傲慢王子が笑うとき
その少年、ディアミド王子に初めて会った時、シーナはこんなに綺麗な子は見たことがないと思った。共に10歳だった。
白い肌に光を纏うような金の髪は宝石のような青い眼をふちどる長いまつ毛とおそろいだ。
まるで姉が大事にしてる陶器人形のようだとまじまじと見てしまう。
不意にその綺麗な顔が侮蔑で歪んで、人形は人間になった。
「気持ち悪い。人の顔をじろじろ見るなと教わらなかったのか? 礼儀を弁えていない者がこの俺の前に立つなど、随分と侮られたものだな」
「あ、すいません」
見過ぎていた自覚はあったので謝ったが、それだけでは収まらないようで、ディアミド王子は尚も文句を言ってくる。
「お前が俺の婚約者候補? 正気か? 聞けば男爵家の娘だというじゃないか。せいぜい地方の貧相な領地を治めているようなしみったれた貴族の末端にようやく名を連ねるような家の娘が、よくものうのうとこの話を受けようとしているな。財産目当てだか俺の美貌が目的なのかは知らないが、褒めるところがあるとすればその図太い神経ぐらいなものだ。紹介者のマクグラスの手前会ってやってはみたが、その庶民顔も気品の無い立ち振る舞いも、何ひとつ俺と釣り合ってないのをわかっているか? それでもどうしても結婚したいと言うのならーー」
「いえ、やっぱりいいです」
「は?」
長くなりそうだったので途中で口を挟んでやめさせた。聞きしに勝る傲慢さにこれ以上は関わらない方が良いと、シーナは彼女らしい利発さで、さっと判断する。
「私もおじさんに言われて来てみただけなんで。話をすすめてもどう考えてもお互い不幸になる未来しか見えないので、この話は無かったことにしましょう」
「なっ」
呆気に取られているディアミドに一礼すると、シーナはあっさりと踵を返した。
なるほど。美しさは聞いていたとおりだった。もちろんそれは悪いことではない。ただ、あの傲慢さ、他者への敬意の無さ、狂犬のような口の悪さと容姿以外のすべてがマイナスポイントだ。人生を共にする相手としては論外だろう。
予想通り無駄足だったが、とりあえずおじさんへの顔は立てたはずだ。
おじさんというのは王宮で宰相補佐をしているマクグラス伯爵のことで、シーナの遠縁に当たる。シーナはマクグラスの頼みを思い出していた。
「ーーなんかさあ、めちゃくちゃ綺麗な子なんだけど、それを踏まえても口が悪いっていうか。良家のお嬢様大体泣かせちゃうから、王都近郊にはもう良い感じの婚約者候補残っていなくて。当然あの性格だと他国のお姫様との結婚とかも無理っぽいし」
困り果てた顔のマクグラスが話を持ちかけて来たのは先日のことだ。もちろん、シーナの生家である男爵家にとっても寝耳に水だった。父である男爵が慌てて言い募る。
「し、しかし、我がキャンベル男爵家は、この辺一帯を広く治めているとはいえ、所詮は田舎貴族。到底王家と縁を結べるほどの家格はありません。娘のシーナも確かに親の私から見ても聡明な子ではありますが、特に優れた容姿というわけではなくーー」
当の娘の前でそう言い募る父の言葉にデリカシーと呼べるものは存在していなかったが、その気質を受け継ぐシーナはまあそうだ、と納得する。
財力も伝統もそこそこの田舎貴族の娘が王族の婚約者の名乗りを挙げるなら、領地一帯にとどろくレベルの美しさぐらいは持ち合わせていたいところだったが、あいにくそこまでの美貌ではない自覚はあった。領民の年寄りたちは可愛いと言ってちやほやしてくれるが、まあ普通の範囲内だろう。
マクグラスが肩をすくめる。
「この際、容姿はそこまで関係ないんですよ。どうせあの王子の前では大体の令嬢はかすみます。問題は、あの王子の暴言に耐える胆力があるかどうか。それに、シーナは可愛らしいと思いますけどね」
それこそ親戚の欲目というやつだろう。マクグラスはシーナに視線を移した。
「男爵家とはいえ、キャンベル家はもともとは名門グレインフォードの分家だし、シーナがその気なら一旦養女になれば血筋的に問題はないんだよね。何よりディアミド王子だって、母方は別に高貴な血筋というわけじゃないし」
ディアミド王子の母は美しいが庶民出身の側室だというのは知られた話だ。庶民出身でありながら王の子を産んで王宮に入った彼女に関して、市井ではどちらかと言うと羨望の眼差しで語る人が多かったが、貴族社会で特に位が高くなるにつれて侮蔑の方が多くなってくる。
ディアミドの王位継承は、序列としては第二位だが、ほとんどその芽はないに等しいと思われていた。
「王宮ではまあまあ厄介な立場だよ。だから、ディアミド王子の妃には、シーナみたいな神経の図太い……いや、立ち回りの上手い賢い子が合ってると思って、こうして話をしに来たんだよね」
隠しきれない本音が漏れて、この人はよくこんなんで宰相補佐なんて重責を担っているなと呆れた。
「すぐに婚約しろとは言わないから、とりあえず会うだけ会ってみてくれないかな? 実はもう国王夫妻には話しちゃってて。結構乗り気でいらっしゃるんだ。駄目でもともと、気が合えばラッキーみたいな感じで。何せもうすでに王都中の年の釣り合う令嬢からは全員断られてるからね。ははは」
本音を言えばその聞くからに性格の悪い王子と会うのは憂鬱だったが、王都のお城には行ってみたい。それにマクグラスのことは好きなので、乾いた笑いしか出てこない彼が不憫といえば不憫だった。会うぐらいはいいだろうと、とりあえず承諾したのである。
「でも、会うだけだからね。嫌だと思ったらすぐに帰るから」
「もちろん。そこは無理強いはしないって」
「あと、もちろんただでとは言わないよね?」
やっぱりしっかりしてるなあ、とマクグラスは笑う。
「何が良い? ドレス? アクセサリー? それとも、王宮のパーティーに出てみたい? これでも結構城では偉いんだ。何でも言ってくれて良いよ」
シーナは少し笑った。なんだかんだ言って、生まれた時から知っている親戚の娘にこの人は甘い。
服飾品に一切興味のない可愛げのない妹だと姉たちには散々揶揄されているのに、マクグラスの眼にはそうは映らないらしい。ディアミド王子とやらにもこんな感じなのだろうか、と思い至る。
「実はね、行ってみたいところがあってーー」
シーナの望みは、マクグラスには少々意外なものだったらしい。
少し驚いた顔はされたが、そんなことでいいのなら、と快諾してくれた。
そうやって、ほとんど予想通りディアミド王子との邂逅は一瞬で終わった。
シーナは散々な結果だったとマクグラスに対して申し訳ない気持ちになったが、マクグラスが言うには、王子の毒舌を浴びて泣かなかった令嬢は珍しいらしい。それだけでも上々だったと感謝されてしまった。
正直常日頃から村の領地の子供たちとやり合っているので、口の悪さには耐性があるだけだと思う。
そのまま三年が経ち、13才になったシーナは王都にある王立学園に入学した。ここは完全寄宿制で、入学した者は、5年かけて高等教育と国際感覚、紳士淑女としての振る舞いを身に付け、人脈を強固にする。
ざっくり言えば、貴族の子女が交流を深めるためのプレ社交場のようなものだ。
そしてすっかり忘れていたのだが、同い年のディアミド王子もそこにいたのである。2度目の邂逅だった。
ディアミドはシーナの顔を見るなり嫌そうな顔をした。
「何だ、いつかの庶民顔じゃないか。まさか俺を追いかけて来たわけじゃないだろうな、男爵令嬢風情のくせに厚かましい。執念深い女とは交流する気はない。気安く話しかけるなよ」
変わらない物言いは微笑ましくすらあった。
入学資格を貴族の子女に限定しているので、学園の在籍者は多くない。そもそも社交が目的の学園なのに何を言っているんだ、と呆れる一方で、すっかり忘れられていると思っていたのに、三年前に一度顔を合わせたきりの自分を覚えているなんて意外と頭は悪くないなと感心してもいた。
どうせもうあまり関わることがないであろう人間から発せられた暴言は対して気にならない。ダメージで言えば散歩中に知らない犬に吠えられたのと同じくらいだ。
ディアミドの暴言は見境なく発せられるらしく、入学当時から彼は同級生たちから遠巻きにされていた。取り巻きのような男子は数名いるものの、それは有力貴族の令息ばかりで、友人というよりは主従の関係性に近いものに見えた。
気の弱い者やシーナと同じような地方出身の者からはあからさまに怖がられている。もしかすると、全員横暴な振る舞いをされたことがあるのかもしれない。
庶子とはいえ、王子という身分をもつ以上はもう少しもてはやされてもいいはずなのに、彼の毒舌が周りを寄せ付けないのだろう。
彼の立場を鑑みても、少しでも味方をつけておかなければ将来的に困るのはディアミド本人である。賢く立ち回れないなら潰されるだけだ。それなのに何をやっているんだろうとシーナは呆れる。
ディアミドは破滅への道を自ら進んでいるように見えるが、まあシーナには関係無いことである。
5年経って卒業してしまえば、おそらくほとんど会うこともなくなる人物だ。学園生活さえ平和に送れればいい。それがシーナの望みだった。
そう思っていたのだ。その日、人知れず涙を流すディアミドを目撃するまでは。
学園に併設されている王立図書館の片隅に、隠れるようにして小さなドアがあり、鍵を使ってそこを開けると、一般には解放されていない閉架の書庫へと続く狭い廊下がある。
シーナはそのドアの鍵を持っていた。
シーナが3年前に宰相補佐のマクグラスに願ったのは、王立図書館への立ち入り権だった。
国の内外の書物が集まっているという王立図書館は、生家の屋敷の書斎か領地にある学校の図書室ぐらいでしか本を読むことができなかったシーナにとっては、憧れの場所だった。
読書家で、3年前の10歳の時点で、幼いながらに領地にある目ぼしい書物はあらかた読み尽くしてしまったシーナに、マクグラスは、一般人は立ち入ることができない閉架図書をふくめた図書館のあらゆる場所へ入っていい権利をくれたのだ。
高価な本、写本のあまりない貴重な本、ぼろぼろになって修復が必要になった本などがそこにはあった。
残念ながら、期待していたような、決して人がおこなってはいけない魔術や、隠された王家の裏の歴史を書いた禁書の類いは無かったが……。
王都に滞在している間中、シーナは図書館に足繁く通って、楽しい読書ライフを堪能したのである。
そして3年後、シーナが学園に入学すると、3年前に顔馴染みになった司書は、シーナの顔を覚えていた。そしてあの時の許可証はまだ有効だとした上で、書庫への鍵を預けてくれたのだ。
ちなみに、暇な時は虫干しや本の修復、掃除などを手伝うという条件付きだったが。
もしかするとおじさん、こうなることを予測していた……? と気づいても、あとのまつりなのだった。
本に関する作業は楽しいので、別にいいか、と図書の仕事を手伝っている。
書庫の本は館外へ持ち出し禁止なので、閲覧用の机が設置してある。
ある日シーナはそこに人影を見つけて少し驚いた。入学して以来、ここに図書館関係者以外の人間がいるのを見たのは初めてだったからだ。
窓から差し込む西陽が逆光になっていて、誰かもわからないまま不用意に近づいてしまったのがいけなかった。お互いの相貌がはっきりわかる距離までシーナが近づくと、足音に気がついたのか、机に座って書物を読んでいた人物が顔を上げた。
ディアミドだった。
驚いたように見開いてこちらを見た瞳から、ひと筋の涙が流れていた。
窓から入る光がディアミドの輪郭を照らし、まるで有名な一枚の絵画のようだと思った。
美しい、と真っ先に感心したシーナは、その直後に後悔する。気づかれる前にそっと出て行くべきだった。
「なっ」
泣いているところを見られたディアミドは、慌てたように音を立てて立ち上がった。みるみる顔が赤くなっていく。元々肌の色が白いので、その変化は顕著だった。
「なんだお前……何でこんなところにいるんだ! ここは誰彼構わず入って良いところじゃないはずだぞ」
それはそちらも同じだ、と思ったが、ディアミドがここに入れるのは王族特権だろう。
口では威勢のいいことを言いながらも、顔を逸らして目許を拭っている。舌鋒にもいつものような鋭さがない。やっぱりあまり見られたくないような姿だったんだろうな、と気まずさがシーナを支配した。
「失礼しました。まさか人がいるとは思わず。私は訳あって、こちらを自由に出入りして良い権限が与えられているのです。すぐに出ていきますので、どうぞ気にせずお続けください」
一礼して身をひるがえす前に、ディアミドが読んでいた本の表題がちらりと見えた。
それはこの国では割と有名な『七つ星の家族』という物語だった。
血筋も種族も違う七人が家族になり、世界を支配しようとする邪悪な魔法使いを滅ぼす話だ。
少し賢ければ子供でも読める本だった。現にシーナは領地で家庭教師に教わっていた頃に読んでいる。
こういう本を読んで涙を流すのか、と少し意外に思いながら立ち去ろうとするシーナを、ディアミドの声が追いかけてくる。
「誰にも言うなよ……っ」
シーナが立ち止まって振り返ると、ディアミドは見たこともないくらい必死の形相をしていた。この王子は、人に弱みを見せることを極度に恐れているのかもしれない。
「言いませんよ」
シーナにはその発想すらなかったが、ディアミドはいまいち疑念が晴れていないような不安げな顔をしている。あまり他人を信じることに慣れていないのだろうか。
涙を見てしまったことは完全に不可抗力だったが、こちらだけが弱みを知っているのもなんだか居心地が悪い。仕方がないのでシーナも秘密をひとつ開示することにした。
「ディアミド様。実は私も、小説を書いているんですよ。趣味で」
「え……」
予想外の内容だったのだろう。ディアミドは虚をつかれたような顔をした。
「何なら少しだけ濡れ場もあります。婚約者や恋人どころか、人を好きになったことすらない私がそんなものを書くなんて無謀なんですけどね。……昔から、ロマンス小説が、好きで」
さすがに恥ずかしくなってきたので、声が小さくなる。
「親どころか友人にだって到底見せられない内容なので、誰かに打ち明けたのは初めてです。もし私がディアミド様のことを言いふらしたら、人に言ってもいいですよ」
「くっ」
ぽかんとした顔で聞いていたディアミドが、不意に肩を震わせて笑い出した。
「ば、馬鹿かお前。それは下手したら、俺なんかより恥ずかしい秘密だぞ。わざわざそんなことを打ち明けるなんてどうかしてるんじゃないのか」
いつまでも笑っているので、シーナはむっとする。いったい誰のためにトップシークレットを差し出したと思っているのだ。
「濡れ場、って。そんなの教師に見つかったら退学ものだ。信じられない。こんなに危機管理がない奴だとは思わなかった」
尚も笑い続けるディアミドに、シーナは釘を刺す。
「言っておきますけど、このこと誰かに言ったら、私もディアミド様が物語を読んでべそべそ泣いてた話しますから」
ディアミドが顔色を変えた。
「べっ、べそべそはしてないだろ、ほんの少し感極まっただけで」
「いーえ、はっきり泣いておられましたよ。ディアミド様にも人の心があったのかと安心したくらいです」
何だそれは、とディアミドは顔をしかめたが、とりあえずシーナが言いふらしたりしないことは信じてもらえたようだ。
シーナもふっと気をゆるめて、ディアミドが読んでいた本に目線を移した。
「その話、良いですよね。私も好きです。ちなみに一番好きなのは、末っ子のチュー」
「はあ? あんなひねくれてるくせに何もできない奴の何処がいいんだ。四兄弟の中ではやはり長男のドラウグルスヴェインが一番頼りになるだろう。妻のイグドランディルとの共闘関係も良い。俺の理想の夫婦像だ」
好きなことになると本音が出るらしい。これだけ長ったらしい名前の人物名がすらすら出てくるだけでもガチ勢なのがわかる。
「物語を通して、一番成長してるのがチューじゃないですか。長男なんて最初から人格者すぎてつまらないですよ。それにしてもディアミド様、理想って、結婚する気あったんですか」
何よりも真っ先にそれが意外だった。あれだけ周りに令嬢を寄せ付けない態度をとっているのだから、てっきり生涯独身を通す気でいるのかと思っていた。
「悪いか」
ディアミドは怒ったような不機嫌な顔に戻ってしまった。そんな顔をするぐらいなら、やめればいいのに。
王族の婚姻は義務に近いものだが、ディアミドの立場なら、しなくてもぎりぎり許される気がする。うっかり王太子より先にディアミドの方に第一子が生まれてしまったりしたら大変だ。無用な火種など作らないに越したことはない。
「……家族がほしい」
小さな声でぽつりと付け加えられた言葉は、妙にすとんとシーナの腑に落ちた。なるほど。それはごく真っ当な欲求だ。
聞く限りではディアミドは、第二王子というきらびやかな立場とは裏腹に、肉親との縁が薄い。
国王夫妻との仲がそこまで険悪だという話は聞かないが、側室の子であるディアミドへの待遇は、王妃の実子たちとはどうしても差が出るだろう。
正妃は情け深く慈愛に満ちた人だという噂で、使用人たちの評判も極めていいが、幼い頃一度だけ王妃と顔を合わせたことのあるシーナは、それは怪しいと疑っていた。
側室である産みの母は、正妃に憚ってあまりディアミドと会おうとしないらしい。
「素晴らしい心がけだとは思いますが……。でも今の態度をとり続けるなら、お相手は一生見つからないのではないでしょうか」
シーナが真っ当なアドバイスをすると、ディアミドがぐっと言葉に詰まったのがわかった。自覚はあるのだろう。
「俺に近寄ってくる女なんて、どうせ地位かこの顔が目当てなだけだろう」
嫌味なようで案外そうでもない。突出した取り柄があっても、本人がそれを望んでいなければ逆に厄介な荷物でしかないのだろう。
「そんなこと、ないと思いますよ。ディアミド様がきちんと真心を持って接すれば、きちんと心を開いてくれる令嬢は必ずいらっしゃると思います。せっかく長い学園生活なのですから、周りの方々とも心を通わせる努力をなさってみては?」
「……努力する」
その返答に満足して、では、と今度こそ立ち去ろうとすると、「……おい」と再び呼び止められた。
中々行かせてくれないなと思いながらシーナが振り向こうとする前に、かろうじて聞こえるぐらいの声が耳に届く。
「……ありがとう」
礼を死ぬほど言い慣れていない感が伝わってきて、それはそれで少し面白い。俯きがちに顔を逸らしているので表情は見えなかったが、耳が真っ赤になっているのはわかった。
シーナは少し笑う。
「どういたしまして」
今度書いたものを見せろと言うので、それは必死に断った。
そうやってシーナとディアミドは、お互いの秘密を共有することになったが、ふたりの関係が表向き劇的に変わったわけではない。
ただディアミドは、それから誰彼構わず暴言を吐くことが少なくなった。
ディアミドの秘密を守るために自らの秘密を差し出したシーナに何か思うところがあったのか、それとも単に成長して社交性が身についてきただけなのか、それはわからない。
2年も経つと、ディアミドの少女めいていた柔らかな輪郭は鋭くなり、背も随分伸びて、すっかり美しい青年になっていた。優美な物腰は相変わらずで、彼が何か発言したりすると、生徒の間から男女問わず溜め息が漏れるほどだ。
尖った雰囲気がだいぶ柔らかいものになったので、前ほど近寄りがたいというわけでもない。
入学したての頃、あれだけ遠巻きにされていたのが嘘みたいに、ディアミドは信奉者を抱えるようになっていた。
シーナともそこまで接点が増えたわけではないが、たまにあの閉架の書庫でかち合うことはあった。その時にはディアミドは取り巻きも連れずにひとりなので、ぽつぽつと会話を交わしたりもする。
「最近どうですか。目ぼしい婚約相手は見つかりましたか」
シーナの言葉にディアミドはちらりと目を上げただけで、「いや」とぶっきらぼうに呟くと、また視線を読んでる本に戻してしまう。この王子は読書をする時はひとりで読みたいらしく、一般の閲覧室の本を持ってここに来るのだ。
「混ぜたらわからなくなるから絶対にここの棚に戻さないでくださいね」とシーナが厳しく注意した。
シーナは閉架図書の蔵書の目録の整理をしていた。分厚いリストから、一冊一冊本が存在しているかをチェックして、リストにない本は新しく詳細を追加する。見当たらない本には印をつける。
本は膨大なので、もう半年ほどもこの作業にかかりきりだ。完全に職員として使われている。肝心の読書ができないのが辛いところだが、こういう作業も好きなので仕方ない、と諦めている。
ディアミド王子の婚約者探しは意外と難航しているようだった。女子たちのディアミドを見る目が恐怖から憧れに変わったのは良いが、高位貴族の令嬢ともなれば、すでに婚約者がいる者がほとんどだ。
王子と釣り合うような家柄と本人のひととなり、それに容姿など細かく条件をつけると、中々見つからないのも無理はないのかもしれなかった。
「でもまあ、最近のディアミド様はいい感じだと思いますよ。昔よりずっと。学園の者にこだわらなければ、案外すぐに見つかるんじゃないですか。歳下や、国外の王室にも目を向けられてみては」
半分意識をリストに向けながら、シーナは助言のようなものをした。少し無責任なことを言っている自覚はある。家族がほしいというディアミドの切実な願いを知っているので、協力してやりたい気持ちはあるのだが。
「おい」
呼ばれてシーナが振り向くと、呼んだ張本人はひどく不機嫌そうな顔をしていた。
「だったら俺の婚約者になるか」
「……もしかして、私に言ってます?」
あまり予想していない提案だった。初めて会った五年前、散々嫌そうな顔をしたのを覚えている。今だってなんだか怒ったような顔をして、目を合わせようともしない。
婚約を焦りすぎて、やっぱりシーナでいいと妥協することにしたのだろうか。シーナはディアミドのことが少し不憫になった。
「ディアミド様、大丈夫ですよ。そんなに切羽詰まらなくても、まだチャンスはあります。確かに王都にいる有力な御令嬢の方々は大体婚約済みですが、キャロウェイ伯爵令嬢なんかは婚約者の放蕩が過ぎるので近々婚約破棄になるのではというもっぱらの噂ですし、アーガイル侯爵令嬢はディアミド様に憧れているらしいという話を聞いたことがあります。侯爵令嬢の意思によっては略奪という手もーー」
「もういい」
うんざりしたように遮られて、シーナは少しむっとする。良い条件で婚約するためには、チャンスを逃してはいけないのに。
高位貴族の婚活事情は、競技のようなものだ。自分の利を活かし、盤面の状況を読み切った者が勝者になる。ディアミドのように有利と不利が突出している者は、形勢が変わりやすい。少しも気を抜かない方が良いだろう。
「……だいたい、お前はどうなんだ」
シーナがぶつぶつと考えていると、ためらいがちにディアミドが訊いてきた。
「は?」
何のことを訊かれているかわからずに間抜けな声が出た。ディアミドは不機嫌な顔を崩さない。
「だから、縁談のことだ。話ぐらいは持ち上がっているのかと聞いている。……そもそも、五年前にはそちらの方から話を持ちかけてきたところからしても、俺以上に条件のいい話なんてそうそう無いんだろう」
「いや、そりゃさすがに、話だけならいくつかありますけど」
地元の有力な商人の息子や、近隣の領主の息子など、浮いた話が無いわけではない。由緒がはっきりしているキャンベル家の娘というだけで、それなりにシーナを望む人間はいるらしい。
ただシーナはこれから本格的に社交デビューをする予定なので、本格的に話を決めるのは王都の有力貴族に会ってからでも遅くはないでしょうとのらりくらりと断っている。
本当は。
図書館の仕事がしたいのだ。
趣味で小説を書きながら、ここの仕事で生計を立てられたら、どんなに幸せだろうか。
そんなことをこっそり夢想してはみるものの、中々言い難かった。キャンベル家の娘としては、それはあまり優秀な進路とは言えないからだ。
貴族の娘として生まれ、その恩恵を受けてきた者としては、やはり受けただけのものは返さなくてはいけないと思う。
キャンベル家の利になる家の者と結婚して、縁を繋ぐこと。シーナに一番求められていることはそれだろう。
それを考えると気が重くなるので、思わずシーナはため息をついた。
「何だ。今誰のことを考えていた」
「私のことなんてどうだって良いんですよ。ちゃんと条件の良い方探しますから」
投げやりに手を振るシーナに、ディアミドは何が気になるのか「話を逸らすな」とか言ってくる。逸らしているのはどちらなのだ。
「そんなことより、ディアミド様のことです。まあ、正直今のディアミド様なら、前よりかなり令嬢達からの好感度は上がってると思いますよ。最初は高望みでも打診してみてはどうですか。動くのは早い方がいい。何ならさっき言ったアーガイル侯爵令嬢にそれとなく探りを入れてみましょうか」
「余計なことはするな」
怒ったように言われて、シーナもむっとする。
「余計なことってなんですか。こっちは協力しようとしてるのに。そうだ。ひとつ上ですけど、リンスター伯爵家の」
不自然に言葉を途切らせたのは、突然立ち上がったディアミドが、つかつかとシーナに近づいたからだ。怒ったような顔が近づいてくる。
なに、と問う間もなく、いきなり口に噛みつかれた。
ーーと思ったけど、痛くはない。
驚いて突き飛ばしたら、真剣な瞳のディアミドと目が合った。手が伸びてきて、また口を塞がれる。
今度は後頭部をがっちりと押さえられていて、逃げられなかった。振り上げた腕も、手首をもう片方の手に捕えられる。
「……っ」
シーナは何をされているのかわからなくて混乱していた。とにかく、この距離が適正でないことだけはわかる。空いている方の手で押そうが足で蹴ろうが、ディアミドには大して効いていないようだ。執拗に唇を合わせてくる。
「っや、」
やめて、と叫びたいのに、声は言葉になる前にシーナの中で消えて、くぐもったうめき声のような音しか出ない。腕力だけならディアミドの方がはるかに上だった。こんなに歴然と力の差があるとは思わなかった。
それにしてもこの距離はおかしい。こんなの、単なる級友の距離感ではない。これではまるで恋人同士の距離だ。
そう考えて、ようやくこれはキスなのだと気がついた。でも理由がわからない。シーナとディアミドは交際をしていないし、ふたりの間に恋愛感情があるわけでもない。
とすると、嫌がらせだろうか。何か機嫌を損ねることでもしたのか。その報復でこんなことをするのか。こんな、力にものを言わせるようなやりかたで。
突然激しい怒りのような悲しみのような感情がシーナを襲った。優しくなったと思った。昔のような荒んだ雰囲気は消えて、人の気持ちが考えられるようになったと思っていた。あれは全部嘘だったのか。
突然ディアミドが驚いたように身を離した。
解放されると同時にシーナはディアミドの頬を殴った。拳で。渾身の力を込めたつもりだったのによろけることすらしないものだから、ますます腹が立って足を蹴った。
ディアミドがやられるがままになっていることにも腹が立ったので、もう一度蹴った。頬を伝う涙は止まらないが、拭う気にもなれない。ひたすら悔しくて情けなかった。
ディアミドがシーナの顔に手を伸ばしてきたので、殴られるのかと身構える。そのまま頬に触れた。反撃ではなかったようで、触れる手つきは優しかった。
シーナの涙を拭いながら、ディアミドは相変わらず怒ったような顔をしている。怒っているのはこちらの方である。
ようやくふたりの荒い息が落ち着いてきた頃、ディアミドがぽつりと言った。
「……そんなに嫌か」
どうして彼の方が傷ついた顔をしているのだろう。そんなのは狡い。シーナの方が酷いことをした気になってくる。
シーナは散らばってしまったリストと筆記具を素早くかき集めると、机に置いた。
そしてぎろりとディアミドをにらみつけると、「……戸締まり、お願いします」とだけ言って、さっさと書庫を後にした。まるで逃げ出すようだと思ったが、これ以上ディアミドと同じ空間に居たくなかったのだ。
寮に戻ってもシーナの怒りは収まらず、怒ったまま夕食も食べずにベッドに入った。よほど酷い顔をしていたのか、同室の友人が心配そうな顔を向けてきたが、取り繕う余裕も無く、放っておいてほしいとだけ言って毛布を被った。
自分の態度のせいで友人を心配させている。もしかしたら傷つけたかもしれない。
それというのも全部あのくそ王子のせいだと転嫁して目を閉じた。
ひと晩経つと怒りはだいぶ消えていた。
昔から、良く寝て朝日を浴びると、頭の中が整理されるのか、大体の怒りも哀しみもおさまってしまうたちだった。
シーナはそんな自分に安堵しながらもそもそと寝台から抜け出して、友人に昨夜のお詫びとお礼を言った。彼女は笑って許してくれた上に、目が腫れてる、と濡れた布を渡してくれた。
昨日のことがあったので、その優しさが沁みる。
なんて得難い友人なんだろうとその心遣いに感謝しながら、ふたりで食堂に向かう。
朝食はしっかりと食べることができた。
放課後、ディアミド王子は書庫に来なかった。そんな気はしていた。彼も彼なりに思うところがあったのだろう。
放っておいた方がいいだろうかという考えと、話をしなければという考えが浮かぶ。このままシーナがディアミドに近づかなければ、気まずくなってあっさりふたりの縁は切れるだろう。
そんなことを考えながら中庭をうろついていたら、あっさりと見つけてしまった。
ディアミドは中庭のベンチに座っていた。後ろ姿だけでわかる。すっと伸びた背筋も、入学時に比べると伸びた美しいホワイトブロンドの髪も、嫌というほど目にしているせいで、すっかり覚えてしまっている。
ひとりだった。最近では書庫以外でひとりでいるところを見るのは珍しい。軽く手を組み、ただ前方を見据えている姿は何処となく近寄り難い。加えて、昨日シーナが殴った頬が紫色になっていた。白い肌には大層目立って、痛々しかった。
朝驚く級友たちにはひと言転んだ、とだけ言っていたが、誰もそれ以上訊くことはできなかった。ディアミド王子と級友たちとの間の壁は無くなったように見えて、こうした時にまだ存在していることを知る。
前に回り込んで近づくシーナに気づいているだろうに、目線を上げることもしない。これはプライドを折られて怒っているのだろうか、とあたりをつける。
昨日のことは完全にディアミドが悪いとはいえ、痛々しい頬の痣は自分がつけたものなのだ。シーナは湧いてくる罪悪感を押さえつけた。
「すみません。痛そうですね。頬」
「何故お前が謝る」
近づくなり謝罪の言葉を口にするシーナに、ディアミドは嫌そうな顔をした。辛そうな表情と言った方が正確かもしれない。
「もちろんディアミド様にも謝ってもらいます。でもその前に、どうしてあんなことをしたのか訊こうと思って」
「はあ? わからないのか!?」
ディアミドは心底驚いたという顔で立ち上がる。
「あいにく。不興をかってしまった仕返しだということはわかるんですが、そこまで失礼なことを何か言ってしまったのかなって。良かったら、後学のために教えて頂けませんか」
大真面目なシーナを見て、本当にわかっていないと悟ったのか、ディアミドは額に手を当てたまま、力尽きたように再びベンチに座り込んだ。
「……言いにくいことなら、ひと気のないところに移動しますか? いつもの書庫とか」
先ほどのディアミドの大声のせいだろう。中庭にいた生徒たちの興味まじりの視線をいくつか感じて、シーナが提案してみた。ディアミドは呆れたような苛立ったようなため息を吐いた。
「無理矢理キスした男と翌日にふたりきりになろうなんて馬鹿じゃないのか。また何かされたらどうするんだ」
「同じことです。ここで貴方が私に何かしても、この学園にそれを止めることができる者はいませんから」
そこではじめてディアミドはシーナの真意に気づいたような顔をした。
「ディアミド様が相手の気持ちを無視して我を通すというのはそういうことです。たとえ本意ではなくとも、それが倫理からはずれた行いであっても、制止できるだけの権限を持つ者はこの学園にはおりません。だからこそ、幻滅しました。それを充分にわかっていないディアミド様に」
淡々と伝えるシーナに、ディアミドは生真面目な顔をして聞いていたが、立ち上がってシーナと向き合うと、深く頭を下げた。公衆の面前だったので、周りから息を呑む気配が伝わってくる。本来、王族はみだりに頭を下げたりしないものだからだ。
だがディアミドは拘る様子も見せなかった。
「悪かった。昨日は卑劣なことをした。謝罪する。もう二度としない」
込み入った話になりそうだったので、結局移動することにした。学園内で誰もいない場所というと、真っ先に思いつくのがいつもの書庫だった。
昨日のことがあったばかりなので流石に別の場所の方が良いのでは、と躊躇するディアミドに、「別にここで構いませんよ」とシーナは答えた。
謝罪を受け入れた上で、もうあんなことはしないと信じていると、暗に信頼を告げることでもある。ディアミドは黙って再び頭を下げた。
「……ではお前は、俺のキスが嫌で泣いていたわけではなかったのか」
隣に座ったシーナに、何処かほっとしたような口調でディアミドが確認する。
シーナは少し考えた。喧嘩を売られているようなあの口を付け合う行為をキスにカウントして良いのだろうか。とはいえ、行為自体にはそれほどダメージはない。
「べつに、顔中舐めまわされるのはクーとエッホで慣れてますから。あ、ちなみにうちにいる犬と馬のことですよ。変な想像はしないでくださいね」
「名前を聞けばわかる」
そう言うと、ディアミドは不本意そうな顔をした。
「俺は犬や馬と同レベルか」
「は? 何言ってるんですか。一緒にしないでください。クーもエッホも私が小さい時から一緒にいる子たちで、大事な家族です。ディアミド様とは比べるべくもありません」
ディアミドはため息を吐くと、自分の髪をぐしゃぐしゃとかき回した。
「さっきの言葉、少し撤回したいんだが」
「え、謝罪をですか? それは駄目ですよ。目撃者も多いし、今更」
「……そうじゃなくて。二度としないと言ったことだ」
そう言うと、シーナが露骨に嫌な顔をして椅子ごと後退る。
「無理矢理嫌がることをしたいんですか?」
「だから、そうじゃなくて! 合意ならいいのか」
いい加減切れそうなディアミドに、シーナはきょとんとした。
「そりゃ、合意なら好きにすればいいと思いますけど……。え? 私が、ディアミド様とのキスに合意するっていうことですか?」
「どうしてそう、直接的な物言いをするんだ、お前は! ……そうだよ!」
「だってあんなこと、普通は婚約者とか恋人同士とかでないとしないでしょう」
この期に及んで、何故自分にそんな話を持ちかけるのかわからないと首を傾げるシーナに、流石にディアミドが切れた。
「だからそうなりたいって言ってるんだ! どうしてキスしたかって、好きだからに決まってるだろう! 他に何か理由があると思ってるのか!」
やけくそのように大声でとんでもない告白をしてくるディアミドの顔は真っ赤だった。肌が白いから赤面するとすぐわかるな、紛れもなく本心だとわかってしまうのはいっそ狡いのでは、などと思う。
一瞬現実逃避しかけたシーナは、我に返ると慌てて反論した。
「だって、私なんて庶民顔で気品が無くて、何ひとつ釣り合ってないと言ったのはディアミド様じゃないですか!」
だから、まさか万が一にも婚約者候補としてなんて見られることはないだろうと、こちらもすっかりそのつもりでいたのに。
「そんなこと言ったか? ……言ったんだろうな。お前がそう言うなら。それも撤回する。いや、相変わらず高位貴族らしくない顔だとは思っているが」
王都の高位貴族は、もちろん例外はいるものの、金髪でぱっちりとした大きな二重の眼に小さな鼻と口、とがった顎が今風の美人とされている。その価値観に沿った容姿のものが好まれ、爵位の高い貴族に望まれ結婚して子供を産むので、自然とその傾向を引き継いだ令息令嬢が多くなる。
どちらかと言うと切れ長の瞳のシーナはその流行とは真逆だった。
「だがそのお前の顔が好ましいと思うようになった。この上なく」
困ったように言われても、こちらもどんな顔をすれば良いのかわからない。
「……俺と、家族になってくれないか。いずれ」
それは真摯な告白だった。いまだに感情が追いついていないシーナでも、これをはぐらかしたりする気にはなれない。
「あの」
「うん」
「急に、言われても」
「そうか」
「私はずっと、ディアミド様をそういう目で見ないようにしてきたので」
それが5年前の自分の言動のせいだというのは言い訳のしようがないらしく、そうだな、と項垂れている。
ただシーナはディアミドがどれほど自分の家族を欲しているのか知っているし、その相手に望まれたことを嫌だと思っていないのも事実なのだった。
「だから、今から考えます」
「うん」
ありがとう、とそう言った時のディアミドの嬉しそうな顔は、生涯忘れることはないと思う。初めて見た彼の邪気の無い純粋な笑顔を好きだと思った。
シーナの恋は、その時から始まったのだった。
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