妹の願い
王国の西部に王国の食料庫と呼ばれる広い平原があり、その南端に近い小さな地域を預かっているのがアシュクロフト子爵家である。
そしてそのアシュクロフト領と王都の間にある交通の要所を治めているのがブラックウッド伯爵家である。
ブラックウッド伯爵家には嫡子である長男と年の離れた次男ビクターがいた。両親も兄もビクターを溺愛していた。
ビクターが生まれた翌年、アシュクロフト家に第一子となる長女ライラが生まれ、さらにその二年後次女セーラが生まれた。
ブラックウッド家は可愛い次男を離れた土地に婿に出す気になれず、またアシュクロフト家は婿を探す立場であり関税の優遇などの思惑から、ビクターとライラを婚約させようと幼い頃から交流させていた。
主に男の子であり年長であるビクターがアシュクロフト家に行く形で交流を行っていたため、ビクターとライラとセーラの三人は幼なじみとして仲良く育った。
しかし、セーラは五歳の時に重い病を患ってしまった。高熱を出して寝込み、医者も今夜が峠というほどの容態だった。
なんとか峠を越して熱も下がったものの、セーラの身体は元のようには戻らなかった。季節の変わり目には咳が出て、少し庭を歩くだけで息を切らせ、少し無理をすると熱を出す。
それ以来、アシュクロフト家の中心は常にセーラになった。
父リチャードと母エレノアの視線もいつもセーラへ向けられていた。
「セーラ、今日は顔色が良さそうだな」
「今日は苦しくない?それは良かったわ
でも無理はしないでちょうだい」
ライラはいつも一緒に居たセーラと離され、両親が共にセーラにつきっきりになったことで寂しさを感じていた。
別にライラが愛されていなかったわけではない。けれど何かあれば最後には必ず言われた。
「セーラは身体が弱いのだから。ライラは健康だし、お姉ちゃんでしょう?」
理解もしていた。セーラは身体が弱いのだから自分が少し我慢すればいいだけだ。もちろんライラだって優しく可愛い妹が大好きだったから。でも寂しくないと言えば嘘になる。
ライラの十歳の誕生日。ライラがケーキのろうそくを吹き消そうとした瞬間だった。
セーラが突然咳き込み、倒れた。医師を呼ぶ騒ぎになり、両親も使用人もその対応に追われ、祝いの席だったはずの食堂ではライラ一人だけが残された。
揺れるろうそくの火を見つめながら、ライラは静かに吹き消した。
本当ならここでみんながおめでとう!と声を掛けてくれるはずの時間。
だけど誰にも祝われなかった。もちろんセーラが心配だったし、仕方が無いことだというのも十分理解していた。それでも、誕生日なのに誰も居ないその光景は、寂しさとともに印象に残った。
その夜、ライラの部屋の扉が小さくノックされた。誰何するとそこにいるのはセーラ付きの侍女アリスだった。
「どうしたの?」
「夜遅くに申し訳ないのですが、セーラ様がどうしてもライラ様に会いたいと起き上がろうとされるので、呼んでくるからとなんとかなだめたところなのです。もしお時間が大丈夫ならお会いしてもらえないでしょうか」
寝付けなかったライラはセーラに会いに行くことにした。
「お姉さま。呼び出してごめんなさい」
セーラはベッドから上半身だけ起こしていた。まだ顔色が悪い。
「どうしたの?まだ起きない方がいいわ」
「だい、じょうぶ。お姉さま、お誕生日おめでとう」
そう言って笑顔でセーラは小さな封筒を差し出した。
中には、押し花で作った栞が入っていた。押し花になっているのは少し前のセーラの体調が良い日に二人で摘んだ庭の花だ。
「お姉さまにあげたくて作ったの。いつも、ありがとう、ごめんね」
「可愛い栞…大切にするわ。ありがとう」
セーラからの贈り物を嬉しそうに受け取ったライラの笑顔を見て、セーラも安心したように微笑んだ。
結局、その日誕生日を祝ってくれたのはセーラだけだった。
誰よりも優しく、思いやりのあるセーラ。だからこそ、みんなセーラを好きになった。
それは幼なじみであるビクターも同じだった。
ビクターはアシュクロフト家を訪れるとセーラの見舞いをし、本を読み聞かせ、庭の花を摘み、セーラを笑わせようとした。
そしてビクターが十七歳の時、アシュクロフト家の庭園でベンチに座るセーラに花束と指輪を渡して結婚を願った。
両家は本来、ビクターとライラの婚約を考えていたが、ブラックウッド家は溺愛するビクターの強い希望によりセーラとの婚約を打診した。
格上のブラックウッド家からの打診であったし、男爵ではあるがビクターに従属爵位を渡すことをブラックウッド家が約束したこと、そしてライラは健康で嫡子だから結婚相手に困らないだろうが、病弱なセーラに嫁のもらい手はないであろうということを踏まえてアシュクロフト家も了承した。もちろん、セーラの了承もあった。
こうしてビクターとセーラは正式に婚約し、セーラが成人する十八になったら結婚することになった。
ビクターは結婚したら従属爵位を貰って分家を立てることにし、両親と兄の補佐をしながら時々セーラに会いに来ていた。
しかし、その度に少しずつ身体が弱っていくセーラを見ることになった。
その翌年、ライラが十七歳、セーラが十五歳の時、セーラは家族と婚約者に見守られ、穏やかな笑みを浮かべたまま息を引き取った。
最後の言葉は
「私、幸せよ。みんな、大好き」
最後まで皆を愛した優しい妹だった。
セーラの葬儀は静かだった。家族はセーラを知っている人だけで静かにお別れをしたかったのだ。
十五歳というあまりにも短い人生だった。しかし、セーラは最後まで苦しそうな顔を見せることなく、穏やかな笑みを浮かべたまま息を引き取った。
その微笑みを思い出して皆が泣いていた。
葬儀が終わってから、執事のオリバーが一つの箱を運んできた。
その部屋にいたのは父リチャード、母エレノア、婚約者ビクター、そして姉ライラ。
「セーラお嬢様からお預かりしたものです」
オリバーは持っていた箱を開けた。箱の中には四つの封筒が入っていて、それぞれに宛名が書かれていた。
「いつ…、いつ、書いたの…?」
自分宛の手紙を見つめながら震える声で聞くエレノアの声に、オリバーの隣に控えていたセーラの侍女であるアリスが答える。
「一月ほど前から体調の良い日の寝る前に少しずつ、です。そして、数日前に書き終え、オリバー様へ預けられました」
大好きなお姉さまへ
そう書かれた封筒を渡され、ライラは胸に抱きしめた。
リチャードは震える手で自分宛の手紙の封を切り、読み進める。
やがて、肩が大きく震えた。
「……セーラ……」
涙など見せたことのなかった父が、子どものように泣き崩れる。
エレノアも同じだった。
「セーラ、セーラ……」
手紙を胸に抱き泣き続ける。
ビクターは最後まで声を出さなかった。
読み終えた瞬間、椅子から立ち上がって窓辺から庭を眺める。その肩は震えていた。
ライラはまだ封を開けられずにいた。中を読む勇気が出なかったのだ。
開けられない封筒を持ってライラはそっと部屋に戻った。
一人きりになってから、ゆっくりと封を開ける。
中には便箋が丁寧に重ねられていた。
少し丸みのある、セーラらしい字。
お姉さまへ
最初に、ごめんなさい
きっと私は、お姉さまより先にいなくなります
その一文だけで、ライラの視界がゆがむ。涙が紙に落ちそうになり、慌てて袖で拭った。
お姉さまは昔から、私のためにたくさん我慢してくれました
私がお父さまとお母さまを独り占めしてしまったから
誕生日ですら、私が倒れてしまったからお祝いしてもらえなかった
寂しかったよね
私がいるから本来ならお母様と一緒に出かけたはずの様々なお茶会に参加できなくてお友達もいなかった
唯一親しいお友達だったビクターも私につきっきりになってしまったから寂しかったよね
ライラは目を見開く。
知られていないと思っていた。
寂しいなど、一度も口にしたことはない。
それなのに、全部、気付いていたのだ。
でも、お姉さまは一度も私を責めませんでした
口に出さなかっただけじゃなくて、私のせいでと全く本当に思っても居なかったのも知ってます
私にはいつも笑顔でいてくれました
お姉さまの笑顔はいつも明るくて、私を元気にしてくれました
お姉さまは世界で一番の自慢のお姉さまです
涙が止まらなかった。それでも読み続ける。
お姉さま、ごめんなさい
何もお姉さまに返せないのに、お願いがあります
みんな、きっといっぱい泣きます
お父さまも、お母さまも、ビクターも
だから、お姉さまだけは笑っていてください
ライラは首を横に振る。思わず声が漏れた。
「そんなの……」
手紙にはさらに続きがあった。
お姉さままで泣いたら、みんなもっと苦しくなります
お姉さまの明るい笑顔が無いときっとみんな暗くなってしまいます
だから、お姉さまはいつもの素敵な笑顔を見せてあげて
そうすればきっとみんなすぐに元気になると思うの
みんなを支えてあげて
それが、私の最後のお願いです
ライラは紙を握り締めた。
「無理だよ……」
泣き叫びたいくらい悲しい。
セーラが居なくなって涙が止まらない。
それなのに、そのセーラの最後の願いは笑っていて、だった。
世界で一番大好きな妹の願いを叶えないわけにはいかなかった。
私はお姉さまの笑顔が一番好きです
だから笑っていてね
それとね、お姉さま
幸せになってください
約束よ
ライラは手紙を胸に抱きしめ、思い切り泣いた。
翌朝。
食堂には重苦しい空気が漂っていた。
誰も食事に手を付けない。
エレノアは赤く腫れた目のまま席に座り、リチャードはただ窓を眺めている。
ビクターも昨晩は泊まったので朝食の場には訪れていたが、一言も話さない。
ライラは深呼吸した。
(約束だから)
涙を飲み込み、無理やり口角を上げる。
「今日はいい天気ね」
全員が顔を上げた。
「セーラはお花が好きだったから……午後は庭のお花を植え替えをしませんか?」
母は呆然とライラを見つめた。
「……ライラ」
「はい?」
「あなた……」
震える声だった。
「悲しくないの?」
その言葉に、ライラの胸は締め付けられる。
悲しいに決まっている。
苦しいし、今にも泣きそうだ。
でも、でも、大事なセーラとの約束だから。
「もちろん悲しいに決まってますわ」
精一杯笑う。
「でも、セーラが心配しますから」
これは、本当。
だけどそう答えた瞬間、父が机を叩いた。
「妹が亡くなったばかりだというのに笑うとは何事だ!」
母まで涙ながらに叫ぶ。
「あなた、お姉さんでしょう?
どうしてそんな平気な顔ができるの!」
ライラは何も言えなかった。
手紙のことは、言えなかった。
セーラは誰にも見せないでほしいとは書いていなかった。
説明したら分かってくれるだろう。
それでも、セーラの最後の願いはライラだけのものだ。
大切な妹から託されたものだ。
だから言いたくなかった。
「ごめんなさい」
謝るしかできなかった。
その様子を見ていたビクターも、小さく目を伏せる。
「ライラ」
「……うん」
「君は、セーラを愛していたんだよな」
「もちろん」
「だったら……」
ビクターは苦しそうに顔を歪めた。
「今は楽しそうにしないでくれ」
その言葉は刃だった。
ライラは笑顔のまま、小さく頷く。
「……ごめんね」
夜、一人になった部屋で、ライラは枕を濡らした。
誰にも聞こえないように、誰にも知られないように、声を押し殺して泣き続けた。
セーラが亡くなって、一ヶ月が経った
アシュクロフト子爵邸には、未だに喪失感が漂っていた。
食堂での食事の時には今もセーラが愛用していたティーカップが出され、セーラが好きだった白百合が飾られている。
時間は経ったのに、皆の心は沈んだままだった。
ライラは毎朝、鏡の前に立って確認する。
目元は赤く腫れていないか。
笑顔は不自然ではないか。
何度も確認する。
「……よし」
口角を少しだけ上げる。
それは心からの笑顔ではなく、妹との約束を守るための仮面だった。
食堂へ向かうと、今日も父と母はほとんど食事に手を付けていない。
ビクターも毎日のように屋敷を訪れてはぼんやりとセーラと共に過ごした庭を眺めていた。
ライラは努めて明るく挨拶する。
「おはようございます。
今日は天気がいいですね。領地の畑も豊作になりそうです。」
返事はない。
父はぼんやりと空席を見つめていた。
ティーカップだけがあるそこは、いつもセーラが座っていた場所だった。
「……あそこに座って、『今日のパンは美味しいわ』って笑っていたことがあったな」
「…えぇ、とても可愛かったわ。後で料理長が喜んだのよね」
思い出話をして、二人はハンカチで目元を押さえた。
ライラも毎日今まであった色々なことを思い出している。
会話を思い出しては泣いている。
でも。
(笑っていてね)
セーラが笑顔で、あの声で言っているのが目に浮かぶ。
「きっとセーラも、お父様たちが元気になってくれた方が嬉しいですよ」
父はゆっくりとライラを見る。
「……またその話か」
「え?」
「お前は、どうしてそんなに平然としていられる」
ライラは言葉を失う。
平然としているわけではない。
苦しくてたまらない。けど、それでも笑っているだけだ。
「私は……」
「もういい」
父は席を立った。
「今のお前を見ていると、セーラが可哀想でならん」
その悲しんでいないと決めつける言葉にライラは傷ついた。
それでも笑顔でいた。
その日の午後。
ライラは庭で白百合の手入れをしていた。
そこへビクターがやって来る。
そして白百合の咲く花壇の側にあるベンチを見つめる。
以前セーラが良く花壇を眺めていた場所だった。
いつも横にビクターやライラがいた。
「ライラ」
「ビクター」
「……花の世話か」
「うん。セーラが大好きだった花だから」
「そうだな」
ビクターが静かに口を開く。
「俺は毎晩眠れない。
やっと眠れても夢を見ればセーラがいて、目が覚めればいない。
毎朝起きて絶望する。
食事も喉を通らない。
何をしていても思い出す」
拳を握り締める。
「なのに君は笑っている」
「…」
「一緒に育ってきた姉妹だろう?
どうしてそんなに平気なんだ」
ライラは思わず視線を逸らした。
違う!平気じゃない!
泣きたい!叫びたい!
でもセーラの願いなの!
言いかけて飲み込む。
セーラとの約束を、守りたい。
「私は…みんなが元気になってほしいだけ」
そう答えると、ビクターは苦しそうに眉を寄せた。
そして無言で立ち去ってしまった。
ライラはその背中を見送るしかなかった。
夜。
部屋へ戻ると、ライラはいつものように扉に鍵を掛けた。
そして机の引き出しから、封筒を取り出す。
もう何回読んだか分からない。
大好きなお姉さまへ
セーラの文字を指で撫でる。
「セーラ……」
ぽろり、と涙が落ちる。
「今日も怒られちゃったよ。
私、ちゃんと笑えてるかな?
約束、守れてるかな?」
返事はない。
ライラは手紙を胸に抱き締める。
「本当はね、私だって毎日泣いてるんだよ」
食堂での両親に、庭園でのビクターに、言えなかったことをつぶやいた。
もちろん、聞いていた人は誰も居なかった。
さらに一ヶ月が過ぎたが屋敷は少しも変わらなかった。
リチャードは仕事を最低限しか行わず、エレノアは食堂に飾られたセーラの肖像画の前に毎日花を飾る。
ビクターも婚約者死亡による婚約解消の手続きを拒み、今なお左手の婚約指輪を外していない。
そしてライラだけが、毎日笑っていた。
ある日の夕食の時。
リチャードはとうとう感情を抑えきれなくなった。
「ライラ」
「はい」
「……お前は、本当にセーラを愛していたのか」
ナイフとフォークが止まる。
ライラは信じられない思いで父を見た。
それだけは、疑われないと思っていた。
「もちろんです」
「なら、どうして笑える」
エレノアも涙を流しながら言う。
「あなたはセーラのお姉ちゃんなのよ?
どうしてそんなに早く前を向けるの」
ライラは震える唇を噛んだ。
ライラもあの日から、一歩も進めていなかった。
ただ、約束を守るために、セーラのために、前を向いていただけだ。
「……ごめんなさい」
その一言しか言えなかった。
「もういい」
リチャードは深いため息をつき、エレノアは泣きながら、席を立った。
さらに数ヶ月が過ぎたある日、執事のオリバーが静かに告げた。
「旦那様。来月はライラお嬢様のお誕生日でございます。
祝宴の準備が全く進んでおりません」
ライラが十八歳になる日。
十八歳はこの国では成人となるため、普通は領地をあげて盛大な祝宴を行う。
そして盛大な祝宴を開くための準備に一月は短い。
それでも悲しみにくれる主君のため、オリバーは自分たちのできる限りで準備を進め、主の指示をぎりぎりまで待っていた。
しかしリチャードは、ゆっくりと首を横に振る。
「……祝えるはずがない」
「セーラがいないのに祝宴なんて……」
エレノアがつぶやく。
「延期する。喪中だからとでも言って連絡をしておいてくれ」
「通常、成人の祝いは喪中でも行われますが…」
「しなきゃいかんわけでもなかろう」
「……かしこまりました」
その夜、何も知らないライラはセーラの手紙を抱きしめながら、ベランダから星空を見上げた。
「……もう少しだけ頑張るね」
ライラの誕生日。
嫡子が成人を迎えたアシュクロフト子爵邸では祝宴が開かれるはずだった。
本来は、昼には領民に酒や料理が饗され、夜には付き合いのある貴族を招いた祝宴が催される。
だがその光景はなかった。
いつも通り、屋敷は静まり返っている。
食堂に並ぶ料理も、普段と変わらない。
祝いの花も、ケーキもない。
毎年誕生日を祝ってくれた妹が今年はいない。
皆が悲しみにくれているのは分かっている。
それでも成人という大きな節目の日なのだ。
ライラは少しだけ期待していた。
「おめでとう」の一言だけでもいい。
心のどこかで、家族が「おめでとう」と言ってくれるのを待っていた。
食堂へ入る。
「おはようございます」
返事はなかった。
父はセーラの肖像画を見つめ、母は涙を流している。
「……今日は」
ライラが何かを言いかける。
しかし父は小さく呟いた。
「去年の今日は、セーラも笑っていたな……」
「ええ……『お姉さまにまた一つ先を越されてしまった』って……」
母の言葉は涙に途切れた。
二人とも、ライラの存在には気づいている。
ライラの誕生日だと言うのも分かっている。
それで誕生日には触れない。
ライラをちらりとも見ない。
「今日はお天気がいいですね」
それだけ言って席に着く。
誰も返事をしないまま、静かな朝食が終わった。
ライラは一人でろうそくを吹き消した十歳の誕生日を思い出していた。
あの日はセーラが祝ってくれたけれど、そのセーラももう居ない。
結局、その日が終わるまで家族の誰一人としてライラに「誕生日おめでとう」とも「成人おめでとう」とも言わなかった。
ライラは寝る前、自室の窓を開けた。
夜風がカーテンを揺らす。
机の引き出しから、何度も読み返したセーラの手紙を取り出す。
「約束、守ってるよ。
でもね、セーラ」
涙が頬を伝う。
「……疲れちゃった」
初めて口にした本音だった。
妹を失った日から、毎日笑い続けた。
毎晩、一人で泣いた。
父にも母にも、ビクターにも冷たいと責められた。
それでも約束だからと耐え続けた。
「私も、家族なのに。
セーラに会いたいに決まってるのに」
涙が止まらなかった。
数日後の朝。
ライラは執事のオリバーを呼び止めた。
「お願いがあるの」
「何なりと」
「家を出るわ」
オリバーは驚いた。
「どちらに?」
「まだ決めていないわ。居場所を決めたら連絡する」
「旦那様には……」
ライラは小さく首を振る。
オリバーは目を伏せた。
「……お止めしても、お気持ちは変わりませんか?」
「変わりません」
「そうですか」
「後でこの手紙を渡して欲しいの」
「わかりました。どうか、ご無事で。必ずご連絡ください」
「分かっているわ。ありがとう」
その前日の夜。
ライラは机に便せんを広げていた。
震える手で、一文字ずつ書き始めた。
お父様とお母様へ
突然いなくなることを、お許しください
私はしばらくこの家を離れます
お父様もお母様も何度も私に「悲しくないのか」と尋ねました
そのたびに、私は答えられませんでした
答えたくなかったのではありません
答えられなかったのです
セーラから最後にもらった手紙には、こう書かれていました
「みんなはきっと泣くから、お姉さまだけは笑っていて。明るく接してあげて」と
私は、その約束を守りたかっただけでした
私だってとても悲しかった
でも昼間は笑いました
セーラとの約束だったからです
だけど、その笑顔を見て、私が悲しんでいないと思いました
責められるたびに、私は「ごめんなさい」としか言えませんでした
悲しんでいると言うことで、セーラとの約束を破りたくはなかった
でも悲しんでいないなんて言えなかった
先日は私の誕生日でした
でも誰も「おめでとう」と言ってくれませんでした
きっとお父様もお母様もそれほど悲しみが深かったのでしょう
それでも祝って貰いたかったと思ってしまう私は、確かに皆よりは悲しみが深くなかったのかもしれません
でも私はその時気づきました
今のこの家に私の居場所はないのだと
だから家を出ます
どうか探さないでください
いつか皆が笑えるようになったらきっと帰ってきます
それまでお元気で
そしてセーラのことだけでなく、私のこともたまには思い出してくれると嬉しいです
ライラ・アシュクロフト
そして、もう一枚便せんを取り出す。
ビクターへ
セーラは最後まで、あなたの幸せを願っていました
自分を幸せにしてくれたのはビクターだからと
だから、前を向くことをあきらめないでください
あなたが前を向いて歩くことが、きっとセーラが一番望んでいたことです
ありがとう
幼い頃、三人で過ごした時間は、私にとっても大切な宝物です
オリバーが手紙を預かった日の夜更け、屋敷の門が静かに開いた。
大きめの鞄を持った旅装姿のライラは、一度だけ振り返った。
生まれ育った屋敷と妹と笑い合った庭を月が明るく照らしていた。
「セーラ、ごめんね。また戻ってくるから」
小さく呟いてから歩き出した。
朝になって侍女がライラの部屋を訪れた時、そこには誰もいなかった。
両親が揃った食堂で、オリバーが告げた。
「ライラお嬢様が出ていかれました」
「……何?」
リチャードはオリバーの言葉が理解できなかった。
昨日までそこにいた。
いつものように微笑んでいた。
いつものようにイライラするくらい明るい声で話していた。
だから、今日もいると思っていた。
「これをお預かりしました」
そう言って渡された手紙は家族への手紙だった。
リチャードは封筒を開けた。
「……ライラ」
読み始めた瞬間、顔色が変わる。
エレノアも隣から手紙を覗き込み、口元を押さえた。
「そんな……」
そこには、両親が知らなかった娘の本当が書かれていた。
悲しくなかったわけではない。
泣かなかったわけでもない。
ただ、両親の前で泣くことを自分に許さなかっただけ。
妹の最後の願いを守るために。
ライラはずっと、一人で悲しみを抱えていた。
「私たちは何を見ていたんだ……」
思い返せば、いくらでもそれを裏付けることがあった。
ライラはいつも笑っていた。
けれど、その笑顔の奥に疲れが見えることもあった。
朝は少し腫れた目をしていた。
庭で一人、白百合を見つめる姿は寂しそうだった。
それを見ても、彼らはこう思っていた。
ライラは強い
ライラなら大丈夫
だって笑っているのだから
でも違ったのだ。強かったのではない。
一人だけ日常に戻っていた訳でも無い。
無理矢理笑っていただけだった。
誰よりも我慢していただけだった。
翌日にはビクターにも伝えられた。
ビクターは、自分宛ての手紙を何度も読み返し、拳を握り締めた。
「俺は……」
セーラを失った悲しみに囚われていた。
セーラを愛していたから苦しかった。
けれど、その悲しみの中で、もう一人失った。
ライラという、大切な幼なじみを。
「何を見ていたんだ……」
幼い頃から三人で過ごした。
年の離れた兄よりも近くにいた。
セーラの隣には、いつもライラがいた。
セーラと一緒にライラが笑っていた。
それなのに。
セーラを失った後、同じように苦しんでいたはずなのに見落としていた。
ライラの部屋に行ってみると、当然、彼女の姿はなかった。
綺麗に整えられ、物がほとんど無い部屋。
「前を向いて、元気になって」
セーラがライラに伝えたという言葉、その言葉に後押しされ、家族とビクターは今まで失ったことを実感するようで入ることができなかったセーラの部屋の扉を開けた。
セーラの部屋は生前のまま残された小物や本が並んでいる。
母が机の引き出しを開けると、一冊の小さな日記帳が見つかった。
「これは……」
中には、セーラの日々の記録が残されていた。
病気の苦しみや薬の辛さ、未来への不安。
決して表に出さなかったセーラの負の感情が綴られていた。
そして姉への想いも。
今日もお姉さまが庭で一人泣いていた
私のせいで寂しい思いをしているのに、私に気づくと明るい笑顔で手を振ってくれた
お姉さまは、私よりずっと優しい人
だから、いつか誰かがお姉さまを幸せにしてくれますように
母は声を上げて泣いた。
父も顔を伏せる。
セーラはライラがどれほど寂しかったのかを知っていた。
それでも両親や幼なじみの愛情を独り占めしているセーラを最後まで責めなかったライラに罪悪感を感じていたことも分かった。
「私たちは、セーラの気持ちも、ライラの気持ちも何一つ分かっていなかったのね…」
エレノアの声が震える。
それから一年が経った。
リチャードとエレノアはライラを探さなかった。
居場所はオリバーが把握している、何かあったら連絡があるように手配済みであるとと報告を受けている。
だったら、傷つけた自分たちが迎えに行くことは出来ないと。
いつか戻ってきてくれると信じて待つことに決めた。
ライラが出て行ってから、少しずつ、アシュクロフト子爵家は動き出した。
両親は普段の仕事に戻り、少しずつ社交も行うようになった。
悲しみが無くなった訳では無い。
それでも悲しみだけに閉じこもることはなくなった。
庭には、白百合と共に新しい花が植えられた。
ライラの好きな赤いガーベラだった。
ライラはアシュクロフト領の片隅にいた。
どこに行くか考えたとき、いつか家に戻りアシュクロフト家を継ぐのならと領地を見て回ることにしたのだ。
場所はオリバーに伝えており、護衛兼従者もつけられている。
領地の人たちとも交流しているが、領主の娘だとは誰にも言っていない。
両親が領地に戻るときにはオリバーから連絡を貰って会わないようにしていた。
ライラはそこで手紙を受け取った。
リチャードからはライラの悲しみに気付かずすまなかったと、
エレノアからはセーラの願いを叶えようとしてくれてありがとうと、
ビクターからは手続きを行い婚約指輪を外したと、
そしてオリバーからは庭に赤いガーベラが植えられたと綴られていた。
いつか戻ってきてほしい
全員の手紙の最後に、そう書かれていた。
ライラは長い間、その手紙を眺め、青空を見上げた。
「セーラ、みんな少しずつ前を向いてるみたいだよ」
泣きながらほほえみ、ライラは歩き出した。




