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その後、食事を終えた私は、躊躇った末お椀を玄関に置いて外に出た。本当は流しに置きに行きたい所だが、泥があちこちについた体で家に上がり込むのは気が引けた。外に出ると、陣さんがドラム缶に水を貯めている所だった。所々錆びの見える水色のドラム缶に、底に土の付いたポリバケツで水を流し込んでいく。陣さんは水を注ぎ入れると顔を上げ、私を見て申し訳なさそうな笑みを浮かべた。
「すいません、雨水ですが……少しゴミが浮いているかもしれませんが……」
「あ、す、すいません。手伝います」
「そうですか? それではお願いします……」
陣さんは、空のバケツをそれぞれ一つずつ両手に持つと家の裏側へ歩いていった。着いていくと家の裏には、バケツや、タライや、洗面器や、ペットボトルなんかが、砂埃や泥に汚れながら所狭しと並んでいた。
「雨水を溜めて沸騰させて使っているんです……申し訳ありませんがお願い出来ますか?」
「は、はい、もちろん」
私は、とりあえず近くにあったタライを一つ持ち上げた。正直、重い。木の葉や細かなゴミが浮かんでいるのが見て取れたが、そんな事は気にしていられない。よたよたとよろめきながらもタライをドラム缶に運んでいく。
何とか溢す事なくドラム缶へと辿り着き、綺麗とは言い難い水を中へと注ぎ入れる。タライの中に入っている時は溢れんばかりの量だったが、ドラム缶に入れてしまえば実に微々たるものだった。私はタライを持って家の裏へと歩いていく。途中で陣さんと擦れ違う。空のタライを置いて、バケツを二つ持ってドラム缶の方へと戻る。陣さんと二人で、しばらくそれを繰り返した。
数回程はただ陣さんに迷惑をかけまいと無心で水を運んでいたが、ドラム缶に水が貯まっていき、裏庭に空の容器が溜まっていく程にとんでもない事に気が付いた。一体、私と厘がお風呂を使わせてもらうだけで、どれだけの量の水を消費する事になるのだろう。ここにある水全てを使いきってしまう、というような事はないだろうが、かなりの量を使うはずだ。すぐに雨が降ってくれればいいが、父子二人で使う分の雨水がきちんと降ってくれるとは限らない。
いやそもそも、どうして私達はこんな所にいるんだ? 食事を振る舞って頂いただけで十分過ぎる程なのに、その上お風呂まで厄介になろうなんて迷惑にも程がある。もう食事は頂いたのだ。枯れ草集めもしたのだから、一応恩は返せたはずだ。厘を連れて早々に立ち去るべきだ。私は顔を上げて陣さんを見た。
「じ、陣さん、すいません、用意をして頂いて申し訳ありませんが、私達はそろそろお暇しようかと……」
「戻ったわよ。水の用意は出来たの?」
背中に冷たい水を流し込まれたような悪寒を覚え、私は声に振り返った。見れば、泥だらけのダッフルコートをまとった髪も目も黒い少女が、不吉と不安を形にしたように傲然とそこに立っていた。
「り……厘……」
「ふん、まあまあの量って所ね。わざわざ持ってきてやったのよ。特にこの家の近くの道がガッタガタで大変だったわ。火の方は任せていいのかしら」
「え、ええ……はい」
「分、私と交代して。私は湯が沸くまで休むから」
「り、厘!」
私は玄関に向かおうとする厘の肩を掴もうとして、躊躇った。さっき不用意に掴んで蹴り飛ばされたばかりなのだ。私がどうしようかと悩んでいると、厘が黒い髪を揺らしながら私の方を振り返る。
「何」
「いや……そろそろお暇しようかと……」
「はあ? 何でよ」
「何でって……こ、これ以上は迷惑だろう。お風呂に入るのには水がたくさんいる訳だし……」
「何よ、風呂に入れって言ったのはアンタじゃない」
「そ……そうだけど……そうじゃなくて……」
どうして、この少女にはこれ程気遣いというものがないのだろう。自分の行動がどれだけ人に迷惑を掛けるのか、どうして考えてくれないのだろう。私がどう言ったものか悩んでいると、思わぬ所から思わぬ言葉が飛んできた。
「分さん、構いませんよ。そんなに気を遣わなくても」
「じ、陣さん。しかし……」
「燃料を集めて頂いて逢と遊んでまでもらったのに、そのお礼があんな粗末な食事一つでは私の面目が立ちません。雨水などで申し訳ありませんが、どうか風呂の世話ぐらいはさせて下さい」
「いや、でも、そんな……」
「それに、このままあなた方をお帰ししたら、私はお客様をろくにもてなしもせずに追い返すような父親という事になってしまう。そんな姿を息子に見せる訳にはいきません。ここはどうか、私のためと思って……」
そう言って陣さんは、深々と丁寧に頭を下げた。自分だって大変な時に、ここまで赤の他人を、しかもただの通りすがりを想いやれる人がいるだろうか。私は陣さんのご厚意に、しかし嬉しさよりも感動よりも悲しいものを覚えていた。
「そういう事でしたら……ありがたく使わせて頂きます。……あ、それから、枯れ草を取りに行くのに逢君も一緒にいいですか? せっかくですからもう少し外で遊ばせてあげたいんです」
「えっ!? ……ああ、はい、ありがとうございます。どうかよろしくお願いします。くれぐれも空き家にだけは近付かないよう……」
「相変わらずまだるっこしい会話をしてんじゃないわよ。早く湯を沸かして頂戴。汗でベタベタして気持ち悪いのよ」
陣さんの申し訳なさそうな言葉を、厘の刃物のような言葉がぴしゃりと断ち切った。本当に、どうしてこう、気遣いというものがまるでないのか。そんな思いで少女を見ると、少女はそう言えばという風に陣さんへと視線を向けた。
「そうだ。アンタに聞きたい事があるんだけど」
「は、はい、何でしょうか」
「妙な男を見なかった? 黒い布で顔を隠した、妙な試験管を持った、今にもくたばる寸前の病人みたいな妙な男よ」
厘の言葉は、背中に針を打たれたように私の事をゾッとさせた。しかし私の悪寒とは裏腹に、陣さんは何の事かわからないという顔をしている。
「いえ……見ておりませんが……」
「本当に? 隠し立てすると承知しないわよ」
「本当です……嘘は申しません。村の者がいなくなってからお会いした人間はあなた達二人が初めてです」
その時、厘はふっと笑った。その笑みは私に何か嫌なものを予感をさせたが、厘はそのまま言葉を続けた。
「それじゃあ、あのガキは?」
「ガ……」
「ええと、逢の事ですか?」
「ああ、多分そいつの事よ。そのガキは今言った男に会わなかった?」
「り、厘! いくら何でも失礼だろう!」
「私、人の名前覚えられないのよ。どうせ通りすがりの赤の他人だからいいじゃない」
「…………」
「ええと……逢は、会っていないと思いますが……今日外に出た事も久しぶりだと思いますし……」
「……ま、直接聞いた方が早いわね。ちょっとアンタ、あのガキをここに呼んできて」
気が……遠くなりそうだった。一体何処の世界に、父親の前でそんな表現を使う人間がいるのだろう。
「り、厘! いくらなんでも失礼だろう! 君は一体どうしてそんな口の利き方を……」
「お兄ちゃん、つまらないからぼくと一緒に遊んでよ~」
厘を諌めようと口を開いたその瞬間、扉が開き、逢君が無邪気な声を上げながら私のコートにしがみついた。タイミングがいいのか悪いのか、逢君を見つめながら悩んでいると、厘が腕を組んだ状態で逢君のつむじを睨み下ろす。
「ちょうど良かったわ。ねえアンタ、妙な男を見なかった? 黒い布で顔を隠した、妙な試験管を持った、今にもくたばる寸前の病人みたいな妙な男よ」
「こ、子供相手になんて聞き方をしているんだ! ごめんよ逢君、ちょっと答えてくれるかな? 黒い布で顔を隠した男の人を見なかった? こういう細い管を持った、ちょっと元気のない男の人なんだけど」
しゃがみながら尋ねると、逢君はちらりと陣さんを見、ふるふると首を横に振った。
「ううん、見てないよ。お父さんはぼくの事お外に出してくれないから……」
逢君はそう返事をすると、陣さんの事を幼い瞳で睨み付けた。陣さんは酷く悲しそうな顔をした。私はまた悲しくなった。
「そうか……えっと、私はまた枯れ草を集めに行こうと思うんだけど、良かったら手伝ってくれるかな?」
「うん! 行く行く!」
逢君は陣さんを睨んでいた顔を一変させ、嬉しそうな笑みを浮かべて私のコートにしがみついた。陣さんは酷く悲しそうな、そして寂しそうな顔をする。
「すいません、よろしくお願い致します……逢、危ないから空き家に行ってはいけないよ……絶対に行ってはいけないからね……」
「お兄ちゃん、早く行こう」
逢君は、返事さえしなかった。陣さんは酷く悲しそうな顔をした。私は陣さんに頭を下げ、そして背を向けようとした。
「待った。やっぱり気が変わったわ。分、早くここを出るわよ」
驚いて、私は後ろを振り返った。何を言われたのかわからなかった。聞き間違いかと思った程だ。黒い少女の顔を見ると、厘はいつものような冷めた瞳で私の事を見つめている。
「厘……今なんて言ったんだ」
「ここを出ると言ったのよ。荷物を持ってくるわ。早く出発しましょう」
きっぱりと言い捨てて、厘は家の中へと入っていった。酷く……頭が混乱した。厘は今しがたまで、お風呂に入るから用意をしろと言っていたはずだ。それを今すぐ出ていくだって? どういう事だ? あまりにも急過ぎて頭が全くついていかない。
「お兄ちゃん、行っちゃうの? どうして? ぼくと遊んでくれるんじゃなかったの?」
「逢君、ちょっと待ってくれ。私にも一体どういう事だか……」
「出て行くって言ったのよ。悪いけど急ぐの。これ以上アンタに構っている暇は微塵もないわ。じゃあね」
厘は、私の足下に背負ってきたリュックを放り投げて、そのまま歩いて行こうとした。もう、無神経とか図太いとか、そんな次元じゃない、暴虐無人もいい所だ。逢君が今にも泣き出しそうな目で私のコートをぎゅっと掴む。
「お兄ちゃんいかないでよ! ぼくと一緒に遊んでよ! 遊んでくれるって言ったのに!」
「逢君……厘、いくら何でもあんまりだ! 一体どういう事なんだ!」
「何よ、アンタだってさっきはここを出るとか言っていたじゃない」
「そ……それは……でも、さっきとは事情が……」
「だったら私も事情が変わったのよ。早く行くわよ。時間がないのはわかっているでしょ?」
「いや……いやだよ、やだよ、遊んでよ! 嘘つき! ぼくと遊んでくれるって言ったのにっ!」
「逢……お二人は急ぐんだそうだ。我が儘を言って困らせるんじゃない」
陣さんが逢君に駆け寄り、後ろから両腕で抱え上げた。逢君は陣さんの腕の中で力いっぱいに暴れている。
「やだ! 離せ、はなしてよ! お父さんがお兄ちゃんとお姉ちゃんに何か言ったんだろう! きっとそうだ。お父さんなんて大嫌いだ!」
「逢君、それは違う! お父さんは私達に本当に良くしてくれて……」
「分、いいからとっとと行くわよ」
厘が私の腕を引いた。私はどうすればいいのかわからなかった。逢君の誤解を解いてやりたい。しかし、何と言えばいいのかわからない。
「逢君、君のお父さんは立派な人だ。君の事を心の底から愛してるんだ。お父さんの事、わかってあげてくれ。いつまでも仲良く暮らすんだよ」
「やだよ、嫌だよお兄ちゃん! ぼくと一緒に遊んでよ! ぼくも一緒に連れてって!」
「さあ、行くわよ」
「お兄ちゃん!」
私は、後ろ髪を引かれる思いで、陣さんと逢君の家を後にした。背後から扉の閉まる音が聞こえてきた。振り返るとそこに父子の姿はすでに無かった。
「早くここを出るわよ」
「厘……一体どうしたんだ。意味がわからない。出ていく前にわかるように説明してくれないか」
「あの父親が人殺しだからよ。面倒に巻き込まれる前にとっととここを出て行くわよ」
厘の言葉に、全ての音と温度が奪われたような錯覚を感じた。一体……今、この少女は何と言ったんだ。
「ひ……人……殺しって……」
「感心しちゃったわよ。これだけの人数殺しておいて、よく平気な顔で人にクソ不味い飯なんか振る舞う事が出来たものね」
「君は……君は、何を根拠にそんな酷い事を……っ!」
厘は、私の腕を引っ張って近くの空き家へ入っていった。陣さんが野犬の住み処になっていると言った空き家へ。私は声を上げようとしたが、厘の手が私の口を塞ぎ、耳元で囁く。
「野犬なんていないわよ。今から証拠を見せてあげる」
厘は私の手を引いたまま土足で玄関に上がり込んだ。そこに言葉はいらなかった。玄関から入ってすぐの所に、すでに腐り始めている人間の足が転がっていた。
「………………!」
「詳しく見たいなら奥まで行って見てもいいわよ? 鍬か何かで頭をぱっくり割られた人間の死体が何個かあるから」
「や……野犬の仕業とか……」
「野犬が鍬で人の頭をかち割る訳がないでしょうが。他の家も全部見てきたけど、野犬なんていなかったわよ。代わりにあったのは同じように鍬の痕がある腐りかけの死体。これが何を意味するのか……いくら何でもわかるわよね?」
厘の言葉は、私を深く冷たい泥の底へと突き落とした。村の人は皆居なくなり、空き家には野犬が住み着いたと言った陣さんの言葉。危ないから空き家には近付くなと言った陣さんの。けれど、その本当の意図は。
「わかった? あいつがどういうつもりなのかは知らないけれど、長居する気にはならないでしょう? わかったらとっととここから」
その時、急に扉が開いた。私が声を上げるより先に厘が私の前に飛び出し、その頭に鍬のようなものが勢いよく降り下ろされた。
「厘っ!」
鍬を降り下ろした男は、人間のものとも思えないような血走った目で私を見たが、その視線は私の顔から、今しがた鍬を降り下ろした厘の頭へと移動した。厘は、自分の腕で自分の頭に刺さった鍬を引き抜くと、そのまま鍬の柄を引っ張り、バランスを崩した男の首に包丁の刃を押し当てる。
「いきなり頭潰しに来るとかいい根性しているじゃない。このまま同じように殺していいって事かしら」
「厘……止めろ。陣さんも……止めて下さい」
男は、陣さんは、血走った目で私を見た。そこにいたのは哀れな程に息子を愛する気弱な一人の父親ではない……ただの、一匹の人殺しだった。
「アンタ、こいつを許すの? っていうか私殺され掛けたんだけど」
「無事なんだからいいじゃないか、一応……話が聞きたいんだ。許す許さないの問題じゃなくて、どうしてこんな事をしたのか。陣さんさえ……よろしかったら……」
人殺しは瞳孔の開いた目でしばらく私を見つめた後、瞼を伏せて鍬から手を離してくれた。厘が首から包丁を離し、そして男は体を起こす。そこにいたのは先程まで一緒にいた、酷く悲しそうな顔をした、くたびれ擦り切れ疲れ果てた人間の姿の何かだった。
「すいません……」
「謝るぐらいなら……どうして、こんな事をしたんですか……」
「……外に出て話しませんか。ここでも構いはしませんが、さすがに人と話すには……」
陣さんは口許に笑みを浮かべ、ひどく申し訳なさそうに私達の背後に視線を向けた。自分が殺した人間の足を眺めながら、微笑みを浮かべている事が酷く歪に感じられた。ああ、この人はもう、何かが完全に壊れている。
「あ、逢君は……」
「家に置いてきました……ものすごく暴れていましたよ。よっぽどあなたの事が気に入ったようですね……」
「相変わらずまだるっこしい会話を繰り広げているんじゃないわよ。話すならさっさと話して頂戴」
「はい……では、こちらに……」
陣さんはそう言うと、率先して扉を開けた。続こうとすると厘が片手で私を制し、先に出た。その後すぐに「とっとと出なさい」と声が聞こえた。腑に落ちないものを感じつつ厘に従い外に出ると、陣さんが遠い目をして地面に座り込んでいた。
「あの……隣に座っても……」
「どうぞ」
「…………」
「…………」
「あの……ええと……」
「で? 何で村人全員殺したワケ?」
「り、厘! どうして君はそんな言い方を……」
「アンタがまごまごしているからでしょう。気色悪い真似してんじゃないわよ」
「き、気色悪いって……」
「ははは、面白い方々ですね。分さん、気を遣わなくていいですよ。こんな人殺しに気を遣う必要なんてありませんから」
私は陣さんの顔を見た。陣さんの顔は妙にさっぱりとしたような、人の皮を被った何かに見えた。わからない。一体何が、この人をここまで歪にしたのか。それとも最初から歪だったのか。人を平気で殺せるような人間が、あそこまで哀れになる程息子を心配するものだろうか。
「あの……一体、どうして……」
「目が覚めて様子が一変していた……きっかけと言うなら、それがきっかけなのでしょうか……」
「……何が……あったんですか……」
「何があった、という程大した事は何もなかったと思います。目を覚ましたら電気が止まっていて、水も出なくて、ガスも使えなくて、食料はそれぞれの家にあった謎の畑の野菜だけ……それでパニックを起こした人が何人かいた、それだけです。誰もが状況の把握に精一杯で、隣人が何を考えているかなんて微塵も考えは及ばなくて、翌日には何人かが、他人の畑の野菜を奪って何処かに逃げた、それだけです」
「……」
「アンタの畑は無事だったようだけど?」
「先程、厘さん仰いましたよね? 特に私の家の近くは道がガタガタで大変だったと。恐らくそのせいかと思います。彼らが野菜を持って逃げ出したのは夜のようなので」
「ただでさえ灯りもない夜の中、ガタガタの道を歩くのは危険……下手したら音を出して気付かれるかもしれないものね」
「でも、もしかしたら盗まれていた方が良かったかもしれません。翌朝村中から悲鳴が聞こえ、程なく私の家の前にはたくさんの人が押し掛けました。村中の畑から野菜が根こそぎ奪われたと。なんでここだけ無事なんだと。お前も犯人じゃないのかと。違うと言うなら食べ物を寄越せと」
「言いがかりも甚だしいわね」
「ええ。でも、仕方なかったとは思います。こんな異常な状況で、頼みの綱の食料がなくなればパニックになるのは仕方がない。そしてそれは、私にとっても全く同じ事でした。村の人達が食料を求めたのと同じように、私だって食料を渡す訳にはいかなかった。確かに私の家には野菜が残っていましたが、残っている村の人全員に配る程の余裕はなかった。これを渡してしまえば逢を飢え死にさせるかも。そう思えば、私はその求めに応じる訳にはいかなかった」
そう言って瞼を伏せた陣さんの目は赤かった。その瞳を見つめて初めて、もう日が暮れかけているというその事実に気が付いた。目を赤に染めた人間は、何処か遠い瞳をして淡々と事実だけを語る。
「私はひたすら謝りました。ごめんなさいと。渡せませんと。今思えば他にもっと言う事があったでしょうに、それしか言えなかった。私を囲み何かを求める皆さんの目が怖かった」
陣さんの家の前には人だかりが出来ていた。輪を描く黒い幻影達と、その中心にいる一人の男。突然現れた恐怖に震え、すぐ先にある恐怖に怯え、古い平屋と小さな畑に群がる十数人の人間と、その人間達に殺される恐怖に必死に許しを乞う男。
「皆さんはその手に色々なものを持っていました。鍬とか、スコップとか、鎌とか、包丁とか、色々なものを。そして私に言いました。食糧を分けなければ殺すと。こんな状況でさえなければ私は食糧を渡したでしょう。いえ、こんな状況でさえなければ、あの人達だって私を脅して食糧を奪おうなどとはしなかったでしょう。
しかし、私は首を縦に振る事は出来なかった。ごめんなさいと、許して下さいと、そう言う事しか出来なかった。私のすぐ前に立っていた見覚えのある男性が、叫び声を上げながら両手の鍬を持ち上げました。私はそれを目の当たりにして、咄嗟にその人の胴を目掛けて突進しました。そして地面に押し倒し、鍬を奪い、その人の頭に降り下ろしました」
どしゃっと、目の前に赤いものが飛び散ったような気がした。それは私の錯覚だった。けれど目の前の男の瞳は、血よりも淡く悲しい色でずっと染まり続けていた。
「私は鍬を振るいました。その時何を考えていたのか、正直よく覚えていません。ただ……そう、ただ、動くもの全てに無我夢中で鍬を振るっていただけです。畑に張った雑草の根を鍬で細かくするように、ひたすら一生懸命に鍬を振るっていただけです。自分が何をしでかしたのかに気付いた時には、皆、目を見開いたまま息をしていませんでした」
「……、……」
「それで、あちこちの家に引き摺っていって隠したって?」
「逢に、見せる訳にはいきませんでしたから。だって、私が村の人を皆殺しにしてしまったなんて……その、逢には言えませんよね?」
陣さんは呟いて、少し困ったように微笑んだ。誤って鍋を焦がしてしまった事を、家族にどう切り出そうか困っているとでも言うかのように。そんな顔をして言うような事じゃない。そんな、まるで、普通の顔で。いっそ人間とも思えないような醜悪な顔で言ってくれた方がどんなにマシだった事だろう。そのぐらい、その、困り果てたような普通の笑みは、あまりにも歪で壊れていた。
「空き家に近付くなって言ったのも……、逢君を外に出そうとしなかったのも……」
「逢に、村の人を発見されるのが怖かったからです。本当は逢に知られないようこっそり埋めに行きたかったのですが、逢や畑を見たり、雨水を溜めたり、枯れ草や枝を集めに行くだけで精一杯で……」
「あなたには、あなたには、罪悪感がないんですかっ!?」
私は、思わず叫んでしまった。だって堪らなかった。人を殺したその手で、畑を耕し、料理を作り、雨水を集め、燃料を拾いに行き、広がっていく息子との溝に悲しげな表情を浮かべながら、自分が殺した村人達が腐っていくこの村で、擦りきれるだけの毎日をただひたすらに繰り返していく。男は、夕日に照らされて真っ赤に染まる、何が沈んでいるのかわからない目で、困ったように私を見ていた。かつて大切だったはずのものを、しかしどうしてそれが大切だったのかわからず途方に暮れているように。
「罪悪感……ああ、あります。申し訳ないとは思っています。殺してしまって申し訳ないと。でも、きっと、それはあなたの望む答えではないと思います」
「私の……望む……答え?」
「すいません、私は学がある人間ではありませんから、上手く言葉に表す事は出来ません。しかし恐らく、あなたが思っているような感情が、私の中にはないだろう事はわかります」
「どうして、どうして、殺したんですか」
「わかりません」
「どうして、殺したんだと思いますか?」
「わかりません」
「あなたは……後悔してないんですか? 人を殺してしまった事を」
「後悔していないと言ったら嘘になってしまいます。殺さずに済んだのであれば、私だって当然、こんな事はしたくはなかった。けれど、私にはあの時、選択肢がなかったのです。多分、殺すしかなかったのです」
「でも……それでも、あなたは許されない事をした! あなたは決して、してはいけない事をした!」
「では、私は、一体どうすれば良かったですか?」
「……え?」
「私は一体、あの時、どうしていれば良かったですか?」
陣さんの声は、何の感情も伺わせはしなかった。ただ赤いだけの瞳で、私を覗き込みながら、目の前の人殺しは乾いた唇を静かに震わす。
「食糧を渡していれば良かったですか? 食糧を全部渡して、逢と共に餓え死ぬ道を選んでいれば良かったですか? それとも、鍬を持った村人になぶり殺されれば良かったですか? 逢を遺して。もしかしたら逢も殺されていたかもしれないのに」
「そ……それは……それは……」
「それとも、半殺しにしていれば良かったですか。鍬を奪って村人達を、抵抗出来ない程度にまで痛め付ければ良かったですか。私を殺そうとした村人達を。殺されるかもしれないという恐怖の中で。ただの無力な人間の私に、そんな事が出来たとお思いですか?」
「は、話し合う余地は……」
「話し合い。ああ、そうですね。話し合い。出来たかもしれません。けれど、鍬を振り上げて今正に振り下ろそうとしていた相手に、私はどうやって話し合いをすれば良かったと言うのでしょう」
「………………」
「いえ、いえ、そうですね。話し合い。出来ていたかもしれません。出来ていたかもしれません。でも、所詮は例えば話だ。もう終わってしまった事をこねくり回しているだけだ。正しさってヤツはいつもそうです。全てが終わってからやってきて、ああすれば良かった、こうすれば良かったと人の罪を裁いていくだけ。言葉で裁いて、罪を裁いて、けれど罪を犯さずに済んだ未来を用意してくれる事はない。私はどうすれば良かったのでしょう。食料を全部渡して、逢とこの村を出ていけば? その先で生きられる保証もないのに?」
「そ、それでも、あなたのした事は……」
「『正しくはない』、そうでしょう。『許されない』、そうだと思います。『もっと別の道があった』、そうかもしれません。少なくとも私のした事は人殺しで、どんな理由があろうと許されてはいけない悪行、それを否定する気は私には微塵もありません。
けれど、正しさというヤツは、所詮それだけの存在です。正しくないと、許されないと、もっと別の道があったと、全てが終わってしまった後にそんな言葉を並べるだけで、その正しい別の道とやらを用意してくれる事はない。どうせなら変えてくれればいいのに。肩代わりしてくれればいいのに。救ってくれればいいのに、そんな事は決して出来もせず、全てが終わってから現れて、断罪して、悪を裁いて、正しくないという言葉だけを叩きつけて去って行く。救いなんてものを与えてくれる事はない」
「……」
「正しさっていうヤツは、そういうものではないですか?」
言葉も、出なかった。私は俯く事しか出来なかった。陣さんの穏やかな、赤くて黒い、底の底の底を見てしまったようなその瞳を、これ以上見ている事は私には出来なかった。
「厘さんは、どう思いますか?」
「全くもって同感だわ。どうして私を守りもしない正しさを私が守らなくちゃいけないの? 正しさのために死ぬぐらいなら悪辣に生きる事を選ぶわよ。正しさだけを押し付けるクソッタレに従ってやる義理はないわ」
「あなたなら、そう言うんじゃないかと思いましたよ」
「どうして……」
私は、言葉を振り絞った。聞けば後悔するような気がしたが、しかし聞かずにはいられない。
「どうして、私が毒キノコを食べようとした時、止めてくれたんですか……私を助けたりなんてしなければ、こんな面倒な事にはならなかったはずなのに……」
「そうですね。声を掛けてから、しまったと思ってしまいましたよ。あの時声を掛けなければ、あなた方を殺そうなどと思わなくて済んだはずなのに」
「………………」
「私達を追ってきたのは、息子に人殺しがバレるのが怖かったから?」
「仰る通りです。私のつまらぬ臆病のせいで、あなた方にはとんだご迷惑を掛けてしまいました」
「あら、もういいワケ?」
「あなた方が戻ってきて、私の罪を息子に明かしてしまうのではないかと、そう思うと怖くていてもたってもいられず……でも、あなた方に再びお会いして確信しました。あなた方はそんな事はなさらないと」
「すると言ったら?」
「殺します」
「止めとくわ。死にはしないけど面倒臭い」
「そう仰って頂けるとありがたいです」
陣さんは、立ち上がった。そして私達に向かって深々と頭を下げる。
「私ごときのつまらぬ話でお引き留めして申し訳ありませんでした。こんな事をしておいてなんですが、くれぐれもお気を付けて」
「全くよ。皮肉もいい所だわ。人殺しにくれぐれもお気を付けてなんて言われるなんて、どれだけ笑えないジョークだっての」
君だって、人殺しじゃないか……とは、言えなかった。陣さんは何も知らないのだ。穏やかな顔の人殺しは、酷く寂しそうに口を開く。
「分さん、先程どうして、あなたに声を掛けたのかと聞きましたね。多分私には、まだ未練があるのだと思います」
「……未練?」
「はい、『まともな人間』への、未練です」
陣さんは…………もう、その表情を、私は何と表現すればいいのだろう。目の前に立つこの男の顔を、一体私は何と言葉を並べれば表現する事が出来るのだろう。
「私は、人を殺しました。それが自分が生きるためであろうとも、息子を生かすためであろうとも、私は許されざる事を致しました。それは理解しています。そしてそれを理解していながら、私は正しさに死ぬぐらいなら悪辣に生きる事を選び、今こうしてこの場に立っています。
しかし、その一方で、やはり私は、まともに生きていたかったのでしょう。息子と肩を寄せ合いながら、慎ましやかに、平凡に、穏やかに、まともな人間としてそれでも生きていたかったのでしょう。人を殺しておきながら、その罪を息子から隠そうなどと浅ましい真似をしておきながら、何を贅沢な事をと、そう思われるかもしれませんが……私はまともな人間でいたかった。まともな父親でいたかった。普通に人を助け、普通に人と支え合い、普通に息子と生きていける、まともな人間でいたかった。正しい人間でいたかった。それが叶わぬ事だと知っていても」
「…………」
「逢と遊んで頂き、本当にありがとうございました。大したおもてなしも出来ずに申し訳ありません」
「とんだ人殺しがいたもんだわ。ついさっき殺そうとした相手に深々と頭を下げるなんて」
「それが顔見知りだとしても、自分が生き延びるためなら殺そうとするのが人間です。でしたら」
「自分が殺そうとした相手にも、感謝を示すのが人間だって? ……はっ、だとしたら人間っていうのは、鬼や悪魔なんかよりよっぽど奇怪な化け物かもね」
陣さんは力なく笑うと、私達に背中を向けて自分の家へ戻ろうとした。私はその背に「待って下さい」と声を掛け、そしてリュックから瓶を一つ取り出した。
「これ……塩です。本当にお世話になりました。これで逢君に何か作ってあげて下さい」
「ちょっと、アンタそれは」
文句を言いそうな厘を、私はこの時ばかりは睨んだ。後で蹴られるならそれでもいい。でもこれだけは譲れない。
幸い、厘はそれ以上何も言って来なかった。陣さんは瓶を受け取ると「ありがとうございます」と頭を下げ、そして家へと戻っていった。その背中は悲しさと、寂しさと、人間への未練と、歪みと狂気と、息子へのひたむきな愛情を背負った、人間の皮を被った何かだった。
「君は……いつから気付いていたんだ」
「ま、色々ね。一つ、腐臭がする。二つ、あれだけ空き家に近付くなって口うるさく言われたらね。三つ、本当に野犬が潜んでいるなら住んでいる事も出来ないでしょうし」
「全部……逢君のために……」
「馬鹿言ってんじゃないわよ。他人のためなんて言葉は全部自分のためじゃない。あのガキに自分が人殺しだって知られたくないのだって、つまりは自分のためじゃない」
「君は、どうしてそんな事ばかり……」
「だって事実じゃない。例え本当にそうだとしても、『誰かのため』だなんて口にした時点でそれは自分のためなのよ。例えばあの人殺しが息子のために罪を犯したとか口走ったら? そんなの、自分の罪の理由を息子に擦り付けているだけじゃない」
「陣さんは……そんな事は言っていないよ……」
「人間なんて、結局自分のためにしか何も出来ない生き物よ。だって生きている事自体がすでに自分のためでしょう? 自分のために生きている人間が、他人のために何か出来るはずがないじゃない」
「……、それは」
悲し過ぎるだろう。心の底からそう思った。あんなに寂しそうで、あんなに悲しそうで、疲れ、擦りきれ、壊れ果てた姿で生きているのが、全部自分のためだなんて。人を殺したのも、必死に日々を消費するのも、全部自分のためだなんて。愛する誰かのためではないって。それは、そんなのは、あまりにも、悲し過ぎる考えだ。
「そんな事より、一つだけ気になる事があるのよ」
「……何?」
「臭いがしたのよ」
「臭い? 何の」
「疚の臭いに決まっているでしょ」
……もう、止めて欲しい。そう思った。一体これ以上、どうして、どれだけ、どんな不吉と不幸を不条理を見なければいけないと言うのだろう。しかし、私は、逃れられない。この現実から逃れる事は許されない。
「それは……一体……何処から……」
「アンタになついていたあのガキからよ」
喉が、ひゅっと音を立てた。止めて欲しい。止めて欲しいのに、私にはこの狂った物語を進める事しか許されない。
「そんな……そんなはずはないだろう! 逢君は疚売りには遭っていない! 外に出た事さえ久しぶりだって……」
「別に疚売りに遭うだけが発症の条件じゃないわ。疚はね、『感染』するのよ。別に疚を打たれなくても、疚人になる可能性は十分あるわ」
「そ、そんな……そんな……」
「だから自然発症で、疚売りに遭ったワケじゃないかもね。疚売りの臭いもしないし」
「そ、その事なんだけど、疚売りから君の言う、臭いはしないかもしれない……」
「……どういう事よ」
「この前の……右手で触ったものを爆発させる少年が……疚売りに疚を打たれたみたいな事を言っていたんだ……でも、君はそんな素振りを見せなかったし……」
「どうしてそれを言わなかったのよ! とりあえず、あのガキから情報を……」
その時、ガシャンと、何かが砕けるような音が聞こえてきた。続いて、微かに、男の悲鳴。私は走り出した。後ろで呼び止める声が聞こえてきたけれど、止まれるはずがない。私は扉をガラリと開ける。
「陣さん! 逢君!」
日はとっくの昔に暮れていた。私は泥だらけの靴のまま玄関へと上がり込んだ。さっきは家を汚していまうとあんなに悩んでいたはずのに、その悩みさえ踏み付けるように家の奥へと歩いていく。私は部屋を覗き込んだ。そこには陣さんの姿があった。首を噛み千切られ、動かなくなった陣さんが。陣さんの身体の上には、口を何かの液体で汚した獣がのし掛かっていた。
「………………」
「あれ? お兄ちゃん、戻ってきてくれたの?」
「逢……君……なのか……」
「すごいでしょ、ぼく、オオカミに変身出来るようになったんだ! これで野犬も倒せるよ! だからお兄ちゃん、ぼくも一緒に連れていってよ! お父さんを倒したからいいでしょう?」
なんで。どうして。どうして。どうして。どうして。頭の中がぐちゃぐちゃだった。何が悪いのかわからなかった。一体何が悪いと言うんだ? なんで。どうして。どうして。どうして!
「ねえ、お兄ちゃん、ぼくを見てよ! ぼくすごいでしょ? ぼく強いでしょ? 野犬だってやっつけられるよ。お兄ちゃんやお姉ちゃんの事、ぼくが守ってあげるんだから。だからぼくの事も連れてって!」
「だ……めだ……」
「え?」
「駄目だ……それは……駄目なんだ……連れて行けない……君は……君の事は……連れては行けない……」
私は、必死に振り絞った。何が悪いのかもわからずに。何が正しいのかもわからずに。けれど、それしか言えなかった。そう言う事しか出来なかった。
「君は……お父さんと一緒に……暮らしていくべきだったんだ……君を何より愛しているお父さんと……君のお父さんは……本当に君の事を、心の底から愛していたのに……」
「……何でだよ。どうして、そんな事を言うんだよ。お父さんは悪いヤツだ。ぼくから自由を奪うんだ。だから倒したんだ。悪いヤツは倒していいんだ。お父さんが悪いんだ。ぼくは悪いヤツをやっつけるヒーローだから正しいんだ!」
「逢君!」
「うるさい! だまれ。だまれ。だまってよ。なんでそんな事を言うんだよ。お兄ちゃんも悪いヤツだ。ぼくを連れていってくれない、お兄ちゃんも悪いヤツだ!」
獣が、父親の血で口を真っ赤にした獣が死体の上で吠えていた。獣は唸り声を上げ、唾液を振りまきながら私に噛み付こうと飛び掛かる、その時、私は背後から誰かに強く頭を押され鼻を床へと打ち付けた。
「ぶっ!」
床に顔から接触した私は、私の頭を押した誰かにそのままのし掛かられていた。何かに何かがぶつかったような音が聞こえ、そして私の上に乗っていた何かはようやく私の上から退いた。
「アンタ、邪魔よ」
「厘! ……君、その腕の傷は!?」
「馬鹿なガキに少し咬まれただけよ。すぐ治る。別に大した事じゃないわ」
厘は吐き捨て、左腕から血を流したまま目の前にいる獣を睨んだ。日の光はすでに届かなくなりつつある。夜が近付いてくる中で、口を血に塗れさせた獣は歯を剥き出して唸っていた。
「何で連れて行ってくれないんだよ! 連れて行ってくれないならやっつけてやる! お父さんみたいな悪いヤツはみんなみんなやっつけてやる!」
「アンタの父親が悪人だという事を否定するつもりはないけれど、生憎餓えたガキを連れて歩くような余裕なんて微塵もないのよ。悪いけど、死んでもらうわ」
死んでもらう。その言葉に、私は思わず目の前の少女に掴み掛かった。私に背中を掴まれた少女は目を見開いて私を見る。
「何すんのよ、離せっ!」
「殺すな、頼む、殺さないでくれっ!」
「この非常事態に……何を甘ったれた事言ってんのよクソボケがッ!」
厘は私を、突き飛ばした。それと同時に獣は、厘の頭へと飛び掛かった。倒れる私の視界に、獣の爪が厘の目に深く突き刺さるのが見えた。獣の瞳が私を見る。全てが、スローモーションのように見えていた。逢君が、口を開けて、私に飛び掛かってきた。その背後で厘が、目に走った傷から血を流しながら立ち上がった。血の色で染まった瞳に夕陽を反射させながら、厘が、獣のように、叫ぶ。
「この……クソガキがアアァァァあッ!!」
そして、厘の振り下ろした包丁は、吸い込まれるように逢君の頭の後ろへ消えていった。いっぱいに開いたその口の中で、血で赤黒く滑った刃の切っ先が鈍く光っていた。
「………………」
「どう……して……」
「………………」
「ぼくはただ……じゆうに……いきたかっただけなのに……」
逢君は、かつて人間の子供の姿をしていたはずの何かは、父親の首を噛み千切った獣の姿で床へと落ちた。そして黒に染まっていった。厘は、目から流れ出ている血を右手の甲で乱暴に拭い、逢君に刺さっていた包丁を掴んで一気に引き抜いた。
「自由っていうのはね、自分の思うままに生きるという事じゃない、テメエの行動のツケをテメエで支払うという事よ。その意味も、重さも、恐ろしさもわからないようなクソガキには、自由を語る資格もないわ」
私は、厘が何を言っているのか、ほとんど理解出来なかった。私の意識に入っていたのは、かつて確かに人間だった二つの残骸だけだった。
「さあ、行くわよ。疚人の話が聞けないのは残念だけど、どうせガキの話なんざ何の当てにもならないわ。それよりならとっととこの村を出て……」
「……嫌だ」
「……あ?」
「嫌だ。いやだ。もういやだ。いやだ。いやだ。いやだ。いやだ」
私は、もう、そんな子供のような事を口にする事しか出来なかった。自分でも馬鹿のような事を言っているのはわかっている。けれど、止まらない。どうにも止める事が出来ない。
「……アンタ、何、聞き分けのない駄々っ子みたいな事を言ってんのよ。嫌だなんてほざいても何も変わりはしないんだって何回言えばわかるのよ」
「でも、いやだ。いやだ。いやだ、いやだ。いやなんだ」
「アンタ、いい加減に……」
「もう人が死ぬのを、見ながら生きていくのは嫌なんだっ!」
私は、叫んだ。喉が痛い。胸が痛い。私の中の何かがひび割れ、砕けていくような感じがする。息をするのが苦しい。何も見えない。見たくない。聞こえない。これ以上何も聞きたくはない。
「一体、いったい、いつまで『これ』は続くんだ! 一体いつまで、こんな事を続けて生きていなくちゃいけないんだ! こんな! 人の死を見続けて! 私達はいつまで、何処まで! こんな事を続けていかなくちゃいけないんだ!」
少女は、私を見ていた。何の感情も見えない瞳で。食べるために仔犬を殺し、皮を剥ぎ、人さえ殺す、そのままの瞳で。
「いつまでってそんなの、これからずっとに決まってるじゃない。生きるために必要なら、ずっとしていかなきゃいけないに決まっているじゃない」
「いやだ」
「泣き言を言ってんじゃないわよ」
「いやだ」
「二回同じ事を言わせないでよ」
「いやだ」
「アンタ、いい加減に……」
「こんな事を繰り返して、生きていくのはもう嫌だ!」
私は、言った。塞いできたその言葉を。決して言うまいと思っていた。けれど、もう、止まらない。止まらない。止まらない。
「何が、生きていくためだ! 生きていくためだからって、人を殺して、罪を重ねて、そうやって生きていく事が、許される訳がないじゃないか! 私は嫌だ、もう嫌だ、こんな生き方はもう嫌だ!」
「嫌だ嫌だで……なんでもアンタの思う通りになるとでも思ってんの!? 嫌だ嫌だと駄々を捏ねても現実は何も変わりやしない。そうしなければ生きていけない。何度言わせりゃわかんのよ!」
「そんな風に思えるのは、君が人殺しだからじゃないか! 私は君のような人殺しじゃない! 人を殺して平気な顔で生きていける、君なんかとは違うんだっ!」
「…………っ!」
目が熱くて痛かった。鼻が詰まって苦しかった。頭の何処かで警報が鳴る。でも止まらない。もう何もかも止まらない。
「人を殺して生きるか、人に殺されて死ぬか、それしか選択肢がないのなら……私は人に殺された方がマシだ。正しさに死んだ方がマシだ。悪辣に生きるぐらいなら、私は死んだ方がマシだッ!」
私は、叫んだ。力の限りに。それでも生きようとする者達の全てを否定するように。沈黙が降りた。沈黙を打ち破ったのは、沈黙よりもさらに重く沈んだ声だった。
「そう」
「…………」
「わかったわよ。生きる気がないヤツなんて、一緒にいるだけ邪魔だわ。だって、そういうヤツは生きるための努力を全部放棄してしまうヤツだもの。いいんじゃない。好きにすれば。アンタの人生だもの。好きに生きて好きに喚いて私の知らない所で好きにくたばってしまえばいいわ」
人の気配が、徐々に離れていくのがわかった。私は顔を上げられなかった。部屋の中にはすでに何の光もない。
「じゃあね。もう二度と会う事もないだろうけど。……連れ回して悪かったわね」
扉が閉まる音がした。私はその場に踞った。涙が出た。嗚咽が漏れた。どうして泣いているのか、私にもよくわからなかった。
部屋の中は暗かった。部屋の中は黒かった。一筋の光だって存在しない。世界はただ黒かった。
黒だけだ。




