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夏の夕暮れはいつまでも昼間みたいに明るくって、けれど、決して時の流れが制止したわけではないから、例によって、幾ばくもなく夜はやってきてしまうんだ。
わたしだって、あんまり人のことばかり心配していられないよね。もういいやって思うだけで、明日なんか要らないと思ってしまえば、すぐに、いつだっていなくなってしまうんだから。
だってさ、ペアレントと相対して、そいつが人間の魂だと認識したうえで、それでも消滅させることを選択するのって、すごくエネルギーがいるから。死にたいって思いながらじゃ、不可能なぐらいストレスをかんじるから。まぁ、何にも感じなくなったら、それはそれで終わりだって思うけどさ。
くーちゃんは、あの衝動に抵抗することは無駄なんだって、ようやく学んだみたいで、わたしが家の前に行ってすぐに、涼しい顔して、玄関から出てきて、よぉ、ってわたしが片手をあげると、「うん」って何でもない風に頷いていた。
でも、楽しそうじゃなかったな。長距離走のスタートラインに立って、ホイッスルを待っているときだって、あんなに憂鬱そうな表情はしないんじゃないかな。まぁ、お互い様なんだろうけど。
「いちおう、バス停で待ってるか? 今日は金曜だし、いつもなら集まる約束だ。まぁ、迎えは絶対に来ないだろうな。エイクラのおっさんは知っての通り。カトリーナも今夜はわたしたちに構う気はないだろうしさ」
って、わたしは提案した風なんだけど、くーちゃんが賛成しなくても、そこに行くつもりだった。今夜は積極的にペアレントを探すつもりはないし、だったら、あの場所が、いちばん居心地いいから。わたしは、くーちゃんの返事を待つのも面倒になって、歩き始めてしまう。というのも、くーちゃんは、こんな夜に、わたしを一人ぼっちにはしないだろうって、分かりきっていて、だからもう喋る必要なんてなかったから。
それでやっぱり、くーちゃんはとなりいる。わたしはバス停に向かって歩くあいだ、退屈で、つい喋らなくてもいいことを口にしている。
「なぁ、くーちゃんはさ、わたしが消えちゃったら寂しい?」
言い出してすぐ後悔している。だって、ぜんぜん寂しくない、なんて、そんな風に答えるような馬鹿は、さっさと死んでしまえばいいだけだし。くーちゃんは、馬鹿だけど、そういう風に無神経な馬鹿じゃないんだから。
「寂しいよ」
だから、このせりふが本音かどうかも分かんないよね。正直、どっちだって構わなかったけど。ただ、容易に想像できる、この後に続くに違いない言葉がただただ憂鬱だった。
「日浦は僕が消えたら寂しい?」
下らないよね。言う必要あるかな。分かり切ってるよね。
「さぁな」って答えちゃった。変なところだけ、カトリーナに似ちゃったんだよな。あいつも、同じことを聞かれたら、「さぁ」って曖昧に濁すんだろう。素直に答えておけばいいだろ。どうせ、くーちゃんがほんとうに消えちゃったら、わたしだって、子供みたいに泣いちゃうんだからさ。でもま、カトリーナみたいにさ、感情的には泣けないだろうな、膝を抱えて、頭をうずめて、めそめそしちゃうんだろう。
「カトリーナいなくならないといいなぁ」
脈絡もなくわたしは言う。くーちゃんは、「そうだね」ってメトロノームの針が揺れるような決まりきった返事をする。
「なぁ、あいつがもし消えちまったらさ。つぎにわたしたちの仲間になったやつに、いろいろと説明してやるのは、くーちゃんの役目だからな」
くーちゃんは、ううん、と呻いて、「出来るかなぁ」って、頭を掻いた。さぁ知らねぇけど、少なくともわたしには無理だから、しょうがないじゃん。出来る限り協力はするけど、すぐにいたたまれなくなって、ねずみが黙っていないだろうから。教えるどころじゃないに決まってるし。
「車の免許って、何歳からとれるんだっけ?」
「さぁ、たぶん18歳だろ」
「もしその時になっても、日浦は免許なんてとらなくていいからね」
「そりゃあ、明らかに向いてないしな。つーか、そんなとこまで真似する必要はないだろ。毎週金曜日にわざわざ車で集まる必要はないさ」
わたしが運転なんて出来っこないって、くーちゃんは言ったんだけど、べつに失礼だとも思わなかったな。そもそも、わたしたちが18までこの世界にいるとは、あんまり思わないし。そんな心配は地球の寿命を不安に思うくらいに余計な心配だし。くーちゃんはともかく、少なくともわたしという存在はこの世界から消え去ってしまっているだろうし、まぁでも、三歳児が永遠の愛を誓うような瞬間は、その誓いが実現することは決してないと分かっていても、わりかし幸福ではあるよね。特にわたしみたいにつまらない人生を歩んできた人間にとってはさ。
ふとくーちゃんが、ため息をついた。
今夜は晴れていて、満月だった。
くーちゃんにペプシコーラを買ってもらった。くーちゃんも同じ物を買っていて、いつかわたしが蹴飛ばして、背もたれが壊れてしまったベンチに、わたしたちは座っている。
そうして、あたりはすごく静かで、その静けさがわたしは気に入らなくて、口を開いている。
「今夜は長くなるだろうな」
「そうかな」
「あの馬鹿が街中をひとりで回ってるんだぞ。時間もかかるって」
「うん」
くーちゃんはぼんやりとしていた。さっきから相槌にはあからさまに感情がこもっていない。横顔をちらりと覗いて、それから、今日はもう黙っていようって決めた。とりあえず、今夜は満月で、だから、わたしは消えないと思うんだよな。だからさ、となりにいるくーちゃんも消えないに決まってるし。話したいことは残しておいた方が、やり残したことがあった方が、わたしは長生きも出来る気がするしさ。
きゅー。
だから、ふたりとも黙っていて、夜はほんとうに静かだったから、そうやって、突然に響いたあの鳴き声は、やけに大きく聞こえた。
ペアレント。人型の大型怪人。人間のろくでなしの魂。体長約2メートル。そいつが、なんだか背中を丸めた猫背な感じで、そこに、わたしたちのいるバス停を挟んだ二車線道路の反対側に、佇んでいたんだ。
つくづくさ、わたしの人生はうまくいかないように出来ているんだよ。この住宅街で唯一、居ちゃいけない場所に、ペアレントが現れるんだ。このバス停の前じゃなきゃ、ほんとうに、どこでも良かったのにさ。
「なぁ、上手くいかねぇよな」
わたしは一応カトリーナに教えてやろうって思って、ポケットに手を入れて、スマートフォンを探している。くーちゃんは立ち上がって、べつに真似する必要なんかないのに、夜空に手を伸ばしていた。その手のひらで輝いたまばゆい光線を見て、それはショットガンに変化するに決まっているから、わたしは安心して、ぜんぜんやる気のなさそうなくーちゃんは、生きる気力まで失ったわけじゃないんだって確認して、さっさと指を動かして、カトリーナに電話を掛けるつもりだったけど、ふと手のひらから、スマートフォンはなくなっていた。
それを奪ったのはくーちゃんで、わたしは、きょとんとした顔で、くーちゃんがいつになく真剣な顔をしているのを見つめていた。
「なんだよ。どうせ、間に合わないだろうけど。カトリーナには伝えてやった方がいいだろ」
「あれ、ぼくの知り合いかもしれない」
くーちゃんは言う。
「あのグローブ、頭に乗っけている奴、見覚えがある。それに動きとか、全部そっくりだ」
わたしは小さく息を吐く。だってさ、じゃあ、どうすりゃあいいんだろうな。いつまでも、知らんぷりなんかできやしないのに。
「分かったよ」って差し出した手のひらにスマートフォンが帰ってきて、わたしはそれをそのままにポケットにしまう。嘘ついて、カトリーナに電話しちゃう気分にはならなかった。だって、そんな、しょうもない真似して、きらわれちゃったら嫌だし。
「なぁ、くーちゃん、あれ、わたしが倒してやろうか」
「ちょっと黙ってて」
くーちゃんは、わたしの方なんかちょっとも見ないで、ペアレントを睨んでいる。
あのペアレントが野球少年みたいに、あたまにグローブを載せている格好は、いかにも男の子って感じで、だから、たぶん、知り合いっていうか、あいつはくーちゃんの友達なんだろうな。
「どうせ、いつかは倒さなきゃいけないんだよ。今日じゃなくても、月曜日には」
「分かってる」
分かってないじゃん。何にも。くーちゃんは、受験生が掲示板に張り出された、受験番号を探すみたいにして、それで何か変わるわけでもないのに、必死にペアレントを凝視していて、それから、あっけなくその瞬間はやってきたんだ。
きゅー。
ペアレントが首を、ぐるりって、機械仕掛けの人形のように、こちらに向けた。わたしは、じとり、とくーちゃんを睨む。
「おい、どうするんだ。もう逃げられないぞ」
「日浦」
「なんだよ」
「絶対にあいつを消さないで欲しい」
「そんなの無理だって、だってさ」
「頼むから」
「はぁ、もう分かったよ」
どうしてわたしがこんな約束をしちゃったのかって、だって、くーちゃんの声が震えていたから、なんでもいいよ、って受け入れたくなっちゃったんだ。
そんなの不可能なんだけどね。わたしたちが消さなくても、いずれカトリーナが始末しちゃうに決まってるし。
逃げ道なんてあるはずないのに、くーちゃんは一体何を考えているんだろう。ねぇ、もしかしなくとも、何も考えていないでしょ。ただ後回しにしているだけじゃないのかな。
きゅー、ってペアレントが鳴いた。ほんと、神経に障る鳴き声なんだよね。くーちゃんは、似合わない舌打ちなんかして、ショットガンを投げ捨てて。
「一体、ぼくが何をしたって言うんだよ!」
そんな風にくーちゃんが声を荒げるのって、かなり珍しい。わたしはびっくりしちゃって、目を丸くしていたら、くーちゃんはどこかへ走り始めてしまって、ペアレントはくーちゃんを追いかけるように、けれども決して、あいつは、走るなんて面倒なことはせずに、テレポートしながら、ぴったりとくーちゃんの横に張り付いている。
だから言ったんだよ。逃げられっこないって。
まさか、満月の夜に消えることが出来るとは思わなかったな。そんな望みが叶うとは思いもしなかった。
あれを倒すつもりがないなら、くーちゃんはもう助からないだろうし。わたしはその瞬間から、目をそらすつもりはないし。くーちゃんが消えるなら、わたしも一緒に消えるから。
なんて、そんなことはどうだっていいや。ともかくも、わたしもくーちゃんを追いかけなきゃね。
ほんとうにさ。よわっちぃんだよね。
くーちゃんは、また、あっさりと諦めていやがるんだ。さっきの場所から、ちょっと走ったところで、アスファルトに、道路のど真ん中に、胡坐をかいて座り込んで、ペアレントが伸ばす手を、プラネタリウムでも鑑賞するみたいな雰囲気で、ぼんやりと見つめている。
今ここで、わたしが、発現して、そいつを撃って、消滅させて、有無も言わさず、残った遺品をひったくって、今夜を終わらせることはすごく簡単なんだけど、あれを消さないって、約束を破ったら、たぶんくーちゃんには嫌われちゃうし、だいたい、生きたいと願わないやつは、あっけなく、そう遠くないうちにいなくなるわけで、明日は土曜日で次は日曜日で、すぐに月曜日はやってきて、くーちゃんの寿命を数日間ぽっち伸ばすことが、わたしにはたいして重要とも思えなかったから、ため息をついて。
それから、ふと、いいことを思いついた。
まさか人生の最後に、道のりの一番果てに、面白いものを見つけるとは思わなかったな。
わたしは口を曲げる。
座り込んでペアレントを見上げているくーちゃん。その身体をわたしは、力いっぱい蹴り飛ばした、本当に容赦なく、なんなら、骨くらいは折ってやろうって気持ちでね。くーちゃんなんかさ、細っこくて、よわっちぃに決まってるんだから、他愛もなく、空っぽの段ボール箱みたいに吹き飛んで、それから、わたしは伸びてきたペアレントの腕に、こっちから両腕を広げて、そうして、抱き留められたんだ。
ペアレントって、すごく気持ちいいんだ。知らなかったな。布団にくるまれているみたいで、それでいて、ひんやりとしていて、夏の暑さを紛らわせるにはちょうど良くって、すごく落ち着く。なるほど、それで、悲鳴を上げたり、苦しそうにする人間がいないんだ。
へぇ、思ったより悪くないじゃん。しかも今夜は満月で、夜空も悪くなかったし。
まさか最後の瞬間が人生で一番幸せになるとは思わなかったな。
きゅー。そんな耳障りのはずの鳴き声も、今はそんなに不快じゃないんだ。
ほんとうにさ。こんなことが、満月を眺めながら、意気地なしの幼馴染の身代わりに、この世界からおさらばすることが、わたしの人生で、いちばんの幸せに位置してしまうんだよね。
「ふはっ」
おかしくって噴き出した。それから、わたしは好き勝手喋り始めている。
わたしなのか、それとも、ひょっとして、ねずみが操っているのか、曖昧になるほど、わたしの意識は薄く、宙に浮いている。
「あーあ、ほんと下らねぇ人生だったなぁ。生きてりゃいいことあるって言うけどあれは嘘なのかもしれねぇな。嫌なことばっかりだったよ。その癖に後悔も残っちゃいないんだ。過去の記憶をたどっても、今より上手くやれたなんてちっとも思わない。だからわたしの人生にはもともと不幸しか用意されていなかったんだろうな」
この馬鹿、そんなこと喋ってどうするつもりなんだろう。同情なんて、ごめん被るし、それでも、誰かが、よしよしって頭を撫でて、慰めてくれるんじゃないかって期待していたのかな。
首を回すとくーちゃんが、尻もちをついたままの情けない格好で、こっちを見ていた。ざまぁみろ。それがさっきまでのわたしの気持ちだぞ。
「なぁ、くーちゃん頼みがあるんだよ」
わたしは喋っている。やっぱり、これはわたしが喋っているのか、それとも、ほんとうはねずみなのか、本音なのか、建前なのか、当てつけなのか、くーちゃんが好きだからか、嫌いだからか、はっきりしない。
「わたしの人格が変わっちゃったら、入れ替わったその子の面倒を見てあげてくれないかな?あのね、たぶん大変だと思うんだよ。わたしって友達もいないし、周りには頭がおかしい子だって思われてるし、一人ぼっちだし。ねぇ、くーちゃん、わたしのこと好きでしょ。わたしが発狂しなくなったら、嬉しいでしょ? だから、ねぇ、わたしと一緒にいてあげてよ。わたしもさ、こんな風になる前、くーちゃんのこと好きだった。だから、それまでの記憶だけを引き継いだわたしとは、きっと仲良くなれると思うよ」
わたしは目を閉じる。満足。言いたい放題好き勝手言って、やり残したことはなんにもないや。ほんとうに最初から最後まで、わたしの人生に後悔なんてやっぱりなくって、でも後悔のない人生のすべてが、まるまる幸福だとは限らないんだけどね。
「いい加減にしてくれよ」
って、くーちゃんが不機嫌そうに言ったのが聞こえた。わたしは、そんなせりふを最後には聞きたくなくって、ただ、日浦おやすみ、って言って欲しくて、眠いのを我慢して、薄目を開けて、ねぇ、って口を動かす。
そうすると、くーちゃんがショットガンを構えている姿がうっすらと見えて、わたしはおかしいな、って首を傾げた。それから、ぱすりって、炭酸のペットボトルの蓋を開けた時のような、かすかな音が聞こえた。
ひんやりとしたあの心地よい感覚がなくなってしまう。わたしは身体を預けていたものがなくなったから、そのまま仰向けに倒れてしまって、アスファルトは固くて、ごつごつしていて、寝心地はちっとも良くなかった。
「痛てぇ」
そう呟いたわたしを、大の字になって、ぼんやりとしていたわたしを、くーちゃんが覗き込んでいた。もうほんとうに酷い顔で、いまにも泣いちゃいそうな感じで、わたしはおかしくってたまらなくって、声を上げて、心から笑った。
「かはは。酷い顔。ねぇ、そんな顔するぐらいなら、助けなきゃ良かったじゃん」
くーちゃんはむっとしたように、顔をしかめたけど、すぐにため息を吐いた。
「今日のこと、カトリーナに電話するのは任せるから」
「ああ、いいだろ、ほっとけよ。どうせ嫌味を言われるだけだぞ」
「頼むよ。今夜はもう何にも考えたくない。誰かから電話がかかってくるかもとか、考えたくないんだ」
「貸しだからな」
「うん」
そういって、くーちゃんは転がっている遺品のグローブへ手を伸ばしていた。たぶん、それはわたしが回収してやった方が、くーちゃんは傷つかないんで済むんだろうけど、でも、それはくーちゃんが選んだことだから、わたしが口を挟むことでは決してないのだと思う。
わたしは、ポケットからスマートフォンを取り出して、着信履歴のうちの一つを選んで電話を掛ける。
「あー、カトリーナ。悪い。ペアレント、やっつけちまった。わたしじゃねーよ。くーちゃん」
わたしはそうやって言って、夜空を見上げて、嘘みたいにきれいな満月を眺めている。
ともかく、今夜はこれでおしまいなのだから。
わたしという人間はもうすぐ消え去ってしまうと思う。わたしはもうすぐ16さいで、たぶん、それまでの間は平気だと思う。17さいになれるかどうかは、分からないけど、くーちゃんがいるならたぶん、なんとなく生きていると思う。
そこから先は、どうなんだろう。くーちゃんが運転する車に乗せてもらう未来はやってくるだろうか。それは望みすぎな気がする。そんな未来がやってきたらこの上なく幸福だけど、でもまぁ、今のところ人生に後悔なんて一つもないから、いつ消えてしまっても、それが明日でもべつに構わないと思っている。
だいたい、人間なんて遅かれ早かれ死ぬんだしさ。大して変わんねぇって、でも、後悔しないまま、悔いもなく、この世からおさらばできるのは一握りだと思うし、それって、実はけっこう幸運なことなんじゃないかな。
なんて、そんな訳ないよね。
終わりです。ここまでたどり着いた方はいるでしょうか。
独りよがりな文章になってしまったなぁと思います。
お付き合いいただきありがとうございました。
次は楽しくて誰も不幸にならないお話が書ければと思います。