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疚市(旧2)  作者: 雪虫
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1-1

 この禍々しき怪物は地獄の業火に焼かれながら、それでも天国に憧れる

 ―ガストン・ルルー著 『オペラ座の怪人』





「言ったでしょう? アンタはあと一年未満の命だって。つまりアンタには私と一緒に疚売りを探すか、ここで一年後にくたばるかどっちかしか残っていないのよ。ここでその上半身パックリ割れた石ころの前に跪いてビクビク死んでいくぐらいなら、今綺麗さっぱり死んだ方が少しはマシってもんでしょう? 使父は自殺出来ないって聞いたし、ついでだからボランティアでここで殺してあげるわよ」


 呟いて、少女は再びサバイバルナイフを私の首に突き付けた。状況が……理解出来ない。彼女の言葉が脳にきちんと届かない。だが、少女は、厘は、私の『理解』など待つ気はさらさらないようだ。サバイバルナイフの向こうで、蔑むように笑いながら口を開く少女が見える。


「ちんたら悩んでる暇があるとでも思ってんの? 時は金なり、一分一秒だって無駄になんて出来ないのよ。答えなさい。私についてくる? それとも死ぬ? 三秒で答えないなら殺す」


 そう言って私を覗き込んだ少女の瞳は、例えようもない程黒かった。何の光も反射せず、何の光も灯さない、黒く、深く、重く、澱んで、真っ暗で、…………


 そして

 




 朝日が、ボロボロになったブラインドから私の顔を照らしてきた。私は眩しさに目を細め、朝日から逃れようとくたびれた毛布に顔を埋める。自慢じゃないが朝は苦手だ。頭が上手く働かないんだ。誰にともなくそんな言い訳を脳の中だけで並べ立てて、私は生温い眠りの中に再び落ちて行こうとした。


 しかし、腹にドスンと何かが重くのしかかり、私はぐえっと悲鳴を上げた。腹にのしかかった「何か」は私への攻撃を決して緩めず、そのままトランポリンをするように私の上で飛び跳ね続ける。


「分~、ぶん~、お・き・て~っ!」


「あ……天良! ごぅっ! ……やめ……頼む……やめてくれ……」


「や~! 分がおきるまでやめないの~っ!」


「わ……わかった……起きる、起きるよ……起きるから……」


 私の声を認めた少女は「きゃーっ」と歓声を上げながら私の上からぴょこんと降りた。私はトランポリン代わりにされた腹を左手で押さえながら、消灯台に置いておいたフレームの丸い眼鏡を掛ける。ベッドから降り、ドアを開け、廊下を渡り、階段を下り、大して広くもない、どころか五人で生活するにはかなり狭苦しいリビングへと入っていけば、祥吾、清華、新太、天良、四人の共同生活者が揃って私を見つめていた。


「分、遅いよ。相変わらずお寝坊なんだから」


「おねぼう~、おねぼう~」


「まあまあ新太も天良も、分が朝に弱いのは今に始まった事じゃないんだし」


「朝食食べる前にまずは顔を洗ってきて。あとその眼鏡いい加減掛けるの止めちゃったら? ツル曲がってるし、似合ってないし、っていうか伊達だし、必要ないし」


 清華に怒涛のようにそう言われ、私は眼鏡に右手を伸ばした。確かにツルは曲がっているし、伊達だし、つまりは必要ないのだが、童顔でヒョロイ体格の私は威厳というものが全くない。一応人々の悩みを聞く使父としては、威圧感まではいかないにしても威厳の欠片程度は欲しい。そう思って数年前から身につけるようにしているのだが、


「眼鏡がなければ大学生、眼鏡があればおマヌケさん、そういう顔なんだよ分は。それぐらいなら無い方がいいって俺だって思ってるんだけどさー」


「祥吾まで……もう、ちょっとは私の味方をしてくれようって子はいないのかい……」


「分は眼鏡を掛けない方がいいと思う人ー」


「はい」


「はい」


「はーい」


「悪あがきなんてせず、ありのままで頑張れ童顔使父」


「うう、これでももう二十八なのに……」


 とりあえず清華の言いつけ通り、顔ぐらいは洗って来なければ朝食は食べさせてもらえない。一先ず洗面所に顔を洗いに行き、皺でも出来てくれないかと眉間を指で何度も押す。だがそんな事で威厳が身につくはずもなく、何も変わりはしない自分の顔に溜め息しか出てこなかった。世の人々はいかに若返るかに心を砕いているらしいのに、私はいかに老けるかに全神経を注いでいる。傍から見れば実に下らない事をしているだろう事はわかっているが、相談に来た人に「アンタに相談して大丈夫ですか」、というような顔をされるのは流石にもう嫌だった。


 リビングへ戻るとテーブルの上にはすでに朝食が並んでいた。メニューは焼いたトーストに、目玉焼きに、牛乳に、野菜のスープに、豆腐のサラダ。それとバナナ。毎日清華が朝早くから作ってくれる、お得意にしてお決まりのメニューの一つ。席について「いただきます」と手を合わせ、天良から順番にマーガリンとジャムを使っていく。テレビから聞こえてくるニュースを聞くとはなしに聞きながら、会話もそこそこにみんなでもくもくと朝食を口へと運ぶ。食べ終わった順に手を合わせて「ごちそうさま」と一言述べて、流しに食器を運んだ後は洗面所に歯を磨きに行く。歯磨きが終わったらそれぞれ自分の部屋へと戻って、着替えて、荷物を持ってリビングに集合。新太と天良が来るまでの間に祥吾と清華と協力して皿洗いなどの家事を終わらせ、全員揃った所で忘れ物がないか一列に並んでチェックしていく。


「じゃあ分、お弁当はきちんとお湯につけてね」


「はいはいわかったよ。それじゃあ気を付けていってらっしゃい」


 清華の念押しとみんなの背中に右手を振って送った後、私は玄関に鍵を掛け、隣接する古く小さい教会へと歩いていった。この海辺の町に立つ教会で使父としての勤めを果たす、それが私の仕事であり、責務であり、日常だった。こんな、辺境の小さな町の使父など些細な事しか出来ないけれど、それでも救いを求めたり、誰にも打ち明けられない悩みを抱えて苦しんでいる人はいる。私に出来る事などちっぽけなものでしかなくっても、それでも、そんな誰かの役に立てるなら私はここにいたいと思う。それが、私がこの町で使父をしている一番の理由だった。


「今日も明日も明後日も、世界中の人々が、平穏に生きられますように……」


 聖母像に祈りを捧げてから、箒や雑巾を使って教会の掃除に取り掛かる。箒で身廊を掃き清め、濡らした雑巾と乾いた雑巾で祭壇や椅子を拭いていく。教会内の掃除が終わったら、今度は外に出て入り口から玄関までの落ち葉なんかを掃き集め、庭に咲いている花に祈りを捧げて数本手折ってガラス製の花瓶に飾る。それから、本格的に使父の仕事に取り掛かる。使父が通常どんな仕事をしているのか、詳しく知っている人はそんなにいないと思うのだが、懺悔や相談を受けたり、結婚式を執り行ったりする以外にも、ミサの準備をしたり、学校に顔を出して子供達に授業を行ったり、神書の内容を研究したり、それをどうやって人々に伝えればいいのか考えたり、体が弱っている人がいればお見舞いに訪ねてみたり……やる事は探せばいくらでもあるし、むしろやってもやってもまだまだやれる事があるんじゃないか、そう感じるような毎日だ。際限がなくて辛い、と辞めてしまう人も多いのだが、少なくとも、私にとっては苦ではなかった。


「さて、今日は一体何をしようかな。今日は特にする事もなさそうだし、久しぶりに神書でも読んでいようか。もしかしたら何か新しい発見があるかもしれないし……」


 いや、そういえばこの前「分の言うこと、よくわかんない」って天良に言われてしまったばっかりだ。私としてはかなり頑張ったつもりだったけど、やはり子供に神書の内容は難し過ぎるのかもしれない。天良よりもっと小さな子供に教える事もあるだろうし、今日はどうやって教えればわかりやすいか考えてみる事にしよう。


 椅子に腰掛け、神書とノートを机の上に両方広げる。長い間に何度も読んで、すっかりボロボロにくたびれきってしまった神書は、所々が色褪せて読みにくい箇所もあるのだが、愛着が湧いてしまっているので換える気は全く起こらない。この前授業でやったページを開いて、その内容をノートに書き写しながら、もっとわかりやすい言葉がないか思い付くまま付け足していく。


「例え話の方がわかりやすいかな……いや、口頭だけで教えるのがまずかったのかもしれないな……紙芝居とかの方がいいだろうか……でも私には絵心がないしなあ……」


 自分で自分の声を聞きながら思わずため息が出てしまう。こういう時誰かと協力出来れば楽なのだろうが、生憎使父の友人は私には一人も出来なかった。その事を考えると喉が詰まりそうになってくるので、ないものを嘆いたって仕方がないと振り切って神書に没頭する。


 そうこうしている内に昼を告げるアナウンスが外の拡声器から聞こえてきたので、家に戻って清華が作ってくれたお弁当を一人で食べる。きちんと流しに置いて湯で浸し、歯磨きをしてから教会に戻る。その後も神書に没頭していると、随分経ってから「ただいま」という声が二人分聞こえてきた。新太と天良が帰ってきたのだ。神書とノートを仕舞ってから家の方へ赴くと、洗面所で新太と天良が手洗いうがいを行っていた。


「二人とも、お帰り」


「ただいま」


「ただいま、分~」


「今日は買い物の日なんだけど、一緒に行きたい人はいるかな?」


 そう尋ねると天良が元気いっぱいに、新太がおずおずとという感じで全く同時に右手を上げた。生憎私は車の運転が出来ないので、バスに乗って二十分の所にあるスーパーまで買い物に行く。「今日はなんだろう」「シチューじゃない?」、なんて清華からのメモを見て推理しながら買い物をして、レジに向かおう、とした所で新太と天良の足が止まった。


「どうしたの?」


「分~、プリン~」


「三割引き……」


 天良が「おねがい」と言うように、新太が「出来れば」という風に、そっくりの顔立ちで揃って私を見上げてきた。三個入りのプリンが一パック税抜き百円で、それが三割引きだから……私はパックを右手で持ち、ひょいひょいと計三パックのプリンをカゴの中へと放り込んだ。新太と天良が疑問顔で私の事を見つめている。


「なんで三つも?」


「二パックだとみんなで一個ずつ食べたら一個余ってしまうだろう? 三パックなら計九個だから、みんなが二個、私が一個でぴったりだ」


 私の言葉に天良が指を折り始めた。「こういう事だよ」と新太が助け船を出し、天良はぱあっと顔を明るくした後すぐに困ったように眉根を下げる。


「でも、それだと分のがたりないよ?」


「私は大人だから一個でも十分だよ」


 もっとも、三割引きとは言え三パックも買ったらきっと清華は怒るだろうが、私のお小遣いを減らしてと言えばきっと許してくれるはずだ。新太と天良は揃って眉を下げていたが、何かを思い付いたのか急にこそこそ話し始めた。


「どうしたの?」


「な、なんでもないよ、分」


「早くレジに行こう。バスに乗り遅れたら面倒だし」


 天良と新太に急かされるまま私はカートをレジまで押した。三日分の食料の内軽いものを新太と天良に持ってもらい、再び三人でバスに乗って海辺にある町まで戻る。手洗いうがいをした後で冷蔵庫に食料を詰め、清華達が戻ってくる前に新太と天良をお風呂に入れる。お風呂から上がるとちょうど清華が帰ってきたので、髪を乾かした後、清華の手伝いをする形でみんなで夕飯の準備をする。


「ただいまー。お、いい匂いだな」


「祥吾、おかえり」


「もう少しで出来るけど、お風呂とご飯どっちが先?」


「腹減ったから飯が先で」


「りょうかいしましたー」


 その日の夕飯はスーパーで推理した通りにシチューだった。たくさん作ったから明日はクリームコロッケに、その次はグラタンになると思う。朝と同じくみんなでテーブルに揃って座り、手を合わせて「いただきます」と音頭を取る。


「清華、シチューすっごくおいしいよ!」


「天良達が手伝ってくれたおかげだよ。ところで分、冷蔵庫にあったプリンの事なんだけど」


 清華の問いに私はびくりと肩を揺らした。清華は私をしばしの間睨んだ後、呆れたようにため息を吐く。


「もう、この前も言ったのに」


「ご、ごめん……私のお小遣い減らしてくれていいから……」


「そういう事を言ってんじゃないよ。……ハア、まあいいわ。分からプリンの差し入れがあるから、ご飯食べたらありがたく頂戴しよう。今日は一人一つまで。残りの一個は明日の朝ね」


「やった! ありがとう分!」


 祥吾は素直にガッツポーズし、その反応に私は思わず笑みを浮かべた。お小遣いカットと言っても大した金額じゃないし、子供達の笑顔が見られるならプリンぐらい安いものだ。


「祥吾、そんな単純に喜ばないでよ」


「なんだ清華、嬉しくねえの? さてはダイエット中だな? だったら俺が……いて!」


「誰も食べないなんて言ってないし! っていうかダイエット中とか失礼な事言わないで! 私そんなに太ってないわよ!」


「そんなに怒る事ねえじゃんか!」


「祥吾、清華、ごはん中にケンカしちゃダメだよ。しー」


「天良の言う通りだよ。二人とも静かにして」


 天良と新太に諫められ、二人はむすっとしながら押し黙った。それが妙に面白くて笑っていると二人から同時に睨まれてしまった。


 夕食を終え、食器を流しに置いた後、清華がプリンのパックを開け一人一人の前へと置いた。そして私の前にも置いた、ところで天良と新太が立ち上がって声を上げる。


「分! それたべちゃダメ!」


「え?」


「あ、えっと、食べちゃダメって事はないんだけど、それは明日に回してくれないかな……えっと、ちょっと待って!」


 新太は小皿を持ってくると、自分のプリンの蓋を開けてスプーンで中身を半分取った。そして小皿の中に入れ、天良も自分のプリンを半分取って小皿の中にぼとりと落とす。


「ふ、二人とも何やってるの?」


「おすそ分けだよ。これで分も僕達と同じように明日もプリンを食べられるだろ?」


「おしゅそわけ! おしゅそわけ!」


「天良、『しゅ』じゃなくて『す』だよ。『おすそ分け』。発音も違うし」


「あーなるほど。それじゃあ俺のも」


「私も」


 祥吾も清華もプリンの蓋を開けようとしたので、私は慌てた。子供達の食べる量が少なくなってしまうし、それに、


「い、いいよ。私に遠慮なく食べていいから。それにこれじゃあ貰い過ぎだよ……」


「うーん……じゃあ、いっそ皿に全部開けてきっちり五等分するっていうのは?」


「そっちの方がいいかもね。待ってて。今お皿持ってくるから」


「え、でもそれじゃあ洗い物が……」


「わかった。それじゃあこうしよう。俺達の気持ちの量だけ分にプリンをやる。そんで分は貰い過ぎだと思った量だけプリンを返す。これなら文句ねえだろう?」


「あ、それいいかもね」


「そんじゃあ始め!」


 祥吾の合図と共に、みんなは私の方にずいっとプリンを押し出した。そして互いに互いの顔を見合わせる。


「……おい、みんな皿にプリン入れろよ」


「祥吾だって入れなよ。言い出しっぺのくせに」


「それだと俺がケチ臭いみたいになるだろ」


「言い出したのはアンタじゃない」


「天良は分がだいすきだから、プリンぜんぶあげる~」


「ぼ、僕も……そうだから……」


 子供達の顔を見ながら私は口をぐっと結んだ。一体どんな顔をすればいいのか、どう反応していいのかわからない。子供達の顔が見れなくてしばし視線を落とした後、私の一番近くにある白い小皿に手を伸ばす。


「それじゃあ」


 私は小皿の中のプリンの四分の三を新太と天良の容器に返し、二人からもらったのと同じぐらいを祥吾と清華のプリンから貰った。本当は全部子供達に食べて欲しいが、全部いらないなんて言うのはきっとみんなに失礼だから。


「え、それだけでいいの?」


「もっととっていいんだよ、分」


「シチューを食べ過ぎちゃったんだよ、清華の料理がおいしいから。私はこれで十分だよ。それに明日の朝にもう一個あるんだし、ね」


 「みんな、ありがとう」と付け足して、私はぎこちなく笑みを浮かべた。嬉し過ぎるとどう笑えばいいのかわからなくなる。


 なんて贅沢な悩みだと思った。

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