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木曜日の夜だった。

 エイクラのおっさんの喫茶店にくーちゃんと二人で行ってから、もう二日も経っている。火曜日と、水曜日は学校にも行かなかったし、夜も何事もなく終わった。

だいたい深夜一時を過ぎる前だったかな、カトリーナから電話があって、「倒したわ」っていう短い報告に、「くーちゃんとはどうなの」って明らかに余分な質問がくっついてきて、わたしは速攻で電話を切ったんだよな。

 くーちゃんとは、あれからまともに喋っていないんだ。いつも通り、家の前で落ち合って、バス停まで歩いて行って、ペプシコーラを買ってもらって、あとは別々の場所でペアレントを探してた。それだけ。

つーか、あのペプシ、もう受け取りづらいんだけど。これ、何本奢られたら、命の借りを精算したって、くーちゃんが判断するのか知らないけど、ねぇ、その時にはくーちゃんは、にこにこ笑って、ペアレントに食べられちゃうわけ? あのさ、だったらもう、奢ってくれなくてもいいんだけどな。

 けれど、今夜は、木曜日の夜は、なかなかケリが付かないでいた。くーちゃんとはんぶんこした、昔から、三年前から、わたしが巡回しているところは、全部見るところがなくなって、それでもペアレントとその遺品は消滅していないみたいで、だから、厄介なことに、ぜんぜん家に帰れなかった。

 行く当てもなく、仕方なくバス停に戻ると、くーちゃんがいて、あの酷い有様のベンチに座っていた。わたしは、この暑苦しい住宅街で、ブレザーまで着こんで、歩き回ってるわけで、だから、結構汗かいてて、のど乾いてて、でもまた飲み物を奢られたら、たまらないから、だって、くーちゃんの寿命を削っているような感覚がしちゃうから、無言で素通りして、自販機の目の前に行って、硬貨を二枚入れて、ペプシコーラを買った。

 喉を鳴らして、しばらく、ぼんやりしていると、くーちゃんが「座りなよ」って言う。

 わたしは顔をしかめて、だって、ベンチは二人も座ったらあっという間に壊れてしまいそうなほどにぼろぼろだし、汗はいっぱい掻いているし、気が進まないで、その場でぼんやりとしていた。

「日浦」くーちゃんがわたしの名前を口にした。わたしは、ん、って一言だけ返答する。

「そっちもいなかったんだ」

「見りゃわかるだろ」

「そっか、良かった」

「何がいいんだよ。寝れないぜ」

「確かに」ってくーちゃんは笑うんだ。ぜんぜん可笑しくないけどさ。わたしはため息をついて、

「なぁ、くーちゃん、お前は相変わらず、学校行ってんのか?」

 わたしは、そんなことを聞くんだ。

「うん。行ってる」

 だって。それって、何のため、誰のためなんだろうな。お前が勉学に励んだって、例えば大学受験とかに、挑むのはお前以外になるんだろうし、それでなくたって、その先の人生はくーちゃんのものにはならないに決まっているのに。

「明日もか?」

「ああ、どうかな。あと五分で寝れるなら、そうするけど、今夜は無理そうなのかな。日浦はどうするの、明日、学校行くの?」

 くーちゃんは言う。うざったいな。なんだって、そんな風にしつこいんだろ。

「行くわけないだろ。あともうそれ聞くのやめろよ。だるい。ああもう、いっそのこと、退学にでもしてくれりゃあ楽なんだけどな。いいだろ、数日しか通ってないんだしさ。お前も口うるさいこと言わなくなるだろうし」

 くーちゃんは鼻先を触って、困ったように首を曲げて、それから息を吐いた。

「じゃあ、明日は暇なんだ。なら、ぼくと一緒にどっか行かない?例えば動物園とか」

「なんだよそれ」 

くーちゃんが、またしょうもないこと言い始めたなぁ、ってわたしは思うけど、もう呆れることもなくなっている。残念なことに慣れちゃったみたいだった。

「お前さ、動物園なんて、ほんとにそんな行きたいか?つーか、この辺りにはないだろ」

「行くの、行かないの?」

 そうやって、まっすぐにわたしの目を見る。偶にある、怯まない感じのくーちゃん。

こういう時は、何を言ったって無駄で、というか、なんか勝てる気がしなくって、わたしは肩をすくめる。

「行ってもいいけど、わたしが途中で絶叫しても、文句言うなよ。連れ出したお前のせいだからな」

「いいよ。それはそれで面白いし」

 もうさ、くーちゃんは自分の性格が歪んでいることをこれっぽっちも隠そうともしないんだ。何が面白いだよ。ちっとも面白くないだろ。わたしがどんな思いしてるか、知ってるか。

「お前さ、性格悪いよな」

「え、どこが? 優しいでしょ」

 まぁ、基本はな。今はぜんぜんだろ。なのに、くーちゃんはたぶん純粋にそう言っていて、わたしはもう怒る気分にもなれなくって、でも、不機嫌を伝えるため、むすっとした顔をして、くーちゃんの隣に座ることを決める。

 普通に考えればさ、二人座ったくらいでベンチが壊れるはずもないんだよ。冷たい飲み物を飲んでたら、汗も引いてきたしさ。だからさ、座った、やっぱりベンチは失礼なほど軋むけど、べつにもう構いやしなかった。

「くーちゃんが見たいの、ゾウとキリンだっけ。たぶんだけど、この辺りにはいないだろ」

 くーちゃんはスマートフォンをいじっている。覗くと、動物園、近く、キリン、ゾウって馬鹿みたいな文字列が、検索エンジンに並んでる。こんな辺鄙な住宅街の近くに、そんなのあるわけないに決まっているのに、うーん、ってくーちゃんは真面目な顔をしてるんだ。

 だからさ。

「わたしはねずみが見たい」

 そう言ってあげた。だって、わたし、実物のねずみなんて見たことないから。なんとうなく、頭に棲んでるのはそれだろって思い込んでるけど、実物を見たら思い改めるかもしれないなって思ったんだ。なんて、そりゃあ、何にも棲んでいないに決まってて、わたしは、勝手に発狂しているだけで、濡れ衣なんだろうけどさ。でも、まぁ、見てみない限りは分からないよね。

 くーちゃんはなんどか指先を動かして、それから、ふぅ、って小さく息を吐いた。

「ハムスターとかモルモットじゃ駄目?」

「駄目」

「ハリねずみは?」

「駄目、くすんだ灰色のねずみがいい。出来るだけ、みすぼらしいやつ」

 我ながら、意味不明で、わがままな注文だよね。けど、くーちゃんは、とくに理由も聞かず、ただ困った顔してた。いるかなぁって、さぁ、知らねぇよ。でもまぁ、キリンとかゾウよりは望みはあると思うよ。たぶん、わたしの脳みそくらいのスペースがあれば、十分生きていけるような生物だろうからさ。

わたしは、意地悪な顔してくーちゃんの横顔を眺めて、それから、くーちゃんと、随分と話した。くだらないことも話したし、それから、真剣に困っていることも話した。だいたいこんな風に。

 たぶんさ、くーちゃん、わたしの頭にはねずみが棲んでいるんだ。これ、言ってなかったよね。うん、そう、どうせ汚らしいねずみだよ。それでたまにさ、たまにでもないかな。とにかく、わたしが叫んじゃうときあるじゃん、あれってさ、そいつが暴れるからなんだよ、でさぁ、そういうときってさ、まぁ、ときどき例外はあるんだけど、周りの景色がよく見えるんだよね。身体は暴れているけど、意識はクリアでさ。うん、そうなんだ。でね。くーちゃんさぁ、そん時、いっつも、悪い顔してない? なんていうか、愉しんでいるみたいな、カトリーナが笑っているときと同じ種類って言えば、分かるか?

 おい、聞いてるか。くーちゃん。なぁ、言い訳してみろって。ああ、してないって?嘘だよ。してるから。謝んなって、べつにね。怒ってるわけじゃないんだよ。ほんとうに、だって、嫌そうな顔されたり、面倒くさがられて、距離を置かれるよりは、ぜんぜんいいから。

 だからさ、わたしはたんに不思議なんだよ。ねぇ、どうしてあんなに嬉しそうにするの? ああ、やっぱりいいや。知りたくないし。たぶんだけど、ろくな理由じゃなさそう。だからいいって、聞きたくない。

 それより、いい場所見つかった? ないでしょ。そもそも、動物園が。結構ある?どこまで出かけるつもりなんだよ。なぁ、わたしはたぶん昼まで寝てるよ。ああいう場所、夕方には閉まるだろ。間に合わないに決まってるから、もう、なんでそんな拘るんだよ、意味わかんない。いいよ。まぁ、どうせろくに寝むれやしないんだから。いや、そんな顔するなよ。どうせ、くーちゃんも似たようなものでしょ。

 ああ、ちなみに、わたしはいつも通り制服だけど、いいよな。ブレザー?ああ、どうだろ、出かけるときのわたしが正気だったら、着ないだろうけど、うん。うるさいなぁ、そうだね。暑いよね。ほんと、この街おかしくないか。なんでこんなに、いいとこないんだよ。せめて、気候ぐらいさ。うん。そうだね。しょうがないよな。お前のさ、なんでも受け入れちゃうとこ、嫌いじゃないよ。好きでもないけどさ。まぁ、でもたぶんくーちゃんのいいところだよな。

 ねぇ、昼ごはんってさぁ、どっかで食べるの。ふぅん、まぁ任せるよ。嫌いなものは特にない。ちょっと前まであったけど、最近なくなっちまった。

 そうして、

 ふとくーちゃんが、「もうすぐ朝だ」ってそんな風に言った。わたしは、え、って首を傾げる。夜空は、あの深い闇は、とっくに薄くなっていて、その代わりに邪魔くさい、暑苦しい太陽が山影から顔を見せていて、ペアレントが消失していることが、分かった。

 ペアレントは朝になるといなくなる、そんなことは誰に教えられるまでもなく、わたしたちは感じ取ることができる。だって、ようやく、家に帰ってもいいかなって気分になっている。

 スマートフォンが鳴った。誰からだろうって、考えるまでもないんだ。わたしに電話をかけるようなやつ、世界に二人ぐらいしかいなくって、そのうちの一人は隣で欠伸をしているから、こいつ、大丈夫か?動物園に行くなんて言って、今日は途中で寝ちゃうんじゃないかな。

「どうした。こっちは異常なし。平和そのものだったよ」

 それでさ、わりと楽しかった。ほんとうに、毎晩これでもいいかなってわたしは思う。誰も殺さなくて済むならさ。別に昼間にやるべきことなんて、わたしにはないんだし。夜に寝れなくたって、とくに困りはしないんだよ。

カトリーナはくすりとも笑わないで、そりゃあ、カトリーナは昼間もきちんとした生活をしているらしいから、迷惑なんだろうなって思って、

「エイクラ、消えちゃった」

 カトリーナはそうやって、言ったんだ。

 わたしは、「ああそうかよ」って言ってから、それから、3秒黙って、「そうか」って無言でいたのと大して変わらないような相槌を繰り返して、だって、言うべきことなんてありはしないだろ。

 エイクラのおっさんだって、いつか消えるのが当たり前なんだから、みんないつかは消えてしまうんだから、まぁ、それが、今夜だとは予想していなかったけどさ。

「くーちゃんは?」

「居る、となり」

って、わたしが嘘をつかなかったのは、何を言ったって、今ぐらいは嫌味も言われないだろうって思ったから。カトリーナは、いつもなら、性格が悪そうに、あら、って口を歪めたんだろうけど、今日は素っ気なかった。

「そう、じゃあ、伝えて、今日は終わりだから」

「うん、言われなくても分かってる」

「あなたはいつも通りで良かったわ」

 わたしは反応に困って、軽口くらい叩いた方がいいだろうかって、悩んだら、その間に通話は切られているに決まっているんだ。なんとうなく呟いた「お前こそ」ってそんなせりふは誰にも届かなかった。ひょっとしたら、ちょっとぐらいは、救いになったかもしれないのにさ。そんな訳ないか。そんなんで喜ぶのはくーちゃんぐらいだろ。カトリーナは、もっとちゃんとしてる。

「エイクラのおっさん、消えちまったってよ」

 わたしはそうやって、首を傾げたけれど、じつはさ、それほど悲しいとも感じていなかったんだよね。だってさ。ペアレントに消されるような人間は、どのみち幸せにはなれないようなやつばかりだし、結局は、死にたがっていて、望み通りになっただけだし、でも、ただやるせないんだよね。世界から、顔見知りが一人消えるってのは、空になったペットボトルみたいに、虚しいもんなんだ。

 くーちゃんは、そっか、ってたぶん、よく理解していないんだろう。微妙な顔して呟いていた。

「消えたって、どうして分かるのさ」

「そりゃあ、電話かければすぐだろ。人格が変わっても電話番号は変わらねぇよ」

「でも、信じられないな。だって、エイクラはまだ借りを返していなかったんじゃなかったっけ、それなのに」

「知らねぇよ」

 理由なんてさ、碌なもんじゃねぇんだよ。例えばさ、わたしがくーちゃんのこと好きなのって、ただお前が、基本的にはわたしに優しいから、それで、わたしって誰かに優しくされたことあんまりないから、って、きっとたぶんそれだけなんだ。なんてさ、ほら、下らないだろ。

 物事の理由なんて、おおよそ、つまらないもんなんだ。だから、考えないほうがいい。

「今日、これからどうする?」

 わたしは言う。くーちゃんは、息を吐く。

「動物園は止めようかな。気分じゃなくなっちゃった。日浦もでしょ?」

「ああ、そうだな」

 ってわたしは頷くけど、べつに気分なんて初めから変わっていないんだ。それはさ、エイクラが消えたって、わたしの気分にちっとも影響を与えなかったって訳じゃなく、動物園なんて、最初から乗り気じゃなかったってだけだった。

「代わりにエイクラの喫茶店に行ってみようと思うけど、日浦も来る?」

「うん、行く」

 そうやって、わたしはまたすぐに頷いた。

 だってさ。もう、一人きりで眠れないまま目を瞑っている気分でもなくなっていたから。エイクラの喫茶店なんてさ、行ったところで、楽しくないに決まっているのに。昨日まで仲良く喋っていた誰かが、まったくの別人になって、どころか、こっちのことはまったく忘れてしまって、その癖、外見だけはそっくりそのまま変わらない。

 気分悪いだけだよ。って、教えたってどうせ意味なんてないだろ。だからいいんだ。わたしは、今日、ひとりぼっちでいる気分じゃないって、それだけでさ。ほんとうに、理由なんてしょうもないよな。


 正午に差し掛かろうとしていたところだった。くーちゃんが「行こうか」って、電話をかけてきて、わたしはそれまでに、少しは寝られたかな。

目を瞑ると、今までに消してしまった人間のことと、それから、わたしがいつまで生きていられるかが気になって、なかなか寝付けないんだ。でも、朝ベッドに寝転んでから、電話がなるまでの記憶は飛んでいて、流石に目を閉じたまま、数時間も経った気はしていないから、たぶん、いくらかは眠ったんだろう。

「ちょっと待ってろ」

 わたしは言った、ちょっとっていうのは、たっぷり30分で、だって寝起きだったわけだし、わたしだって色々と準備があるし、ともかく、わたしたちは、家の前で落ち合って、くーちゃんが言った、おはようと、それに対する、一文字だけの、ん、っていう相槌。それ以外には二人ともまったく喋らずに、自転車にまたがって下り坂ばかりの道を流されていった。

喫茶るすは、変わらないでいた。わたしの頭はおかしくなっていなかったから、ブレザーは着ていなかった。明日には7月になるんだ。だからって素直に納得できないくらいには、暑かったな。道の真ん中に、しみみたいに現れたその建物は、古びていて、近くにある立札にはOpenの文字があって、そこに描かれたコーヒーと帽子をかぶった女の人のイラストも何もかも、以前と寸分も変わらないままでいるんだ。

 だから、昨夜の電話も実は、カトリーナの嫌がらせだったんじゃないかなって期待してしまうけど、エイクラだっていつも通りなんじゃないかなって、思ってしまうけど、わたしが何か期待して、望み通りになったことなんて人生で一度もないんだよね。

ドアを押したら、

「いらっしゃいませ」

 どこかの誰かがそう迎えてくれて、その一言だけで十分なのに。あのエイクラは、もうこの世界からいなくなったって、理解できるのに、見た目だけはエイクラそっくりそのままの、あのなにかは、容姿にはまったくもって似つかわしくない、穏やかで、器用な笑みを浮かべているんだ。

 いまにも崩壊しそうな喫茶るすの外観も、アンティークに傾倒しすぎた内装も、店内に流れている時代遅れのクラシックも、それから店の奥の壁が全部ガラス張りになっていることとか、なんにも変わらないのに、マスターだけがてんで別人だなんて、ほんとおかしな話だよな。

 くーちゃんは、気まずそうに頭を掻いて、そりゃあそうだよな、どうしたらいいか分かんなくなるって、

「お二人ですか?」ありきたりな質問にくーちゃんは目を泳がして、そうして、

「知り合いがいて」

 と不愛想に言った。誰がいるか、なんて、考えるまでもない。駐車場には馬鹿みたく目立つ、真っ赤なコンパクトカーが停まっていたから。

 まぁそれに、この繁盛していない喫茶店には他に客なんていなかったからさ。

 それで、ほんとうに、この喫茶店はあいつのために作られたんだなぁって、実感するよな。この街じゃ、どこでも浮きこぼれるはずのカトリーナが、この場所じゃ違和感もなく溶け込んでいるんだ。

 真っ白なワンピースも、きれいな金髪も、エメラルドのネックレスも、この明らかに街にはそぐわない雰囲気の喫茶店じゃ、ごくごく自然で、あいつが佇んでいる姿は、なんだか、テーブルに置かれたコーヒーカップもろともに、絵画にでもなっちまったみたいだった。言い過ぎって訳でもなかったと思う。カトリーナってほんとに、黙ってるだけなら、様になるからさ。

わたしとくーちゃんがテーブル席の向かいに座っても、カトリーナは、しばらくぼんやりとしたままで、まるで時間でも止まってしまったみたいな感じで、わたしが、よぉ、って言っても、しばらくは、反応しなかった。

「あら」

 ふとカトリーナが口角を上げる。相変わらず、きれいで造花みたいな笑い方だとわたしは思う。この笑顔を見るたびにいつも思うんだ。実はお前はさ。とっとと消えちまった方が楽なんじゃないのか。そんな風に作り笑いする人間が幸福になんかなれっこないだろって。

「ずいぶん仲が良いのね。デート?」

 カトリーナは言うんだ。

 さぁ、どうなんだろ。でも、そういう気分でもないのは、くーちゃんのしょんぼりとした顔見れば分かるだろ。相変わらず、無意味な嫌がらせのせりふだった。カトリーナは性悪で、世界で一番性格が終わっていて、その上、この先に幸せにもなれないだろうに、それでも、そんなカトリーナがいなくなっちゃったら、わたしはきっと寂しいんだと思う。

「違いますよ。だったら、もうちょっと場所を選びますし、あなたを見つけたら帰りますし」

「だって、日浦、つれないわね」

 カトリーナがわたしにウインクする。うぜぇ。こんな時でも。くすくすとカトリーナはわたしの頭に響く、眠っているねずみが起きてしまいそうな笑い方をするんだよな。

 カトリーナはふとコーヒーカップに口をつけて、それはとっくに空になっていて、それから、ひょっとしたら、底にビー玉でも入っていたのかもしれない。不思議そうに底を眺めていた。

「お決まりでしょうか」

 やがてエイクラの風貌をした何かが、わざわざ注文を取りに来た。あのお手本みたいな接客スマイルをペンギンが羽をばたつかせているみたいな風に感じてしまうのは、そりゃあ、あの肉体は笑うようにはできていないかったからで、目の下にある深く刻まれた隈はひょっとしたら、一生残り続けるのかもしれなくって、なり替わったそいつにはいい迷惑なんだろうけど、わたしも、きっとくーちゃんもカトリーナだって、あの隈が消えることは望まないだろうな。

「コーヒー三つ」

 そういったカトリーナはエイクラに視線を合わせなかった。お前だってエイクラの様子を見に来たに違いないのに。ぜんぜん興味なんかない風にして、こんなの、コーヒーを一杯飲む間さえ、見ている必要のないもので、お代わりまで頼んで、いったいどうするつもりなんだよ。

 もしかして、ほんとうにさっきまで、時間が止まってしまっていたのかもな。この喫茶店に溶け込んで、そのまま溶け出して、いなくなってしまいたかったのかもしれないな。

「こういうのは、別に珍しいことじゃない。そう思うでしょう?」カトリーナは言う。「はい」って頷いたのは、くーちゃんで、べつにわたしはそうは思わないんだ。

「誰でもいつかは死んでしまって、エイクラはその順番が少し早く回って来ただけ」

「・・・はい」

 それにもわたしは頷かない。だってさ、肉体が生きたまま中身だけ入れ替わっちゃうって、そんなの、わたしたちだけなんだもん。

すぐ近くに、エイクラはいるのに。そいつが淹れたコーヒーを飲んでるのに。

だけど、まぁ、確かに、死んだって以外に表現の方法がないと思うけどさ。

 そのうちに運ばれてきたコーヒーは、ぜんぜん美味しくなかったな。砂糖とミルクを混ぜても、やっぱり苦かったし。コーラが良かったのに、勝手に頼まれちゃったから。それはさ、いつも通りだな。カトリーナがわたしに決まってコーヒーを奢るのは、実は嫌がらせなのかもしれない。まぁ、コーヒーが苦手だってこと、伝えたことはないんだけどさ。もう言う必要もないだろうね。この喫茶店に来るのって、今日が最後だから。

「じゃあ、行くから」

 カトリーナは、丁寧に一万円札を二枚もテーブルに置いて、立ちあがった。それはさ。明らかに払い過ぎの代金は、もう少しここで時間を潰してくれっていう合図みたいなものなんだけど、まぁ、そりゃあ、くーちゃんに、回りくどいやり口なんて、通用しないに決まってるだろ。くーちゃんは馬鹿で、間抜けで、鈍感で、察し悪いんだから。

 ごく当たり前に立ちあがって、一緒に出て行こうとするんだ。わたしは、くーちゃんの手首を掴んで、いちおう引き留めようとしたけど、でも、くーちゃんは不思議そうに首を傾げるばっかりで、ぜんぜん理解しない様子だったから、もうどうだっていいやって思った。だってさ、幼馴染のわたしがぜんぜん気を回してもらえないのに、カトリーナばっかり、都合よく察してもらおうだなんて、虫のいい話なんだよ。

「お会計ですか」

 って、目ざとく見つけてくるような、そのうえ声まで掛けてくるような、できた人間が、大嫌いだ。わたしたちは、もうお前となんか、話すつもりはないのにさ。別れの挨拶さえするつもりはないのにさ。カトリーナは、ウインクをして、「おつりは要らない」って、それだけ告げて、エイクラの形をした何かは、戸惑いに満ちたように眉をあげて、頼むから器用に表情を動かさないで欲しいな。わたしたちには、それが気持ちが悪くてたまらないんだ。

 カマキリのお尻から顔をのぞかせたハリガネムシが、うねうねと動いているような、生理的な嫌悪感とそれから、そのうち、わたしたちも、そう遠くないうちに、ああなるんだろうって、自分の行く末をどうしたって想像してしまうんだ。

 カトリーナは、振り返らずにそのまま喫茶店を出ていって、くーちゃんは、そんなことしなくっていいのに、「ありがとうございました」って深く頭を下げて、でもそれって、いったい誰に向けたお礼なのだろう。あの気持ち悪いやつは、墓石でもなんでもないのに。

ともかく、わたしは何もかもがどうでも良くって、頭の中を空っぽにして、ぼんやりとしたまま、くーちゃんの背中に着いていく。

 カトリーナがドアを押して、ベルが鳴る。外の景色は眩しくって、明らかに暑そうで、わたしはつい、くーちゃんに、ねぇ、もうちょっと、ここに居ない?って言いそうになる。そうした方がいいんだよ。だけどさ、今さらだ。もうとっくに別れの挨拶は済んでいて、この喫茶店には二度と足を踏みいれないと決めたばかりなんだ。

 だからさ。わたしは悪くないよね。だって、この馬鹿みたいに暑い駐車場で、ずっと野ざらしにされている訳にもいかないんだし。

 しかたなく、カトリーナとくーちゃんに続いて、歩いて行った。

「一人にして欲しかったな」

 駐車場の真ん中で、カトリーナは言う。そんなことぐらい、わたしは知っていたけど。くーちゃんは、「え?」って、え、じゃねぇんだよ。そりゃあそうでしょ。エイクラのおっさんとカトリーナって、仲良しだったんだよ。どういう関係かなんて、詮索するつもりもなかったし、今となってはもう確かめることなんか出来ないけどさ。

「ねぇ、お願いがあるの」

 カトリーナはさ。相変わらず、きれいに笑うんだよ。流石にあんまり羨ましくないなぁ、作り物の笑顔がこんな風に上手くなるって、不幸だよ。いつでも微笑めるなんて特技は、やっぱり、幸せに生きる上では不要なものなんだってそう思う。だって、どれだけ辛い思いをしていたって、誰にも気遣ってもらえないだろ。

「今から10分のことは忘れてちょうだい」

 そうやって言うんだ。

 くーちゃんは、ぼーっとした感じで、はいって頷いて、まさか見惚れているってわけじゃあないんだろうけど、まぁ、逆らい難いってのは分かるよ。

カトリーナは、あの笑顔は、超然としていて、女神さまみたいな雰囲気で、わたしだって何でも言うことを聞いちゃいそうで。

それでもう一度、カトリーナがにこりって笑って、でも、わたしは直視することが出来ず、俯いてしまう。

 だってすぐに、カトリーナの顔が歪んだからさ。なぁ、きっとあの顔だけは、私が見た初めてのほんものなんだろうな。ぐしゃって歪んだ、ぶすな表情がさ。

「エイクラがいなくなっちゃったよう」

 それから先の言葉は、嗚咽にまみれていたせいで、よく聞き取れなかったな。わたしよりも、5つ以上も年上の人間がさぁ。目を真っ赤にして、拳を握りしめて、全然声をはばかる様子もなく、泣いているんだよな。

「うわぁぁぁん」

 くーちゃんは、ねぇ、なんにも言えないよね。こんなときに適切な励ましの言葉なんて、きっと、世界には存在しないからさ。もう、どうしようもないんだよ。だからさ、カトリーナに頼まれたように、くーちゃんが了承したように、見た端から忘れてやることぐらいしか、わたしたちには出来やしないんだ。

 カトリーナはさ。たまに鼻をすすったり、それから、たまに目を擦って、でもその間はずっと涙をこぼしていた。その時間が10分より長かったのか、それとも短かったのか、そんなのは大して重要じゃないんだよな。

 カトリーナはちゃんと泣き止んだんだから。さっきまでの出来事は、なかったように、その癖、目を真っ赤に染めながら、人形みたいにきれいな、だから作りものに決まっている笑みを浮かべているのだ。

「ねぇ、今夜のペアレントを倒すのはわたしに譲ってくれない?」

 いったいどんな意味があるっていうんだろう。ペアレントはべつにエイクラを消したかったわけでもないに決まっていて、エイクラだって、発現もせずに、望んでいなくなってしまったに決まっていて。

「意味ねぇだろ。そんなの」

 つい、そう答えたのはわたしで、カトリーナはぜんぜん気にしていない風に、いつものように、くすくすと笑っていた。

「私の気が晴れるって、それ以上に意味なんか必要?」

 そんなの分かんねぇよ。だけどさ、お前、かたき討ちの真似事みたいなことして、満足しちゃったら、わざわざそんな風に、厄介な性格と付き合いながら、生活していく理由もなくなっちゃうんじゃないのか?

 くーちゃんは、どうせ何にも考えていないんだろうな。

「いいですよ」

 って、すげぇ深刻そうに頷いて、わたしはちょっとだけ頭が痛くなる。

「ありがとう、今夜はきっと早く眠れるわ。ああでも、あなたたちには不都合かしら、夜だけじゃあ足りなくって、昼間まで一緒にいるぐらいだし」

 そう答えたカトリーナは、もう完全にもと通りだ。瞳には他人を小ばかにするような色が宿っていて、いつまでもこの世界に生き残っていてくれそうな気がして、性悪で罪の意識など感じたことが無いように見えて、だけど、それは一人きりの時も同じなのかな。

 もう一生分からないかもしれないな。こいつが本音を書いた便箋を渡す相手はいなくなっちまったんだからさ。


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