【7】①
翼と『付き合い』初めて数か月。
彼は実家で父と二人暮らしだそうなので、大抵は慶尚一人のこの狭いワンルームに呼ぶことになる。
慶尚は男と付き合うのは初めてだ。
それ以前に、男を好きになる自分を想像したこともなかった。ただ、嫌悪感もなかったのも事実なのだ。
それはそうだ。翼の想いを感じ取るようになって、個人的事情で困りはしても嫌だ、迷惑だとは感じなかった。
その時点で、慶尚はヘテロセクシャルではないのだろう。
二人きりでいる時もついつい面白いことを言わねばと気負ってしまう慶尚のふざけた言動に、翼はいつもしら~っとした冷めた目線を寄越す。
それだけならまだしも「何言ってるの?」「よっくん、ちょっと落ち着いたら?」と笑みを浮かべることもなく淡々と口にされるのは、なかなかに居た堪れない。
それでも、慶尚はそんなコミュニケーションも結構楽しめていたのだ。
言葉は冷たくても翼にとってはもはやそれが通常で、決して慶尚を見下してのことではないことくらいはわかっているから。
……まあ、呆れてはいるのかもしれないけれど。いやきっと。
むしろ本気で蔑んでいたら、彼は反応さえせずに無視するだろう。翼のことだから、いきなり立ち上がって何も言わずに荷物を持って帰ってしまってもおかしくはない。
だからとりあえずでも相手をしてくれているうちは大丈夫だと思っておこう、と考えていたのだ。
慶尚はなんだかんだ言っても、翼との日々を大切に思っている。
元々、表情や口調からきついと言われることも多い彼と、人当たりがよく明るい慶尚の組み合わせは、傍から見たら一体どんな時間を過ごしているのか不思議に思われそうだ。
いや、二人のこの関係は当然ながらオープンにしているわけではないのだが、あくまでも仮定として。
慶尚は、お互いにリラックスできるそんな静かで穏やかな関係もなかなかいいものだと感じていた。
……もちろん、ただ『一緒にいるだけ』では終わらないからこそでもあったけれども。
いつものように慶尚の部屋で、二人それぞれ好きなように過ごしていた時。
ベッドに座ってタブレットを手に書いた文章を見直している慶尚の隣で、完全にベッドに足まで乗り上げた翼が慶尚の身体に背中を預けてくる。
ああ、これは……。
「なんだ、どうしたの?」
珍しく甘えて来たらしい翼に作業を中断して声を掛けてみた。
構って欲しいのか? とまでは言わない。どんな答えが返って来るか、なんとなく想像がついて怖いから。
慶尚はただ、左肩に乗る小さな頭をぐしゃぐしゃと髪を混ぜるように撫でてやる。
「……ん~」
そのままの態勢で、翼が少し首を反らせて頭を真崎の方に擦り付けてくる。
これは何だ? 本当に翼なのか?
「何かあったのか?」
あまりにも意外な恋人の振る舞いに思わず訊いてしまった慶尚に、彼は頭を振った。
その拍子に、首筋に彼の髪の先が触れてくすぐったい。
「なんでもないよ」
いったんは終わらせようとした彼が、そのあとすぐに続ける。
「……いや、やっぱりあるかなぁ。よっくんがね、なんでそんなに余裕なのかなーと思って」
「は? なんなんだよ、それ」
「だってさぁ!」
慶尚の呆れたような言葉と表情が気に障ったのか、がばっと身を起こして布団の上に座り直した翼が、棘のある声で詰って来た。
「よっくんって全然自分から来ないじゃん。最初は僕のことなんか好きじゃないのかとか、仕方なく付き合ってくれてんのかとか思って。だったら、あんまり僕からばっかり行ったら引かれるかもって気をつけてたんだけど、一応」
普段はあまり声を荒げることのない翼の剣幕に飲まれて慶尚が反論できないでいると、彼はその勢いのままに捲し立てた。
「でもそうでもなさそうだから。男に触られんのなんかホントはイヤなのかなと思ったけど、よさそうだし。じゃあなんなんだろうって考えてたんだよ。……実際さ、ソレだけが目当てなのかともチラッと考えたんだけど、だったら僕みたいな可愛気ないヤツ選ばないってか普通に女の子の方がいいよね。だからよくわかんなくなっちゃった」
話すうちに興奮も醒めて来たのか、翼の声がだんだん小さくなって行く。
「なんか、ゴメン。気にしないで」
そう囁くように告げて、くるんと慶尚に背を向けてしまった。
膝を抱えて背中でこちらを拒絶しているような、小柄な身体がより小さく見える恋人の姿に慶尚は言葉を失くす。
実のところ、慶尚は翼とは本当の意味で抱き合ったことはない。
抱き締めたり髪を撫でたりキスをしたり。そういったことは日常的にしている。できている。
だがそれ以上には進めなかった。
男相手にどうしていいのかわからないのも大きかったし、ネットで検索するのも勇気が要る。
検索など簡単だ、見たあと自分で考えればいい。おそらく他人ならそう思うだろう。
しかし、慶尚にとっては相当にハードルが高い行為だったのだ。結局、今もできないままだ。これは単に性格の問題かもしれないが。
──実はもう一つ理由はあるのだが、それはなかなか表には出しにくい。
何度目かにこの部屋で過ごした夜、キスした勢いのままに翼が慶尚の下半身に手を伸ばして来た。
そして、所謂『ひとりでする』行為を慶尚に施したのだ。
以来、それが二人の愛の行為になった。自分だけが奉仕される不自然さがどうにも居心地が悪く、慶尚も翼に同様にしたりもする。
翼は自分がされるより慶尚にしたい、と言葉で身体で訴えては来るのだけれど。
「え、えぇ~と。ゴメン、俺ホントに……」
いったい、自分は翼の何を見ていたというのか。ずっと一緒にいて、普通の関係ならしないことまでして、それなのにいったい何を。
「でも身体だけだとか、それは絶対ないから! ホントにそれだけはない! あと。お前は……、可愛いよ。俺はそう思ってるから」
確かに『可愛気』はあまりないかもしれないけれど、と口には出さないものの心の中で呟く。
「いくらなんでも、好きでもないヤツとなんか身体だけでもごめんだから。男でも女でもさ」
こうして考えてみると、自分は随分と酷い男ではなかっただろうか。
今更ながらに、慶尚は頭を抱えたくなった。翼との関係があまりにも心地よくて、完全に寄り掛かってしまっていた。
いや、それが二人で築き上げたものなら何の問題もないのだ。
翼も同じように思えていたというのなら。お互いにもたれ合い、支え合っていたというのであれば、それこそ『いい関係』で済んだのだろう。
でもそうではなかったとしたら? 翼がひとりで黙って築いてくれた土台の上で、慶尚だけが胡坐をかいていたのなら。
「ごめん、ホントに俺が悪かった」
そこまで思い至って、慶尚は冷や汗が出て来るのを感じた。
「なんで今まで何も言わなかったんだ? いや、それぐらい自分で気づけよ! って言われたら返す言葉もないんだけどさ」
だけどなあ、と真崎は疑問を口にする。
「……言えないよ」
丸めた背中を向けたままで翼が答える。
「や、結局言っちゃってるんだから、僕が考えなしだったんだけどさ。僕の方ばっかり好きで、よっくんはなんかそれに流されてるだけっていうか。『別に嫌いじゃないし、いろいろしてくれるし、まあいいか~』って感じなのかなって。それなのに、我が儘言ったら嫌われるかもと思って……」
いつもの強気で辛辣な物言いはいったいどこへと面喰うくらいの、語尾が消え入りそうな翼の声。