悲しみは涙に溶けて
2017/1/23 誤字訂正
朝日が、塔の中に差し込んだ。パルの頬が光を反射してぼんやりと光っている。パルのベッドの横にある本棚は、数冊分が空けてあり、そこにボアーダが顔を隠すようにして布団に潜り込んで眠っていた。
静かな朝は二人を優しく包んだ。
「んっ……」
体内時計、というものだ。パルは朝の八時丁度に目尻にかけて長くなった睫毛を微かに揺らした。
「んーっ……ボアーダ。起きて」
朝に強いパルは手を上にぐっと伸ばすと、その混じり気のない黒い瞳を少し擦って、ベッドを離れた。
「……おお」
「先に下行ってるから、あと十分くらい経ったら下りて来なよ」
「お前……朝強えな……」
布団にくるまったままのボアーダの声は、もう二度目の睡眠に入った事をパルに知らせるかのように徐々に小さくなっていった。
パルにとっては通例なので、大して意に介さずキッチンへと向かった。
「昨日は俺の好みに付き合ってもらったからな」
形が崩れ焦げ目のついたマシュマロ。パルの好物は甘いもので、ボアーダの好きなものは辛い物。そしてパルは辛い物が苦手だった。
「別で作るかな」
雨粒色の寝巻きの袖を数回折って、蛇口を捻る。流れ出る水道水は一直線にシンクへ落ちた。
「水の色って無限だなあ……」
ぽつり、と独り言を漏らす。
パルには、全て違って見えた。同じ水でも、雨の色は昨日名付けた雨粒色に見えていて、目の前を流れてゆく水道水はまた別の色に見えた。
パルは『目がいいんだね』とよく言われた。神の下で働くパルは、時に人間と溶け合って生きた。学校にも通ったし、就職もした。最初の頃は神と人間の差が陽炎のように混沌としていてどこまでが共通しているのかが分からなかった。
幼稚園の時、ある女の子が泣いていた。
「パルくん、あの子パルくんと遊びたいんだって。寂しくて泣いちゃったから、話しかけてあげてほしいな」
パルは首を横に振った。
「先生前も寂しくて泣いちゃったからって言ってたけど、その時と涙の色が全然違うよ。本当に寂しくて泣いてる?」
不思議で堪らなかった。
パルが他の子と話していて近づけないと泣いていた時の涙の色と、パルが話しかけてくれなくて落とした涙の色は全くの別物だった。
「前は黒の多い涙色でね、今は青が多いんだ」
もっとも、先生からすれば幼稚園児の妄想の一つであったが。
「そうなのねえ」
パルは昔から真っ直ぐな性格だった。だから先生の反応が薄くても、興味が無いからとか馬鹿にしているとかは考えずに、ただ単に伝わっていないのだろう、若しくは疲れているのだろうとしか捉えなかった。
「ねえ、遊ぼう」
パルは女の子に話し掛けて、二人で砂遊びを始めた。
先生に、伝わらなかった。先生は色の違いを区別するのが苦手なのか、それとも出来ないのかを考えて、でも結論に辿り着けないまま幼少期を終えた。
他の子との違いを知り始めて、パルは数多の経験をした。心躍るような素敵な経験も人を信じられなくなるような嫌な経験も。二つの経験を通して、自分と人間とじゃ今までパルが思っていたよりも大きく差がある事に気付いた。
「あの時の俺は何色の涙流してたかな」
目に光は無かった。声も黒みを帯びていて、パルの柔らかさ、穏やかさは感じられなかった。
「何の話だ?」
「あ、おはようボアーダ。ご飯食べる?」
「……おう。ありがとよ」
それからパルもボアーダも涙の話をする事は無かった。パルは過去を話さない。それを知っていたボアーダは、何も聞かなかった。
仕事部屋で、パルは一人きりになった。
「変な事思い出したからな……。やけに広いんだなあ、この部屋は」
頬を伝って落ちる涙を手の甲で受け止めた。
「この色、かな」
パルは深呼吸をして涙を拭うと、羽根ペンをそっと色創ノートに立てた。
「名付ける色は悲涙色。本当の悲しみを感じた時の涙の色」
そう呟いたパルの目には、また雫が溜まっていた。