4-1
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「腹が減ったわ」
少女の言葉は、青く広く高い空へと酷く虚しく響いていった。生者のいなくなった町を出て五日目の朝、私達は食糧の尽きた体でひたすらアスファルトの上を歩いていた。僅かに残っていた食糧をお腹に収めたのが昨日の昼ぐらいだから……お腹が空いたという少女の言葉は全く仕方がないと言えた。
「腹が減った。腹が減った。腹が減った。腹が減った」
「……お腹が空いたのはわかったから……連呼するのは止めてくれないか……」
「だって腹が減ったんだもの。苛つくわ。ムカつくわ。全くやってられないわ。結局あの町には食い物らしい食い物は全然残ってなかったし」
当然のように盗みを口にする少女に改めて苦い思いが走る。色々あってなあなあになってしまったが、この少女が公然と空き巣を働いたのは事実なのだ。いくら、……その家の持ち主が、既に死んでいるとは言え、躊躇いも罪悪感も微塵も見せず平然と空き巣を働くなんて……
一体この少女は今までどういう生き方をしてきたのだろう。思えば厘という名前以外、この少女が何処から来たのかも、本当はいくつなのかも、家族や友人の事も、何も知らないのだ。何も知らないまま一緒にいる。もっとも、別にそういう事を気にして今まで生きてきた覚えはないけれど、一体どういう生き方をすればこんな人間が出来るのだろう、という考えは湧いてくる。いくら生きるためとは言え、人の家に土足で上がり込んで、人が死んでも素知らぬフリで、平気な顔で人を殺して……どうして、私はそんな人間と行動を共にしているのだろう。
いや、答えはわかりきっている。私も厘も疚に罹っているからだ。数日前の件で私に瞬間移動能力……とやらがあるのは確定した。それが疚のせいではなく、だったらまだ救いがあるが、さすがにもうそんな楽観的な考え方は出来なかった。私は疚に罹っている。一年後には死んでしまう。死の運命から逃れるためには私に疚をうつした疚売りを探し出す事が必要で、そのためには厘の存在が必要……なはずだ。
けれど
「腹が減ったわ」
私の思考は当事者の言葉によって打ち砕かれた。正直もう本当に止めて欲しい所だが、それを口に出す気力は全く残っていなかった。言った所で聞かないのはさすがにもうわかっているし、私もお腹が空いていた。無駄な口論をしてこれ以上体力を使う気にはなれない。
せめて何か近くに食べられそうなものがあれば……と辺りを見渡しても、枯れた草が茂るばかりで望みの物は見当たらない。枯れた草だって、頑張って口に入れれば食べられるかもしれないが……完全な枯草色に灰黒い斑点を浮かばせている雑草を、いくら空腹でも口に入れる勇気を生憎私は持てなかった。
がさっ
「……ん?」
「退きなさい」
私がそちらを向くより先に、厘が私を押し退けて汚れたブーツを踏み出した。何か生き物でもこっちに近付いてきているのか、姿は見えないがガサガサ、という音だけが徐々に大きくなる。
「な……なんだ? 犬か何かか?」
「毒蛇かもしれないわ。アンタは後ろに下がってなさい」
厘は包丁を右手に握ると、すぐに仕留めると言わんばかりに僅かに姿勢を低くした。緊張しながら枯れ草の群れを見つめているとガサガサという音は一層近付き、現れたのは……すっかり汚れ窶れきった、一匹の小さな犬だった。
「くうーん」
仔犬は甘えた声を出すと、厘の足下をすり抜けて私の方へと近付いてきた。長らく何も食べていないのか、汚れて所々固まってしまった毛皮の下には細い骨が浮いてさえいる。その姿は酷く哀れで、見ているだけで胸の奥が締め付けられる。
「お腹が空いているんだな……何かあげたいけれど、私達も食糧なんて……とりあえずこの子を連れていって……」
私が仔犬を抱き上げようと手を伸ばすと、突然、赤い色が私の視界に噴水のように映り込んだ。視線を赤に向けると、厘が、手にした包丁を仔犬の背中に突き刺している最中だった。
「…………、…………ッ!?」
少女はまだ動いている仔犬を土の上に押さえつけると、止めを刺すように痩せ細った体にステンレスの刃を押し込んだ。びくり、と仔犬の体が一度だけ大きく痙攣し、そして二度と動かなかった。少女は包丁を引き抜くと、動かなくなった仔犬の体を無造作に片手で持ち上げる。
「肉が残ってるかわからないけど、無いよりマシというものね」
「な……何を、一体何をやっているんだ!?」
「何って、肉を調達しただけじゃない。もう骨と皮って感じだし、不味そうだけど、この際贅沢は言ってられないわ」
「…………」
調達したって……骨と皮って、不味そうって。つまり、つまり、つまり
「この仔犬を……食べる気なのか……」
「何を当たり前の事を言ってるの?」
心底不思議そうな顔をする少女が、私には信じられなかった。いや、この少女に、人間の常識を説くのはもはや不可能なのかもしれない。人の家に土足で上がり、人の物を勝手に漁り、人を殺して生き延びる事さえ、当たり前の、この少女に。けれど、でも、それでも、やっぱり、受け入れられる訳がない。一体何処に、空腹で足下に擦り寄ってきた小さな仔犬を、食べるために躊躇いもなく殺す人間がいるのだろう。
「当たり前って……当たり前って、空腹で擦り寄ってきた仔犬を殺して、ましてや食べるなんて、そんな事が当たり前な訳ないだろう!」
「じゃあアンタ、これが毒蛇だったらどうするの?」
「…………なに?」
「毒蜘蛛だったら? 毒蛙だったら? 毒を持っていなくても、豚や牛や鶏やウサギや猪だったらどうしてた? 仔犬なんて見慣れたカワイイ愛玩動物じゃあなくて、『食べるのが当たり前』『殺すのが当たり前』、そんな生き物だったらアンタ一体どうしてた? 食べるためと自分の安全のために殺していたんじゃあないの?」
「そ……それは、そんな、そんなの詭弁じゃないか!」
「豚や牛や鶏やウサギは殺して食べてもいいけれど、犬は殺して食べちゃダメ、そっちの方が詭弁じゃないの?」
「……」
「ま、その辺りの議論は私にはどうでもいいけれど、少なくとも私は今とても腹が減っている。そこにのこのこコイツが来た。だったら私は、自分の腹を満たすためにコイツを殺す事を選ぶわよ。それに私が見逃がした所で、コイツがこの先生きていけた保証もない。どうせ餓死するんだろうなと思いながら通り過ぎるぐらいなら、今殺して私の腹の足しにして一体何が悪いってのよ」
「い、一緒に連れていけばいいじゃないか……」
「コイツに渡すエサも、コイツにかける時間もないのに? そういう事はエサと時間に余裕のあるヤツがする事よ。私にそんな余裕はないわ」
厘はため息と共に会話を勝手に打ち切ると、枯れた雑草の群れの上に死んだばかりの仔犬を置いた。それから雑草を掴み、仔犬を殺した包丁でざしざしと草を切っていく。
「何……を、しているんだ」
「火を起こすんだから燃やす物が必要でしょう?」
「や……焼くのか!? この仔犬をっ!?」
「贅沢は言わないとは言ったけど、さすがに火ぐらいは通したいわ。アンタの家から頂いてきた虫眼鏡もある事だし」
厘は雑草をあらかた切ってその辺りに積み上げると、今度は置いてあった仔犬の死体に包丁を突き立てた。仔犬の毛皮を掴み、剥ぎ取るように包丁を滑らせ……気分が悪くなり、私は厘から目を背けた。頭から何かが急激に引いていくような感じがした。
私は、厘から逃れるように草むらの中へと入っていった。何処に行く当てがある訳じゃない。ただここには居たくない。
「ちょっと、一体何処に行くのよ」
「……何かないか……探してくる……」
「……あっそ。なるべく早く帰ってくるのよ。遅かったら全部食べるからね」
「……いらないよ」
食べられる、訳がない。そんな惨い事、普通の神経の人間が出来るような事じゃない。それとも私がおかしいのだろうか。お腹が空いて死にそうなら、仔犬を殺して食べるのがまともな人間のする事だろうか。
私は頭を横に振った。そんな訳ない。そんな訳がないだろう。いくらお腹が空いたからって、何かを殺して生きるなんて許されるはずがないだろう。
しなければ自分が死ぬとしても?
私は、少しでも厘から遠ざかろうとするように、何処に行く宛てもなくただふらふらと歩いていった。いつまでこんな日々を送らなければならないのだろう。何のためにこんな日々を送らなければいけないのだろう。生きるため。生き延びるため。ただ明日を生きるため。こんな事をしてまで、果たして明日というものは生きる価値のあるものだろうか。
……いや、違う。駄目だ。一体何を考えているんだ。人間は生まれたその瞬間から、与えられた命を全うする義務がある。何故なら命ある者は皆、神に機会を与えられて生きる事を許されている。だから生きる事には価値がある。生きる事には意味がある。生きる事をを冒涜するという事は、生きるチャンスを下さった神への冒涜に他ならない。
しかし、それは罪を犯してまで、貫かなければいけない事だろうか。他人の家に土足で上がり、他人の物を奪い、盗み、何かを殺し、人を殺し、それでも、それでもなお生きる事は価値があると言えるだろうか。違う。生きる事には価値がある。生きる事には意味がある。生きる事は尊いんだ。生まれ落ちた瞬間から、命ある者は皆懸命に生を全うする義務がある。罪を犯して生きる程にか。罪を犯さなければいい。罪を犯す事なく生きる道を選べばいい。罪を犯さなければ生きられないなら死ねという意味じゃないのか。違う違う違う違う。
生きるために罪を犯すなんて事は許されない。けれど罪を犯さなければ生きる事が許されない。生きる事は尊い。罪塗れの生は尊い? 罪を犯さなければならない生は、生きるべきか? 死ぬべきか?
私は。
ふと、視界に何かが映り込み、私はふらふらとした足取りでその何かへと歩み寄った。ただ歩いていた時には気付かなかったが、草むらの中にはすでに枯れかけた林が、ただ朽ちるのを待っているだけのように黒くひっそり佇んでいた。
死を象徴するその景色に、しかし私はある意味真逆のものを見出した。朽ち逝く最中の植物の根元に、丸いカサを天辺につけ、そこから柄が伸びている……キノコが生えている。特にキノコに詳しいという訳ではないけれど、このぷっくりとした姿で木の幹に生える物体を、キノコと表する以外の方法を生憎私は知らなかった。三つぐらい並んで生えている指程の大きさの物体を認め、それらを確かめるように私は傍に膝をつく。
どうしよう。これは、食べられるキノコなのだろうか。いくらキノコに詳しくはないと言っても、食べられるキノコと食べられないキノコとがある事ぐらいは知っている。もちろん食べられないキノコの中には、少量でも死に至るようなキノコもあるという事も。
どうしよう。これは、食べられるのだろうか。食べてもいいなら当然食べたい。少しでも餓えを凌ぎたい。けれど、もしも、毒キノコだったら……毒キノコである危険性を考えるなら当然食べない方がいい。けれど、今の段階では、このキノコ以外に食べられそうなものなどこの辺りには存在しない。厘が殺した仔犬以外に……私は独り首を振った。犬を殺すだけでもとんでもないのに、ましてや食べるなんて! そんな残酷な事は出来はしない。いくら餓えの苦しみが辛くても、そんな事はしたくはない。
けれど……キノコに手を伸ばし掛けて、触れる直前で拳を握る。このキノコは食べられるのか? 食べられないのか? 本気で悩んでいる自分に気付き、たまらなく惨めな気分になる。一体いつまでこんな事を続けなければいけないんだ? 枯れた草と割れたアスファルトの上を当てもなく歩き続けて、空腹に苦しんで、誰かの家に忍び込んで、物を盗んで、人を殺して……? 人に殺されそうになって、人が殺されるのを目の当たりにして、止める事も、弔う事も出来ずに、そんな日々にしがみつく事に何の価値があるのだろうか。いや、違う。生きる事は尊いんだ。例えどんなに苦しくても、決して生きる事を諦めてはいけないんだ。
それが罪の上にしか成り立たない生だとしても?
私は、ついに意を決して、食べられるのか食べられないのかもわからないキノコを右手に取った。もしかしたら毒かもしれない。でも毒ではないかもしれない。食べなければわからない。けれど食べてみればわかる。食べてみればいい。これが食べられるキノコだったら、私は殺した仔犬を食べてまで生きる必要はなくなるんだ。私は口を開けて、手にしたキノコを噛み千切ろうと歯を立てる。
「それ、毒ですよ」
林の奥から、朽ち逝く木々が人の声を得たような、妙に渇いてひび割れた男の声が聞こえてきた。見れば、いわゆる作務衣の上に綿入れを着込んだ格好の男が、落ち窪んだ黒い瞳で私の事を見つめている。
「それ……毒ですよ。食べると酷い腹痛と吐き気を催し、数時間苦しんだ末に死んでしまいます。自殺したいのであったとしても、もう少し楽な死に方をされた方が……」
「……、……いえ……すいません、自殺志願者ではないんです。私は……その、あまりにお腹が空いてしまって……」
「分、一体何をしているのよ」
背後から聞こえた少女の声に、私は後ろを振り返った。見れば、厘が、少し怒ったような顔をして私の方へと近付いてくる。
「厘……」
「何よその顔。アンタがあんまり遅いからわざわざ迎えに来てやったんじゃない。そろそろ先に行く……何よ、コイツ」
「り……厘、何て言い方をするんだ君は。すいません、私達は旅の者で……先を急ぐのでこれで失礼を……」
その時、私のお腹からグウウウウウウと盛大な音が響き渡った。まるで何かを訴えるように。何か食わせろと叫ぶように。私にはそれが、自分の腹の虫ながら実にわざとらしく聞こえて、あまりの事にこの場から消えたいような気持ちになった。
「お……お腹が空いているのですね……気が利かなくて申し訳ない。大したものはありませんが、よろしかったらうちに来ませんか?」
「えっ!? いや、そんな、お邪魔する訳には……」
「せっかく盛大に腹の虫が鳴ってくれたんだから遠慮なく利用しなさいよ。ねえ、私も一緒に行っていいかしら。まさかこの馬鹿一人だけっていう事はないわよね?」
「え、ええ……もちろん……どうぞ……」
男性は少し……いや明らかに困惑した表情を浮かべたが、心なしか項垂れるように林の中へと歩いていった。その姿と、頭を冒すような空腹感に、
私はとても死にたくなった。




