求めていない真実
今日のパルは、なんだかいつもと少し違う。
「ボアーダ、早く準備して」
弾む声で言いながらカーキのショルダーバッグを掛け、無邪気な少年を思わせる、そのまん丸な瞳を輝かせた。
それに対してボアーダは心底面倒そうに顔を歪めて、嫌々ながらパルの方へ飛んでいく。
「何だよ。どこか行くのか?」
普段パルは滅多に外出をしない。外の景色を眺める事は好きなのだが、出掛けるのはあまり好きではないのだ。それに、暇な時にする事といえば、読書だったり、ひたすらに考え事をするくらいである。基本は塔の中で過ごしているのだ。
「ちょっと行きたい所ががあるんだ」
翡翠色の宝石のような瞳で、そっと扉を開けて丘に出ると、パルはしゃがみこんで柔らかな芝に手を乗せる。
するとそこは、歪に形を変えてパルをボアーダと一緒に吸い込んでいった。
一瞬の出来事だった。そうして辿り着いたのは、辺り一面を黒に近い緑の草木が覆う深い森。太陽の光が差し込む昼の森はしんと静まり返っており、生き物の気配が無かった。
「ここ、どこだ?」
「んー……。一言で言えば……森、だよ」
「……てめぇ絶対俺の事馬鹿にしてるだろ」
パルはくすくすと笑って木々の間を縫う様に歩く。
「帰れなくなっちゃったらどうしようか」
「そりゃねぇな。肩書きの嘘くせぇ天才が一緒なんだ」
「褒めるならもっとストレートに褒めてよ。そんなに皮肉みたいにしないでさ。でも、ありがとう」
「図々しいな。ストレートに言わせてもらうと貶してんだよ。そして生憎これは皮肉だ」
これでもかというほど、眉間に深い皺を寄せたボアーダは、美しい湖を見つけて、ここが一体どこなのかを理解した。
「……お前、ここ好きだな」
少し言い淀んでから口にしたボアーダのその問にパルは答えず、いつも通りの優しい顔つきで、湖の辺に腰を下ろした。
「俺、いつもここに来て思うんだよね。人が優しくなるには、優しいものに触れないといけないんだって」
ここの湖は『鏡よりも映る鏡』という異名を持つ。それほど美しく空を映し出すのだ。
「ここに人を呼べたらいいのに」
「魔力を持つものの中でも偉い連中しか来れねえんだぞ。そんなの人間には無理だ」
魔力を持つ全ての生物の力が合わさってできた空間がここである。並大抵のものはこの空間の異様さ、つまり膨大すぎる魔力に押し潰されてしまうため、この空間の利用者は神がほとんどだ。そんな中、パルは神の使いという地位で唯一この空間を利用できた。
「だからだろ。お前が喫茶店始めたのは。魔力を持たない人間達にこっちの世界を見せてやろうとしてんだろ。魔力が足りない者共に、少しでも代わりになる癒しを与えたかったんだろ」
魔力が集まっているこの空間は、様々な力に包まれている。そのためパルや神達にとっては癒しの空間だった。そしてそれはここの空間に来ることの出来ない人間達にも同じように作用する。
「そうなのかもしれないな」
曖昧なパルの返事にむしゃくしゃしたボアーダは、勢いをつけてパルの目の前まで飛んで出た。
「お前はいちいち言い回しが面倒くせえ!」
「ごめんごめん。でもはっきりそうだとは言えないんだ」
パルの、よくする顔の一つだ。困ったように顔を歪めて、それなのに笑っている。俗に言う、苦笑い、というその表情は、パル独特のものだ。
「俺はただ優しさを知って欲しいだけ。だから他は何も考えてないんだ。偽善者だと思いたいならそう思えばいいさ。ボアーダがそう思うなら偽善者なのかもしれない」
「弱気になりやがって」
パルが手を叩くと、光は消えた。瞬間的に夜になったのだ。魔法の空間であるここは、魔力を持つものの世界。たった一人の力で時間を変えることすら出来てしまう、そんな、正解のない世界。
「見て。ボアーダ。夜空が映ってる」
しかし湖に映ったのは、本の中に出てくるような美しい星達の散りばめられた幻想的な景色ではない。
ひたすらに、つるつるとした真っ暗な空がくっきりと映っている。
「俺にそっくりだ」
その言葉にどんな意味が含まれているのかなんて、本人しかわからない。
パルの場合は尚更だった。信頼している筈のボアーダにさえ過去の事は何も話していないのだ。彼の事を知っているのはおそらく、言葉の神様と感情の神様くらいだろう。
「お仕事するかな」
小さめのショルダーバッグから、嵩のある分厚い色創ノートを取り出して、ノートの真新しいページに鞄のポケットに入っている羽根ペンを立てた。
「名付ける色は映闇色。湖に映ったのは、綺麗な星なんかじゃない。けどきっとこれが一番の真実なんだ。真実は、どんなものでも受け止めなければならないんだ。俺はぼやけていないし、この『鏡よりも映る鏡』だってぼやけていない。だからきっと、大丈夫」
パルは湖の水を少し、不思議な羽根ペンにつけて、ノートにそっと数滴垂らした。夜闇色に濡れた跡は残らない。感情の無い白いページが、パルを見つめていた。




