【感情小説】「ふれる」
肩幅のあるシュっと真っ直ぐに伸びた背中のラインに魅せられて、せめて、白いワイシャツに触れるだけでも、したかった。
あなたを、少しでも感じてみたかった。
先生に会いたくて、今日も教室にやってきた。
「こんにちは。」
今日も先生のあいさつは、爽やかだ。
「どうぞ、座って。」
まだ時間には早かったせいもあって、ちょうどコーヒーを淹れていたところらしい。部屋の中に、ふんわりと香ばしいコーヒーの香りが立ち込めてきた。
「飲みますか、1杯。」
外の喧騒とは一転して、部屋には静寂が漂っている。色白でいつも白いワイシャツを来ている先生は、たまに腕まくりをして作業をしている時がある。
そんな時に見せる、先生の白い腕が好きだ。
透き通るような柔肌に、無駄な肉づきが無く、真っすぐに伸びる腕先を見ているだけで、先生を感じている気がする。
「今日は、何を教えてくれるんですか?」
私の一番、好きな瞬間が訪れる。
「教える?また、冗談を。」
静かに含み笑いのような、はにかむ表情を見せながら、ホワイトボードにゆらりと向き直って、大きくてきれいな背中を私に見せる。背中を向けたまま、顔だけゆっくりと向き直ると、顎先だけを少しだけ突きだすように、微かに聞こえるかどうか小さな声で、低く、呟く。
「じゃあ、始めましょうか。」
今日も穏やかに、静かに、私と先生の授業が始まる。
友人のツテで始まったこのレクチャーは、あと2回の期限が決められていた。
初めて会った瞬間に、という衝撃があった訳でもなく、先生はいつも冷静沈着を地で行く所作しか見せない。
おそらく20代後半と思われる年齢を他所に、普段からの物言いと落ち着き加減は、とても私には近づけない世俗との隔たりを感じさせる。
「気をつけてね。危うくわたしも、惹き込まれそうになったから。」
長年の付き合いを続けている恋人がいる友人は、その魅力(?)に危うく足を踏み込みそうになったそうだが、既のところで踏みとどまったそうだ。
それも、このレクチャーに期限がある事に救われたのかもしれない。
「世の中には、触れてはいけないものがあります。法律や規則や、約束。あるいは、人としての道徳。今まで、そんな過ちを冒した事はありますか?」
2回目のレクチャーの最中、こんな質問を受けた。自分の人生の中で、いろんな約束事を破ってしまったことは多々あった気がするが、先生が問う内容は、おそらく次元が何か違う気がした。
「あ、ありません。先生は?」
私の質問には答えず、いつものようにヒラッと姿勢を翻すと、ひと言だけこう言った。
「少なくとも、どうしても触れてはいけないものは、知っています。」
真夜中に、ふと目覚めた。夢の中で、ひたすらに先生の背中を追い求めている姿。薄暗い寝室の中で、窓際から吹き抜ける風に、白いワイシャツがゆるりとそよいで、ひらりとシャツの生地がめくれる。
真っ直ぐに伸びる背骨を両脇から挟むように、腕まくりしたその腕と同じ様に、無駄のない肉付きをした綺麗な白い背中。
けど、私がいくら呼び掛けても、先生は振り返りもせず、その場で佇んでいる。
最後のレクチャーの日を迎えた。
今日も、先生は白いワイシャツを着ている。
普段はコーヒーを淹れて待ち受けているはずが、どうやら様子が違う。
「ひとつ、お話をしてもいいですか?」
私は促されたまま先生の正面に座り、向かい合った。
「こうして最後のレクチャーの場を迎えられた事を、うれしく思います。何事も、当たり前の様で、それは必ずしも必然とは言い得ない。」
何だか悲しそうな顔をして、虚ろな目線を手前に落としながら、ポツポツと言葉を繋いでいる。
「このレクチャーが終わったら、あなたは新しい何かを得ることが出来るのでしょう。わたしにも?おそらく得られる物があるはずです。」
これまで受けたレクチャーに関わっているようで、そうではないような。でも、何やら先生は悩んでいるのか、苦しんでいるのか。いまひとつ、要領を得られなかった。
「でも、やっぱり、きっとわたしはまた、同じ場所に戻ると思います。このレクチャーの期間だけ、わたしは生気を取り戻して、息を吸い、身体を駆り立てることが出来ているんです。」
ガタっと、立ち上がって、私は先生に抱きついた。
先生の身体は、白いワイシャツの生地そのままに、清廉な香気を放っていた。白い肌、見た目以上にガッシリとした骨格。両腕を伸ばして、抱きしめようとした。
先生は私に委ねるように、少し前のめりに凭れるように立っていた。けれど寸前に話していた言葉とは裏腹に、微塵も生気を感じない様に、身体に力が入っていない様子だった。
ひと息ついて、私は先生から離れた。
「世の中には、触れてはいけないこと。先生はいつもこうして教えているんですね。」
頬から一筋の涙が、零れ落ちた。
白い肌をゆっくりと、なぞるように。