あなたは私の運命の番でした
一目見た瞬間に、世界が塗り替えられるような衝撃が全身に走った。
まるで血液が沸騰しているみたいに体が熱を帯びて気分は高揚し、足元がふわふわする。頭の中で、祝福の鐘の音が聞こえた気がした。
ずっと失っていた半身を取り戻すような感覚で、その人を本能で欲していると自覚して──。
たまらず、彼の目の前へと躍り出た。
「……っ、はじめまして! リーゼ・エーデルと申します。あの、あなたは私の……運命の番ですよね!?」
私の言葉に、目の前のその人の、宵の空のように深い藍色の瞳が見開かれる。
その美しさに見惚れる私とは対照的に、彼は盛大に顔をしかめて口を開いた。
「知らない。君の勘違いだ、絶対」
◆
私たちが暮らすこの王国の始祖は、金色の獅子であったと語り継がれている。獅子王は人の娘と番い、その子孫である獣人たちが国を発展させていったという。
そんな王国では人族と獣人族が共生しているものの、王族をはじめ、高位貴族はほとんどが獣人族だ。
獣人族にはたった一人の運命の相手──番を感知する能力が備わっている。
一生出会うこともないか、そもそも相手が存在しないのか……自身の番を知らずに生涯を終える者がほとんどだ。
けれど、だからこそ。
獣人族にとって番は何にも替えがたく、何にも勝る。
──番を得る。
そんな幸福を、全ての獣人族は夢見ている。希望のように、あるいは執着のように。
そして例に漏れず、私も同じだった。
「いつか番と出会えたらいいな」という淡い乙女心は、彼を目にした瞬間、どうしようもない激情に変貌して溢れ出した。
疑いようもない。
彼は間違いなく、私の番だ。
それなのに……。
「本当にそうなの? 勘違いじゃないの?」
教室に戻ると、クロエに思い切り疑念の目を向けられた。
王都の貴族学院に入学してひと月あまり。クロエは同級生で、一番気の合う友人だ。
私と彼との運命の邂逅の瞬間、クロエもあの場にいた。
番だと思った彼にきっぱりと否定され、呆然と立ち尽くす私を、クロエが引っ張って教室まで連れて来てくれたのだ。
人がごった返す登校時の門の前、私はあまりに注目を集めていたし、邪魔だったのだそう。
「私は人族だからよく知らないけど、番って見た瞬間に互いにわかるものなんでしょ? リーゼが番だと思った相手も獣人族で、でも彼には勘違いだって言われたわよね? だったら、そうなんじゃないの」
「違う、わかるの。あの人が私の運命の相手なの! 絶対絶対、番に間違いないよ!」
私の必死さに、クロエは困ったようにため息をつく。
「どちらにせよ、まぁ厄介よね。相手はあなたのこと、何とも思ってなさそうだったし。それに……あの人、誰だか知ってる?」
「ううん。もしかして、クロエは知ってるの?」
思わず身を乗り出す。
私たちは共に子爵家の生まれだが、田舎育ちの私と違い、クロエの家は領地を持たず、ご両親が王宮勤めのため都会っ子なのだ。
顔が広くて情報通の友人は、こんな時とっても頼りになる。
「……まぁ……知ってるけど。けっこう有名人よ? 公爵令息だし」
「公爵令息! 一生ご縁がないはずの人だ……!」
「そういうこと。ほら、私たち世代って王族の子がいないじゃない? あの人が学院で一番身分が高いのよね。長男だし、見目もいいし」
「ご長男なんだ……。お名前は!?」
「イザーク・クロイツ公爵令息。ひとつ年上の、二年生よ」
イザーク様。公爵家長男。二年生。
頭の中で反芻して、彼の情報を噛み締める。
「ねぇ、リーゼ。気をつけなさいよ。あなた、かなり目立ってたんだから。番だって明言して、その上否定されて……。きっと良く思わない人もたくさんいるはずよ」
「二年生ってことは、西側の棟かぁ」
「私の話聞いてる?」
クロエの有り難い忠告を聞き流すつもりはなかったけれど、私の頭の中はもう、イザーク様でいっぱいだった。
彼のことをもっと知りたい。
声を聞きたい。
もう一度、その姿をこの目に映したい。
その一心で──。
私はイザーク様のクラスを特定した。
休み時間のたびについつい西棟に足が向いてしまい、そしてイザーク様の姿をとうとう見つけてしまったのだ。
教室の、窓側の席。
同級生の男子数人と何か言い合って、そしてふいに笑顔を見せる。その破壊力といったらなかった。心臓が止まるかと思った。
廊下からこっそり覗き見ていた私は目が離せなくて、凝視しているうちに、イザーク様と目が合ってしまった。
その、瞬間。
イザーク様の笑顔が固まった。次いで物凄く嫌そうに顔を歪ませたかと思うと、勢いよく目を逸らされてしまう。
……なんだかめちゃくちゃ嫌われているなぁ、と思うけど。好き。
あと、特に親しげな女生徒はいないようだ。ひと安心。
──と、すっかり満足していたのだけれど。
「リーゼ、あなたいい加減にしなさい」
数日がたった頃に、クロエに普通に叱られた。
「あなたここ最近、毎日毎日何してるのよ」
「何って……二年棟にイザーク様を見に行ってる」
「見に行ってる、じゃないのよ! 休み時間のたびになんて、おかしいでしょう。迷惑そうにされているんでしょう? それなのに付きまとうなんて、はっきり言って向こうからしたら恐怖でしかないし、そのうち公爵家から抗議されても不思議ではないわ」
「迷惑……恐怖…………抗議!?」
強い言葉を重ねられて、ようやく夢から醒めたようにはっとする。
運命の番と出会って、すっかり舞い上がっていたけれど……。
もしかして私、イザーク様にとんでもなく負担をおかけしていたのでは!?
「どっ……どどどどうしよう!? 嫌われてるのは気づいてたけど、イザーク様を煩わせるのは本意ではないんだけど……!?」
「あなたがそういう子だっていうのは、私はわかってる。でもね、これまでのあなたの態度、そうは見えないのよ。ちっとも周りが見えていないようだから教えてあげるけど、あなたの立場、今とてもまずいことになっているわよ」
「……立場」
そう言われ、周囲を見渡してみる。
遠巻きにこちらを見ているクラスメイトの目は、皆一様に冷ややかで……。
「番だと詐称して、公爵令息に近寄ろうとする非常識な子爵令嬢。……あなた、そう思われてるのよ」
「そんな!」
子爵家の田舎娘が、何の接点もない公爵令息とお近付きになれるなんて、普通なら有り得ない。が、番なら話は別だ。たとえ平民だろうが、番であれば全獣人族から祝福される。
番は、獣人族にとってそれほど神聖なもの。
だからこそ、詐称するなんて許されることではない。
番に強い憧れを持っていた私は、自分に向けられる怒りを容易に想像してしまい、震えた。
「終わった……。私の貴族としての立場が」
「気づくのが遅いのよ! とにかくこれからは、自分のためにも、クロイツ公爵令息のためにも、行動は慎重に、よ!」
「……肝に銘じます」
猛省した私は、二度とイザーク様に近付かないと心に誓った。
──けれど。
「……あー、そこの君、ちょっといいかな?」
声をかけられ振り向いてみれば、そこには見覚えのある人がいて……。
「イザークがもう我慢の限界らしくて、どうしても君に物申したいらしいんだよ。とはいえ二人では話したくないって言うからさ、隣のお友達も一緒に、付き合ってくれない?」
私はとうとう、怒り心頭のイザーク様に、お友達づてに呼び出されてしまったのだった。
◆
イザーク様の友人(アラン様というらしい)に連れで来られたのは、時計塔の裏手だった。
こんな場所に足を踏み入れるのは初めてで、もちろん他に人なんていない。
学院内はどこも整然と木が植えられ、目に鮮やかな花が咲き誇っているけれど、ここはあまり整えられていない。足元には雑草が生え、塔から長い影が伸びてなんだか雰囲気まで暗い。
私のせいで巻き添えを食らったクロエは、処刑場まで連行されているかのように顔色が真っ白だ。ごめん。
イザーク様に会ったら、開口一番こう言おう。
『もう付きまとったりしません、申し訳ありません。あと友人は無関係なので、制裁を加えるなら私一人にしてください』
アラン様の後ろを歩きながら何度も頭の中で繰り返したこのセリフは、けれどイザーク様の姿を目にした瞬間に綺麗さっぱり吹き飛んだ。
どこかうらぶれた、廃れた空気の漂うこの場所で、イザーク様だけが光り輝いて見えた。時計塔を背にして私たちを待つその立ち姿は、有名な絵画のように心揺さぶる。
彼を見るたびに押し寄せる感情の波は、決意を新たにしたはずの今も変わらず、激流となって私を飲み込もうとする。
私が一方的に声をかけた、あの日以来。
真正面からまっすぐに目が合って、それだけで私の心は歓喜する。
「突然、しかもこんな場所に呼び出したことは申し訳なく思っている。だが単刀直入に言って、俺は君の行為にはほとほと迷惑している」
少し低めのイザーク様の声。耳が、耳が喜んでいる……!
「常に監視されているようで気が休まらないし、変な噂になっても困る。もう二度と俺に近づかないで欲しい」
「ありがとうございます大好きです!!」
「は?」
返事を間違えた。
私に対して声を発してくださったことへの感謝と感情が全部漏れた。
「も……申し訳ありません! でも好きです!」
見かねたクロエが、タックルする勢いで口を塞いでくる。
「ほんっっとうに申し訳ありません!! 普段はここまで様子のおかしな子じゃないんですけどっ!」
イザーク様は大きな大きなため息をついた。
そして酷く冷めた目でこちらを見下ろす。
「君は俺の何を知ってる? どこが好きだと?」
「全部です!!」
即答すると、イザーク様はますます不機嫌そうに眉間に皺を寄せた。
「君とはろくに話したこともない。好かれる理由がわからない。顔か、身分か?」
「顔はもちろん素晴らしく素敵ですけど、それだけじゃないです」
「じゃあ身分か。俺は公爵家の長男だが、家を継ぐ予定はない。俺と結婚しても、公爵家に嫁ぐことはできない」
なかなかの衝撃発言に、クロエがぎょっとして目を剥いている。……が。
「どうでもいいです。私が好きなのは、顔や身分じゃないです。イザ……クロイツ公爵令息の、全てです! 本能で求めてるというか……。理由なんてないんです。私もクロイツ公爵令息と出会って初めて、番ってそういうものなんだってわかったんです」
とめどなく溢れる想いを、どうにか言葉にして紡ぐ。どうか私の気持ちが、少しでもイザーク様に届きますように、と。
その様子に、アラン様が気まずそうにイザーク様を窺っている。
「……なぁ、イザーク。おまえ、本当に何も感じないの……? 彼女、たぶん本物の番じゃ……」
そんな言葉につい期待の目を向けてしまうけれど、イザーク様の瞳はより一層拒絶の色を濃くしていた。
「何も。そもそも番なんて呪いみたいなものだ。それに身を任せて人生を狂わせる者を、俺は愚かだと思っている」
「……の、呪い……」
神聖なものだと信じて疑ったことのない番をあまりに悪く言われて、返す言葉が見つからない。
「君が俺のどこを好きなのか、はっきり答えられないのが何よりの証拠だ。俺がそこにいる君の友人を傷つけても、まだ俺のことが好きだと言える?」
思わずクロエを振り向く。
彼女はこんな私を見捨てたりしない、大切な友人だ。傷つけるような人を好きになんてなれない。
けれど同時に、イザーク様を嫌いになることこそ有り得なさすぎて、まったく想像できない。
「俺が君を貶めるような噂を学院中に広めたら? 権力を行使して君の実家を没落させたら? 俺が大罪を犯して平民落ちするようなことがあっても、それでも君は俺が好き?」
イザーク様の核心をつくような言葉はとても恐ろしい。私の胸の中を占領するこの激しい感情を、何もかも否定されているみたいで。
イザーク様の言う通り。
私は彼のことを何も知らない。
酷いたとえ話をされたって、あなたはそんなことをする人じゃない、なんて言い返せない。
でももしも、もし万が一、それが現実になったとしても……。
「……たぶん、ですけど……。何があっても、何をされても、私の気持ちは変わりません」
私の答えに満足するように、同時に心から嫌悪するように、イザーク様は口の端を歪めて笑う。
「ほら。だから俺は、君に心を傾けることは一生ない。番だと認知することもない。もう一度言うけど、俺に近づかないで欲しい。……二度と、絶対に」
そう言い捨てて、イザーク様は背を向けた。
アラン様が気遣うように私に視線を投げ、彼の後を追う。
イザーク様はこちらを振り向くことはなく、時計塔の向こうへ去っていった。
残された私に、クロエが遠慮がちに声をかける。
「大丈夫? リーゼ」
「……うん。イザーク様と話せて良かった……。どうしよう、やっぱり好き」
ぼんやりと呆ける私に、クロエが哀れむように呟く。
「私、彼の言うことがわかる気がするわ。普通、あんなに冷たくされて、それでもまっすぐに好きでい続けることなんてできないわよ。……本当に、呪いみたい」
ぽつりと落とされた言葉は、小さな棘のようにわずかな痛みを伴って胸に残った。
◆
イザーク様を目の前にして、はっきりした。
私は彼の前では感情を制御できない。決意も理性も、全部狂わされる。
イザーク様という人は、存在自体が危険。危険すぎるのだ……!
「……あー……えっと、リーゼ嬢……?だよね、たぶん。何してんの……?」
登校時に頭上から降ってきた、聞き覚えのある声。
私に話しかけてくれる人は、クロエ以外にはほぼいない。そして、この声は……。
「もしかして、アラン様ですか? おはようございます!」
「……うん。いや、何してんの? 本当に」
「ご覧の通り、目隠しをして歩いています」
「うん。見たまんまだ」
頭から分厚い布袋を被り、杖をついている私にアラン様の顔は見えないが、彼が困惑している様子はありありと伝わってくる。
「イザーク様に近づかないための最適解です。私はきっとイザーク様を見かければ目が離せなくなるし、足は勝手に追いかけてしまうことでしょう。だから見えなくすればいいんです! こうして布を被っていれば、間違ってうっかり目にすることもありませんので!」
「……あー……。うん、そっか。そうなんだ……?」
胸を張って説明したものの、アラン様から返ってきたのは困ったような相槌だった。
「えっと、まあ……。気をつけて? じゃあね」
「はい。ありがとうございます!」
アラン様が足早に去っていく気配がした。
それもそうか。
ただでさえ私の評判は良くないし、その上現在進行形で悪目立ちしていそうだし。
一緒にいるところを人に見られたっていいことはない。
私だって、自分の様子がおかしい自覚はある。
けれども最優先事項は、とにかくイザーク様にこれ以上ご迷惑をおかけしないこと。これに尽きる。
「あいたっ!」
体のあちこちを校舎の壁にぶつけながら、私はいつもの倍以上の時間をかけて、なんとか教室に辿り着いた。
そんな布袋生活を続けて、早三日。
イザーク様との接触は完全に避けられている。
教室以外は目隠し移動!を徹底した効果はてきめんだ。
私もすっかり目隠し移動に慣れて……と言いたいところだが、残念ながらそうでもない。生傷が絶えず、貴族令嬢としてどうなのかと真剣に悩んでいる。
そして今日もまた下校時、思い切り植え込みに突っ込んでしまった私に、声がかけられた。
「大丈夫?」
知らない女生徒の声だ。
「あっはい! 多少の怪我にはもう慣れましたので。お気遣いありがとうございます。失礼します」
「あ、待って。門はそっちじゃないわよ。あなたから見て、右側。そう、そこをまっすぐ」
声の主は、親切にも道案内をしてくれる。
感謝の言葉を述べつつ、言われるがまま歩を進めていると──。
「わっ!?」
段差に躓いた。
次いで、誰かに勢いよく後ろへと手を引かれる。
おかげですっ転ぶことは回避した。
「あ……ありが、わっぷ!?」
強い力で布袋を頭から引っこ抜かれ、言いかけたお礼の言葉が止まった。
ついでに息も止まりそうになる。
なぜなら目の前にいたのは、私が魂から求めながらも避け続けている、誰よりも恋焦がれる相手──イザーク様だったからだ。
「こんな馬鹿げたことは、もうやめておいた方がいい。水遊びをするには、気温が低すぎる」
「ありがとうございます大好きです! ……。水遊び? ……あっ」
よくよく見てみれば、私が躓いた段差は噴水の縁だった。危うく水の中に落ちるところだったのだ。
「……あれ? 私、校門に向かって歩いていたんですけど……」
「君があまりに滑稽だから、からかわれたんだ」
イザーク様が視線を向けた先、少し離れたところで数人の女生徒がこちらを窺いながらくすくす笑っていたけれど、彼に睨まれて気まずそうに口を閉じた。
「助けてくださって、ありがとうございます! 好きです」
私の言葉にこちらを振り向いたイザーク様の目は冷え切っていて、私の頭もちょっと冷えた。
……しまった。
私はまた、暴走気味になっている。
イザーク様のお姿は眩すぎて、彼への想いで胸はいっぱいになり、口を開けばそこから溢れ出てしまう。
「あの、好……じゃなくて、その袋、返していただけませんか? 眩しすぎて目に毒なので」
「断る。日差しはそれほど強くない」
「あ、そうじゃないです。眩しいのはイザーク様です。好きです。……。えっと、違わないけど違います。とにかく、返してください」
「君が怪我をするところを黙って見ていられない。俺が近づくなと言ったから、君はこんなことを続けているんだろう。はじめは俺への当てつけか、気を引こうとしているのかとも思ったが、そうでもなさそうだし」
「! 私を心配してくださるんですか? お優しい……好きです!」
「…………」
今度は呆れるような目で見られた。
そんな表情も素敵だ。至福。
が、これではいけない、と思い直す。
接近禁止を言い渡されていたのに本末転倒であり、またしてもイザーク様に手間や負担を強いている。
「申し訳ありません。あの……それじゃあお目汚しすることのないよう、目隠し以外の方法を考えます。いい案が思いつくまで、決してイザ……クロイツ公爵令息の前に姿を見せませんので……! いっそのこと休学します!!」
「なんでそうなる。そこまで言ってない!」
イザーク様が疲労を滲ませながら大きなため息をつく。
申し訳なく思って肩を落としていると、思わぬ提案をされた。
「……もういい。こんなことは終わりにしたい。ちゃんと話そう。今度は、二人きりで」
◆
時計塔の裏。
密室でないとはいえ、こんな人気のない場所で二人きりになるなんて、とても興奮が抑えられない。
……ということで、布袋を一時的に返却してもらい、頭から被っている。イザーク様は渋ったが、このままではまともに会話ができないと懇願して納得してもらった。
とはいえ目の前にイザーク様がいるという事実は明らかだ。どうにも気持ちは落ち着かないけれど、姿が見えないだけ多少マシだと思う。
「……それで、お話というのは……?」
「君への物言いが厳しすぎたと反省している。君に悪意がないことはよくわかった。感情が抑えられない、ということも。君の責任じゃない。……番の宿命だろう。手を出して」
そう言われて素直に手を差し出すと、手のひらに小さくて固い何かが置かれた。少しひんやり冷たい、ガラス瓶のようだ。
「それは秘薬だ。主に番を亡くした獣人が、耐えられない喪失感を緩和させるために飲む。番を認識しづらくするという効果も持つ」
「……秘薬……って」
まさか、と思い至って、言葉が続かなかった。
イザーク様が私の番であると、断言できる。
けれど彼が私を前にしても、何も感じなかったのは──。
「君の想像通りだ。俺はその秘薬を定期的に服用している」
「!」
「君は俺を好きだと言うが、以前にも言った通り、それは番に対する執着だ。君自身も持て余している感情を、この薬を飲めば和らげることができる」
無意識のうちに、手の中の小瓶を強く握りしめていた。
狂おしいほどにイザーク様を求めてしまう、私のこの想い。
一方通行だったのは、秘薬のせい。イザーク様は、自ら番との絆を断つことを選んだのだ。
そう考えれば、これまで彼が私に対して何も感じていなかったことも、強い言葉や頑なな拒絶も、みんな説明がつく。
彼がそれほどまでに番への嫌悪感を強く抱いているのは──。
「……どうしてですか? 番と結ばれたら、幸せになれるはずなのに」
「幸せ、か。たしかにそうだろうな。父たちは、この上なく幸せそうだ」
「それって……! イザーク様のご両親は、番婚なんですか!」
それならば尚更、どうして……という疑問ばかりが湧き上がってくる。
「そうだ。ただし、俺を生んだ母は既に離縁されている。俺が八歳の時、父の番が見つかったからだ」
「番が……見つかった? それじゃあ、お母様は……」
「番ではなかった。父と母は、愛し合っているように見えていたんだがな。……あの時までは」
──あの時、というのが、番と出会ってからだということは明らかだ。
遮られた視界で、イザーク様の顔は窺えない。
「父は母のことを愛し、大切にしていたと思う。それでも番と出会い、番を選ばずにいられなかった。周囲も当然のように二人を祝福し、再婚した。すぐに子宝にも恵まれて、とても幸せそうだよ。父と義母、そして弟は」
まるで幸せの中に自分は含まれていないみたいに、イザーク様は言う。続いたのは、それを証明するような言葉だった。
「番として結ばれた両親の子どもは、総じてあらゆる能力が高いと言われているだろう。弟も幼いながら例に漏れずそうで、公爵家を継ぐのは弟だ」
「あ……」
イザーク様は長男でありながら家を継がない、とはっきり言っていた。その理由が、これだったのか。
番の子は、生まれながらに獅子王の祝福を得ていると言われる。たとえ次男だろうが、反対の声は上がらないだろうということも、容易に想像がつく。
なんとなく、イザーク様の公爵家での立ち位置がわかる気がした。
決して蔑ろにされている、なんてことはないだろう。それでも……。
運命の番として結ばれた両親と、その子。そこに交じる、まるで異物のような存在。
「俺は自分の意思と関係のないものに、人生を狂わされたくない。だから君を選ぶことはない」
線を引くような言葉と、壁のある態度。
理由を知った今は、もう反論なんてできない。
「秘薬を飲むことを、君に強制するつもりはないんだ。ただ、君自身も報われない想いを抱え続けて苦しむくらいなら、そうした方がいいと思った。だからそれは、君に受け取って欲しい。それだけだ」
話は終わった、というように沈黙が落ちて。
私は震える手で、布袋を頭から引き抜いた。
目の前にはイザーク様。
やっぱり何度見ても、心が震える。その姿を目に映すたびに、愛おしさが込み上げてくる。
……ああ、本当に……。
強力な呪いみたいだ。
ずっと強い力で握りしめていたガラス瓶は、手の中ですっかり温くなっている。透明な液体が瓶の中で静かに揺れた。
これを飲めば、この痛いくらいに強い想いは消えるんだろうか。
もどかしさも、愛おしさも、幸福感も、ぜんぶぜんぶ。
苦々しさと、喪失への恐怖心が胸を占める。
失いたくない。ここにある確かな想いを、なかったことにしたくはない。
けれどイザーク様にとっては、私のこの気持ちこそが負担なんだろう。
だったら選択肢はひとつだけだ。
胸の中で暴れる自分の気持ちを全て奥底に押し込んで、イザーク様に微笑みかける。
「もちろん、飲みます。あなたがそれを望むなら」
ひと思いにあおった秘薬は、生温くて少しだけ苦かった。
◆
番との出会いによって家庭が一度壊れた──という点では、私とイザーク様は同じだなぁ、と思う。
もっとも私の場合、番を見つけて出て行ったのは母の方だ。私を生んで間もなくのことだったので、記憶にはない。平民の商人と再婚して、とても幸せに暮らしているんだとか。
実際、母は幸せそうだ。
父の計らいで、母とは年に一度、私が誕生日を迎える頃に面会を続けている。母は毎年私好みのプレゼントを持ってやって来て、そして抱きしめてくれる。
「リーゼ、愛しているわ。あなたと離れるのは本当に辛かった。でも……それでも、出会ってしまった番と離れることは決してできないの。リーゼ、あなたにも番と結ばれる幸福が訪れることを願ってる」
母に捨てられた形となった父だけれど、祖父母曰く、当時父は母を祝福し、笑顔で離縁に応じたそうだ。
そんな父もまた、口癖のように言う。
番と出会えたら、幸せになれるんだよ──と。
小さい頃から父は、『リーゼの前にもいつか運命の番が現れるように』と繰り返し願いを口にしていた。
だから、私も。
番とはそんなに素晴らしいものなんだ。私も番と出会えたらいいな。幸せになりたいな。
そんな風にずっと思っていたけど──。
今だから思う。
父は本当は、寂しかったのかもしれない。幼馴染みで仲睦まじく暮らしていたはずの母に、突然捨てられて。
番さえ現れなければ、平穏な暮らしはずっと続いていたのだから。
だからこそ父は、私が同じ思いをしないように。愛した人に捨てられて、それでも番だからと笑って諦めなければいけないなんて、そんなことにならないように。
それならばと、はじめから番と結ばれることを願ってくれたのだろう。
番婚を否定することは、父と母の生き方そのものを否定するようで、父の『番と結ばれることは幸せだ』という言葉を信じてきたけれど……。
イザーク様は番婚のせいで、存在そのものを否定されているような人生を送ってきたのかと思うと、酷く悲しかった。
◆
秘薬を口にしたあの日以来、はじめてイザーク様の姿を目にしたのは、学院内のランチルームでのことだった。
高位貴族と低位貴族では、明確に食事用のスペースが分けられているので、遠目に見えただけ。
それでもそこにいるのがイザーク様だと気づいたら、目で追わずにはいられなかった。自分の感情の変化を、確かめたくて。
結果として、以前のような激情に呑み込まれることはなかった。不思議なほどに胸の内は凪いでいて、ぽっかりと穴が空いたように、そこにあったはずの強い想いが消えている。
その喪失を寂しいと呼ぶのかもしれないが、きっとイザーク様は望まないので、胸がすっきりした、と表現するのが正解だと思う。
ただ遠くからちらり見えた、友人と笑い合うイザーク様は普通に魅力的で、やっぱり素敵だ。
……でも、それだけ。
「これを、君に」
「ありがとうございます。高価なものをたびたびいただくことになってしまって……お手数お掛けします」
「いいんだ。俺のためでもある」
私たちは、再び時計塔の裏で向かい合っていた。
秘薬の効果は永続しない。
そのため、定期的にイザーク様からこっそりと譲っていただくこととなったのだ。私には秘薬を手に入れるツテも、お金もないから。
秘薬の入った小瓶を、ポケットにしまい込む。
様子のおかしくない私に、イザーク様は安堵したように息を吐いた。
「見る限り、効き目には問題なさそうだな。体調に変化は? 副作用で調子が悪いところもない?」
「特にありません。お気遣いありがとうございます」
「……そうか。それなら、いい」
頷いたイザーク様は、少しだけ考え込むようにして、それから笑顔を見せた。
「何かあれば、いつでも相談してほしい。秘薬を勧めたのは俺だ。責任をもって対処する。遠慮は無用だから、無理はしないで欲しい」
優しい言葉と柔らかい微笑み。
私にはじめて向けられたそれに、胸の奥から急激に強い感情が湧き上がってくる。
抗えない程の激しさはない。
けれど失ったはずのそれが、思わず口をついて出て──。
「ありがとうございます、好きです!」
「………………は?」
イザーク様が目を丸くして、ぽかんと口を開けた。
まるで想定外だというように呆けて、それから顔色を悪くする。
「なんで……薬を、飲んだのに」
「わかりませんけど、私はクロイツ公爵令息のことが好きだなって思いました」
「…………そんな。秘薬が効いてない……? だって俺が君に好かれる理由なんて、ひとつも」
「そんなことないです!」
好かれる理由がない、という言葉。
以前そう言われた時はわからなかったけれど……。
今なら、はっきりと言える。
「からかわれて噴水に落ちそうになった私を助けてくれた正義感の強さも。ご自身の事情を隠さず話してくれた誠実さも。私を気遣ってくれる優しさも。ぜんぶぜんぶ、私はあなたのことが、好きです」
途端に、イザーク様の顔が赤く染まった。
言葉を失って目を泳がせる彼に、首を傾げる。
「……クロイツ公爵令息? どうされました?」
「…………。いや。こんな風にまっすぐ好意を伝えられたのは初めてで……」
「え。私、何度も好きって言いましたけど」
「あれは、違う。番に惹かれるのは、理由のない執着だ。でも、今の君は……」
明らかに動揺して、今更照れているイザーク様。
知らなかった彼の新たな一面もまた、可愛らしくて愛おしい。
番だからとか、そうじゃないからとか、そういうことを抜きにしても、私ははっきりとイザーク様に惹かれている。
彼のことをもっともっと知りたい。仲良くなりたい。
──番という運命に抗う。
それをイザーク様が望むならば、彼へ抱く好意を無視して無理に距離を置こうとすることもまた、運命に翻弄されているということに他ならないはずだ。
だから──。
「クロイツ公爵令息。ご迷惑でなければ、どうか、まずは私とお友達になってください」
まっすぐに、イザーク様の前へ手を差し出す。
以前冷たい目で私を見下ろしていた彼が今、揺れる瞳に宿しているのはどんな感情だろう。
いつだって、拒絶されるのは怖い。
でも言葉にしなければ伝わらないことは多くて、だから私は気持ちを言葉にすることを惜しまない。大切な人相手ならば、尚更。
イザーク様はしばらく逡巡する様子を見せたものの、遠慮がちにその手を取った。
「……イザーク、でいい。友達になるなら」
「はい! イザーク様、好きです!」
顔を赤くしながら困ったように笑うイザーク様の様子に、また愛しさが込み上げてくる。
やっぱり私は、この人が好きだ。
──運命でも、そうじゃなくても。




