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疚市(旧2)  作者: 雪虫
2/15

1-2


 朝日が、ボロボロになったブラインドから私の顔を照らしてきた。私は眩しさに目を細め、朝日から逃れようとくたびれた毛布に顔を埋める。自慢じゃないが朝は苦手だ。頭が上手く働かないんだ。誰にともなくそんな言い訳を脳の中だけで並べ立てて、私は生温い眠りの中に再び落ちて行こうとした。


 しかし


「分、分! 起きろ、起きろ、起きてくれ!」


 肩を激しく揺さぶられ、私は瞼を持ち上げた。部屋の中はまだ暗かった。朝日なんて差してなかった。声の主に目を向けると、祥吾が必死の形相で私の事を見下ろしている。


「ど、どうしたんだ祥吾」


「なんだか様子が変なんだ。悪いけど早く起きてくれよ!」


 ひどく慌てた様子の祥吾は、何かを訴えるように私の事を見つめていた。私はクセで消灯台に視線を向けたが、昨日置いたはずのフレームの丸い、伊達眼鏡はそこにはなかった。


 だが、ツルの曲がった伊達眼鏡がない所で、もちろん支障があるはずもない。ベッドから降り、妙にギシギシと鳴る床に違和感を覚えながら階段を下っていくと、清華が、新太が、天良が、身を寄せ合うように縮こまってリビングの前に立っていた。


「どうしたんだみんな、リビングで何かあったのか」


「リビングっていうか……とにかく、中を見てくれないか」


 祥吾の言葉に従い、私はリビングの中を覗き込んだ。そして光景に息を飲んだ。階段で感じた違和感の正体にもようやく気付いた。


 リビングの中は荒れていた。荒れていたと言っても、強盗や野犬が侵入して荒らした、というような荒らされ方ではない。けれど。テーブルの脚が割れていた。ソファの端が破れていた。壁時計が止まっていた。冷蔵庫のモーター音が全く聞こえてこなかった。とにかく電気を点けようとしたが、何度スイッチを切り替えても電気が点く事はなかった。周囲に警戒を払いながらリビングの中に足を踏み入れ、とりあえず危険がない事を確認してから子供達を招き入れた。地雷を恐れるように一歩一歩慎重に窓へと近付き、カーテンを開ける。カーテンの布地はそれとわかる程ごわごわと薄くなっていた。


「分……その……なあ、何か様子が変だろう?」


「……ああ、祥吾の言いたい事はわかったよ。わかったけど、何て言えばいいのか……まるで目を覚ましたら数年後に飛ばされでもしたようだ」


 言ってから、随分荒唐無稽な事を口走っていると気付いたが、この状況を説明する言葉はそれぐらいしか浮かばなかった。強盗や野犬が侵入して荒らしたのならもっと荒れているはずだ。けれど、この荒れ方は、例えるなら掃除などろくに出来ない状況下で数年間生活し続けたらこうなるだろう、ちょうどそんな荒れ方だった。怯えている新太と天良を清華に任せ、私と祥吾は止まっている冷蔵庫へと近付いた。扉を開くと、そこには階段やリビングの比ではない違和があった。


「清華……ちょっと来てくれ。昨日まではこうじゃなかったよな!」


「……、こんなもの、入れてないよ。野菜室以外に野菜なんて……昨日はここにシチューの鍋とプリンを入れておいたんだから」


「え、プリン、なくなっちゃったの?」


「一体どういう事なんだ……」


 残念そうな天良の声を聞きながら私は思わず呟いた。いずれにしろ、情報が足りない。状況が全くわからない。清華達を祥吾に頼み、急ぎ足で玄関に向かう。鍵は上下共に掛かっている。洗面所と風呂場を覗いた。トイレも、二階に上がってみんなの部屋も私の部屋も確認した。しかし誰かが隠れている様子はない。


「みんな、ちょっと待ってて。外を見てくる。何かあったら大声で私を呼ぶんだよ」


 子供達に言い含めて、私は玄関の鍵を開けて家の外へと飛び出した。そして違和感に息を飲んだ。何がとははっきり言えないけれど、しかし、やはり、何かが違う。私はその違和感の正体を突き止めるより先に教会に足を伸ばし掛け、そこで気付いた。家と教会を取り囲む柵の内側の一角に、小さな畑があった。端の方が少々枯れているようだが、それでも力を振り絞るように実りを見せる小さな畑は、間違っても一晩の内に出来たようなものじゃない。けれどそんなもの、昨日まではなかった。畑を作る話は何度かみんなとの話題に上った事があるけれど、結局実行に移せないままスーパーのお世話になっていた。絞まる喉を右手で撫でるように押さえながら教会へと歩いていく。もしかしたら中に誰かいるかもしれない。しかし、開けるしかない。私は緊張と恐怖を噛み殺しながら扉を自分の方へと引いた。


 教会は静まり返っていた。そして妙に埃っぽかった。私は決して掃除が得意な方ではないけれど、けれど、それでも毎日の掃除を欠かした事は一度もない。昨日だって掃除は行った。ここまで埃っぽくなる事などあり得ない! まだ薄暗い中、急に見知らぬ場所に成り果てた教会を一人で歩く恐怖は凄まじかったが、まさか子供達を頼る訳にはいかない。私は警戒を解かぬまま教会内を調べて回った。だが、誰の姿もなく、ほっとすると同時に別の恐怖がせり上がる。


「一体どういう事なんだ……」


 とりあえず、子供達を安心させなければ。家へと戻り玄関を開けると小さな影が立っていた。ビクリと肩を揺らすとそれは天良で、私の顔を見るや否や涙を浮かべて抱き付いてきた。


「分! おかえり!」


「分! 帰ってきたの?」


「ただいま……帰ってきたよ。教会を見てきただけだけど……」


「何かあったか?」


「……とりあえず、中で話をしよう」


 子供達を促し、私達は再度リビングに入った。全員で椅子に腰掛けるとちょうど朝日が昇ったらしく、眩しい光が薄汚れた窓からまっすぐに差し込んだ。その明るさに何処かほっとする半面、いよいよ浮き彫りになる違和感が別の不安を掻き立てる。やはり、何かが違う。私は朝日から子供達へと視線を移す。


「外に、畑があった。トマトとか、ナスとか、白菜とか、色々あったよ。作って随分経つ感じだった。私達以外の人の姿は敷地の中には見えなかった……」


「冷蔵庫の中身、全部出してみたんだけど、昨日買ってきたものは全然見当たらなかったんだ。入っているのは野菜ばかりで、冷蔵庫は動いてなくて、調味料も瓶に入った塩ぐらいで……」


「あと、見た覚えのない本がいくつか置いてあったんだ。食べられる野草とか、災害時の対処法とか、サバイバル関連のものとか……」


「よく見たら服もなんだかボロくて汚くなってるし……何言ってんだって言われるかもしれないけど、いきなり数年後に飛ばされた……強いて言うなら本当にそんな気分だ」


 祥吾の言葉にみんな渋い顔をした。荒唐無稽だと思いつつ、自分もそう思っている……そんな顔だ。


「……とにかく、町の様子を見てこよう。何かわかるかもしれないし」


 私の言葉に子供達は顔を上げた。そして祥吾と清華が表情をキッと引き締める。


「俺も行くよ」


「私も」


「いや、みんなはここで待っていてくれ。家の様子を調べて回って欲しいんだ。何があって何がないのか、何が出来て何が出来ないのか……さっきはざっと見て回っただけだから」


「でも……」


「頼むよ」


 私は縋るように子供達へと視線を向けた。じっと見つめ続けていると「……わかった」「分、気を付けてね」と返事をしてくれたので、私は上着だけを重ねて再び玄関から出ていった。そして柵を越えて外へと足を踏み出した、瞬間、違和感はより強くなって私の脳を苛んだ。


 静か過ぎた。まだ日が昇ったばかりだから、人口数十人程度の、過疎が進んでいる小さな町が静かなのは当たり前だ。けれど、それでもあまりに静か過ぎた。人が生きている、その気配がまるでなかった。すぐに首を横に振った。そんな訳、ないだろう。棒でも入ったような足をなんとか動かし、一番近くにあった家のインターホンを強く押し込む。


「おはようございます。すいません、篠宮です。ちょっとお聞きしたい事が」


 まだ早朝だ。起きていないかもしれない。そう思って私はインターホンの前でしばらく待った。迷惑を掛けるとも思ったが、異変が起こっているのは本当なのだ。中身の変わっていた冷蔵庫。一晩の内に出来た畑。他の違和感は錯覚だと言われる可能性もないではないが、この二つは間違いなく気のせいじゃない。


「すいません、おはようございます、すいません」


 誰も出てこない事に、私はもう一度インターホンを強く押し込んだ。今度は十秒待って、もう一度。しかしやはり誰も出てこない。もしかしたらインターホンが壊れているのかも知れないと思い、扉を何度か叩いてみる。それでも中から物音さえ聞こえないので扉を引くと、何の抵抗もなく玄関の扉はガチャリと開いた。


「え……」


 開いている。全身の血が逆流したようにゾッとして、私は玄関に飛び込んだ。玄関には靴が一足もなかった。お邪魔しますと大声を出して、急いで靴を脱ぎ中へと上がる。居間を覗き、キッチンを覗き、客間を覗き、二階に上がり……誰もいない。まるで住人を失って数年経ってしまったかのようながらんどうの箱だった。私はその場にへたり込んだ。荒れた畳の上には綿埃が転がっていた。


「……他の、他の人達は?」


 立ち上がって、もつれる足でなんとか階段を降りきって、踏み潰すように靴を履き逃げ出すように扉を開ける。まだ一軒目だ。たまたまかもしれない。ここに人がいたはずだと勘違いしていたのかもしれない。


 でも、確信が欲しい。安心が欲しい。私の臆病だって笑って欲しい。人が消えたなんて、そんな事はないって私を安心させて欲しい。


 けれど、走り回ってわかった事は、町の人達がいなくなっているというその事実だけだった。もちろん、短時間で町全てを回りきる事など出来なかったが、五軒、十軒、二十軒、その全ての家から人が消えているという事実は私を打ちのめすには十分だった。


「一体……一体何が起きているんだ……」


 ふらふらと道路を歩いていると、足元からパキリと乾いた音がしたので下を見た。枝が折れている。それだけなら別になんでもないが、その枝は道路のちょうど真ん中、割れて盛り上がったアスファルトの中から天を目指して生えていた。いくら、ここが過疎の町でも、こんな道路の真ん中から枝が生えていれば車が通る邪魔になる。誰かが行政に言うはずだ。それが放置されているという事は、それはつまり、……。考えた所で足から完全に力が抜けて、数歩下がった所で転ぶようにへたり込んだ。視線のすぐ先で、踏み折られた枝が私の事を恨めしそうに見つめている。


「なん……なんだ……なんなんだ! 一体、何が起きているんだっ!」


 みっともなく叫びを上げ、私は頭を両手で抱えた。まさか本当に、一晩の内にいきなり数年経ってしまったとでもそう言うのか。その間に町の人達もいなくなったと? その考えは荒唐無稽で、けれど筋は通っていた。たった一晩の内に数年経つなどあり得ないが、そのあり得なさにさえ目を瞑ればそれが一番わかりやすい。


 けれど、そんなはずはない。そんなはずはないのだ。私の頭の中の常識に目を瞑ったとしても、それはない。数年の時間がいきなり経過したなどあり得ない。


 だって


「……すいません」


 ふいに、何処かから声を掛けられ、私は思わず顔を上げた。目の前にはいつの間にか見知らぬ影が立っていた。影と見間違う程に、黒いローブで頭からつま先まですっぽりと覆っている、人影。一見すると男とも女とも、若いとも年老いているともつかないその人影は、強い風が吹けば掻き消されそうな程微かな声で呟いた。


「あなたの……願い事は……なんですか……」


「……え?」


「あなたの……願い事は……なんですか……」


 訳が……わからなかった。この黒いローブを羽織っただけの人影が、何を言っているのかなんて私には理解出来なかった。なんだこの人は。どこから現れたんだ。何を言っているんだ。この状況はなんなんだ。頭の中がぐるぐる回り、妙に濁った音の鐘がガンガンと鳴り響いているような、そんな感覚が私の脳をガクガクと揺さぶり苛み始めた。混乱している、と自覚した瞬間、何故だか怒りが沸き上がった。怒りの理由さえわからなかった。わからないまま、私は感情に任せて、叫んだ。


「な……なんなんですか、あなたは! 一体どこから来たんですか! 教えて下さい、この状況は一体なんですか? 町の人達は何処に行ってしまったんだ!」


「あなたの……願い事は……なんですか……」


「質問しているのはこっちです! ……いや、先に質問したのはあなたか……そんな事はどうでもいい! 答えて下さい、一体何処から来たんですか!?」


「あなたの……願い事は……なんですか……」


 人影はそれだけを呟いた。呆気に取られて見ていると、再び「あなたの……願い事は……なんですか……」と蚊の鳴くような声が聞こえてきた。そのまま見上げていると再び「あなたの……願い事は……なんですか……」、と。一定の間隔を置いて。壊れた自動機械のように。


「あなたの……願い事は……なんですか……あなたの……願い事は……なんですか……あなたの……願い事は……なんですか……あなたの……願い事は……なんですか……」


「……あ」


 ……なんだろう、この、状況は。私は夢でも見ているのか? もしこれが現実だとしたら、なんて酷い。こんな荒唐無稽な現実などあるものか。

 

 それとも、私は気が狂っているのだろうか。この人影は私の脳の中の産物で、町の人達が消えたというのも私の妄想なんだろうか。それとも夢? どうしたら醒める? どうしたら終わる? 頭の中身がぐちゃぐちゃになりそうだ。


「あなたの……願い事は……なんですか……あなたの……願い事は……なんですか……あなたの……願い事は……なんですか……」


 人影の声は、正に悪夢のように私に囁き続けていた。同時に私の思考力を染み込むように奪っていった。答えなければ終わらない。そんな気がした。だから、私は、唾を飲み込み、言った。


「………………みんな……の、幸せですよ……私の願いは…………それでいいですか?」


 私はそう呟いた。人影は黙って立っていた。いつの間にか口を閉ざし、ローブの奥から私の事をじっと伺っているようだった。


 突然、人影が私の前で膝を折り、黒いローブの中から枯れ枝のような腕を伸ばした。驚く間もない私をそのまま地面に組み倒し、馬乗りになった状態でローブの中から何かを取り出す。


 それは、注射器だった。シリンジの部分は酷く汚れていて……いや、シリンジが汚れているんじゃない。シリンジの中の液体が酷く濁った色をしていた。赤。青。黄色。オレンジ。緑。茶色。黒。白。そんな、絵の具のようにべっとりとした色を適当に混ぜ合わせたような。その注射器の針が、私の目を狙っている事に気付き思わず喉から悲鳴が上がる。


「な、何をするんだ! やめろ!」


 人影は答えなかった。ギザギザと段を成した爪を私の皮膚に食い込ませ、枯れ枝と見紛うような腕で私の喉を押し潰す。病人を通り越して餓死者のような、生きた人間のものとも考えられない腕のくせに、このまま首を折られるのではと思う程に力が強い。注射器の針は私の左眼に照準を合わせ、少しずつ、少しずつ、近付いてくる……!


「や……やめ……ゲホッ、やめてく……が……」


「あ……なたなら……だいじょうぶ……」


 その声は、妙に不自然に私の鼓膜に入り込んだ。変わらず蚊の鳴くような、今にも死にそうな病人のような酷く微かな声なのに、その声以外の全ての音が消失してしまったかのように、何故だか人影のその声ははっきりとよく聞こえていた。


 私は人影の顔を見た。ローブから覗いたそれはまるで死人のようだった。死と生の僅かな狭間を一刻一刻死へと傾いているような、そんな人間の顔だった。圧倒的な。善も、悪も、希望も絶望も、この世の理全ての意味を一瞬で踏みにじるような、


 そんな顔で、それは、笑った。私を安心させるように。自分を安心させるように。今にも死に堕ちる顔で。善も悪も希望も絶望も全て砂にするような笑顔で、


 私は







 目を開くと線があった。しばらくして板だと気付いた。冷たい板。私を拒絶するように固い。そのくせ私の身体にぴったりと張り付き離れない。板と私は全くの別物だと触感がはっきり伝えているのに、それ以外の別の感覚が私と板は同一のものだと諦める事なく訴えている。もう二度と立ち上がれない。もう二度と起き上がれない。動けない。私はここでずっと横たわり続けるのだ。この身体が完全に朽ち果ててしまうその日まで。


 しばらくぼんやりしていたが、寒さで唐突に目が覚めた。身体を起こすと頬がじんじんと痛かった。顔を横に向け、アスファルトに押し付けていたのだから当然だ。


「気を……失っていたのか……」


 額に手を当て首を振る。脳と目に薄い膜がもやのように掛かっていたが、頭を振った事でややはっきりとした感覚がした。何故こんな所で気を失っていたのだろう。朝、祥吾に起こされて、家や町の様子が変で、歩いて回ったら誰もいなくて……そして……


「……っ!」


 私は左眼に手を当てた。瞬間、何かぬるりとしたものを感じ、私は左手をそっと退けた。左手についていたのは、赤。青。黄色。オレンジ。緑。茶色。黒。白。そんな、絵の具のようにべっとりとした色を適当に混ぜ合わせたような。それを認識した瞬間、私の喉は悲鳴を上げた。そしてその悲鳴に私の意識は引き戻された。右手で口を必死で押さえ、ふうふうと荒く息を吐く。


 落ち着け。落ち着け。落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け! 私は左手に視線を落とす。そこには主張するようにべったりとした色がある。呼吸が荒くなるのを感じ、私はいっそ息を止めた。恐怖がせり上がってきたが、しかし叫ぶ訳にはいかない。


 一体どれだけの間そうしていた事だろう。私はようやく右手を外し、肺に酸素を大量に取り込むべく肩をゆっくり上下させた。それから左手をアスファルトに擦り付け、また少しだけ二酸化炭素を肺から一気に追い出した。落ち着け。さっきの妙な液体を目に流し込まれたとは限らない。ただ目の横に垂らされたに過ぎないかもしれないじゃないか。それでも、近くの家に入って鏡を探すような気にはなれない。確かめるのは怖過ぎるし、誰もいない家の中に入っていくのも躊躇われる。かと言って、このまま子供達の元へと帰るのもはばかられる訳なのだが……急激に寒気を感じ、私はその場で身を震わせた。


 とにかく、一度帰ろう。どうすればいいのかわからないが、これ以上ここに居たくはない。子供達に見られる前に洗面所に行って、鏡を見て、もし、それで異常があったら……私は首を振った。考えまい。考えたくない。とりあえず、一旦家に帰ろう。


 立ち上がると少し眩暈がした。それに伴い吐き気もしたが、なんとか堪えた。吐いてしまう程じゃない。歩いて帰るのに支障はない。教会へ向かって歩いていく。町は静かだった。不快な程に。生きている者なんて誰もいないと突き付けでもするように。柵を越え、玄関の扉を開けると、「分がかえってきた!」と天良の声が聞こえてきた。子供達がみんな揃って玄関へと集まってくる。私は咄嗟に左眼を塞いだ。


「分、おかえり。……目、どうしたの?」


「あ……ちょっと、ゴミが入ったみたいで……先に洗面所に行ってもいいかな?」


 子供達に断って洗面所へと歩いていく。灯りがないのでよく見えないが、とりあえず顔全体が汚れている事はなさそうだ。もっとよく見ようと顔を近付けると背後に火が映ったので、慌てて再び目を隠す。


「しょ、祥吾、どうしたんだ」


「灯りないと見えにくいだろ? 火の点け方が書いてある本があってさ、やってみたんだけど……」


「そ、そうなんだ。ありがとう。ちょっとここに置いてくれるかい?」


 オレンジの炎は決して見えやすいものではなかったが、特に異常はなさそうだ。少なくとも白目部分が汚染されている様子はない。恐る恐るリビングに行くと、子供達が一斉に私を見た。怯んでいると天良が近付き私の脚に抱き着いてくる。


「分~、おめめだいじょうぶ~?」


「あ、ああ、大丈夫……」


 反応を恐れながら子供達の顔を見回したが、特に私の目を不審がっている様子はない。ほっとする半面、あの液体は一体何だったのかと思ったが……もしかしたら幻覚だったのかもしれない。あまり深く考えないようにして子供達と同じように椅子に座る。


「それで、分、町はどうだった?」


「あ、ああ……誰もいなかったよ……いなくなって何年も経ってしまったみたいだった……歩ける範囲までしか確認は出来なかったけど、多分この町には……」


「そう……」


 子供達の落胆した表情に胸がぐっと締め付けられた。人影の事は言えなかった。言えるはずがなかった。ただでさえこんな状況なのに、その上でさらに不安にさせるような事を言って何がどうなると言うんだ。とりあえず今は、子供達を安心させる事が先決だ。私が顔を上げ口を開こうとしたその時、「あのさあ」と祥吾が先に口火を切った。


「分、いいニュースと悪いニュースがあるんだけど、どっちから聞きたい?」


「……え……?」


「祥吾、何それ」


「洋画とかでよく見るだろ。一度やってみたいと思っててさ」


「フザけてる場合じゃないでしょ! 真面目にやって」


「俺はちょっとでも場を和ませようとしただけだっつーの! ……ああもうわかったよ。分、あれから俺達色々探してみたんだけどさ、食料と水は一応なんとかなりそうなんだ。電気は使えないけど火を起こす方法とか載っている本があってさ。って、さっき見せた通りだけど」


「誰が用意したかわからなくてそこはちょっと不気味だけどね……でも、とりあえずご飯の心配はしなくても大丈夫だと思うよ。畑もあるみたいだし、干して保存食っぽくしてあるのも見つけたし」


「おさかなのひものもあったよ!」


「本当、誰がやってくれたのかわからないけど準備いいよね」


 祥吾が、清華が、天良が、新太が、いつもと変わらないような元気な声でそう言った。まるで私を励ますように、安心させるように、思いの外明るい表情で私の事を見つめている。


「分、長い付き合いだからさ、分が何を考えているか大体の所はわかるけど、あんまり気負ったりしないでくれよ。言ってくれたよな。俺達がここに来た時に、俺達は家族なんだって。今日から一緒に支え合って生きていく、俺達は家族なんだって」


「…………」


「分は一人で抱え込み過ぎる所があるけれど、俺達の事も頼ってくれよ。分は俺達を引き取ってくれたけど、俺達はお前に守られているだけじゃなくて、助け合って生きていきたいんだ。だって俺達家族じゃないか。一人で悩んだりしないでくれよ。家族なんだからさ、俺達の事も頼ってくれよ」


「分があたし達を本当に家族だって思っていればの話だけど」


「まさか家族じゃないとか言わないよな?」


「え~、分はあまらのかぞくじゃないの~? やだよそんなの~。かぞくじゃないっていったらなくんだから~」


 そう言って再びしがみついてきた天良の姿に、私は涙を零してしまった。天良が大きな目を見開いて私の顔を覗き込む。


「ぶ、分~、どうしたの~? どこかいたいの~?」


「ち、違うよ天良……嬉しくてさ……君達と家族で、私はすごく嬉しいんだ……」


「……ったく、そのぐらいで一々泣くなよなぁ、大体分が頼りないってのはすでにわかっている事なんだし」


「料理も裁縫も出来ないし」


「縄跳びだって飛べないし」


「幼稚園児並みの画力だし」


「うっ……」


「でも、あまらはそんな分がすき~」


 ぽすり、と小さくても確かな温かみが私を抱き締め、余計に涙が溢れてしまう。全くいつの間に、この子達はこんなに大きくなっていたのだろう。


 そうだ、どんな状況に陥っても、みんなで力を合わせれば生き抜く事は出来るはずだ。私達の身に何が起きたかはわからない。けれど、大丈夫。きっと大丈夫だ。私にはこの子達がいてくれるんだから、それだけで何が起こっても生きていけると確信出来る。


「す、すまない、泣いたりなんてして……そうだね、やろう。みんながせっかくやる気を出してくれているんだ、私も頑張らなきゃいけないね。それじゃあ、……今日はどうしようか」


「とりあえず飯にしようぜ。腹が減ってはなんとやらと言うだろう? っていうかまだ飯食ってないから腹減ったよ!」


「そうだね、その後の事はご飯にしながら考えよう。じゃあ水を取ってこようか」


「あまらてつだう! てつだうてつだう!」


「よし、じゃあ一緒に頑張ろうか」


「おー!」


 子供達の声を聞きながら、私はようやく笑みを浮かべた。この子達がまだいてくれるから、私はまだ希望が持てる。希望を持って生きていける。


 そう思った。

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