5-2
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朝日が、わずかに開いたカーテンの隙間から私の顔を照らしてきた。私は眩しさに目を細め、朝日から逃れようとくたびれた毛布に顔を埋める。自慢じゃないが朝は苦手だ。頭が上手く働かないんだ。そしてそれ以上に、光に照らされる事が痛くて辛くて堪らない。私は光から逃れるために、毛布を頭の上から被り直し再び眠りに落ちようとした。
しかし、鼻を何かいい匂いがくすぐり、私の意識は眠りから現実へと戻ってしまった。その事に、何処か暗い所に叩き落とされたようなどうしようもない重さを感じていると、青年が明るく朗らかな顔で部屋の中を覗き込んだ。
「あ、分おはよう。朝ご飯出来たんだけど食べられるかな?」
朝ご飯……青年のその一言に、私の意識は本格的に覚醒した。なんて事だろう。渺一人にだけ働かせて、私は一人でのん気に眠っていただなんて。
「す、すまない! 一人でご飯の準備をさせて……」
「いいっていいって。昨日は色々大変だったもんね。頑張ったんだから疲れが出るのは当然だよ」
「き、君だってそんなに変わらないだろう……」
「ボクの場合は年なのかもしれないよ? ほら、筋肉痛って年を取ると二日後に出るって言うじゃない」
それは……何か、違うような気がするが……だが、改めて年の話をするのは何か色々と忍びなかった。渺がいくつなのかはわからないが、三十代という事はないだろう。むしろ見た目だけなら私より確実に年下に見える。だが、渺の目からは私がいくつに見えるのかわからないし、何故か実年齢を言うのは激しく気が進まなかった。多分私があまりにも頼りなさ過ぎるせいだろうが。
「ま、とりあえず、食べられるようなら冷める前に食べて欲しいな。もちろん無理にとは言わないけれど」
「あ、……食べるよ。頂くよ。せっかく作ってもらったんだから」
私はこの家の毛布を退けて台所へと歩いていった。昨晩は奥の部屋を使わせてもらい、寝具も借りて、渺と二人で隣り合って寝ていたのだが、死んだ人間の家と寝具を借りて、食材と水まで使って、今、生きている。人が人を殺してまでも守りたかったものを使って。その事を考えると、ただここにいるだけで罪深さを感じてしまうが、渺は私の感傷とは裏腹に一早く席に座って急かすように私を見つめる。
「ジャガイモをふかしてみたんだ。それ以外は代わり映えがしなくて申し訳ない限りだけど……」
「そんな事ないよ。……いただきます」
私は少し迷ったが、結局食事に箸を付けた。陣さんの事を思うといたたまれないが、食べないという選択肢は渺を傷付ける事になる。食事はとてもおいしかった。平穏な日常で食べられたならどんなに幸せだっただろう。けれど今私が口にしているものは、他人の死の上に成り立っている。
「分、どうしたの? やっぱり口に合わなかった?」
「……、いや、そんな事はないよ。おいしいよ……渺はすごいな、私はちっとも料理なんて出来ないから」
「すごくなんてないよ。ボクはただ料理が好きなだけなんだ。だって人に自分の料理を食べてもらえるとさ、この人の身体の細胞はボクが作ってあげてるんだ、っていう気分になるじゃない?」
「……え?」
「なんてね、ふふふふ。前に読んだ本でそういう文章があってね、面白い事を言うもんだなって思って一回使ってみたかったんだ。世の中には面白い事を考える人がいるものだよね」
「あ……うん、そうだね……」
渺はにこにこと私を見ている。私はそれ以上何も言う事は出来なかった。何と言えばいいのかわからなかったし、何も言わない方がいいような気がした。
「そ、そう言えば渺は、一体何処から来たんだ? どうしてこの村に?」
「そう言う分こそ、どうしてここにいるんだい? この家が君の家じゃないとすると、君も別の場所から来たんだろう?」
「あ……その、私は……」
「出来たら教えて欲しいなあ、分の事。今まで何処で生きてきたのか、今までどんな生き方をしてきたのか……だって、友達の事だもん。あ、ボクが友達なんて迷惑かな?」
渺はそう言って、伺うように私を覗き込んだ。何故かすぐに返事をする事に躊躇いを覚えてしまったが、「友達」という言葉に異を唱える理由は何処にもない。ないはずだ。
「いや……友達だよ。私もそう思ってくれたら嬉しいな」
「本当!? ありがとう! やっぱり分は優しいな。じゃあさ、ボクに教えてよ。ボクの友達が今まで何処でどういう風に生きてきたのか」
「そんな……大した人間じゃないよ、私は……ここから少し離れた町で、使父をやっていて……」
「使父? そうか、優しい分にはぴったりだね」
「そんな事……頼りない使父だったし……家族や町の人に助けられてばかりだったよ。料理も家事も出来なくて、情けなくて不器用で……」
「家族? 結婚でもしていたの?」
「いや、孤児の子供達と一緒に……みんな、死んでしまったけれど……」
言いながら、鼻が痛むのを感じた。その事を思い出す所か、口にする事さえ辛かった。渺が椅子から立ち上がる音がし、私の肩の表面にそっと誰かの手が置かれた。
「ご、ごめん、辛い事を聞いてしまったね」
「いや……いいんだ……」
「本当にごめん。ボクは昔から全然気がつかなくて……よく父さんや母さんに怒られていたよ。お前はまともな人間じゃない、もっとまともな人間になれって」
「そんな事……渺はすごく優しいじゃないか。ありがとう。大丈夫だよ」
私は顔を上げて渺を見、そして……何故か戦慄を覚えた。渺の浮かべていた笑みが、何故か酷く歪に感じられた。しかし、それも一瞬の事で、渺はすぐに嬉しそうに笑みを深める。
「本当に? ボクは本当に優しいかな?」
「え……ああ……」
「どの辺りが? どの辺りが!?」
「わ、私の事を気遣ってくれるし、食事も作ってくれたし、私の事、人殺しじゃないって信じてくれて……」
「そんな! そんな事ないよ! うわあ、でも嬉しいなあ。ボクは本当に優しい人間になれたかなあ? まともな人間になれたのかなあ!?」
渺は何処か浮かれたように、まるで遊園地を訪れた子供がそうするように嬉しそうにはしゃいだが、その様が何故か、私の頭に警鐘を鳴らした。渺はふふふと嬉し気に笑って、私の肩に手を置いたまま私の顔を覗き込む。
「ねえ分、ボクさ、君に聞きたい事があるんだけど、いいかな?」
「な……何かな」
「『まともな人間』ってさ、一体どういう人間だと思う?」
「……え?」
「まともな人間って、一体どういう人間だと思う?」
渺は繰り返すと、妙にぎらぎらとした瞳で私の事を見つめていた。心なしか、肩を掴む手の力が強くなっているような気がする。頭に警鐘が鳴り響く。なのに目を逸らす事も、逃げる事も叶わない。
「ボクはね、小さい頃からずっと、『まともな人間』に一体どうやったらなれるのかずうっと考えて生きてきたんだ。父さんも、母さんも、クラスメイトも担任の先生も、みんなみんなみんなみんなボクをまともな人間じゃないって口を揃えて言ってくるんだ。悲しかったよ。ボクは心の底からまともな人間になりたかった。でも、どうしても、まともな人間のなり方ってヤツが、ボクにはよくわからなかった。ねえ分、君はさ、まともな人間っていうのは一体どういうものだと思う。そうだな、例えば、人を殺さなくちゃ生きていけないような状況下では、どんな選択を選ぶのが『まともな人間』だと思う?」
口の中が渇いていた。とても小さな虫が全身の神経を這いずり回っているような、とてつもなく嫌な感覚が私の身体を襲っていた。けれど、逃げられない。目を逸らせない。私は震える唇を無理矢理動かす。
「は……話し合って……そんな事にならずに済む方法を探す……」
「話し合いなんて叶わないような悲惨な状況だったらどうするの? うーんと、そうだな、例えば無人島でみんな餓死寸前で、たった一つの食べ物を奪い合う事になったとしたら? 他の人間を殺して生きる。他の人間を生かすために自分を殺す事を選ぶ。一体どちらを選ぶのが『まともな人間』だと思う? 悪辣に生きる事と、正しく死ぬ事と、一体どちらを選ぶのが『まともな人間』だと思う?」
私は……止めて欲しいと思った。何故、どうして、私にそんな事を聞くのだ。けれど、渺から逃れられない。この瞳から逃れられない。この現実から逃れられない。私はそれを知っている。逃れようもない地獄のような現実だってある事を。
「……人を……生かす事だ……」
「…………」
「どんな……状況だって……人を……殺すのは、『悪』だ。決して許されざる事で、してはいけない事なんだ……た、例え自分が生きるためだって、た、他人を殺して、その上で生きていこうとするなんて……」
私は喉を震わせた。嗚咽のように、慟哭のように、悲鳴のように呟いた。もうやめてくれと思ったが、許されない。逃げる事はもう許されない。
「誰かを殺して生きるぐらいなら、自分が死ぬ事を選ぶ……正しいのは……そういう道だ……悪辣に生きるぐらいなら、正しく死ぬ事を選ぶ……それが正しい……人間なら、そうするべきだ……」
「……ふ」
「…………?」
「ふふふ、ふふふふふ、あははははははっ!」
渺が、私の身体を抱き締めた。両腕で、強く、しがみつくように。渺の匂いが漂ってくる。嗅いだ事のないような匂いが。何故だかとても魅力的で、そして何処か恐ろしい。
「分! やっぱり君はボクが思った通りの人間だ! そうだよね、それが『まとも』な『人間』の考え方だよね、『悪辣に生きるぐらいなら正しさに死んだ方がいい』っ! 分、君ならそう言うと思ったよ。やっぱりボクは君の事が、とても好きになってしまったよ。
だから君を、ボクに殺させて欲しいんだ」
背中に、何かで刺されたような痛みを感じ、私は思わず悲鳴を上げた。渺は私をさらに抱き締め、それと共に背中に何かがさらに深く侵入する。
「が……ああああっ!」
「ふふふふ、ごめん、ごめんね、分、痛いよね。でも、ボクはまともな人間になりたいんだ。まともな人間になりたいんだよ」
「ど、どういう……事だ……」
「ボクは昔からさ、お前はまともじゃないって言われながら育ったんだ。まともじゃない。まともじゃない。まともな人間になれって、ずっと。それでまともな人間になろうと色々頑張ったんだけど、ボクをまともだと言ってくれる人はただの一人もいなかった。一生懸命考えた。まともな人間って何だろうって。一体どうすればボクはまともだとみんなに証明出来るのかって」
鼓膜に響く渺の声は妙な具合に湿っていた。熱っぽいようで、同時にひどく冷たいようで。青年は私を抱き締めながら、刃をさらに奥に突き刺す。
「ぐっ……」
「一生懸命考えた。一生懸命調べたんだ。本屋に行って、図書館に行って、テレビを見て、ネットを見て、一生懸命調べたんだ。そしてある日こんな一文を見つけたんだ。人間が人間である証明。それは『自分を殺せる』事だって。昔は、レミングっていうネズミの一種が、種を存続させるために自ら崖に身を投げるって考えられていたんだけれど、それは事故みたいなもので、移動中にたまたま足を滑らせて崖に落ちてただけなんだって。自分の意志で命を絶てる生物はこの世で人間だけなんだって。素晴らしいと思わない? 動物は皆生存本能を持っている。それに自分の意志で抗える唯一のものが人間なんだ。まともには生きていけない状況、死を選ぶのが相応しい状況、それを判断し、自ら死を選び取る、そんな生き物は人間だけ! 自ら死を選ぶ事だけが、人間が人間である唯一無二の証明だ!」
「があああ!」
青年の熱狂と共に痛みが更に入り込んだ。渺の目が私を覗き込む。ひどく黒い瞳だった。しかしそれは、同じ黒でも厘の瞳とは真逆に位置する色だった。厘の瞳も光のない、底なしの闇のような黒い瞳をしていたけれど、あの瞳は生への渇望にギラついていた。しかし渺の瞳は、淀んでいた。私を見ているようで別の所を見ているような、凝り固まっているようで同時にドロドロに溶け腐っているような。
「だからボクは、自分を殺してみようと思ったんだ。生存本能に抗って自分の意志で自分を殺す、だからボクは『まとも』な『人間』だって証明しようと思ったんだ。でも出来なかった。自分を殺すための何かがボクの中には足りなかった。だからまずは母さんを殺した。父さんを殺した。自分の両親をこの手で殺す、それが原因で自殺する人がいるそうだからボクもとりあえずやってみた。でもダメだった。母さんと父さんは殺せても自分を殺せはしなかった。次は先生を殺してみた。クラスメイトを殺してみた。通りすがりの女性を殺してみた。通りすがりの男性を殺してみた。通りすがりの子供を殺してみた。何人も何人も殺してみて、でも、ボクはどうしてもボクを殺す事は出来なかった。だから分、君を殺させて欲しいんだ。今までの人はボクがボクを殺す理由になってくれはしなかったけど、友達を殺した事で自分を殺す人間がいる、今度はそれを試してみたいと思うんだ。今まで会った誰よりも大好きな、ボクを友達と呼んでくれた君をこの手で殺したら、やっとボクはボクを殺せる人間になれると思うんだ」
私は、その言葉が信じられなかった。私を抱き締めたまま語り掛ける、濁った眼に、私は呟く。
「渺……君は……人を、殺したって言うのか……?」
「言ったでしょ? ボクは悪い男だよ、って」
私は、渺を振りほどこうともがいた。昨日自分が何を考えていたかなんて完全に忘れ去っていた。私は人殺しの腕から逃れようとただ必死に身をよじる。
「分、落ち着いてよ。今どうやって君を殺そうかゆっくり考えたいんだから」
「止めろ! 離せ、離してくれっ!」
私は、渺の腕を振り払おうともがき、瞬間何もない所に放り出された。驚いて顔を上げると、渺が、空になった腕から濁り切った瞳を上げて私の事を見つめている。
「あれ……? 分、それって瞬間移動か何か? そうか、君の能力はそれなんだね?」
「能……力って……まさか」
「急にいなくなるからびっくりしたよ。でもちょうどいいや。ボクの能力はね……これなんだ」
渺はそう言って腕を妙な形に構え、そこに弓矢を出現させた。そしてそのまま弦を絞り、私に向けて矢を放つ。
「う……うわっ!」
「あはは、よく避けたね。それでこそ殺し甲斐があるよ」
「渺……君は、疚人だったのか……!?」
「あれ、『今頃気付いたの』? 臭いがするから同じ疚人のはずなのに、どうして襲い掛かってこないのか不思議に思ってた所なんだ。それどころかご飯を食べさせてくれるとまで言ってきてさ、何かの罠なのかと思っちゃったよ」
言いながら、渺は、青年の姿をした人殺しは、手にした弓を引き絞った。その矢の向こうに、私の手を優しく掴んだ腕の向こうに、愉悦に溶け腐ったような人殺しの瞳が見える。
「それなのに分ってば、全然そんな事考えてもいないみたいにボクに接してくるんだもの。実は、君が何を考えているのか、よくわからなかったんだよね。でもそうか、ボクが疚人だって気付いてさえいなかったのか。そういう場合もあるんだね」
渺は弓を引き絞り、再び私に向けて放った。矢は私の左隣の壁に刺さったが、外れた訳ではなくわざと外した……渺の瞳はそう言っていた。
「どうして……どうして、人を殺したりなんてしたんだ……」
「自分を殺したかったからだよ。ボクの手でボクを殺して、ボクはまともな人間だって事を証明したかったんだ。でも、これが中々難しくてね、首を吊ろうと思っても、手首を切ろうと思っても、川に落ちようと思っても、身体に火を点けようと思っても、いつも手が止まってしまう。それでまた色々調べたら、『まとも』な人間は人を殺したらその罪深さってヤツで自分を殺すそうだから、試してみようと思ったんだ。これを試してみればボクはボクを殺せるかも……ボクはそう思ったんだ。
でもね、どんなに人を殺しても、ボクはボクの事を殺す事は出来なかった。母さんを殺しても、父さんを殺しても、先生を殺しても、クラスメイトを殺しても、罪のない誰かを殺しても、ボク自身を殺したくなる日はちっとも訪れはしなかった。だから分、君を殺させて欲しいんだ。こんなボクを優しいと言ってくれた君を殺させて欲しいんだ。君をこの手で殺せたら、友達を殺した罪深さというヤツでボクはようやくボクを殺せる、そんな気がするんだよ。自分を殺せるまともな人間だってようやく証明出来る気がする。だから分、頼むよ、ボクに君を殺されてくれ。そうすればボクはやっと、ボクを殺せる気がするんだ!」
私は、二の句を告げる前に走り出した。生きる事を諦めようとした事など完全に頭から吹き飛んだ。すがるように扉に駆け寄り、急く思いで扉を開け、転がるように外へと飛び出す。肩に、何かが刺さったような痛みを感じ、私は左肩を右手で押さえた。
「ぐうっ!」
「ごめんね、痛いよね。ごめん分。ボクはなんて悪い奴なんだろう。でも仕方ない。ボクはボクがまともだって事をどうしても証明したいんだ。殺されてくれ。ボクの手で君を殺させてくれ。ボクにボクを殺させてくれ。自分で自分を殺せる、ボクはまともな人間だって証明をボクに与えてくれよ!」
私は渺を振り向いた。その瞳は腐っていた。生き物の死骸で埋まった川よりなおドロドロと腐っていた。けれどその口元は笑っていた。楽しくて仕方がないかのように両端を吊り上げて笑っていた。私の首筋を怖気が走った。意志や理性など関係ない、本能。自分を殺そうとする生き物に対する生き物としての本能の恐怖。私は走り出した。しかし足に、背中に、矢尻が鋭く突き刺さり、私はその場に転げ落ちる。
「ぐあっ!」
「ああ、分、いいよ。すごくいい。きっとこの感情が罪深いって事なんだ。ボクは最低の人間だ。こんなヤツは生きてちゃいけない。死ぬべきだ。死ぬべきだ。ボクを殺してしまいたい! 何でこんな事しなくちゃいけないんだろう。でも仕方ない。ボクはまともな人間だって証明するためなんだ。ボクを殺したくなるために、ボクは君を殺すんだ!」
狂人の声は楽し気だった。なのに何処か悲し気だった。嬉しくてたまらないようでいて、同時に悲しんでいるようでいて。私は、痛みを訴える右足を引きずりながら、それでも懸命に走ろうとする。だが家の柵を抜けた所で、私は誰かに肩を掴まれ、向きを変えさせられたと同時に地面に叩きつけられた。
「ぐはっ!」
「捕まえた。でも、瞬間移動が出来るなら、こうやって捕まえてても逃げられちゃったりするのかな。それは困るから、悪いけど、ちょっと足止めさせてもらうよ」
「が……あああああッ!」
左腕に何かを深く刺されたような痛みを感じた。渺は仰向けになった私の上に馬乗りになり、悲嘆と歓喜が入り混じった歪んだ瞳で私を見下ろす。
「さて、どうやって殺してやろうか。君をどうやって殺したら、ボクはボクを殺したいと心の底から思えるだろうか。目を抉る? 鼻を削ぐ? 耳を切る? 舌を抜く? 疚人は少しのケガなら治るけど、やり過ぎると死ぬからなあ、慎重にやらないといけないね」
「あ……が……」
「ああ、安心していいよ。すぐに殺したりはしないから。前にボクに襲い掛かってきた疚人の何人かで、一体どれだけ痛めつけたら死ぬのか実験して確かめたんだ。何処にどれぐらいの深さで矢を刺したら死んじゃうのか、どれぐらいまでなら大丈夫なのか、覚えているから心配しないで安心してまかせていいよ。分の事は、とびきり大事にボクが殺してあげるから。ボクがボクを殺したいと思うように大事に殺してあげるから」
渺は、手に矢を出現させると、それを右手に握り締めて私の事を見下ろした。そして、私の左手を取り、感触を確かめるように握り締めて、それから、矢の先を、私の親指の爪の隙間へと押し付けて
「……体、そいつに何やってんのよッ!」
鋭く響いた少女の声に、渺は私から顔を上げた。わずかに見える景色の向こうから、巨大な黒い烏のような、
「厘……」
「そいつから……離れろ、クソ野郎がァァァアッ!」
厘は、両手に煌めく二つの刃を握り締めると、そのまままっすぐ渺の方へと向かってきた。しかし渺は、厘の出現にも眉一つ動かす事はなく、凍り付いた表情で弓矢を厘の方へと構える。渺は何の感慨もないように、無表情で矢を放ち、それは吸い込まれるように厘の胸へと突き刺さった。体勢を崩し、それでも顔を上げた厘に、さらに渺の放った矢が何本も突き刺さっていく。
「厘っ! 渺、止めろ、止めてくれッ!」
「だって、邪魔なんだもん。ボクが君を殺そうとするのを、まともな人間だという証明を邪魔しようとするんだもん。それを殺して何が悪いの。それに『あれ』は人間じゃない。獣の臭いがしてくるよ」
渺は、人間とも思えないような目で私の事を睨み下ろすと、腕を押さえて立ち尽くす厘にさらに矢を引き絞った。厘の腕に、胸に、足に、至る所に矢は突き刺さり、それでも顔を上げた厘の左眼に矢が刺さり、ハリネズミのようになった厘はそのまま音を立てて地面に倒れた。
「…………ッ!」
「あー……あーあー、死んじゃった。でも獣だからどうでもいいよね。ボクを邪魔したあれが悪い。だからボクは悪くない」
「……どうして」
私は、呟いた。涙が鼻に入り、鼻をこれ以上なく痛めていく。しかし涙が止まる事はない。尋ねる事も止められない。
「どうして……こんな事をするんだ……こんな事をしなくても、君は十分まともな人間だったじゃないか……私に食事を作ってくれたじゃないか。挙動不審な私の事を、信じてくれると言ったじゃないか……私を、優しいって、慰めてくれたじゃないか……こんな事をしなくても、君はまともな、優しい人間だったのに……どうして……」
「分……」
渺は、厘から私に視線を向けると、身体を屈めて私の顔を覗き込んだ。そして、何の光も見えない何処までも濁り切った瞳で、
「適当な事を言うなよ」
「…………」
「ボクがまともだって? 一体何を言うんだ君は。君が優しいのは知ってるけれど、嘘を吐いたらいけないよ。ボクがまとも? まともだったら、どうして今まで誰もボクをまともだと言ってはくれなかったの?」
「…………」
「ボクはね、分、辛かったんだ。お前はまともじゃないって言われるのがずっとずっと辛かった。まともじゃないって言われる度に、どうしたらまともになれるのかって一生懸命考えた。まともって何だろうって一生懸命考えた。毎日人を観察した。人に囲まれる誰かの事を毎日毎日観察した。真似をしてみた。笑顔というものを作って見た。優しいと呼ばれる振る舞いをした。料理だってやってみた。掃除も、洗濯も、いっぱいやって、人に好きだと言ってみた。ボクが考えるまともってヤツを一生懸命やってみた。
でも、誰も、ボクをまともだと言ってくれない。まともじゃない、まともじゃないって、いつもボクに言い聞かす。ボクはその声が嫌だった。ボクをまともじゃないと言う人達の目が嫌だった。針を耳と目と全身に刺されている気分だった。ボクはやめて欲しかった。ボクをまともじゃないと言う、その声をやめて欲しかった!
「……」
「ボクは証明したかったんだ! ボクはまともな人間だって。そしてボクをまともじゃないと言うのをやめて欲しかった。
でも、ボクは証明出来ない。ボクはまともじゃない。誰もボクをまともだと言ってくれない。ずっとずっと責め立てる。どうしてだ? どうしたらまともになれるんだ? 一体どうやったらボクはまともな、『人間』ってヤツになれるんだ!」
渺の目は、ただ、真っ黒だった。そして何処か泣いているようにも見えた。涙など見えはしなかったが。渺は、右手に矢を握り締め、腕を振り上げながら、口元だけで歪に笑う。
「ボクはなりたいんだ。まともな人間に。人間ってヤツに。どうしてもなりたい。それが何かわからなくても。例え君を殺しても、ボクを殺しても、ボクはまともな、『人間』ってヤツに、どうしたってなりたいんだよ……ッ!」
渺は、悲鳴のように叫びながら、矢を握り締めた右腕を私に向かって振り下ろした。その背後で、ハリネズミのようになった巨大な烏が、手にした包丁の刃を鈍く光らせながら走り出す。
「……つを、離せって言ってんのよ、クソッタレがぁあああっ!!」
厘が、矢に突き刺された右腕を鋭く横に振ったと同時に、渺の首から、噴水のように、赤く血が噴き上がった。渺は振り上げた腕をダラリと降ろし、そのまま私に倒れ込む。すぐ横にある渺の肌が、唇が、白目の部分が、みるみる内に黒く黒く染まっていく。
「分、分、つらい、くるしい、いたい、さびしい、どうしてボクはひとりなんだ。だれもボクのそばにいてくれない。まともじゃないってはなれていく。どうして。こどくだ。さびしい、さびしい、さびしい……」
「……」
「ボクはまともな人間になりたい。人間になりタイ。そうすれば誰もはなれていかない。だれもはなれていかない人間に、ボクは、なりタ……、……」
そして、渺は動かなくなった。全身を黒に染め上げて。厘は、矢の突き刺さったままの左眼で渺の死体を見下ろすと、足で蹴り飛ばし、私の傍に膝を着いた。そして、私の首に、血で赤くぬめったままの包丁の先を突きつける。
「約束を……忘れていたわ……生きたくないならアンタの事を殺してあげるって約束を。使父は自殺出来ないんでしょ? 今すぐ死にたいって言うのなら、ボランティアで殺してあげるわ」
「……」
「そうすれば、アンタの信じる神を、冒涜せずに済むでしょう」
厘の瞳は、ただ、ひどく冷たい色をしていた。同時に何もかもをも焼き尽くす業火のような色をしていた。黒い炎。光などで照らされずとも、光さえも飲み込んで自ら燃える黒い炎。渇望する炎。生を求め渇き続けるイキモノに、私は尋ねる。
「……君は、後悔しないのか。人を殺して生きる事に、悪辣に生きていく事に、君は後悔したりはしないのか」
「後悔なんてしないわよ。だって後悔っていう言葉は、『後悔出来るという選択肢を持った』幸せ者の戯れ言じゃない。ああすれば良かった、こうすれば良かった、そんな事が言えるだけの選択肢を持っていた幸せ者の戯れ言じゃない。私には後悔するという選択肢さえ存在しない。殺して生きるか、殺されて死ぬか、私の前にある選択肢はその二つしか存在しない。生きる事を後悔するという事は、殺されて死ぬという事を選ぶ事と同義だわ。
だから、私は後悔しない。生きる事を後悔しない。生きるために行ってきた全ての事を後悔しない。生きるために行う全ての事を後悔しない。正しさを犠牲にし、死体を踏み付けて生きる事を、悪辣に生き続ける事を後悔など決してしない。今までも、この先も、何が起ころうと絶対に」
「…………」
「アンタはどうなの? 今生きている事を後悔するの? だったら殺してあげるわよ。これ以上後悔なんてしなくていいように殺してあげる。どうする? 三秒やるから早くして」
黒い瞳が聞いていた。死を纏う瞳。生を望む瞳。それを見ながら私は、
私は。
私は、首を振った。私は首を横に振った。この選択を、後悔するとわかっていても、すでに後悔していても、私は首を横に振る事しか出来なかった。
「行くよ」
「…………」
「行くよ……君と一緒に」
「……質問の答えになってないけど?」
「行くよ。君と一緒に。……今の私の答えはそれだけだ」
私の言葉は、左の腕を襲った強烈な痛みに遮られた。見れば厘が、同じように矢の刺さった右腕で力任せに私の腕から刺さった矢を引き抜いていた。
「あっそ」
厘はそれだけ言うと、自分の左眼に刺さった矢を掴み、同じように酷く無造作に引き抜いた。そしていまだ潰れた目を自分の全身に向けながら、腕や胸や足に刺さった矢もただ乱暴に引き抜いていく。
「そうと決まったら早く行くわよ。私の期限はあと半年。こんな所で時間を潰している暇なんて私にはないんだから」
私は、痛みさえも失ったように淡々と矢を引き抜いていく少女から、すでに残骸と化してしまった渺の方へと視線を向けた。私を優しいと言い、そして殺そうとした青年。まともな人間になりたいと願いながら、人間というものが何なのかもわからぬまま。私は起き上がり、渺の残骸に視線を落とす。視界の端から厘の声が響いてくる。
「何よ、またそいつを弔うとか言うつもり? たかが死体を一体ぐらい、それも自分を殺そうとした相手を弔うなんて……」
「いや……いいよ、行こう」
「あら? いつもみたいに駄々をこねないの?」
「……ああ」
私は、後悔すると思った。渺をこのままここに残していく事を、きっと後悔すると思った。私の、何処か奥の方に致命的な傷を残すのだろうと。
けれど……いや、だからこそ、私は渺をこのままここに置き去りにしていこうと思った。この青年を弔わず。私の後悔を弔わず。
「行こう」
私は、立ち上がって歩き出す。痛む身体を引きずりながら。疚んだ身体を引きずりながら。後悔を引きずりながら。歩いていよう。今はまだ。地獄の底に地獄を見、絶望の果てに絶望し、生の代わりに死を求め、それを選ぶその日まで。懺悔と後悔を重ねながら。ただ生きていく事に、懺悔と後悔を重ねながら。だって、私は、きっと、私は。
きっと、私は。




