3-2
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しばらくの間沈黙が続いた。バスを使えば二十分程度で行ける距離も、荷物を背負って歩いていけばそれなりの時間が掛かってしまう。
私はその空白の時間をひたすら思考に費やしていた。ふと顔を上げる度に、少女の黒い背中を見る度に、自分は人殺しだと宣った少女の言葉が頭を過ぎる。
人殺しなんてただの日常茶飯事だから。人が人を殺すのなんてただの当たり前でしょう。先程考えるのを放棄した問題がまた私の前に立ち塞がる。
疚売りを探し出さないと一年後に死んでしまう。だから、疚売りを探し出すためにこの少女に従って旅をするより他にはない。けれど、この少女は人殺しだ。人殺しだ。躊躇いなく人を殺せる人間だ。そんな人間とこの先行動を共にしなければいけないなんて、そんな事に、この先耐えていけるのか?
いや、そう言えばそもそも、どうしてこの少女は私の町に来たのだろう。疚売りを追ってだとして、どうして私の町に疚売りがいるとわかったのだろう。ただの偶然? それとも
「ここでいいの?」
少女の声に、私ははっと視線を上げた。ひび割れたアスファルトの道の先に、家が見える。何度となく見た事のある家の群れ。人間の住まう箱の群れ。
「あ、ああ……」
「そう」
短く言って、少女はまた歩き出す。私もそれに着いていく。喉の所でぐるぐる回る何かに吐き気を催しながら、それでも人殺しの後に着いていく事しか出来ない。
そもそも、この少女の言っている事は一体何処まで本当なんだ。疚人の事は信じてもいい。自分のこの目で見たのだからそれは信じざるを得ない。
けれど、一年経つと死ぬ、それが本当とは限らない。確かに私の目の前であの疚人は死んだけれど、何か別の要因で死んだ可能性だってある。もちろん、それが『疚』のせいだ、という可能性が消えてなくなる訳じゃない。けれど、「一年で死んだ疚人がいる」という事は「疚人は一年で必ず死ぬ」という事には成り得ない。二十歳で死んだ人間がいるという事が、人間は二十歳で必ず死ぬ、という事ではないように。
いや、そもそも、私は本当に疚人なのだろうか。確かに目を覚ました時、私の左眼からはべったりと奇妙な液体が流れていたが、疚売りが目に液体を垂らしていっただけかもしれない。あれだけで疚に罹った証拠には成り得ない。「臭いがする」というのだって、嘘でない証拠が何処にある。嘘かもしれない。担がれただけかもしれない。だって、そんな。残り一年の命なんて、そんな。この少女の嘘かもしれない。私は騙されただけかもしれない。もしそうなら、この人殺しとこれ以上、旅をしなければならない理由は何処にもない。
けれど、嘘じゃなかったら。
「……あれ?」
ふっと気付いて顔を上げると、目の前に少女がいなかった。あの烏のように黒い影が、忽然と姿を消していた。い、一体何処に消えたんだ!? だが、「忽然と姿を消した」というのは私の完全な早とちりで、私の脳が情報を認識していないだけだった。扉が開いている。視界の先の家の扉が。それを見て少女がその家に入った事を私は突然思い出した。
「……え? それって……ま、待て! それは!」
思い出して、私は慌てて少女の後を追い掛けた。完全にぼんやりしていたが、確かに少女は扉の開いたあの家の中に入っていった。何の断りもなく。他人の家に。家の中に誰かがいれば完全に不法侵入だし、いないとすれば
「待て、厘! いくらなんでも空き巣は……、……」
私の言葉は唐突に止まった。私を出迎えたのは、赤。壁にべったりと張り付いた赤。黒赤。黄ばんだ白。灰ばんだピンク色。なんとも形容し難い色の数々。眼球を動かした先に先回りでもするように、血が飛び散っていた。肉片がへばりついていた。血、チ、肉片、肉片、ニク、肉、肉、肉
「う、う、うわあああああああッ!」
「何よ、騒々しいわね」
飛び散った肉片に彩られた向こうから、厘が、烏のように黒い少女がひょこりと顔を覗かせた。少女は烏のような眼球で私の事を一瞥すると、そのまま再び壁の奥へと消えていく。
「り、厘! ま、まて、待って、待ってくれよ! 待って……」
私は手を伸ばそうとしたが、視線の先にこびりつく肉片を認め悲鳴さえも凍り付かせた。それは正に肉片だった。唐揚げを作る清華の手伝いをした時に何度も包丁の先に見た、あれよりもっと大きくて、小さくて、色々あって、ぐちゃぐちゃしていて、色も妙に黒くて赤くてとても汚らしいけれど、それが、空気を入れすぎて爆発した風船の欠片のように、玄関から入ってすぐの壁いっぱいにへばり付いていた。そんな中を、足で踏んで叫びもせずにくぐっていける訳がない。そうこうしている内に黒い少女が至って普通の顔で戻ってきて、玄関先で硬直する私を冷めた目付きで見下ろした。
「……アンタ、一体何やってんの?」
「な、なんで……そんなに平然としていられるんだ」
「アンタ、一体何言ってるの?」
何を言っているのかわからない、そんな表情で少女は私の横をそのまま通り過ぎようとした。思わず少女の脚に手を伸ばして抱き付くと、少女の脚がビクッと震えて次いで怒声が落下する。
「ど、どこ触ってんのよアンタ!」
「ま、待ってくれ。まって、だめだ、無理だ、こんな」
「何ブツブツ言ってんのよ! ひっつくな鬱陶し……」
「だ、だって、肉、肉が、肉が、肉が」
「……ああ、それで腰が抜けてるの。だらしないわね。ちょっとしっかりしなさいよ」
少女は私の背を掴み無理矢理引き剥がそうとしたが、私の腕は少女の脚にしがみついたまま離れなかった。しっかりしろだなんて、無理だ。というか、肉片が壁に飛び散っているような光景を前に、どうしっかりしろって言うんだ。そんな事出来る訳がない。出来る訳がないだろう。
少女は深く息を吐くと、私を足に張り付かせたまま外にズルズルと歩いていった。そして家の外に出て、足を振って私を払う。
「う……」
「とりあえず外に出してやったんだから、あとはテメエで歩けセクハラ野郎」
「セ、セクハラ野郎って……」
「女の足にいきなりしがみつくような男を、セクハラ野郎と言わないで一体なんて言えばいいの?」
返す言葉もない。私は起き上がって俯いた。衝撃的な光景から離れた事で少しショックが和らいだ。
だが、
「一体、何が起こったんだ……」
「知らないわよそんな事。ま、疚人に襲われでもしたんでしょ」
少女はペットボトルの蓋を外し喉を鳴らして中身を飲んだ。疚人? 疚人。疚人……って
「や、疚人がこの近くに!?」
「いるんじゃないの? 他の臭いの方が強いけど一応微かに臭ってくるし。でも別に、そんなに珍しい事じゃない……ああ、アンタにとっては当たり前の事じゃないのね」
少女は事も無げにそう言った。部活を終えた子供達が汗を拭いながらそうしたように、いたって普通の顔をしてペットボトルの中身を飲む。……当たり前ってなんだ? この少女にとっての「当たり前」って一体なんだ? 疚人が人を襲って殺す事も、血や肉片が壁にこびりついている事も、この少女にとってはただの「当たり前」の事なのか?
「……なあ、そのペットボトル……一体どこから持ってきたんだ?」
そこで私は、ようやく少女が持っているものに気が付いた。いや、少女がペットボトルの中身を飲んでいるのは先程から認識していたが、そうじゃない。そういう事じゃない。
「これ? 家の中にあったのよ。腐ってもいないようだしありがたく頂戴しといたわ」
「家の中にって……この家から、盗んだのか!? 人の物を!?」
私の言葉に、少女は怪訝な顔をした。眉間の皺を嫌そうに深め私の顔を睨み付ける。
「はあ?」
「勝手に人の家に入ったりして……いくら非常事態だって、人の物を盗むなんて! ましてや人が死んでいるのに!」
「人が死んでいる、それが一体なんだと言うの?」
少女は、冷たい瞳で言い切った。今度は私が疑問符を呟く番だった。
「……は?」
「人が死んでいる、だから? それが一体なんだと言うの? 叫べばいいの? 腰抜かせばいいの? それで一体何が変わるの?」
「な、何が変わるって……そういう事じゃないだろう!」
「そういう事じゃないのなら一体どういう事だってのよ。人が死んでる、悲鳴を上げる、へたり込む、泣き叫ぶ、それで一体何が変わるの? 何も変わりやしないじゃない。そんな事をして手に入るものなんて、『自分は人の死にショックを受けられる人間だ』、っていう自己満足程度のものでしょう」
自己満足。その言葉にゾッと体温が下がったような気がした。少女は溜息を一つ吐いて首の横をガリガリと掻く。
「ま、これが病院だの警察だのが揃っている『お幸せな』状況なら話は多少違うけど、病院もない、警察もない、それで? 人が死んでる現場に出くわして一体私は何をしやがればいいのでしょうか?」
「な、何って……何をするとかしないとか、そういう問題じゃないだろう……」
「だからどういう問題だって聞いてんのよ。泣けばいいの? 喚けばいいの? アンタみたいに腰抜かして無様にへたり込んでりゃいいの? それが何の役に立つの?」
「役に立つとか立たないとか、だから、そういう問題じゃ……」
ダン、と少女の脚がアスファルトを強く叩いた。私はびくりと体を震わせ少女を見上げる事しか出来ない。
「だからどういう問題だって聞いてんのよ。何度言わせりゃわかるワケ? 泣いて喚いてアンタみたいに腰抜かしてへたり込んでりゃ満足かって聞いてんのよ」
「…………」
「答える気がないなら勝手に言わせてもらうわよ。そんな事したってアンタが満足するだけじゃない。泣いて喚いて腰抜かす、そういう人間を目の当たりにして『納得』したいだけじゃない。テメエの満足と納得のためにぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ難癖付けて私の時間を浪費させる、これが自己満足じゃなくて一体なんだって聞いてんのよ」
「……」
そんな、
そんな言い方はないじゃないか。そんな、だって、人が死んでるのに、あんな悲惨な光景が目の前に突然現れたのに、悲鳴を上げて当たり前だろう。立てなくても仕方ないだろう。ショックを受けて……そんなの、人間として当然だろう。何もなかったような平気な顔で通り過ぎて、人の家からペットボトルを盗んで飲む、それは悪い事だと思うのは人間としての真っ当だろう。
そう思うのに、言えなかった。何を言っても目の前の少女に簡単に切り捨てられそうで。少女は、私に興味を失くしたように背を向けると、最初に入った家とは別の箱へと歩いていく。
「ど、何処に行くんだ!」
「他に使えそうなものがないか調べるのよ」
「だ、だから、それは人の家だって……」
「そんなの一々言われなくてもわかるわよ。ああ、住人と出くわす可能性は考えなくていいと思うわ。多分この町の人間、もう全員死んでるから」
体の血を氷水に入れ替えられたような気分だった。死んでいる? この町の人間が? すでに、全員、
「な、なんで……なんでそんな事がわかるんだ!」
「こんなに大騒ぎしてるのに誰も出てきやしない、それだけで証明は十二分だと思うけど? それにこの町、死臭がすごいわ。血と脂と臓器とクソの臭いがめちゃくちゃするもの」
「……」
「アンタも足腰立つんなら少しは手伝いなさいよね。何かあったら呼ぶのよ」
「ま、待ってくれ! 待って……」
私は必死で声を掛けたが、少女はこれ以上私に構う気はないらしく、一切の躊躇も見せず別の家へと入っていった。私は立ち上がって少女を追う事も出来なかった。
この町の人間がすでに全員死んでいるって? 死臭がするって? 反射的に鼻を動かしかけて、私は咄嗟に息を止めた。そんなもの、嗅ぎたくはない。受け入れたくない。考える事さえ拒否したい。
けれど、そう願った所で、それが叶うはずもなく、私は座り込んだまま頭を抱えざるを得なかった。どうして、どうして、どうして? 数日前、たった数日前は、とても平凡だけれど平穏で、幸せな毎日だったのに。バスに乗ってこの道を通って、新太と天良と三人で買い物に来ていたはずなのに。無意識にスーパーのある方向へ視線を向けると、そこには確かにスーパーがあった。数日前に見たはずの、そのままの大きさの建物が。私は立ち上がって、導かれるようにふらふらとそちらへ歩いていく。スーパーの大きさは数日前に見た通りで、しかし近付く程に、数日前と変わってしまった事を受け入れざるを得なかった。スーパーの箱の中身はすっかり空っぽになっていた。窓ガラスは割れていた。真っ暗だった。賑わう人の影はなくなっていた。何より新太と天良がここにはいない。
そう思った瞬間、涙がぼろっと零れてきた。歯を食い縛っても、拳を握っても、止まらない、止まらない、止められない。いないんだって、もういないんだって、私の家族は、もう、死んでしまったんだって、認識してしまった瞬間もう溢れて止まらない。
「う、うあ……あ、あああ、ああああ、ああああァアアッ!」
膝から崩れ落ちて、私は泣いた。目が痛い。鼻が痛い。痛い。何もかも。痛くて痛くて痛くて痛くて痛くて痛くてたまらない。
どうしてだ。どうしてだ。どうしてなんだ。たった数日前なのに。たった数日前までは、私達は確かにあんなに幸せだったはずなのに。
そう思っても、目の前の現実はちっとも変わってくれなくて、壊れ崩れた箱の中身に、あの日を思い浮かべてもすぐに現実に掻き消されて、
三割引きのプリンを食べて楽しそうに笑っていた私の家族は、もう何処にもいないんだ。




