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いつも正しい夫が言うなら

作者: 道導 八重




 「俺、正しく浮気したんだ」朝食を食べ終わって、ご馳走様という言葉を言い終わってから言い放った。


 私は理解が追いつかず、はあ、と息を洩らすだけだった。彼はいつも通り卵黄かけごはんを作り、卵白を捨て、醤油を三滴垂らし、かきこんでいた。背筋を曲げることもなく、定規を服の中に入れられているみたいにいつも真っ直ぐだった。朝はニュース番組を見て、七時四十五分になったら家を出ていくルーティンだ。これが崩れると調子が悪くなると言って、私との朝との会話の話題も決まっている。


 今日の天気と、今日の帰り時刻見込み。



 浮気。ウワキ。ウキワ。浮気?


 あまりにも平然というので、私は咄嗟に反応もできず彼から渡された茶碗をいつも通り回収した。彼はじ、と私に目を合わせて直ぐに興味なさそうに反らした。そして行ってくる、と一言言っていつも通りの革靴でいつも通りの時刻に出ていった。呆然とする私を置いて。





 正しく浮気をしたということはその浮気に正当性があった、という言い分だろう。お昼ぐらいにやっと浮気されたのだという悲しいやらやるせなさやらの感情がごちゃごちゃに湧き上がってきた。


 夫と新婚当時選んだソファーに三角座りをして考える。ソファーの色は部屋に馴染むクリーム色で散々二人で悩んだものだ。本当だろうか。本当だとしたらあまりにも平然すぎる。いつも通りの平坦調子。馬鹿にしているかと思うほど普通だ。はったり?いや夫は冗談をいうような人でない。


 なんだかんだで付き合いは十年目。結婚は二年目。初めは夫からのアプローチだった。年の離れた私は相手にしなかったが月日が経つにつれて絆されていった。途中でそれが逆転したのは夫が社会に出てからだろう。私も夫に甘えることができるようになり立ち位置が変わった。


 最近は一方通行で馬鹿犬とか散々な言われようだったけれど、出張に行ったら必ず私好みのお土産を持って帰ってきてくれたり、記念日は必ず何かしら用意してもらっていたし、具合が悪かったら口の悪いのも封印するし。いつも定時に帰ってくるし。浮気しているようになんて思えなかった。好き。ずっと好きだ。私が本当に一方的に。


 私は勘違いしていたのかもしれない。夫はずっと私に情をくれていた。夫でないときの情熱的なアプローチは鬱陶しい限りだったが誠実な愛だった。愛が恋情でなかったから浮気はするが別れ話をしないのかもしれない。でも私は馬鹿だから気付かなかった。恋情からの愛だと勘違いしていた。


 玄関からがさりと物音がした。思わず振り向く。夫がやつれた顔をして帰ってきた。目尻の皺がいつもより深く、クマまで出来ている。


 壁掛け時計を見た。夕方の六時。昨日の帰宅時間と一緒だ。夫はいつも夕方六時頃に帰ってくる。夫はスーツをハンガーにかけて消臭剤をかけた。私はいつもなら夕食の仕上げをするはずなのに、今日は何も作ってない。専業主婦なのに申し訳ない。夫は直ぐに立ち上がらない私を見て、状況を察したらしい。


「どっか食べに行くか、それとも出前頼む?」


 あくまでいつも通りの淡々とした表情で私に聞いた。私は出かけることも億劫に感じてしまって、小さな声で出前と呟いた。携帯電話で出前アプリを開いてこちらに見せる。私は貸して、といってさっさとハンバーガーとポテトを追加してホーム画面に戻った。アプリ一覧にはないことを確認して、元の画面に戻して返した。


「何にしたの?」

「チーズバーガーとオニオンリング」

「昔から好きだね、それ」


 私の回答に夫が小さく笑うと、まるで朝の言葉が嘘のように感じた。隣に当たり前のように座って、ネクタイを緩めるところも今まで通り。


「貴方はデミグラスポークハンバーガー?」

「いや、今日はやめとこうかな」


 夫はいつも同じものを好んで食べる。


「珍しい。食わず嫌いのあなたが」

「俺だって挑戦できるようになったんだよ」


 それは新しい女ができたから?

 そういいたい気持ちをぐっと堪えたが、顔の中心がくしゃりと寄った気がした。

 夫の顔は見れず、直ぐに目線を逸らした。


「珍しいこともあるだろ?」


 その声はどこか弾んでいる。

 

「そうね」


 私は素っ気なく返した。


 夫が何を頼んだのかわからないまま、注文を終えた。ぼんやりと目に入ったバラエティを笑うことなく見る。髪が長く若い女の子が大きくリアクションをして、男性芸人がでれでれとした顔でつっこんでいる。


 ……夫の浮気相手もこんなに若いのかしら。


 夫の横をこの女の子が歩いている姿を想像すると、一気に空しさが広がった。お似合いなのだ。私なんかよりずっと。私は夫を思わず見た。肌艶、はりは私よりもある。


 今の時代に合った中性的な顔立ちは妻の私から見てもかっこいいし、かわいいのだ。女にかわいいと思わせることができる男は最強だ。異論は認めない。その視線に気付き、夫は「なに」と眉を潜めた。


「貴方の相手ってこんなに若いの?」


 夫の顔は烈火のごとく赤くなり、今にも噴火寸前な顔をして「そんなわけないだろっ」と切り捨てた。これがどっちの反応かわからず混乱した。


「じゃあどういう人なの、それに正しくって何?」

「言えない。誰がどう見ても百パーセントの浮気だってことだ」

「でも、信じられないわ」

「なんで」

「貴方直ぐに家に帰ってくるじゃない」


 夫は虚を突かれたような、そんな表情をした。そう、六時に帰る人が浮気をしているとは到底思えなかった。


「そ、そんなことで。嫌でも俺は浮気したんだ、それ以上でも以下でもない」

「それだったら休みの日、って思ったけれど私たちずっと一緒じゃない」

「………」

「何かあったの?」


 夫はぐぅ、と黙り込んでしまった。そして目をきょろきょろと気まずそうに目線を彷徨わせた。まだ関係は持っていないが心は持ってかれている、なら心が張り裂けてしまいそうだ。それなら身体だけの関係の相手の方がよっぽどいい。夫は私の圧に気圧されてとうとう自白した。私の体も強張る。


「…相手の夢に出てきたらしいんだ俺」


 頭をがっくりと落として、力なく答えた。私の体は強張ったまま、脳裏に浮かんだのは無数の星が瞬く美しい銀河。その中で先程の発言が繰り返し響いた。脳が理解を拒んでドスの利いた「は?」が漏れた。夫はびくり、と身体を縮こませた。


「意味が全く分からないんだけど」

「…相手の夢に出てくるって、そういうことだろ」

「どういうことよ」

「無意識でその人を俺が恋焦がれてるって。み、美和ちゃんだって昔そう言ってたじゃん…」

「それって―――」


 平安時代の話ですかね?


 夫は怯えながらも至極真面目な顔をしている。妙な沈黙がこの空間を支配していた。生ぬるさと変な緊張感が同居しているような。夫は元々浮世離れしている。学校に行かず、お手伝い兼家庭教師の私だけが他人だったという特殊な環境で育っていた。身体が弱く学校に通えていなかった夫の専属の家庭教師として、確かに古典も教えたことがあった。夫がまともに学校に通ったのも大学生からだ。


 大学生の時も浮いた話は出なかった。私と結婚した時も確かに童貞だったけれど。そんな、精神面までまだ童貞だとは思わなかった。いや、精通していないピュアな子どもだ。


 いったい何から話せばいい。それは平安の考え方で現代ではその限りではない、と言って通じるものなのか。いや、それよりも。


「正しく浮気した、ってどういう意味?」

「…それは百パーセント言いようがない浮気をしてしまった、って言いたかったんだ」

「つまり浮気したことを正当化していたわけではないってこと?」

「当たり前だ!!!」


 夫が声を荒げて憤慨する。憤慨したいのはこちらの方だ。脱力感に苛まれてそれどころでない。ただ一言言ってやらないと気が済まない。


「でも自分から言っておいて謝りもしなかったじゃない」


 夫は傷ついた顔をして、まるで幼いころに戻ったような口ぶりになった。私はわざとそんな言葉を投げ掛けた。不必要に傷つけられたのは紛れもない事実なのだから。


「だ、って」

「何?」

「…傷ついた顔をしていたからその話題を出すのは時間が経ってからだと思った。本当にごめんなさい」


 夫は私の目を見て言い、しっかり頭を下げた。今感情がめちゃくちゃになっている。いい加減にしろ、とか、アホとかかわいい愛しいとか。でもここではっきりさせとかないといけないことがある。


「玲二君」


 夫の名前を呼ぶ。おそるおそると言った具合に頭を上げた。


「美和ちゃん…」

「その人のこと、夢の話は置いておいて好きなの?」


 大きな体を丸めて私を抱き締めた。ぎゅう、と子どもが人形を離さないような。夫は間髪付けずに必死に言い返した。


「俺が好きなのは美和ちゃんだけ、本当に!思ったこともなかったんだ、あの人はいつも丁寧な掃除をしてくれてるなあと思っただけで…」

「玲二君の会社の清掃員さん?」


 抱き締めたまま二回ほど頷くから髪がさわさわと頬を撫でる。


「そう、立ち話してたら言われて頭真っ白になった意識、したこともなかったのにって」

「ふぅん」

「信じてよ美和ちゃん…」


 頼りになっていた夫がよく知っている学生の頃の夫に戻って私に必死に縋りつく。

 私はその大きな背中を慰める様に抱き締めた。抱き締めて、ぽんぽんと背中を叩く。


「わかったよ」


 夫は空気を抜くみたいに安堵して息を吐いた。その安心しきった顔は緩んでいる。


 夫はいつだって正しい。正しいけれど、時々予想外の方向に行くのだ。

 だから私は教えてやる。


「あのさ、夢の話現代では当てはまらないからね?」

「え?」


 懇切丁寧にいつだって教えること。私はこれからも彼の家庭教師だ。





 

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