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疚市(旧2)  作者: 雪虫
14/15

5-1

 生きる事は幸せです。


 生きる事は幸せです。生きる事は幸せです。生きられるだけで幸せです。生きる事は幸せです。生きる事は喜びです。生きるだけで価値がある。生きる事には意味がある。生きる事は素晴らしい。生きる事を尊ぶべきだ。生きる事を冒涜するな。生きる事は幸せで、生きられるだけで幸せで、生きられるだけで生きられるだけで神に感謝を捧げるべきだ。


 生きる事は幸せです。死んでしまう事は不幸です。生きられるだけで幸せです。生きられるだけで満足です。生きるだけで満ち足りる。死んでしまうのは恐ろしい。生きる事に満足すべきだ。死を選ぶなんて馬鹿馬鹿しい。生きる事は幸せです。生きる事は幸せです。生きられるだけで幸せです。幸せだと思わなければ。生きる事は幸せです。生きる事は幸せです。生きる事は幸せです。生きられるだけで幸せです。


 人を殺して掴んだ生でモ。

 




 部屋の中は真っ暗だった。右を見ても、左を見ても、黒。黒。黒黒黒黒。光なんて一つもないのに、そのくせ何も見えないという訳ではなく、全てを塗り潰すような暗闇の中には何かが二つ転がっている。私は、その二つの影の、すぐ近くにあった方に近付きやわらかい毛並みを軽く撫でた。逢君。彼が疚人になった原因が、疚売りなのか、それとも自然に発症したのか、私には、わからないけど、逢君は疚人になってしまった。そして死んだ。それは確かな事だった。疚人になってしまったのならこのままにはしておく訳にはいかない。たったの数時間で腐りきってしまうから。ただの肉片と溶けた姿を目の当たりにしてしまったら、私は、私は、もう絶対にそこから這い上がれない。


 逢君の亡骸を腕に抱えて外まで運び、家の裏に転がっていたタライの中にそっと下ろした。そして、畑の近くに鍬を一本発見したので、適当な所に歩いていって、穴を掘れそうな土を探してその場所に鍬を振り下ろす。下ろす。下ろす。一心不乱に。ようやく、十分な穴を掘り終えた所で、私はタライに寝かせていた逢君の元へと戻っていった。臭いは漂い始めていた。私は歯を食い縛りながらタライごと逢君を持ち上げて、穴まで運んで穴の中に中身ごとタライを押し込んだ。そして土を戻していく。それだけで、たったそれだけの事で、私の気力も体力もすっかり底をついてしまった。私はせめてもの目印代わりに墓の上に鍬を置き、不自由な体を引きずって彼らの家へと戻っていった。そして玄関に踞る。膝に顔を埋めて目を瞑る。もう何も見たくない。もう何も聞きたくない。何も嗅ぎたくない。何も感じたくない。視界も思考も黒で満たす。もう何も考えたくはない。


 朝なんて永遠に来なければいい。


 このまま、何もかも、終わって果ててしまえばいい。


 けれど朝は平等に、私達の前に訪れる。


 そんなもの、これっぽっちも、求めてなんていなくても。





 辺りはすでに明るかった。妙に冴えざえとしていて、冷たくて、ただ悪戯に明るいだけで、そこには私の感情も感傷も汲み取ってくれるものは何もない。


 朝は、昔から苦手なんだ。頭が上手く働かないんだ。それは半分本当で、半分は布団の中で微睡んでいたいだけのただの言い訳だった。あのぬるくて重い心地好さに、もう少しだけ浸っていたいと並べていた言い訳だった。


 けれど今は。私は玄関を四つん這いで這っていき、一歩動く度に嗚咽を洩らさざるを得なかった。光が身体を刺してくる。眩しい針に眼球が刺されて痛い痛いと悲鳴を上げる。光が薄汚れた私と家の中を無遠慮なまでに照らし出す。もっと暗い所に行きたい。何もかも真っ黒な場所でずっとうずくまっていたい。私は光から逃れようと居間の中へと入っていった。そこにも光が伸びていたので、少しでも影へ。暗がりへ。そこに、這入っていく私の前に人の残骸が転がっていた。もう映る事のないテレビ。棚の上の家族写真。血塗れのカーペットに囲まれて、それは苦悶しているというよりも、なんだか微笑みながら眠ってさえいるようだった。


「陣さん……」


 私は、力の入らなくなった両足をやっとの思いで引き摺りながら、やはり四つん這いの体勢で残骸の元へと這っていった。覗き込んだその顔は、疲れて擦り切れ壊れ果て、けれどもやっぱり微笑んでいた。もう二度と何処にも届かない荒れてひびの入った両手は、何かを抱き締めようとするかのような指の形で曲がっていた。


「陣さん……どうして笑っているんですか。どうして笑っていたんですか。どうして人を殺しながら、あんな風に笑っていたんですか。あんな風に笑えていたんですか。どうして、逢君に殺されながら、今なおあなたはそんな顔で笑う事が出来るんですか……」


 そう、やはり、微笑みだった。擦り切れ壊れていたけれど、それはやっぱり微笑みだった。全てを諦めた笑みだった。何処にでもいる一人の父親の、いてはいけない人殺しの、かつては人間であったはずの、残骸が浮かべていたものは寂しく悲しげな微笑みだった。一体彼が何を諦め、何を受け入れ、どんな想いでこんな笑みを浮かべたのかはわからない。けれど、決して、幸せではない。幸せな人間がこんな笑みを浮かべるなんてあり得ない。もしもこれを幸せと呼ぶと言うのなら、幸せなんて、あまりに寂しく悲しく惨いじゃないか。だがそうなると、この人は不幸のままに死んだという事になる。それもまたあまりに寂しく、悲しく、惨いように感じられた。だが、もう聞く事はない。もうわかる事はない。一体この人がどのような想いで、生きて、そして死んだのか、もうわからない。聞けない。聞く方法がない。彼が抱え込んでいたのは幸せと不幸のどちらかさえも。


「…………」


 私は、壁を使ってやっとの思いで立ち上がると、陣さんの脇に両手を入れた。疚人ではなかったとしても、ここに放置し続ければいずれ腐ってしまうだろう。厘は、あの黒い少女は、今更一人弔う事に意味があるのかと言っていたが……それは、その通りだと思う。不謹慎だが、そう思う。正直、この村の人達全てを弔うような気力や体力は存在しない。その中で陣さんと逢君だけを弔うという事は、きっと常識や道徳というものからは外れている行為だろう。だってあまりに中途半端だ。だってあまりに不公平だ。だからそういう観点で言うのなら、私のしようとしている事は、自己満足。そう言われたってきっと仕方がないのだろう。


 けれど、陣さんをこのまま放置したら、きっと後悔するから、だから私は陣さんだけはきちんと弔いたいと思った。常識とか、道徳とか、人として当たり前とか、そういう類いのものではなくて、私は陣さんだけは放置する事は出来なかった。


 自分が後悔しないためだけに。


 陣さんを背に負って、外へと這うように歩いていく。血は、すでに固まりきっているのか、たまに私の背中で削れて欠片がポロポロと零れてきた。潰れそうな程の重さの残骸に息を吐きながら歩いていき、死体を負ったまま外に出る。空は青白く晴れていた。光は私と残骸を突き刺すように照らしていた。畑の横を通り過ぎ、雨水が入っただけのドラム缶を通り過ぎ、色の変わった土と鍬がある所まで重い残骸を背負っていく。ほとんど投げ出すように陣さんを土の上に置き、私はまた穴を掘る。死体を埋めるための穴。残骸を埋めるための穴。自己満足のための穴。私の後悔を埋めるための。足下から伸びる影の位置はいつの間にか変わっていて、私はようやく人一人が横たわれる程の穴を拵えた。傍らに横たわる残骸を穴に入れようと顔を上げ、そこで、男の傍に何か紙切れが落ちている事に気が付いた。穴を掘る事に疲れきった私はほとんど何も考えずに手を伸ばし、紙切れを拾った。私は地面に腰を下ろした。紙切れにはこう書いてあった。


『私は獣を見た』

 



『私は獣を見た。恐ろしい獣を見た。その獣は我が子と我が身を守るためなら、例え恩ある人間の喉さえ噛み切ろうとする獣なのだ。私はその浅ましさを見た。その獣のおぞましさを見た。その獣の醜さを見た。だがこの獣は確かに私の中に存在する。果たしてこの世に、この獣を飼っていない人間など存在するものだろうか。自分が生き延びるためなら他者を喰らおうとする獣を、己の内に飼っていない者などこの世に存在するのだろうか』


『私は私の中の獣の浅ましさを垣間見た。おぞましさを垣間見た。醜さを垣間見た。痛ましさを垣間見た。私はその事実に慟哭している。そして一方で諦めてもいる。これが私の本性であったと何処かで納得しさえしている。あの日、私が人間を殺したあの日、彼らもまた自分のために他者の首を噛み切ろうとする獣ではなかったか』


『私は私のおぞましい獣を眺めながら、それでも生きていこうと思うのだ。ただ逢と生きていける幸福に感謝と懺悔を捧げながら、このおぞましい獣は生きていこうと思うのだ。ただ逢と生きていける幸福に、感謝と懺悔を捧げながら』


 それで、文章は終わっていた。あまりにも唐突で、あまりにも脈絡がなくて、きっとこの文章自体には、人に称えられるような価値は何一つ存在しないのだろう。


 しかし、この世に、確かに存在していた一人の人間の胸の内を知るためには……いや、それでも、これはやはりただの紙切れでしかないかもしれない。こんな紙切れ一枚に、一人の人間の想いが、苦悩が、悲しみが、人生が、慟哭が、懺悔が、絶望が、心が、語り尽くせるなんてとてもじゃないが思えない。


 しかし私は、悲しかった。ただ悲しかった。悲しい以外の言葉を、思い浮かべる事さえ出来ない。どんな想いでいたのだろう。どんな想いで、彼は自分の中に巣食う獣を眺めて生きていたのだろう。獣の自分を自覚しながら、どんな想いで微笑ったのだろう。どんな顔で幸せだと断じたのだろう。感謝と懺悔を捧げて生きる人生を、大切な我が子に首を噛み切られる瞬間を、どんな想いで


「何故……幸福なんて書いたんですか。本当に幸せだったと思うんですか。ひ、人を、殺した上に、幸せなんてあるはずないじゃないか。人を殺さなければ成り立たなかった日々の中で、あ、あなたは、どんな想いで……」


 私は、ただ、悲しかった。意味も価値も何もないのに、ただ泣く事しか出来なかった。傍らに転がる残骸は、やはり私の目には微笑んでいるようにしか見えなかった。


 陣さんを穴に埋めた私は、ただその場に座り込んで呆然と遠くを眺めていた。腕も、足も、胴も、頭も、何もかもが重かった。ただこうして生きているという事さえも、煩わしくて重ったるくて無意味で無価値で仕方なかった。


 私は、一体これからどうしていけばいいのだろう。厘と別れて疚売りを探し出せる気はしない。いや、私はそれを放棄したのだ。疚売りを探し出す、その事自体を放棄したのだ。もう人が死ぬのは嫌だ。人が死ぬのを見るのは嫌だ。例えそれが生き延びるために必要な事であったとしても、これ以上人の死を見ながら生きていくのは嫌だった。ただ無惨だ。何かが死ぬという事は。そこには正しさや美しさや意味や価値は存在しない。人間を含めた生き物は皆、いつか死を迎えるものだとそんな事はわかっていても、その先に続いていったであろう生を、命を、幸せを、全てを、一瞬にして奪い去っていく。それが悪人であろうとも、例えば人殺しであろうとも、その全てを奪い取っていく。死とはただそんな無惨さを振りかざすだけのものだった。そんなものをこれ以上私は見たくなかったし、それらを引きずりながら生きる事にも耐えられない。いくらそれしかないと言われても、私にはもう、これ以上、誰かが死ぬのを目の当たりにしながら生き続けるのは耐えられない。


 けれど、それは同時に、私に残されたのは死であるという事実を突き付けるだけのものでもあった。それがいつ訪れるのか、正確な事はわからないが、厘の言葉が正しければ、私は一年後には死ぬ。今まで出遭った疚人と同じように、全身が黒に染まって、渇いて、そして跡形もなく腐りきって。疚売りを探す事を諦めるという事は、一年後に訪れる死を緩慢に受け入れるという事だ。しかし私は、その絶望的な事実に、ほとんど何の感慨も抱く事が出来なかった。


 そもそも私は、一体どうしてここまでして生きる事を選んだのだろう。使父だから。自分で命を絶つ事を神はお許しにならないから。それは生きる機会を与えて下さった神に対する冒涜だから。だから私は、あの少女と共に生き延びる道を探すべく、疚売りを探す旅に出る事を選んだのだ。

 

 けれど、本当にそうだろうか。神がお許しにならないから、私は生き延びる道を探すための旅に出る事を選んだのか? 確かに自ら命を絶つ事は神に対する冒涜だ。けれど疚によって死ぬ事は、神の意志に背くという事にはならないんじゃないだろうか。私はただ、自分が生き延びたいために、神の名を利用していたに過ぎないのではないだろうか。


 私は何故そんなに生きたがっていたんだ? 私は独りぼっちなのに。家族はもういないのに。生きる機会を与えて下さった神に対する冒涜だから。例えそうだとしても、罪を重ねながら生きる生に何の価値があるのだろう。仕方ない。そうしなければ生きていけない。人を殺し罪を重ねそうしなければ生きていけない。そんな生き方は不幸なだけだ。いいえ幸せです。生きる事は幸せです。生きられるだけで幸せです。人を殺して掴んだ生でも。違う違う違う! 人を殺した罪の上に成り立つ幸せなんてない! 悪辣に生きるなんて間違いだ! なら正しく死ぬ事は正しいか?


 私は。


「ねえ、君、死んでるの?」


 人の声が聞こえ、私は瞼を持ち上げた。頭の後ろに何か湿ったものがあった。視線を動かすと青年が、一人の青年が妙な位置から私の顔を覗いている。


「あ、生きてた。ごめん、寝てたの? 君、この辺りの人? お昼寝中だったのかな」


「君……は、誰……」


「ああ、ごめん。ボクは渺って言うんだ。君の名前は?」


「分……」


「分? 分、いい名前だね。分って呼んでも構わないかな? ボクの事は渺でいいから」


 誰だろう……青年の顔を眺めながらぼんやりとそう思った。ビョウ、というのはわかったが、一体何処から来たのだろう。そして何故青年の顔は私の横にあるのだろう。渺と名乗った青年は、妙にニコニコとした表情で私の事を眺めていたが、急にハッとした顔をしてしゅんと眉を八の字に下げた。


「ご、ごめん、ちょっと馴れ馴れしかったかな? それとも呼び捨てはダメだったかな?」


「あ、いや……すまない、ちょっとぼんやりしてしまって……」


「眠いの? 具合悪いの? お腹空いた? 困ったなあ、今食べ物切らしちゃってて何も持っていないんだよなあ……」


 青年が首を傾げて初めて、私は自分が土の上に仰向けになっている事に気が付いた。いつ倒れたのかはわからないが、青年が妙な位置から私を覗いていたのはつまりそういう事だった。いくらなんでもこの体勢は会話する時のそれではない。


「す、すまない。寝ころんだまま話をするなんて……」


「え? いや、大丈夫だよ。もしかして具合悪いんじゃない? なんだか顔色も良くないし」


「え、いや、大丈夫……」


「じゃあ、お昼寝中だったのかな?」


「……まあ……そんなところかな……」


 私は咄嗟に嘘をついた。まさか人間二人を弔って、そのすぐ傍で寝ていたなんて、言えない。言える訳がない。渺と名乗った青年は、しゃがみ込んだ状態のまま私を見ながら首を傾げる。


「お昼寝だったらここじゃなくてももっと良さそうな所があるのに。こんな所で寝るなんて、分って変わっているんだね」


「あ、ああ、うん……」


「ま、いいや。分ってこの辺りの人なのかな? 良かったらちょっとボクと話をして欲しいんだけど……」


 その時、グウーと盛大な音が辺り一帯に鳴り響いた。私の音かと思ったが、見ると青年が照れたように自分の頬を掻いている。


「あはは……ごめん。お腹空いちゃったみたいだね。この辺りでご飯食べられそうな所ってあるのかな」


「あの……それは……」


 ある訳がない。この村の住人はみんな死に絶えてしまっているのだ。しかしこの青年に説明するのは困難だし、空腹を訴えている人間をこのまま追い返すと言うのも……、…………


「じ……実は、私、この家の人間なんだ……」


「あ、だからこんな所で寝てたんだ」


「野菜があるから……良かったら食べていかないか……大した物は……出せないけれど……」


 私が呟くと、青年は人懐っこい顔をぱっと明るくして見せた。その表情に、そして自分の発言に、津波のような後悔と罪悪感が押し寄せる。


「いいのかい? 感激だなあ、ありがとう! こんな通りすがりに食事を振る舞ってくれるなんて、君ってすごくいい人なんだね!」


「そんな事……お腹を空かせた人を前にしたら、人間として当たり前の事じゃないか……」


 言いながら、吐き気がした。私はなんて、なんて忌まわしい事を口に出しているのだろうか。あの畑は私の物じゃない。愛する息子のために、人まで殺した父親の物。私の背後に、この家の本当の持ち主達が立っているような気がして、私は地面に視線を落として目を伏せる事しか出来なかった。


 青年は、渺は、妙ににこにこと「それじゃあお邪魔させてもらいます」と私にぺこりと頭を下げた。その人当たりのよい明るさが、今の私には惨かったが、彼に罪がある訳ではない。罪があるのは、…………。私は立ち上がり、泥のような体を引き摺って家へと向かい扉を開け、そこでとんでもない事に気が付いた。私と厘が土足で上がり込んだから廊下も部屋も泥だらけだ。これは……人が住んでいる家の惨状ではないだろう。


「どうしたの?」


 背後から中を覗き込まれ、私は体を反転させた。どうしよう。何とかしなければ渺に不審に思われてしまう。


「す……すまない。家がすごく汚いんだ」


「別にボクは気にしないけど」


「ふ、普通の汚さじゃなくて、尋常じゃなく汚いんだ。実は、その、……うっかり靴を脱がずに家の中に入ってしまって……」


「靴を脱がずに? 分ってうっかり者なんだね」


「は、はは……だから、ちょっと掃除したいから待っていて欲しいんだけど……」


「ボクは別に構わないよ。悪いけど先に何か食べさせてもらってさ、その後二人で掃除しない? ご馳走になるお礼にさ」


 渺はそう言ってにこりと笑った。なんて気のいい青年だろう。騙しておいて申し訳ないが、何とか誤魔化せそうな事に胸の内で安堵する。


「あ、ありがとう。それじゃあとりあえず台所に……」


 そこで、私は廊下など比ではない、さらにとんでもない事に気が付いた。廊下から台所に向かう途中の部屋には血痕がしっかり残っている。陣さんが逢君に殺された部屋。私は急いで襖を閉めた。これは絶対に見せられない。


「どうしたの?」


「あ……いや、部屋もすごく汚いから……」


「そんなの、別に気にしないのに」


「いや……本当に、酷い有り様なんだよ……今からご飯を食べる人にはとても見せられないぐらい……」


 我ながら苦しい言い訳だったが、これ以上の言い訳など思い付きはしなかった。渺はしばらく不思議そうに私の事を見つめていたが、「うーん、そうか」と呟いて襖の前を通り過ぎる。


「じゃあそこも、ご飯を食べ終わったら掃除しようか」


「え……いやいいよ、迷惑だし……」


「迷惑なんて、恩を貰って返さないのは人間として最低だろう? それぐらいの事しか出来ないけれど、それぐらいの事はやらせてよ」


 胸が痛い。その明るい、人当たりのいい、まともな発言が酷く鋭く胸に痛い。私はどう返したものかもわからずに、「ありがとう」とだけ呟いた。渺の気遣いは嬉しいが、襖の奥を彼に見せる訳にはいかない。料理を作る間に誤魔化す手段を考えなければ。


「ねえ分、水はどうすればいいのかな」


 渺の声に、私ははっと顔を上げた。水なら家の裏の方に……


「あ、ああ、ごめん。水は雨水を貯めたのが外に……」


「あ、これを使えばいいのかな。このペットボトルに入ってるのって水だよね?」


 渺は床の上にあった何かを持ち上げ私に見せた。薄汚れたペットボトルには、確かに水らしき透明の液体が半分ぐらい入っている。


「あ……ああ、ごめん。前に貯めておいたのを忘れてたよ」


「野菜は畑かな?」


「あ、うん……」


「あ、冷蔵庫に洗ったヤツが入ってる。鍋は何処?」


「ええと、下の方に……」


「この洗い籠のヤツ使っていいのかな? 火はある?」


「え、ええと……」


「あ、枯れ草が置いてある。これを使えばいいのかな」


「……」


「……」


 不味い。やばい。やっぱり嘘なんて吐くんじゃなかった。台所の何処に何があるかもわからないなんて、怪しいにも程があるじゃないか。渺は、少し首を傾げて私の事を眺めていたが、その瞳が疑うように少し細くなった気がした。


「分……ボクに何か隠し事でもしているの?」


「隠し事なんて……してないよ……何も」


「だったらどうして目を逸らすの? ボクの目を見て話せないような何かがあるからなんじゃないの?」


「か……隠し事なんて……私は……私は……」


 突然、渺が鍋を置き、身を翻して台所の入り口に向かって歩き出した。その視線が襖に注がれている事に気付き、私は慌てて渺を止める。


「渺、違うんだ」


「何が違うの? 隠し事が何もないなら襖を開けるぐらいいいじゃないか」


 私の制止を振り切り、渺の腕は襖を勢いよく開けてしまった。渺の瞳に血塗れの絨毯が映り込む。全身から血の気が引く音がした。


「…………」


「渺……違うんだ。これは……これはその……」


 一体何が違うと言うんだ。私の頭の奥底でそんな声が響いていた。明らかに挙動不審で、何処に何があるかもわからなくて、極め付けに部屋は血で赤黒く染まっている。これ程決定的な事があるだろうか。けれど違うんだ。私はこの家の住人を、陣さんと逢君を殺した訳では、決してない。信じてもらえるはずもないのに、私は震える喉を、口を、動かさずにはいられなかった。


「渺、違うんだ、これは……」


「一体何が違うって言うの?」


「わ、私は……人殺しなんて……」


 言いながら、これ程無意味で、説得力のない言葉があるだろうかと思ってしまう。渺が私を振り返った。先程までの人当たりのいい朗らかな表情ではなくて、咎人を見るような、人殺しを見るような目付きで私の事を見つめている。渺は怖い表情で私をしばらく見つめた後、


「ふ」


 突然、笑い出した。


「ふふ……ふ、あはははははは!」


「…………」


「ご、ごめんごめん。突然笑い出したりして……でも分、そんな、すがるような目でボクの事を見ないでよ。そんなに心配しなくても、ボクは君を人殺しだなんて疑ったりはしないって」


「な……なんで……」


「だって人殺しが、人を殺したばかりの家に、ただの通りすがりの他人を上がらせる訳がないじゃない」


 渺は、何の気負いもなく、血と泥で汚れた部屋の中へと入っていった。そのあまりの自然な不自然さに、私の方がたじろいでしまう。


「まあボクの事も殺すために誘い込んだ……って可能性もなくはないけど、それにしちゃあ廊下が汚れていたり、慌てて部屋を隠したりってあまりにもお粗末過ぎるしね。それに、分って嘘が下手そうだから、人を殺しておいて黙ってるなんて出来なさそうな感じだし。万一人なんて殺したら、一日中呆然としていそうな気がするよ。……あ、この人達がこの家の本当の住人かな? さっき埋めてた人達だよね?」


「ど……どうして、埋めたって……」


「君が寝てた場所のすぐ後ろ、そこだけ色が違ってたから。サイズ的にも大人一人に子供一人って感じだったし……この人達だよね?」


 渺はそう言うと、棚の上に置いてあった写真を手にして私へ見せた。そこには笑みを、悲しげで寂しげな笑みではない、心の底から幸せそうな微笑みを浮かべた陣さんと、陣さんに抱きかかえられている逢君の姿が写っていた。なんて粗末な嘘を吐いたのだろう。私は目を伏せるしかない。


「でも……でも、それだけじゃ、私が陣さんや逢君を殺していないという証拠にはならない。陣さんや逢君を殺して、埋めて、お間抜けにも君をこの家に上がらせた可能性もあるはずだ」


「うーん、妙に疑うなあ。ボクは君を人殺しだなんて疑ってはいないのに、君を人殺しだと疑っているんじゃないかと君はボクを疑っている……なんて、何だかややこしいね」


「はぐらかさないでくれ」


「あはは。でも、本当に君を人殺しだなんてこれっぽっちも思ってないよ。だって君、人殺しの匂いがしないもの」


「え?」


 急に、腕を掴まれて、右の手首に何か妙に冷たいものが押し当てられた。見れば渺が、私の手首に鼻を当てすんすんと臭いを嗅いでいる。


「ああ、やっぱり、いい匂いがするよ」


「渺! 一体何をしているんだっ!」


「何って、分の匂いを嗅いでいるんだけど」


「に……」


 何と返すべきかわからなかった。私の臭いを嗅いでいるって……何故。混乱している間にも渺は鼻を動かし続ける。


「や……止めてくれ、臭うだろう……」


「確かに匂うけど、嫌な匂いじゃないよ。なんだかほっとする匂いだ。人間ってさ、自分と遺伝子的に遠い人をいい匂いだと思うんだって。そうする事で自分と違う遺伝子を見つけて取り込んで、より強い遺伝子を作るためらしいんだけど……だからきっと、分はボクとは全く違う人間なんだね。だからボクと違って信用出来るよ」


「よく……わからないけれど、悪いけどそろそろ……その……」


 さすがに、いくら手首の事とは言え人に臭いを嗅がれるのは。私が言いあぐねていると、渺ははっとした顔をしてようやく腕を離してくれた。


「ご、ごめん! ごめんね本当、気持ち悪かったよね!?」


「あ……いや、えっと……その……」


「え、ええとっね、とりあえずボクが言いたいのは、分が人殺しだなんてボクはちっとも疑ってないって事なんだ。それだけわかって欲しかっただけなんだけど……き、気持ち悪かったかな?」


 そう言って、渺は伺うように私を見た。その、正直……ほんの少し……けれど、渺が何とか私を安心させようとしている事はわかったから、私は首を横に振った。


「いや……ありがとう。私の事を信じてくれて」


「分の事を疑ったりなんてしないって。だって分はいい人だし、それにすごくいい匂いだし」


「だから、いい匂いっていうのは……あまり根拠になっていないと思うんだけど」


「いや、ボクにとってはこれ以上の根拠はないよ。だってボクがいい匂いだと感じるっていう事は、ボクから遠い、正反対にいる人間っていう事になるからね」


「そんな言い方……まるで君が悪い人間みたいじゃないか」


「そうだよ、結構悪い男なんだよ、ボク」


「はは……」


 私は思わず笑ってしまった。渺もにこにこと立っている。その姿は人なつっこい、人当たりのいい、冗談好きの青年にしか私の目には映らない。


「それにボクは、ちょっと嬉しかったんだ。分がボクの事、名前で呼んでくれた事がさ。これはちょっとは分がボクに心を開いてくれた……と自惚れてもいいのかな?」


「心を開いてくれたなんて、まるで私が君を警戒しているみたいじゃないか」


「え? 警戒してないの? もしかしたらボクこそ人殺しかもしれないのに」


「君が人殺しだったとしたら、私はこの世の誰の事も信用出来なくなってしまうよ」


 私がそう返事をすると、渺は嬉しそうな顔をして、勢いよく私に抱きついてきた。思いがけない攻撃を受けた私は、渺を受け止めきれずにそのまま後ろに倒れ込む。


「う……」


「嬉しいなあ、困ったなあ、君の事がとっても好きになりそうだよ」


「お、大袈裟だな……とりあえず、退いてくれないか? その……私もお腹が空いたし……」


「あ、そうだね、ごめんごめん」


 渺は私から体を離して起き上がり、それから私に右手を伸ばした。薄汚れた天井から渺の顔へと視界が変わり、そして渺が笑顔を浮かべる。


「それじゃあ、ご飯の準備をしようか」


「あ、ああ、そうだね」


 渺は私の手を握り締めたまま台所へ歩いて行こうとする。私は手を握られたまま渺の行動に従った。今のこのやり取りが、血塗れの部屋で行われた、その異常性に、しかし気付かないフリをしたまま。


「それじゃあ気を取り直して、何か作るとしようかな。分は何が食べたいの?」


「何がって……言われても……」


 選択肢が……ない。私は黙らざるを得なかった。この台所に一体何があるのか正確な所はわからないが、畑で取れた野菜、しかない。陣さんはそう言っていた。そんな状態で作れるものと言ったら、野菜の煮込みか野菜の炒めか、それ以外にはないだろう。


「陣さんは……この家には野菜以外はないって……」


「あれ? これって塩じゃないの?」


「ど、何処でそれを!?」


 渺の手には、陣さんに渡したはずの塩の瓶が握られていた。少し汚れたその瓶を、渺は右手で軽く振る。


「廊下の端に落ちていたんだ。なんでそんな所に落ちていたかはわからないけど」


 気付かなかったが、きっと陣さんが落としたものだ。私はたまらなくなった。逢君に少しでもおいしいものをとあげたのに、結局。


「とりあえずこれを使おうか。あと脂ならちょっと持ってるから、それも使うよ」 


「ま、まかせて大丈夫……かな。偉そうな事を言って申し訳ないけど、あまり料理には自信がなくて……」


「いいよ。分は何処かに座ってて」


 渺はにこやかにそう返すと、電源の入っていない冷蔵庫からじゃがいもと白菜を取り出して、包丁を手に取ってじゃがいもの皮を剥き始めた。結構……いやかなり、手際がいい。危なっかしいと清華に注意されていた私なんかとは大違いだ。


 最初はそれでも手伝おうかと思ったが、下手に手を出さない方がいいような気がしてきた。渺の手際はそれだけ良かった。変に手伝おうとした所でかえって邪魔になりそうだ。


 情けない。料理をする渺をぼんやり見ながらそう思った。私は昔からそうだった。何かしたいと思うのに、結局何も出来やしない。お腹の空いた人間を見捨てておけないと偉そうな事を言いながら、結局何も出来てやしない。いや、そもそも食材だって、私のものではなく、陣さんが必死の想いで育てて守ってきたもので……私はそれを奪っているだけ。死んだ人から水を盗んで飲んだ厘を責められない。


 私だって結局、同じ穴の貉じゃないか。人を非難するだけ非難して、している事は同じじゃないか。そんな私が生きた所で一体何の意味がある。一体何の価値がある。どうせ食べる物もない。共にいるべき人もいない。一年後には途切れてしまう命なら、やっぱりここで、自分の手で、いっそ絶ってしまった方が……

 

「……ん、分、ご飯出来たよ。大丈夫?」


 青年が、私を覗き込んでいて、私ははっと顔を上げた。今何を考えていた? 心配そうな渺に気付き慌てて笑みを作ってみせる。


「ご……ごめん……ぼーっとしてた……」


「大丈夫? ちょっと寝る?」


「い、いや、頂くよ……ごめん、一人で作らせて……」


「そんな事は気にしないでよ。分の口に合ってくれたら嬉しいな」


 渺は笑って、私の目の前のテーブルに湯気の立つお椀をことりと置いた。それから野菜炒めの皿。「頂きます」と手を合わせ、口に入れた食べ物は、塩気と風味がちゃんとあって、質素だけれどおいしかった。


「おいしい」


「それは良かった」


「こんなまともな物、久しぶりに食べたよ、久しぶりに……」


 呟いた瞬間、私の目から、ぼろぼろと涙が零れてきた。渺はぎょっと目を見開いて立ち上がって身を乗り出す。


「ど、どうしたの? 何処か痛いの?」


「ち……違うよ……た、ただ、悲しくて……」


「悲しい?」


「陣さんが……この家に住んでいた人が、お、お世辞にも料理が上手だとは言えなくて……逢君においしい物を食べさせてあげられないって、か……悲しそうな顔をして……」


 顔を上げる事が出来なかった。鼻が痛い。今更後悔が涙となって零れ落ちる。後悔したって遅いのに。


「も、もっと早く、気付いていれば良かったんだ……塩ぐらい、もっと早くに渡せていたはずなんだ……私は役立たずだ。いつも何の役にも立てない。今更気付いたって遅いのに。もう遅いのに」


 なんて身勝手な奴だろう。言いながら、そう思った。こんなの懺悔にだってなりはしない。本当に悲しかったのは、辛かったのは、陣さんだ。私じゃない。その悲しみも辛さもわからないのに、全てが終わってから勝手に泣いているだけだ。なんて身勝手な奴だろう。いつもそうだ。私はただ泣くだけで、喚くだけで、叫ぶだけで、何もしない。何も出来ない。救えない。私はただの無力な卑怯者でしかない。


「分はさ、優しいんだね」


 そんな私に、渺はそう呟いた。


「そんな、言ってしまえば赤の他人の事に涙を流せるなんて、分は優しい人なんだね」


「そんな事は……ないよ。だって私は、何も出来ない。本当に何も出来ないんだ。苦しんでいる人を目の当たりにしても、何も出来ない。こんなの勝手に憐れんで、同情して、泣いてるだけだ。私はただの卑怯者だ」


「本当に優しくない奴は、他人のために泣く事だって出来ないよ。自分は無力な奴だって、自分を責める事さえしないよ。上っ面で泣いて、助けられなかったと後悔もしないで、いずれ忘れる。そしてまた何処かで上っ面の涙を流す。そんな奴等が大勢いる中で、そんなに痛そうな顔で他人のために泣いて、自分を責める分は、優しい人だよ。ボクはそう思う」


 いつの間にか、渺は私の横の椅子に座っていた。人懐っこい目をやわらかく細めて私の事を見つめている。


「自分のために泣いてくれる人がいる、それだけで誰かの救いになる事はあるんじゃないかと思うんだ。だって一人で悲しんだり苦しんだりするっていう事は、孤独なんだ。誰とも分かち合えない孤独を、誰にも理解されない孤独を、ずっと独りで抱えながら生きるっていう事なんだ。分かち合えないどころか、理解されず、非難される、そんな孤独を抱えながら生きていくのは、辛いよ。自分を受け入れる人はこの世にいないと全てを恨んでしまう程に」


「……」


「でも、自分の事を想って、泣いて、悲しんでくれる人がいる、それだけで、それだけでさ、独りで苦しむ寂しさは癒されるんじゃないのかな。例え全てが癒される事はなくっても、誰とも分かち合えない孤独だけは、癒される。分みたいに、ただ自分を想って、泣いてくれる人がいるだけでも」


 私は……顔を上げて渺を見た。渺は笑っているような気がしたが、目がどうにも痛くって正直よく見えなかった。


「君は……変わった事を言うな」


「そうかな? ボクには分の方がよっぽど変わってると思うけど」


「そ、そりゃあ私は料理も出来ないし、要領も悪いし、抜けてるけど……」


「いやいや、そういう事じゃなくてね……分だったら、ボクの悲しみや苦しみも少しはわかってくれるのかな。ボクが死んだ時も、涙を流してくれるのかな」


 渺の呟きは……私にはよく聞こえなかった。その声はあまりに小さく、早口で、不明瞭だった。私が問い直そうとする前に、その前に渺は私の横から立ち上がった。


「冷めない内に早く食べようか。掃除もしたいし、水もいっぱい用意したいし」


「あ……ああ……そうだね」


 私は、渺に促されるままに目の前の料理を食べ始めた。噛み締めるようにして食べ、十数分後にはそれも終わり、私達は暗くなる前にと水を用意する事にした。火を当てても大丈夫そうな容器を円状に並べた岩に置き、その下に枯れ草を敷き詰め、火をつける。容器の上に板を斜めに張って、そこに溜まった水滴を別の容器に集めていく。


「ペットボトルを使って雨水から飲み水を作る方法を前に見た気がするんだけど、はっきり覚えていないんだよなあ……人生何があるかわからないから、ちゃんと見ておけば良かったよ」


「そうだね。後悔先に立たずとか、後の祭りとか言うけれど、あの時もっとこうしておけばと思っても、取り返しのつかない事はたくさんあるんだ……今更になって痛感するよ」


「でもまあ、ボクはキャンプみたいで楽しいかな。分がいなければそんな事、ちっとも思わなかったと思うけど」


 渺は、そう言って笑った。何の気負いもないように。血痕がこびりついた家の前で、死体が埋まっている土の横で、人が人を殺してまで守ろうとした野菜を食べた後に、するような話ではなかったけれど、私は口に出すのは止めた。口に出してこの空気を壊してしまうのが嫌だった。


「あ、そうだ、どうせならお風呂の用意もしようか。分がお風呂嫌いならボクはどっちでもいいけれど」


「あ……えっと……じゃあ、せっかくだから」


「じゃあ、一緒に燃料を取りに行こうか。ちょうど荷車もあるみたいだし」

 

 渺は荷車を確保して私の傍まで歩いてきた。後で荷車を借りてもう一度来るよ。その時また一緒に来よう。今は土の下にいる少年と手を繋ぎながら交わした言葉が、私の脳を掠めていく。


「分? どうしたの? 顔色が悪いよ?」


「あ、ああ、大丈夫……」


「そう? 気分が悪いなら無理しなくていいんだよ?」


「いや、大丈夫だよ、行こう……」


 私は、一瞬そこに視線を向けて、空の荷車を押していく渺と共に歩いていった。思わず力の入った手に、とても収まりきらない程の後悔を握り締めながら。

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