【4】
「じゃーね、美羽。また考えといて〜」
次の講義のため教室に足を踏み入れた翼と入れ替わりのように、同じ学科の河合 笑理が明るい声とともに美羽に片手を振りながら出て行った。彼女はこのあと、違う講義を取っているのだろう。
一年生のうちは必修科目が多いのだが、選択で別々になる科目もある。
「何? 遊びに行くの?」
同じ卓の席に座り何気なく声を掛けた翼に、美羽が少し強張った表情を向けて来る。
「あの、言いたくなかったら……」
「ゴメン、違うの。──翼、授業の後ちょっと時間いい?」
触れてはいけないことだったのか!? と焦る翼に、美羽は無理矢理作ったような笑顔で訊いて来た。
「いいよ。もうこれで終わりだから、今日」
「サークルは?」
「個人作業だし、うちには活動日って概念自体がないわけ。学祭前だけは出店とか展示作品の打ち合わせしたりするから別だけど。だから大丈夫だよ」
とりあえず講義後に、とその場は話を打ち切った。
知り合いのいないところがいいという美羽に、普段はまず足を向けない大学から離れた静かなカフェに向かう。
「誰にも言ったことないんだけど、翼ならいいや。もちろん疑ってなんかないけど、バラされたって翼ならもうしょーがないって思える。単にあたしの見る目がなかっただけって、そういうのも織り込み済みだから」
席に通されてオーダーを済ませ、頼んだ飲み物がテーブルに揃ったあと。
ゆっくりと話し出した美羽の口調は軽いものの、内容は決してそうではないのがひしひしと伝わって来た。
普通を装ってはいるが、徹し切れていない彼女の様子に。
「あたし、他人に恋愛感情って持てないんだよね。初恋もなかった。もしかしたらあったのかもしれないけど覚えてない。全部消えちゃったの」
言葉を切って、美羽はテーブルのドリンクを手に取りストローでかき混ぜている。
翼が「無理に話さなくていい」と言おうとした雰囲気を察したのか、彼女は口をつけないままグラスを戻した。
「……小学校入ったばっかりの頃ね、学校の帰りに変なヤツに腕掴んで連れて行かれそうになったんだよ」
敢えて感情を押し殺すような平坦な声。
「たまたま知らないおばさまが通り掛かってくれてさ。引き摺られながら泣いて抵抗してたあたし見て、『何やってんのー!!!』って持ってたレジ袋でその男殴りつけて助けてくれたんだけど」
あまりにも想定外の美羽の台詞に、翼は思わず言葉を失ってしまう。
「別に何されたってわけじゃないし、そんな気にする必要ないのかもしれない。それが原因かもわかんないし。でもあたし、『恋愛』ってか『性愛』? って感情や接触がすごい気持ち悪いし怖いんだ」
「それ、は。……怖くて当たり前だと思う」
中身のない陳腐な言葉しか掛けられない己が歯痒かった。
しかし、それ以外『他人』に何が言えるというのか。
「いつまでも過去に囚われてないで、もう嫌なことは忘れて前向きなよ」などと、訳知り顔で口にするほど無神経ではないつもりだ。
「あ、人間として好きとか友達は全然別だよ? それに翼もそうだけど、『男が無条件に無理!』ってわけじゃないの。『接触NG!』でもなくて、手繋ぐのも腕組むのも、相手によったら肩抱いたりくっついたりも全然平気。LoveじゃなくてLikeは普通にあるってことね」
確かに美羽は、普段からごく普通に翼の腕や肩に触れて来ることも多い。
さすがに手を繋ぐ以上のことはしたことがないけれども、おそらく翼とならその程度は抵抗なくできるのではないか。この友人は。
もしかしたら。
児童ボランティアもそれに起因しているのだろうか。幼かった自分の傷を癒すために?
彼女に直接尋ねるつもりはこの先もなかった。だから正解はわからない。わからなくていい。
「つまりさ、あたしってなんか足りないんだと思う。人間として必須の感情っての? 誰かが好きで堪らない、愛してるとか」
しかし続けられた言葉に、翼はどうしても黙っていられなくなった。
親友として、彼女は翼を信じて打ち明けてくれている。
頭に心に、浮かべることさえ辛いだろうその出来事を。
たとえ誰かに言いたかっただけだとしても、相手に自分を選んでくれた事実に違いはなかった。
……勢いで口にしていいことではないのもよく理解している。それでも今、この場で、彼女に告げたかった。
「じゃあ僕も同じかな。僕は男が好きなんだ。異性で愛し合って子孫を残すのが人間どころか生き物のあるべき姿なら、僕も全然足りてないし失格ってことだね」
「ちが、あたしそんなこと思ってないし言ってない! 翼はちゃんと人を好きになってるんでしょ? 男だとしても、……相手の性別だけの差じゃない!」
故意に強い言葉を使った翼に、美羽がみるみる蒼褪めて狼狽えているのが手に取るようにわかる。
「うん、僕も自分がおかしいとは思ってないよ。今はね。否定する人の方が多いだろうけど、別にどうでもいいし」
美羽を責める気などある筈もなく、翼はすぐに言い添えた。
「美羽もそうじゃないの? それが美羽の現実なら、誰にも咎めることなんかできないし気にしなくていいんだ」
唐突に、美羽が顔を歪めて涙を溢れさせた。拭うことさえしない彼女の瞳から、はらはらと零れ落ちる透明な雫。
──真に美しい人は、醜く崩れた表情でも美しいままなのだ。
それどころではない状況にも拘らず、翼は心のどこかで感じていた。
「美羽、もし。もしよかったら、だけど。僕を利用してもいいよ」
「は!?」
驚きで涙も止まったのだろうか。美羽のぽかんとした表情。
「『あたし、実は小泉 翼と付き合ってまーす!』って煙幕張ってもOKってこと。あ、僕の方を誤魔化すための隠れ蓑のつもりはないからね」
「いや、それくらいわかってるよ。翼がそんな姑息なヤツだったら、絶対こんな仲良くなってない。そうして欲しかったら、翼は最初からちゃんと頼むでしょ」
まだ多少は涙混じりの声ではあるが、彼女はかなり平常心を取り戻したらしい。
「念のためだけどさ。絶対に騙したり嘘ついたりしなきゃいけないことはないんだよ。美羽は、僕もだけど何も悪いことしてないんだから。ただ、どうでもいい奴に話す必要はないと僕は思う。そういうときの言い訳にいくらでもどーぞって意味」
「……ん、ありがと。たぶんないと思う、けど。先のことはわかんないし、もし使っちゃったら絶対報告するね」
「それくらい気軽でいいんだよ。ホントに僕は平気だからさ」
ほぼ手つかずの飲み物を申し訳なく感じつつも、翼は友人を促して会計を済ませ店を出た。
「ねぇ、今も持ってる? あのキャンディ」
カラン、とドアの閉まる合図のベルの音と同時に美羽に問い掛ける。
「──あ、うん。持ってるよ。欲しい?」
「欲しい。美羽も食べなよ。こういうときこそ脳に糖分、じゃない?」
まだ赤い目で、それでも確かに微笑みながら彼女が取り出したキャンディを二人して口に含む。
存在感のある甘い塊を舌で転がしながら、並んで無言のまま大学を挟んで向こう側になる駅を目指して歩いた。
◇ ◇ ◇
美羽に、──それこそ他人に初めて話したことで、翼の中にも覚悟が生まれた。
開き直って慶尚にストレートにぶつかっていくようになった翼に、彼はあからさまに態度には出さないものの間違いなく引いていたと思う。
翼は自分が決して鈍くはない自信もあったし、それくらいはすぐに感じ取れた。ただ、それは対象外の相手に、……男に迫られているからだけではないのではないか、とも。
もし、この直感が間違っていないのなら。翼の都合のいい思い込みでないのなら。
嫌ならきっぱり拒絶すればいい。
おそらく彼は性格上できないのだろうが、それはきっと、いやたぶん男である翼とは考えられないからではない気がする。
──翼はなんとなく空気読んで諦めたりはしない。本当に相手が嫌がっているのでなければ。
慶尚には、相手が悪かったと思ってもらおう。
のらりくらりと逃げ回る慶尚を追い掛けるようになって数カ月。年度も変わって、翼は二年生に彼は四年生になった。
この調子で気長に構えていたら、慶尚は卒業してしまう。
翼はスパートを掛けるために、自分に気合を入れた。サークルの部室の前で、大きく深呼吸してドアを一気に開ける。
そして、笑いの中心に居る想い人に視線を定めて、明るく声を掛けた。
「あ、真崎さん!」