2-1
ザクザクと穴を掘っていく。四人の遺体を埋める穴を、みんなと共に歩んできた土の下に掘っていく。地面は固く、土は重く、止めたかった。何もかも。何もかもを放り出してその場に座っていたかった。
けれど、私が穴を掘らなければ。私がみんなを埋めなければ。みんなを埋めるための穴なんて掘りたい訳では決してないのに。逃げ出したいのに。現実から、ここから今すぐ逃げ出したくてたまらないのに。けれど私は穴を掘る。穴を掘る。穴を掘る。私が穴を掘らなければ、私がそれをやらなければ
みんなを弔ってくれる者など、ここには誰もいないのだから。
◆
「ちんたら悩んでる暇があるとでも思ってんの? 時は金なり、一分一秒だって無駄になんて出来ないのよ。答えなさい。私についてくる? それとも死ぬ? 三秒で答えないなら殺す」
そう言って私を覗き込んだ少女の瞳は、例えようもない程黒かった。何の光も反射せず、何の光も灯さない、黒く、深く、重く、澱んで、真っ暗で、…………そして、どうしようもない。ただ生きる事しか考えていない、そんな獣の目だと思った。
私は、ゴクリと唾を飲み込みながら、少女の瞳を見つめていた。いや、見つめていたのではない、目を逸らす事が出来なかった。目を逸らした瞬間、一瞬で喉をかき切るとでも言わんばかりの、少女の瞳はそんな獰猛な光を湛えていた。先程の男と同じだった。まるでそうしなければ自分が死ぬとでも言わんばかりに、黒く、鋭く、光っている、獣の牙のような瞳。三秒でと少女は言ったのだから、実際に時間は三秒しか経っていなかったはずだ。しかし、私には永遠のようにも感じられた。私が何を言う事も、少女の瞳から視線を逸らす事も出来ずにいると、少女は急にナイフを引いて私に黒い背中を向ける。
「あ、あの……?」
「何してんの? 早く行くわよ」
「え?」
私が疑問を声に出すと、少女はわずかに振り返りジロリと私を睨み付けた。黒目部分がほとんど見えず、怖い。しかしそんな事は言っていられず、勇気を振り絞って声を上げる。
「ま、待ってくれ、まだ行くなんて一言も……」
「『死ぬ』と答えていない以上、アンタに死ぬつもりはないんでしょう? だったら結論は一つよ。早くしろ。とっとと荷造りして出発するわよ」
「ま、待ってくれよ。いきなりそんな……」
ガンッ、と左頬に衝撃を受け、私は咄嗟に頬を押さえた。顔を上げれば少女が、右の拳を握ったまま私の事を睨んでいる。
「うるさい」
「な……何を……」
「うるさいって言ってんのよ。同じ事を二回も言わせるんじゃないわよ。アンタはあと一年で死ぬってわざわざ教えてあげてんのよ? だったら選択肢は二つしかないじゃない。生き延びるために私と疚売りを探しに行くか、今すぐ私に殺されるか。少なくともアンタに今すぐ死ぬ意志はない、だったら私と一緒にここを出て疚売りを探しに行くしかないでしょう? すべき事が決まってんのにグダグダダラダラ文句と泣き言を聞いてやる程暇じゃあないのよ。『待て』だの『いきなり』だの『そんな』だの、そんなくだらない鳴き声程度で私の時間を潰さないで」
少女は一気にまくし立てて「チッ」と大きく舌打ちすると、今まで見た事もないような目付きで再度私を睨み付けた。目は口以上に物を言い、ということわざが存在するが、ここまで目で物を語ってくる人間がいまだかつていただろうか。そう思わせてしまう程、彼女の瞳は語っていた。「次にくだらない事を言ったら今度は腹を蹴り飛ばす」と。
二の句が告げない私に少女は目を細めると、今度は足を持ち上げて私の腹に蹴りを入れた。衝撃に蹲っていると、少女は蹲る私を無視して教会の入口へ向かおうとする。
「私は隣で何か食わせてもらうとするわ。アンタもとっとと来なさいよね」
「ちょ……ちょっと……待ってくれ……」
言うと少女は立ち止まり、私の方へと戻ってきた。再び蹴られる……と思ったが、意外にも少女はそのまま立っているだけだった。
「何」
「しょ……祥吾達を、このままにしておく訳にはいかないんだ……一緒に行かないとは言わないから……頼む……どうかそのぐらいの時間は…………」
少女は私を見下ろしたまま「チッ」と再び舌打ちすると、私達から一番近くにいる祥吾の傍まで歩いていった。意図がわからず少女の事を見つめていると、少女が苛立だしげに声を上げる。
「何やってんの? 手伝ってあげるから早く『これ』持ちなさいよ」
「え?」
「やるの? やらないの? どっちなの?」
「や……やる……よ……」
私は少女に続いて祥吾の下へと歩いていき、少女と反対側の……祥吾の頭の傍へと立った。祥吾の頭に触れると、まだ生きているように温かく、けれど気持ち悪い程にどうしようもなく重かった。まるで作り物のように動かない祥吾の姿に涙が溢れ、叫んでしまいそうになったが、少女のナイフのような言葉が私の心を切り裂いていく。
「ほら、早く持ち上げて。力抜いたら承知しないわよ」
言いながら、少女は祥吾の足を持ち上げた。まるで丸太でも持ち上げるように、何の気負いもなく、無表情に、無感動に。私は祥吾の頭を持ち、そのままフラフラと教会の外へと運んで行った。「力入れて」「それ以上力抜いたら落とすわよ」と声が飛んできたので、取り落とさないように必死に持った。祥吾の体は重く、血で、手が滑って、それでも、落とさないように必死に持った。落とす訳にはいかなかった。
祥吾を畑がある場所の手前まで運び終えると、少女は祥吾から手を離し教会に入って行こうとした。私がへたり込んでいると、少女は私の傍まで戻り私の右手を踏みつける。
「いっ!」
「何グズグズやってんのよ。それとも一人でやるワケ? そうならそうと早く言って」
「い、いや……やる……やるよ……」
少女は「フン」と言い残すと教会の中へと消えていった。感情がついていかなかったが、この少女は私の感傷など労わる気はないらしい。さすがに、一人であと三人も…………運べるなどとは思えない。
這いずるように教会に入ると少女は清華の傍に立っていて、「早く」と苛立だしげに声だけで私の事を急かしてきた。私は再び頭側に立ち、清華の頭を持って……自分が何をしているのかわからなかった。何をしているのかなんてとても理解したくはなかった。私達は、私達は、ただ支えあって生きていこうとみんなで誓い合っただけだ。それなのに、それだけなのに、どうして私は、家族の死体を物でも持つように運び出しているのだろう。
恐らく私はその間、何も考えられないままにぼんやり動いていたのだろう。気が付けば私の目の前には、動かない子供達四人の体が整然と並んでいた。その様を目の当たりにした私はもうその場に立ってはいられず、その脇を少女がすり抜けて家へと入って行こうとする。
「ちょ……ちょっと、待ってくれ……」
「何よ」
「い、祈りを捧げた後……穴を掘るのを……手伝って……」
「穴を掘る? 何を馬鹿な事言ってんのよ。そのままそこに置いておけばいいじゃないの」
少女の言葉に、私は耳を疑った。少女が何を言っているのか咄嗟に理解が出来なかった。
「な……ん……」
「同じ事を二回言わせないで。そのままそこに置いておけばいいじゃない」
「か……ぞくだぞ、家族を……! こんな、何もない所にそのまま置いていける訳がないじゃないか!」
「あら、そうなの? 教会が汚れるのが嫌で外に出したのかと思ったわ」
頭の中が真っ白になった。彼女が何を言っているのか、全く理解が出来なかった。遠くから「だってアンタ使父でしょう」、などという声が響いてきて……目の前の黒い少女はかりかりと首の横を掻き毟る。
「あー、……そう。わざわざ埋めるためにねえ。でも、土の上に置こうが土の下に埋めようが、どうせ腐って土に還るのは一緒じゃないの。なんでわざわざ穴を掘るなんて手間を掛けなきゃいけないの?」
「…………」
「それに、どうせ死体なんて野犬に掘り返されて終わりでしょ。そのまま野晒しにしておけば? それだけ野犬やカラスが寄ってきやすいのは確かだけれど、野犬も掘れない程の深さの穴を四体分も掘るなんてめんどくさ……」
「君は……人が、家族が、死んだ事を! 一体何だと思ってるんだッ!!」
「自然の摂理、それ以上も以下もある?」
「……、……ッ! ふざけるなッ!」
立ち上がり、思わず拳を握り締めて黒い少女に殴り掛かった。少女は、厘は、私の拳を、避けもせず、そのまま垢で汚れた左の頬で受け止めた。少女を殴った事に私ははっと動きを止め、そんな私に厘は、右の拳を握り締めて私の頬を殴り抜いた。
「ガッ……」
「アンタが私を殴ったので、私もアンタを殴りました。『目には目を、歯には歯を』とか言うでしょう?」
少女は言い捨てると今度こそ本当に家へと入っていこうとした。骨を的確に殴られた痛みに頭がガンガンしていたが、私はハッとして縋り付くように少女の背中に声を掛ける。
「……ま、待ってくれ!」
「何よ。頼まれても穴掘りなんかしないってば」
「も、もう一人……」
「もう一人? 疚人の事? なんでそこまで面倒見なきゃいけないのよ」
少女は私を冷たい目で一瞥して去っていった。氷のような目付きだった。人の心とか温かさとか、そういうものを一切感じさせないような……祥吾達を運び出す手伝いをしてくれた事に、本当は優しさもあるんじゃないか……などと思った私が馬鹿だった。人の心がある者が、少しの優しさでもある者が、家族を野晒しにしておけなんてそんな酷い事を言うはずがない。人の皮を被った獣とか、……我ながら酷い言い草だとは思うが、そんな恨み言がよぎるのも仕方がないと思ってしまった。
とりあえず、疚人とやらの事は後回しにするとして、私は先に祥吾達のための穴を掘る事にした。彼女はああ言っていたが……家族をこのままにしておくなんて、当然出来るはずもない。とは言っても一人で穴を掘るのは思ったよりも力が必要で、それも祥吾達が入れるだけの穴を四つ分ともなれば……穴を掘り始めて少しもしない内に手が痺れ、しばらくすれば土を持ち上げるだけの力もなくなり、ようやく穴が一つ出来上がった頃にはすでに私の心は砕け折れそうになっていた。けれど、止めるわけにはいかなかった。私がやらなければ祥吾達を弔ってくれる人はいないのだ。彼女が手伝ってくれる気がないのは再び聞かなくても明白だ。疲れても、辛くても、私がやらなければならないのだ。
そうやって自分を騙し励まし、全ての穴を堀り終える頃には、私の腕の感覚は完全に消え失せていた。これだけ時間が経ったと言うのに、あの短気で粗暴な少女が一言も言いに来ないのが今更ながら気になったので、あの『男』の事は一先ず置いて家に戻る事にした。家のリビングを覗き込むと……一人の少女が、黒いダッフルコートに埋もれるようにソファの上で眠っていた。
「……」
「う……何、終わったの? 遅過ぎるんだけど。今日出発するのはもう無理じゃない。時は金なりって言葉を知らないの? 貴重な一日を無駄にしたわ」
少女は外を一瞥した後眠そうに頭を振り、「ああ眠い」と心底機嫌悪そうに呟いた。しばらく目を瞑り、この世の全てを睨みつけるような鋭い眼差しで目を開き、それから、入口で立ち尽くす私へ気だるそうに視線を向ける。
「暗くなる前に集められるものだけ集めておきましょう。勝手に漁っても良かったんだけど、一人で全部やらされるなんて腹が立つし……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。君の様子を見に来ただけなんだ……まだ、あの『疚人』を埋葬し終わってな……」
「ハア!? たかが死体の後始末程度にどれだけ時間掛けてんのよ! グズ! ノロマ! ナメクジ以下! 信じられないぐらいドン臭い! これ以上私に迷惑を掛けないで頂戴よ!」
あまりに酷い物言いに、さすがに私の中で何かが切れた。この少女が何者なのかさえ未だによくわからないが、死んだ人間を、もう生きる事をさえ許されない人間を、ここまで口汚く冒涜する理由があるだろうか。
「い、一体……どういう神経をしているんだ君は! 時間、時間、時間って、人を弔う事より時間の方が君には大事だとでも言うのかッ!?」
「私はこのまま行けばあと半年で死ぬんだけど。それとも何? アンタはまだ生きられる可能性のある人間を生かすより、死んだ人間に時間をくれてやる方が大事だとでもそう言うの?」
少女の言葉は、私からありとあらゆる言葉を奪い去るのに十分だった。ダッフルコート姿の少女は、屍肉を漁る烏そっくりの鋭い瞳で私の心を覗き込む。
「まあアンタの『常識』で行けば、まだ生きてる人間よりも死んだ人間に時間をくれてやるのが『正しい』のかもしれないけれど、生憎私はアンタの常識に沿ってやる義理もなければ暇もない。あと半年で死ぬの。これでも結構焦ってんのよ」
少女は刃を向けるように鋭くそう言い放つと、盛大なため息を吐いた後再びソファに横になった。私が戸惑っていると、少女はジロリと苛立だしげに私の顔を睨み上げる。
「要するにまだアンタの『くだらない』用事は終わってないんでしょ? とっとと行って来なさいよ。もう気は済んだっつうなら話は別だけど」
「…………」
「行くの? 行かないの?」
「……行って……くるよ……」
私は、辛うじてそう呟いて、家の外へと出て行った。とても、重い気分だった。例えるなら目が覚めたら暗い路地裏にいたような。帰る場所も待っている人もなく、暗く冷たい路地裏で膝を抱えている自分の姿を急に突き付けられたような。
言葉が出てこなかった。割り切れない、片付けられない、折り合いのつけられない、そんなどうしようもない問題が、次から次へと息つく間もなく降り注いでいるようだった。片付けなければいけないのに、整理しなければならないのに、まるで降ってくるブロックを並べて消していくゲームのように、こちらの意図などおかまいなしに次から次へと積もっていく。
だが、私の思考は、一先ず考える事を放棄した。家族を失った事だけですでにいっぱいいっぱいなのに、それ以上の事を考える余裕など私には存在しなかった。……そう、いっぱいいっぱい。家族を失った事でいっぱいいっぱい。少女の言葉も、彼女が半年後に死ぬという事も、私自身もあと一年の命らしいという事も、そんなの、とても受け止めている余裕なんて私の中には存在しない。私はフラフラと教会に入り、「とりあえず、『片付けないと』」程度の思考で『疚人』の亡骸も外に運び出そうとした。結局、この男が「何」だったのか、何処から来たのか、名前も、何を思いながら死んでいったのかも、何もわかりはしなかったが、それでも、……この男はもう死んでしまったのだ。この男が例え罪人だったとしても、私に彼を裁くような資格はない。裁きは神に委ねられるべきだ。私に出来る事はせめて彼を弔い、神の元に導く事だけ……そう思い、私は男が死んだ辺り、切り倒された聖母像へと足を進めた。
しかし、足を進めるごとに、形容し難い酷い臭いが私の鼻腔を刺激した。例えるなら卵の腐った臭いに、さらに胃液と、血と、腐った川の水と、廃液と、ヘドロを混ぜ合わせでもしたような……臭いが目に染み、堪らず目をつむろうとすると、背後から布のようなものが私の口元に迫ってきた。慌てて振り払おうとすると「暴れんじゃないわよ」と妙にくぐもった声が聞こえ、振り返ると厘が……黒いダッフルコートを着た少女の影が私の背後に立っていた。
「こんな事じゃないだろうかと布を持ってきてやったわよ。鼻と口に当てなさい。少しはマシになるはずだから」
少女は私の口元に当てている布から手を離し、私は慌てて当てがわれた布を自分の顔へと押し付けた。少女の言う通り臭いは大分マシになり、私は薄っすらと目を開ける。疚人の死体があったはずのそこには、腐液色のタールに肉片をいくつか無造作に浮かべたような、見ただけで吐いてしまいそうになるような異様な物体が広がっていた。
「…………」
「あーあ、やっぱり腐ってたわね」
「腐……」
「疚人は、死ぬとさっきみたいな焼け焦げ過ぎたミイラみたいになるんだけれど、その後段々腐っていって、最後には完全に液状化しちゃうのよ。まあ液状化するのに一日もかかりはしないんだけど、とにかく臭いが酷くてね……でもま、自殺予防にはなるんじゃないの? 十人中五人ぐらいは嫌がりそうな死に様だからね。『どうせ死ぬなら綺麗に』、なんて言う馬鹿がいるけれど、三ヶ月放置した腐乱死体みたいにたったの数時間でなるんだもの。おちおち自殺も出来やしない」
そう言って少女は「ハッ」と笑い、私は信じられない思いで少女を見た。こんな状況で笑っていられるなど、正気の沙汰じゃない。そんな風にしか考えられない。
「よく……笑っていられるな……」
「だったら泣いて見せればいい? 『そんな死に方絶対嫌!』……なんてダダでもこねて見せればいい? そんなクソの役にも立たない女々しい真似して一体何の得があるの? 事実を事実として受け止めて一体何が悪いってのよ」
「…………」
「とりあえず、とっとと出ましょう。さすがにこれじゃあ『回収』なんて不可能だし、それ以前にこれ以上近付かない方が身のためよ。それより私を手伝いなさい」
「まだ……やるのか……?」
「『まだ』? 今までのはアンタが好き好んで勝手にやってただけじゃない。私は死体を外に出すのも手伝ったし、アンタの『雑事』が済むまで辛抱強く待ってもやった。それとも、使父っていうのは人の恩もろくに返さない恥知らずの別称なの?」
少女の言葉は、もう聞いているだけで暴力というレベルのものになっていた。もう嫌だ。休ませてくれ。何も考えずに眠らせてくれ。そう言いたかった。けれど、それを言って彼女が聞いてくれるとは思わなかったし、反論するだけの気力もなかった。彼女が何をする気かは知らないが、適当に付き合って、終わったら眠ろう……そんな風に考えた。
少女は私を置いてスタスタと先に行き、……私はその後について行き……少女は家に入って階段を上がって一番近くの部屋に入り、……そこは新太と天良が使っていた部屋だ……私が続いて部屋に入ると、少女はほとんどひっくり返すような勢いで部屋の中を漁っていた。
「な、何をやっているんだッ!」
「何って、使えそうなものがないか探してんのよ。まあ十かそこらのガキ共の部屋に使えるものがそんなにあるとは思えないけど」
少女は新太の色褪せた飛行機の模型だの、天良の何度も縫い直したぬいぐるみだのを放り投げると、タンスの中身を全て空け、本棚の中身を全て抜き出し……それは癇癪を起こした子供が、人を困らせるためにわざと部屋を滅茶苦茶にしているようにしか見えなかった……そうして、私が呆然としている間に一通り部屋を荒らし終えると、立ち尽くしている私を置き去りに新太と天良の部屋を出た。そして、隣の部屋から物音が聞こえ……私はようやく意識を戻した。慌てて隣にある清華の部屋に行くと……清華の服を漁っている少女の姿が目に入った。
「き……君は、一体何をやっているんだッ!!」
「使えそうなものを探すってさっき言ったばかりじゃない。同じ事を二回も言わせないで。あ、ところで新しいパンツはないの? さすがに使用済みを履くのはごめんだわ」
とんでもない事を言いながら、少女はしゃがみ込んだまま私の顔を覗き込んだ。どんな顔をすればいいのかわからない。なんて返事をすればいいのかわからない。少女は私の顔をしばしの間見つめた後、馬鹿にするように鼻で笑った。
「まあいいわ。セクハラ発言して喜ぶクソ野郎でもあるまいし、突っ込んだ事は言わないであげる。っていうかアンタも手伝ってよ。ただでさえアンタのせいで貴重な時間を無駄にしたのよ?」
「……だ……か、ら、君は、一体何をしているんだッ!!」
「三回目。同じ事を三回も言うのは二回言うより嫌なんだけど」
「ここは私の……私達の家だ! 勝手に荒らしたりしないでくれ!」
「もう住むヤツもいないのに?」
少女は「ハア」と息を吐くと、挑むように私の瞳を睨み上げた。何の光も見えない、何処までも深く黒い瞳が、私の思考を塗り潰すようにその黒さを私に押し付けてくる。
「ガキ共は死んだ。アンタはここを立ち去る。それは確定事項でしょ? つまりこの家は空き家になり、ここにあるものは全てゴミになる。それに何か間違いがある?」
「そ……れでも、ここは、私達の家だ。私達の、家族の、思い出が詰まった場所なんだ!」
「どれだけ思い出が詰まっていようが、住むヤツがいなければここはいずれゴミと化すのよ。この周辺にだってあったじゃないの。人がいなくて埃塗れのゴミ箱みたいな家がたっくさん。ここもいずれそうなるのよ。それさえわかんない程馬鹿でもないでしょ? だったら使えるものを見繕って一体何が悪いと言うの」
「そ……れは……、…………でも、それでも、ここは私達の思い出で……!」
「その思い出っていうヤツは、あと半年で死ぬ人間よりも大事なものだって言いたいの?」
少女の瞳は、……黒かった。沈み切っているわけではない、だからこそ何処か恐ろしい。生きるためなら目の前の生き物の喉を喰い千切る事さえ厭わない、そんな、やはり、凶暴過ぎる獣の瞳に似ている気がした。
「こっちもねえ……必死なのよ。死にたくなくて必死なのよ。一分一秒だって惜しいのよ。アンタと無駄話して費やす余裕は微塵もないの」
「だからって……だからって、例え生きていくためだからって、何をしても許されるっていう訳じゃあないだろう!」
「だったら何もしないで死んでけっての? 生きる事を諦めろっての? まだ生きている人間よりも、ここに置いていってゴミにする事しか出来ない物の方が大事だっての?」
「…………」
「アンタが口にしているのは所詮自分の感傷じゃない。つまり、アンタは自分の事しか考えていないという事よ。もっとも、私も自分の命が大事なワケだから自分の事しか考えていないアンタを責める資格なんて微塵もないわ。けどね、それは同時に、アンタにも私を責める道理は微塵もないって事になる。だってアンタはただの感傷で、自分が傷ついてるってそんな理由で、あと半年で死ぬっつってる私を責め立てているだけなんだもの。自分の言ってる事は正しいとでも思ってるの? アンタは死んだ人間が遺した布切れにしがみついて、目の前の人間は死んでもいいと言っているのと同然よ」
「そ、そんな事は……言ってな……」
「言ってないつもり、思ってないつもり、願ってないつもり、そうやって他人なんかどうでもいいと見捨てていく、偽善者の常套手段よね」
少女は私から目を逸らすと、再び清華の部屋を音を立てながら漁り始めた。涙が出た。頭の中がぐちゃぐちゃで、彼女の言葉を否定するどころか、彼女の言葉を理解する事さえままならない。彼女が荒らしているのは家族のものだ。私の大事な家族の。かけがえのない家族の。死んだ家族の。それを、目の前で荒らされて、ただのゴミになるからとそんな言葉で断じられて、踏み躙られて、私が怒ってはいけない道理が何処にある。悲しんではいけない理由が何処にある。私は、家族との思い出を荒らされる事に、怒っていい。泣いていい。止めていい。そのはずだ。そのはずだ。そのはずだ。
けれど、彼女は、この黒い少女は、私の家を荒らすのは彼女が生きるためだと言う。そして時間がないと言う。あと半年で死ぬと言う。私の悲しみと彼女の命、私には……わからない。私と少女の一体どちらが正しいのかがわからない。そうこうしている間にも少女の部屋荒らしは続いていき……そして、少女はクローゼットから黒い何かを引っ張り出した。
「あ、あったわダッフルコート。ねえ、これ頂戴よ。もう着るヤツもいないんだからいいでしょう?」
機嫌良さそうに口を開いた少女の手元に顔を向けると、そこにはまだ見た目は綺麗な黒いコートが……清華のダッフルコートが握られていた。来年の冬用にと、みんなで買いに行ったダッフルコート。新品を買えなくてすまないと言う私に、みんなは「十分だ」って笑ってくれた……
思考の停止した私だったが、そのダッフルコートを目にした瞬間、感情が一気に溢れてきた。「半年後に死ぬ」だとかいう少女の言葉は完全に頭から吹き飛んだ。
「止めろ……それは清華のダッフルコートだ!」
「だから、もう着るヤツはいないって何度言ったらわかるのよ」
「それでも! それは清華の物だ! 清華の……」
「だから、もう死んでいるって言ってるでしょう?」
少女は、絶望を凝り固めたような瞳で私の思考を塗り潰した。涙が溢れて止まらなかった。少女は私をしばし眺め、呆れたようにため息を吐く。
「……ハア、もういいわ。アンタの頭が回ってない事はよくわかった。もう今日は寝といたら? 私は勝手にやらせてもらうわ」
少女は、そう言うと扉を開け、私の肩をドンと押した。後ろで扉の閉まる音がし、私は廊下に立ち尽くす。……何をしようとしていたのだっけ。祥吾達はどうしたっけ。ああ、もう日が傾いている。何故か異様に身体が重い。今日はもう疲れたから、早めに寝ろとそう言われたんだっけ。
私はフラフラと寝室に行き、そのままベッドに横になった。体が汚れている気がしたが、もう嫌だ。今日はもう一歩も動きたくない。とりあえず一度眠ってしまって、それから考えた方がいい。それがいい。そうしよう。何も考えない方がいい。
私はそのまま目を閉じた。早く眠ってしまおうと思った。何か、底なし沼に叩き落とされるような、どうしようもない恐怖が急に脳裏を掠めたが、何も考えない事にした。
もう何も、見たくはなかった。