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「こちらです」
林の中をひたすら歩いて男性の後を着いていき、やがて私達は一つの村へと辿り着いた。家屋はそれなりに見えるのだが、何故か人の気配はない。
「あの……他の人達は……」
「ああ……皆出て行ってしまいまして……今は私と息子の二人だけが暮らしております」
「へえ、じゃあアンタの家以外は全部空き家ってワケ?」
妙に嬉しそうな厘の声に、酷く嫌な予感がした。振り返ると厘は、獲物を狙う獣のような目で周りの家々を見回している。
「だ……駄目だ厘、空き巣なんて!」
「空き巣?」
「あ……いや……ええと……」
「アイスなんて別にねだってないじゃない。もういいよ。お兄ちゃんの意地悪」
そう言って、厘はプイッとそっぽを向いた。信じられない言葉を聞いた。何だろう、空腹のあまり耳までおかしくなったのだろうか。
「アイス……ですか?」
「確かにアイスは大好きだけど、今は食べられないって事ぐらい私にだってわかるわよ。それをわざわざ意地悪言わなくってもいいじゃない」
「はは……ご兄妹なんですか?」
「あ……その……ええと……」
「そっ! 食べるものが何もないから二人で飛び出してきちゃったの。父さんも母さんも死んじゃったから、お兄ちゃんと私の二人だけが家族よ」
「そう……ですか……」
男性は僅かに笑みを浮かべると、正面へと顔を戻して歩き始めた。信じられない思いで厘の事を振り返ると、厘はこの世のものとも思えないような目付きで私の事を睨んでいた。
「………………」
(最っ悪……アンタ、何て事を口走るのよ。せっかくのエサを逃がしたりしたらどうするつもりよ)
(エ……エサって……君が馬鹿な事を考えているから……)
(ああ、最悪だわ……誤魔化すためとは言え気色の悪い事を口走ったわ。こんな馬鹿で間抜けなヌケサクが兄なんて嘘でも断じてごめんだわ)
「…………」
そこまで言う必要があるのだろうか。
「さ、こちらです。どうぞ」
男性の後に着き、少々舗装状態の悪い道を歩いていき、やがて私達は少々寂れた家の前へと辿り着いた。今時珍しい古い型の平屋だった。家の前には畑があり、わずかに枯れてはいるようだがそれでも実りをいくらか見せる植物達の姿があった。
「畑……これ、あなたが?」
「お恥ずかしい。素人に毛の生えたようなものですが」
「昔から……あるんですか」
「はい。もう五年程前でしょうか」
五年……その年月が、一体どちらを指しているのかその言葉だけではわからなかった。それは私の記憶にある『五年前』なのだろうか、それとも私の記憶にはない『五年前』なのだろうか。
聞いてみようとした所で、そう言えばまだ名前を知らない事に気が付いた。厘が反応しないという事は疚人ではなさそうだし……
「あの……申し遅れました。私は篠宮分と言います。こっちは厘です」
「ああ、失礼しました。籠坂陣と申します」
「陣さん、その、お伺いしたい事が……」
「お父さん、その人達お客さん?」
ガラリ、と家の扉が開き、一人の男の子がひょこりと顔を覗かせた。一瞬新太と天良の姿が過ったが、二人には全く似ておらず、二人よりもさらに幼く見えた。
「逢、危ないから中に入ってなさい」
「危ない事なんてちっともないじゃん。外にも出してくれないからつまんないもん。お兄ちゃんとお姉ちゃんは? お客さん?」
「あ、ああ、逢君って言うのかい? 初めまして。私は分。この子は厘だ」
「はじめまして。たいしたおかまいも出来ませんがどうぞゆっくりして下さい」
「こら、逢」
陣さんは困ったような顔をして扉に立つ少年を諌めた。深く頭を下げた少年は、顔を上げて陣さんを不満そうな顔で見つめる。
「す、すいません。死んだ家内がうるさかったもので……」
「いえ、礼儀正しいんですね。小さいのにしっかりしてる。逢君はいくつになったんだい?」
「八歳!」
「そうか、本当にしっかりしているなあ」
「お兄ちゃんお客さんなんでしょう? 早く中に入りなよ! ぼくと一緒に遊んでよ!」
逢君は扉から外に飛び出ると、無邪気な様子で私の手を取り引っ張った。陣さんは顔を強張らせて慌てたような声を上げる。
「こ、こら、逢、迷惑な事を言うんじゃない」
「わ、私は別に構いませんが……」
「いいじゃない、ちょっとは遊ばせてやれば? アンタに何か不都合があるなら別に無理強いはしないけど」
「厘、君はどうしてそういう言い方を……」
「あ、いえ、そういうつもりじゃ……では、しばらくお願いしてもいいですか? ただし外には出さないように……」
「え、ええ、わかりました……」
「じゃあ、お兄ちゃん遊ぼう、遊ぼう!」
私は逢君に引かれるままに家の中へと入っていった。玄関に入って靴を脱ごうとした所で、ようやく自分が泥だらけである事に気が付いた。当然と言えば当然だ。家を出てからずっと着のみ着のままで、疚人に襲われてあちこち転げ回っていたのだから。とりあえずダッフルコートとズボンの泥ぐらい落とさなければ家の中に入れはしない。
「お兄ちゃん、何やってんの?」
「あ、ごめん。ちょっと泥を落としてから……」
「何やってんのよ。とっとと中に入るわよ」
そう言って厘は、私の横をすり抜けて家の中へと入ろうとした。外から入ってきたまるきりそのままの格好で。
「待つんだ厘! 靴ぐらいはちゃんと脱がないと……」
「だから……一体何処触ってんのよ!」
「ぐふっ!」
反射的に手を伸ばした瞬間、胸に厘のブーツの底がめり込んだ。息が詰まり、直後に痛みと衝撃が胸に一気に押し寄せる。
「ど……何処って……腕を掴んだだけじゃないか……」
「いきなり触ってくるんじゃないわよ! 私は他人に触られるのが嫌いなのよ、覚えておきなさいっ!」
そういう事は蹴りを入れる前に言って欲しい……等と口に出せるはずもなかった。何か野生動物の後ろにうっかり立って蹴られでもしたような気分だった。こんな理不尽な事があるのだろうか。
厘は痛みに悶える私を置き去りに家の中へと入っていった。玄関にブーツを一組置いて。何だかんだ言いながらきちんと靴を脱いでくれた事は意外と言えば意外だった。
「お兄ちゃん、お姉ちゃんと仲悪いの?」
「悪いと言うか……良くはないかな、確実に」
「あ、あの、どうかしたんですか?」
背後から陣さんの声が聞こえ、私は「いえ、何でもありません」と答えながら靴を脱いだ。そう言えば私の臭いは一体どうなっているのだろう。全く気にしていなかったが、もうずっと風呂に入っていない。相当酷い事になっているだろう事は予想するに難くなかった。
だが、今のこの状況で、「お風呂を借りてもいいですか」と、果たして聞いていいものかどうか。電気が使えない事はわかりきっているし、そもそも水があるのかどうかも……汚いままでいるのは大変忍びないが、言わない方がいいだろう。
「お兄ちゃん、臭いから遊ぶ前にお風呂入った方がいいんじゃない? お父さん、ぼくお風呂沸かしてもいいよね?」
私の決意は逢君の言葉に木っ端微塵に砕かれた。そうか……やはり臭いのか……。落ち込む私の横で逢君が声を飛ばし、慌てたような表情で陣さんが顔を覗かせる。
「あ、危ないから止めなさい! 気が付かなくてすいません。今すぐに沸かしますので……」
「い、いえ! お構い無く! 自分で沸かしますから、どうすればいいのかだけ教えて頂けないでしょうか?」
本当は「自分で沸かす」とも言わない方が余計な気を遣わせなくていいかもしれないと思ったが、一週間近くも風呂に入っていない人間二人が傍にいたら、逢君達が迷惑してしまうに違いない。いや、私達二人がお邪魔している時点ですでに迷惑極まりないが……何か、自分がここにいるというだけでひどい罪悪感を覚えてしまう。
「あ……実は燃料も何もほとんどなくて……」
「取ってきます。小枝や枯れ草でいいですか? あ、差し支えがなければですが……」
「す、すいません。よろしかったらでいいのでお願いしてもいいでしょうか? 家に招待しておいて大変申し訳ないのですが……」
「いえ、そんな……私達が押し掛けて、お風呂までお借りするのですから当然です……」
「アンタ達、そんなまどろっこしい会話していてよく飽きも疲れもしないわね」
厘が、呆れたような顔をして襖から顔を出してきた。本当にこの少女は……一体どういう神経をしているのかと習慣のように思ってしまう。僅かな食糧をわけあいながら生きる親子の家に上がり込んで、さらにお風呂を貸してもらおうという時に、恐縮しないで一体いつ恐縮すると言うのだろう。いや、この少女には恐縮するという考え自体が存在しないのかも知れないが……頼むから少し黙っていて欲しいと思ってしまう。
「ぼくも行く!」
再び靴を履こうと玄関に顔を向けると、後ろから逢君の元気な声が聞こえてきた。陣さんはまたも悲鳴混じりの声を上げる。
「あ、逢! お前は危ないから止めなさい!」
「お兄ちゃんも一緒なんだから、危ないワケがないじゃないか!」
「いや、外は危険だから……」
「危険? 何かいるんですか?」
「え、ええ、実は野犬が住み着いていて……だから逢、お前は行くんじゃない」
「だったらお兄ちゃんも危ないよ! お兄ちゃん行っちゃ駄目! 臭くてもいいからぼくと一緒に遊んでよ!」
「え……でも……そういう訳には……」
私は困って陣さんを見た。野犬がいるのは物騒だが、風呂にも入らずこのまま家に上がると言うのも躊躇いを覚えてしまう。意見を請おうと陣さんを見ると、陣さんも困りきった表情で私の事を見つめていた。
「あの……野犬って……一体どの辺りにいるんですか?」
「実は……空き家をねぐらにしてしまっているんです。空き家に近寄りさえしなければ安全なので、枯れ草や枝を集めてきて頂けますか?」
「お父さん、ぼくも行く! 野犬には絶対近寄らないから!」
「…………わかった。すいません、逢の事をお願いします。空き家には絶対近寄らせないように」
「え、ええ、わかりました」
私がそう答えると、陣さんは「お願いします」と深々と頭を下げてきた。よっぽど逢君が心配なのだろう。心底困ったように眉根を下げ、見ていて可哀想になってしまう程おろおろと逢君を見つめている。早く帰ってきて陣さんを安心させなければ……と思いながら靴を履き、すでに出掛ける準備を終えている逢君へと視線を向ける。だが、外に出られる事に跳び跳ねさえする逢君とは対照的に、厘は襖から顔を出しさえしてこない。
「厘! 何をやっているんだ。早く行くぞ!」
返事がない。聞こえていないのかと思い靴を脱いで襖を開けると、厘は汚れたダッフルコートを着たまま体育座りで膝に顔を埋めていた。
「な、何を寝ているんだ。厘、起きろ!」
「……何よ。飯が出来た訳でもないのに起こさないでよ」
「どうして寝ているくせにそんな事はわかるんだ。じゃなくて、薪や雑草を集めに行くんだ。早く起きてくれないか」
「何で私がそんな面倒をしなくっちゃあいけないの」
「君だってお風呂に入るだろう。それぐらいは働くべきじゃないのか」
「そんな面倒な事させられるぐらいなら入らなくて結構よ」
言い切って、厘は再び膝に顔を埋めようとした。どう……いう神経をしているんだ……この少女は……こんな泥だらけのままで……いい訳がないだろう。しかも、その泥だらけのまま絨毯の上に座って寝ようとしているなんて冗談じゃない。私は厘の腕を掴んで無理矢理立たせようとした。
「ちょっと、一体何すんのよ、気安く触らないでってば……」
「我が儘を言うんじゃありません! こんな汚れたまま絨毯の上に座ったら、陣さんや逢君に迷惑が掛かってしまうじゃないか。食事をご馳走してもらうんだ、きちんと綺麗にしてお手伝いするのが人としての礼儀だろう!」
言ってから、ハッとした。まずい、蹴られる。こうやって反論して何度口撃を喰らい、時には暴力を振るわれたかも忘れ、うっかり子供達を叱るように叱ってしまった。思わず目を瞑って厘の攻撃に身構えた私に、しかし予想していた衝撃も痛みもいつまで経っても襲ってこない。
(……あれ?)
恐る恐る瞼を開けると、そこに厘はいなかった。まさかまた瞬間移動してしまったのかと思ったが、見える光景は目を瞑る前と全く変わりはしなかった。違うのは厘がいない事だけ。
「何やってんのよ。早く行くわよ」
玄関から声が聞こえ、慌てて声のした方に向かうと、そこには厘がブーツを履き終えた状態で立っていた。
「何ぼけっと突っ立ってんのよ。行くんだったら早く行くわよ」
「え……ああ、うん」
「全く、どうせまたすぐに履かなきゃいけなかったのなら、靴を脱ぐ面倒なんてさせないで欲しかったわ」
苛立だしげに呟きながら、厘はガラリと扉を開けた。逢君は仔犬のように厘の後に着いていく。私も慌てて靴を履き、二人の後を追う。厘が私の言う事を聞いてくれたという事に、確かな驚きを感じながら。




