ、何て言えばいいのかしら。ふ、ふふふ、はははは……」
「な……何を……笑っているんだ……」
「ははは……いや、アンタに掛ける言葉が見つからないだけよ。まあでも、これだけはあえて言ってあげるわ。こいつに生きて罪を償うなんて殊勝さが残っているかはともかく、そんな時間は残ってないわよ。だってこいつ、
もう死ぬもの」
その時、鼻の潰れた少年が「ぐ……グエェェ……」と何かを吐いた。タールのように黒い何か。それと同時に少年の指が、唇が、目が、徐々に黒く染まっていく。
「な……何だ、これは……ッ!?」
「知らないわよ。ただ、どうもこの疚っていうヤツは、感染したヤツが行動不能になると侵食が早まってしまうらしいの。ま、つまり死ぬって事だけど。
だから精々気を付ける事ね。アンタも足の一本か二本骨折した程度で、多分死ぬって事だから」
「ガ……何だよごれ……ゲボッ……ガッ、ギャ、ギャアアアアアッ!」
少年は、人の命を奪う事を楽しんでいた少年は、黒い血を吐き出しながら床の上をのたうち回った。そこにいたのは人殺しではない、今まさに死んでいく途中の、ただのちっぽけな人間だった。
「あが……あが……何が、はにが、は二ガ」
「アンタ、死ぬのよ」
「…………は?」
「アンタ、死ぬのよ。疚って知ってる? アンタの能力は疚によるものなの。それが原因でアンタ、死ぬのよ」
厘の言葉に、少年は黒に塗り潰される目を大きく見開いた。そんな少年の全てを奪い去ろうとするように、少年の肌の上を重く黒が侵食していく。
「ぎ……聞いでねえぞ……そんな……ぞんナ……」
「アンタねえ、大事な事は全部誰かが教えてくれるとでも思ってんの? アンタが聞いていようとなかろうと、アンタは今、ここで死ぬのよ」
「…………! い、嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だいやだ! 助げでぐれよ、助げでぐれよ、頼むガら俺を助げでぐれヨッ!」
「無理よ。それに嫌よ。アンタを助ける方法なんて知らないし、例え知っていたとしても激しく気分が乗らないわ」
「ぞん……グボッ、ゴハッ! ゲェエエ、ゲェエエ、ゲェエエエエッ!」
少年はさらに口から黒い塊を吐き出し、厘、の後ろの私を見つめた。口から黒い血を流し、目から黒い涙を流し、必死に手を伸ばそうとする。
「だ……だああんだ……助げでぐれ、助げでぐれ、悪がっだ、助げでぐれ、だズゲで……」
「アンタ、自分に命乞いをしたヤツを助けたりした? 可哀想だって助けてあげた? 自分が死にそうな時だけ命乞いして他人に助けてもらおうなんて、虫が良すぎるとは思わない?」
厘は、そう言って足を持ち上げ、少年の頭を踏み付けた。少年の顔面は床にめり込み、そして、二度と、動かなかった。腕から力が抜け、私は厘から腕を離し、その場に力なく尻から落ちた。また、人が死んだ。助けてくれと腕を伸ばしてきた人間が、もう二度と動く事のない物体へと変わってしまった。
「チッ、無駄足踏んだわ。さあ行くわよ。早く疚売りを探さなきゃ……」
「何で……何でまた殺したんだ! どうして!」
「さっき言ったでしょう。疚は感染者が行動不能になった時点で進行が早まるんだって。まあ、こいつの足刺した時点か鼻潰した時点かは知らないけれど」
「そん……な……だ、だったら、疚が進行しない程度に……」
「何? 適当な疚人を捕まえて、どれだけ痛めつけたら死ぬのか実験でもしろっての?」
厘の言葉に、私は両手の指に針を撃ち込まれたような怖気を感じた。黒い瞳の少女は、残酷な言葉を吐きながら何も変わらぬ表情で私の前に立っている。
「何を……何を言っているんだ! そんな事、していいはずがないだろうっ!」
「そんな事をしなければ、疚が進行しない程度に痛めつけるにはどの程度までしていいのかなんてわからないわよ」
「…………!」
「自分が出来ない事を、しようともしない事を他人に要求するんじゃないわよ。そんなにやりたいならアンタがすればいい事じゃない」
厘は、そう言った。まるで「当たり前」とでも言うかのように。……違う。違う。そういう事じゃない。そういう結論を望んでいる訳じゃない。何かが違う。違うんだ。私が望んでいるのはそういう結末なんかじゃない!
「違う……そうだ、そもそも傷付けなければいい! 傷付けなければ疚が進行する事もない! 話し合えばいい! 人間なんだ! 話し合えばきっとわかり合える……」
「アンタ、私が来なければこいつに殺されていたって事を忘れたの?」
「…………え?」
「今五体満足でいられるのは誰のおかげだと思ってるの? いなくなったアンタを探してここまで来てやったからでしょ? こいつがアンタを爆破する前に私がナイフを投げたからでしょ? こいつの両脚に私が包丁を突き刺してやったからでしょうが」
そう言って、厘は足下の人間の残骸を踏み付けた。眩暈がする。吐き気がする。寒気がする。意識が遠退く。どうして? どうして私はこんな場所に居続けなければいけないんだ?
「話せばわかる、わかり合える、言葉だけはご立派よ。でもね、わかり合うっていう事は『分かち合う』っていう事よ。『分かち合おうという意思が互いになければ成立しない』。自分を殺す気満々のヤツが、命乞いをする人間を笑いながら殺すような人殺しが、他人を殺すなという考えを分かち合うとでも思ってんの?」
「…………」
「マンガや映画のヒーローだって、悪を倒すのにまずは戦闘不能になるまで敵をボッコボコにしてるじゃないの。話し合えばわかり合える? 争いは無くなる? 平和な世界が作れる? 真顔で馬鹿抜かさないでよ。そういうのは力で敵をねじ伏せ、打ち負かし、戦闘不能に追い込んで始めて成り立つ事なのよ。何の力もない無力な弱者が泣き喚いた程度で争いが無くなると言うのなら、貧困も戦争もとっくの昔になくなってたわよ」
「…………」
「わかったらとっとと行くわよ。ただでさえ時間を無駄にしたのに、これ以上無駄にしたくはないわ」
言い捨てて、厘は床から視線を逸らし、出口に歩いて行こうとする。涙が出る。鼻水が出る。苦しい。どうして。どうして。どうして。どうして。
「ま……待って……くれよ」
「……今度は何よ」
「この子の亡骸を……弔わないと……」
「はあ? 何で」
「例え人殺しだって……死んでしまえば皆平等な人間だ……ちゃんと弔ってあげないと……」
「何を今更。アンタの家族とやらを殺した疚人も、その次のヤツも、この町の住人も、弔いもせずにそのまま放置してきたじゃない。今更『一体』土に埋める事に何の意味があるって言うのよ」
「…………!」
どうして。
どうして、そんな事を言うんだ。どうしてそんな事も許されないんだ。どうしてこんな事をして生きていかなくちゃいけないんだ。人を殺して、弔う事さえろくに出来ず、どうして。何だここは。一体私は何処にいるんだ。どうして。どうして。どうして。ドウシテ。
「ほら、とっとと行くわよ。時間がないって言ってんでしょ。私達が生き延びるためには早く疚売りを探さなくちゃいけないんだから」
「……私は!」
逃げたい、そう思った瞬間、厘の姿はそこにはなかった。座り込む私の目の前には、使う者がいなくなった朽ち逝くだけの建物があった。
その屋上のフェンスの向こうに真っ黒な影が立っていた。影は私を見て、一拍置いて、悪鬼のように、嗤う。
「ハハハ! アンタの能力、便利でいいわね。アンタを引きずっていく手間が省けて助かったわ。今からそっちに行くからもう勝手に動くんじゃないわよ」
厘は、そう言い残してフェンスの向こうへ姿を消した。私は泣いた。涙も、鼻水も、唾液も全て垂れ流して、声の限りに泣いた。
しかしどんなに泣いても、現実は、私の前から、流れていってはくれなかった。




