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 わたしは毛布にくるまって、あの瞬間を待っている。でも決して心待ちにしているって感じではなくて、目覚まし時計のアラームをセットした5分前に目が覚めてしまったような、落ち着かない感じで、ぼんやりとしている。二度寝にも微妙だし、かといって起きるには勿体ない。そういう感じ。ただ寝転んで、ぼーっと、忌々しくデジタル時計の数字を眺めている。

 わたしはそんな風にして、もう30分も時間を無駄にしていた。だって、何をする気にもなれないから。いつも決まった時間ってわけでもないのが、よくないんだよな。ひょっとして、解放されたんじゃないかなって、裏切られるに決まっている期待を抱いちゃうから、今が何時何分なのか、すごく気になってしまう。

 で、来た。今夜は0時4分だった。すぐに分かる。だって、わたしが発狂するときと同じような気配が襲い掛かってきている。頭の奥に棲んでいる何かが、ねずみとは違う何かが、忙しなく、動き回り始めている。

 そうすると、そいつに脳みそをかき回されたわたしは、前後左右何もかもが分からなくなって、吐き気がして、頭痛もして、意識だけは身体から浮き上がって、それなのに身体はひとりでに動き始めて、制服のブレザーに袖を通すことは、習慣になっているみたいで、そうして、気づけば肉体は家の外へ、この殺風景な夜景の住宅街に放り出されている。

 晴れていた。近くにある製紙工場が明るいせいで、ろくに星も浮かべないこの街の夜空に、月だけは、はっきりと存在を示していて、でも昨日からいまだに半月にも満ちないあのかたちは、噛み続けたガムみたいに味気のないこの街のように、すごくつまらない。

 ともかく、わたしは、くーちゃんの家に足を運ぶことにする。だってあいつも、同じ目に合っているに違いないから。

 くーちゃんは、ちょっとはわたしの気持ちを理解しただろうか。こんな風にさ、ままならないんだよ。どうにも。自分が自分でなくなっちゃうんだ。ねぇ、たまったものじゃないでしょ。あのね、くーちゃん。わたしさ。ずっと苦しかったんだ。朝も昼も夜も変わらずにさ。

 30秒も歩かなかった。だって、隣の隣。くーちゃんの家って、あいだに家一つ挟んだだけだから。

押しなべて似たような家ばかりの街だから。くーちゃんの家だってシルエットはわたしの家とほとんど変わらない。そうしてわたしはポストの下にあった表札をじっと睨んだ。

相変わらず、変なかたちの文字だ。

こんな象形文字みたいなのが、日本語だってのは、今になっても信じられない。読めっこないよね。これ不便じゃないのかな。まぁ、べつにいいや。くーちゃんはくーちゃんなんだから。他の呼び方を覚える必要なんて、わたしにはないのだから。

 しばらくして、玄関から出てきたくーちゃんは、真っ青な顔をしていた。ざまぁみろ。って思えたのはちょっとだけ、なんかさ、いたたまれなかった。わたしも、絶叫した後は、いつもあんな顔してるのかな、それで、くーちゃんは、そんなわたしを嬉しそうに、きらきらした瞳で、無邪気に覗いているのかな。だったら、くーちゃんはすごく残酷なやつに思えた。そんな奴は、今すぐにでも消えちゃった方が世界のためだと思う。

「よぉ、結構粘ったみたいだな。気分はどうだ」

 わたしがそういうと、くーちゃんは大きく息を吐いて、「さいこうの気分」ってそんな訳ないのに。すごい汗だもん。くーちゃん、もう死んじゃいそうな顔してるじゃん。

 わたしは、なんだか可笑しくて口を曲げる。そういう風に笑えたのは久しぶりで、だから、うまくいかない、きっと小馬鹿にしているように見えたんだろうな。違うんだよ。わたしは、つまらない冗談を窘めるお姉さんみたいに、カトリーナが良くやるように、きれいに笑いたかったんだ。まぁ、そんなの似合わないんだろうけどさ。

「おい、昼間言ってたよな。奢ってくれるんだろ? のみもの」

 わたしは無表情にそういって、くーちゃんは眉間をつまんでいて、たぶん、まだ頭痛が収まっていないのだろうけど、まぶたをきつく閉じていて、ともかく、すごく重苦しくため息をついた。

「今からだと、自販機か、コンビニ。そんなのでいいの?一応、命の恩だけどさ」

 ってそんな風に言うんだ。

「あ、飲み物って、他に何かあるか?」

「だから、どこでもいいんだけどさ」

 くーちゃんはどこかつまらなそうに言って、

ひょっとして、それって、デートのお誘いみたいなもの、なのかな。どうもくーちゃんは、いまだにわたしのことを嫌いになっていないみたいだし、少なくとも、わざわざ好き好んで、わたしをどこかに連れ出そうとするぐらいには。って、そう察することも出来ないほどには、わたしは鈍くもなくって、それは悪い気分はしなくって、でも、わたしは我ながらびっくりするぐらいに素直じゃないから、口からは意地悪な言葉しか出てこないのだ。

「べつにいいよ。明日も、その次も奢ってもらうからさ」

 それだけ言えば十分だろう。くーちゃんは、こいつって、ほんと馬鹿なんだと思うけど、でも頭の回転が鈍いわけじゃないんだと思うんだよね。

だから、まぁ、察してくれたと思う。今のは、明日も遊ぼうよってことじゃなくて、くーちゃんは明日も同じ風に、夜になれば、どこかの誰か、ひょっとしたら神さまとか、わたしたちの力の及ばない何かに頭の中をぐちゃぐちゃにされちゃうんだよって、そうして、夜には無理矢理に家の外に連れ去られるんだよって、ただそういう、嫌がらせみたいな忠告なんだってこと。

 わたしに言われるまでもなく、だってもう、少なくとも二回目なのだろうから、うすうす感づいていたのか、くーちゃんは「なるほどね」って、それだけ呟いて、べつに落ち込んでもいない風な口調だったけど、でも、やっぱり顔には出ちゃうんだ。靴ひもがほどけてしまったときみたいな、あからさまに、うんざりした顔してたな。

「じゃあ、行こうか」わたしは言う。くーちゃんは、うん、って小さく頷いた。


 わたしたちの家の通りから歩いて五分もしないところにバス停があって、そのバス停には、一日に三本しかバスはやってこなくって、ほとんど数字が記されていない時刻表は、封を開けたばかりの方眼用紙みたいにまっさらで、あんまり人気のないこの場所は、なんだか、廃墟みたいな雰囲気なんだけど、でも自販機が置いてあって、青いペンキの剝がれかけた木製のベンチもあって、待合室には一応屋根もあるから、バスになんて乗ったことはないけど、まぁ、雨宿りぐらいには使えるし、待ち合わせの目印にしたり、時間を潰すには、そんなには悪くない場所なのだ。

そこで、くーちゃんにペプシコーラを買ってもらった。

くーちゃんは自販機のボタンの同じところを二回押して、ペットボトルが二つ落ちてきて、そのうちの一つをわたしに手渡してくれた。ありがとう、ってお礼ぐらいはするべきだと思っていたのに、意味もなく、ラベルの成分表に目を凝らしているうちに、わたしというやつは、つい言いそびれてしまっている。

ぜんぜん重くもないはずのわたしが、座っただけなのに、このベンチは、失礼なくらいに軋む。それがちょっと不快だ。くーちゃんは隣に立っていて、どこか遠くを見つめている。座ったら、とは言いにくかった。だって、このベンチ壊れちゃいそうだったし、だからってわたしが立って、くーちゃんが座ってるのもなんか変だと思うし。

それからしばらく、わたしたちはぼんやりしていて、そろって同じ方向を見つめていた。この辺りは、もの寂しい。バス停から二車線道路を挟んだ向こう側には、駐車場があって、そこには車を止めるための白線がぼんやりと見えて、奥にフェンスがあって、それより先は本当に何にもなくって、真っ暗闇。

二人して、何でそんなとこ見てるんだろうね。なんていうか本当はわたし、この辺りを巡回して、ペアレントを探さなきゃいけないんだけどさ。さぼってて、くーちゃんは、ふぅ、って小さく息を吐き出して、それから言った。

「昼間さ。ぼくは、関わるつもりがないって言ったけど、それはやっぱり無理なのかな」

 わたしは、返事をしようとして、声が出ないことにことに気が付いた。ずっと黙っていたせいかな。ペットボトルのキャップを開けて、ペプシコーラを一口だけ飲んで、それからのどのチューニングでもするみたいに咳払いをして、うん。喋れそうだ。

「ああ、お前はもうとっくに逃げられないぜ。深夜になったら、わたしたちはあの怪人を探して、この街をうろつかなきゃいけないんだ」

「ばーか」最後に余計な悪態を付け加える。左ほおを吊り上げた皮肉っぽい笑みは、きっと自分にも向けられている。残念なことに、逃げられないのは、わたしも一緒なのだから。

 くーちゃんは、腕組みをして、相変わらず、まだどこか遠く、真っ暗闇を、つまりは何にもない空間を眺めていた。

「毎晩?」

 って、それはまぁ、悪くない質問だったけど、わざわざ聞くようなことでもないよね。どうせ、そのうちに嫌でも知ることなんだから。

「いや、土日はないな。こんな風に外に出たくなっちゃうのは平日だけ」

 へぇ、ってくーちゃんは、淡白に相槌を打って、それ以上には何にも聞いてこなかった。べつに疑問もないらしい。いったい、どういう仕組みなのか不思議に思ってしまうのは、わたしだけなのかな。だっておかしいじゃん。土日が休みなんて人間が決めたことで、だったら、このよく分かんないのも、誰か決めたやつがいるのかなって、思ったりするのだ。

「日浦はいつからこんな生活続けてるの?」

「三年前、中学に入ってすぐ」

「学校に来なくなったのも、これのせい?」

「ああもう、うるさいな」

 くーちゃんは、なんでそんな風に、どうでもいいことばっか、聞くんだろう。もっとさ、あると思うんだよ。ショットガンとか怪人とか、家への帰り方とか。知らなきゃいけないことがさ。だって、平日の夜に眠れなくなるって、ただそれだけで、一般的な人間の生活は奪われちゃうんだよ。くだらない質問している場合じゃないと思うんだよね。

「そりゃ、ちょっとは関係あるさ。わたしは夜ろくに寝れねぇんだからよ」

 舌打ち交じりに答えると、くーちゃんは、「よかった」って心から安心したような顔しやがるんだ。相変わらず、よく表情に出るから、嘘じゃないんだろうねって、嫌でも分かってしまう。

「日浦は、ぼくの顔を見るのがいやで、学校に来るのをやめたんだと、そう思ってたんだ」

 そうやって、くーちゃんは照れくさそうに頭を掻いた。

 もう本当にわたしは、いらいらし始めている。そりゃあさ、お前が付き合ってくれなんて、意味わかんないことを言ってきた次の日から、わたしは不登校になったから、勘違いするのかもしれないけどさ。それをいい機会だと思ったのも間違いないんだけどさ。いま聞くことなのかな。

 くーちゃんの人生は昨日、最悪の方向に進んじゃったってのに。理不尽に取り返しが効かないところに連れてこられたってのに。ねぇ、くーちゃんってほんとうに馬鹿なんだと、わたしは心から思うよ。

 わたしは、くーちゃんにも、ちゃんと聞こえるように、舌打ちをした。

 ちっ。辺りは静かだし、よく響いたと思う。

「自意識過剰。どうでも良かったんだ。お前のことなんて」

 そう言っても、「うん」って、くーちゃんはぜんぜん嫌そうでもなく頷いて、もうわたしは、どうでもよくなってきてしまうのだ。

それでさ。いっそのこと、くーちゃんは、この生活のこと何にも知らなくていいやって、そう思ったのだ。そうやって馬鹿みたいに、にこにこしてくれてたほうが、たぶんわたしだって気が楽に違いないんだから。

 いつまでもなんて、そんな訳にはいかないに決まっているけど、でも、当分の間はさ。

 だから、もうわたしは何にも言わなかった。気が向けば、ペットボトルを傾けて、ペプシコーラを飲んで、それから、くーちゃんがたまに、つまんないこと話し始めるから、ぜんぜん心のこもっていない相槌を打った。

いやね、くーちゃんの好きな漫画の話とかされてもさ、わたしには分かんないんだよね。というかこいつ、こんな状況でも、ちっとも困った様子がないのは、いったいどんな神経をしてるんだろう。

ふと、スマートフォンが振動をし始めて、着信音を鳴らして。こんな時間に、こんな時間でなくても、わたしに電話をかけてくる奴なんてカトリーナ以外にいるはずもなくって。

 それで、ああ、もう今夜は終わったんだなって、ようやく気付いたんだ。

 わたしたちの頭の中に潜む得体のしれない何かは、姿をくらませている。

 どこかで誰かがペアレントを倒したんだ。だから、わたしはもういつだって帰れたはずなのに、それに気づきもしなかったってことは、わたしはべつに帰りたいとも思っていなかったみたいで。なんかさ、あんがい楽しんでたんだなって、ほんと馬鹿みたいで、嫌になったよ。

 くーちゃんは眉を上げた。手に持っていたペットボトルをふわりと投げ上げて、それはとっく空になっていたみたいで、それから手のひらを差し出して、「捨ててくる」って言って、わたしのも随分と前に空っぽになっていて、そこにペットボトルを置くと、くーちゃんはわたしに背中を向けた。

たぶん気を遣ったのだと思うけど。べつに聞いていたって構わないのに。相手はどうせカトリーナなんだから。聞かれて困る話なんかないんだから。つーかさ。ことわりもなく勝手にどっか行くなよ。わたしはいま、すげぇ憂鬱な気分なのにさ。

わたしはしょうがないから、着信音を止めて、スマートフォンを耳に当てた。

「日浦、今夜は掛けてこなかったのね」

 カトリーナは真っ先にそう言ったんだ。

「ああ、今日は早かったな」

わたしは出来るだけ無感情に答えた。どんな風に苛められるんだろうな。もう今日は一回キレちまったんだし。二回目は嫌だな。あの絶叫は、喉も痛いし、暴れるわたしは、全身の筋肉を好き勝手に無理させているみたいで、身体のほうが持たないんだよね。

「くーちゃんとのお喋りは楽しかった?」

 明らかに余計なお世話。ほんとさ。こいつわざわざ、何の用なんだろう。ってそんな文句は流石にお門違いだって分かってる。いつものことだから。カトリーナは毎晩、夜が終わった後には連絡を入れるんだ。

「べつに」

「べつにって、ちゃんと色々説明してあげたんでしょうね」

「してない」

「え? くーちゃんは発現もしてなかったんでしょ。それぐらいは」

「ぜんぜん、ただ駄弁ってただけだ。やっぱり苦手だ。こういうの。だから明日、お前に任せるよ。得意だろ」

 カトリーナはくすくす笑って、ああ、こういう時のこいつの顔は、見えなくたって、声だけだって、簡単に目に浮かぶ。にんまりと、口裂け女みたいに、薄気味悪いくらいに、口を歪めているに違いないんだ。

「ええ、分かったわ。お望み通り、あなたの愛しのくーちゃんに、死にたくない、って思わせてあげる」

 ほんとに嫌な言い方するんだ。望みでもないし、愛しでもないし、それでも間違いなく、明日、くーちゃんはカトリーナに酷い目に合わされるんだろうな。それでさ、死ぬ寸前まで追い詰められても、くーちゃんはひょっとして、発現なんかしないかもしれないんだ。なんか、そんな予感がするんだ。

「日浦。くーちゃんって、あなたの初恋の男の子だったのね。ねぇ、言った通り、勝手に調べたの」

 そういったカトリーナは一体どうやって、わたしだけが使っていたあだ名から、くーちゃんがどんな人間かってことに辿り着けたんだろうな。でも、そんなのも、いつものことで、べつに驚くこともないのだ。

「違う、やめてくれよ」

 そうやって、反射的に口にしちゃって、しまったな、と思う。

 やめてくれ、なんてせりふはカトリーナには、逆効果に決まっているんだ。たぶん、疲れていたせいだろう。今日は学校なんか行って、それから、久しぶりに絶叫してしまっていて、調子が悪かったんだ。

「何がかしら、やけに嫌がるじゃない」

 ほら、やたら嬉しそうな声しやがって。

「なぁ、うざったいだろ。そんな風に最初っから、色恋沙汰にされてもさ。ただの幼馴染なんだよ。ほんとに」

「はいはい。どうでしょうね。実際、浮かれて、くーちゃんには、何にも言えなかったくせに、ああ、もしかして嫌われるのが怖かった?」

「んな訳ないだろ」

「じゃあ、何なの?それだけ時間を貰って、何も教えなかったって、他にどんな理由があるの 」

 さぁ、知らねぇよ。心の中で呟いたわたしは息を吐くだけで黙っている。カトリーナの質問に、いちいち答えてやる必要なんて、あるはずもないんだ。

「なんでもいいけど、明日は楽しみね」

 ぴりぴりと頭の奥のねずみが駆けずり回り始めていた。わたしは、首を曲げて、眉間を抑える。我慢しなきゃ。カトリーナはただ適当に喋っているだけなんだ。どんなせりふが、わたしに一番効果的なのかって、試験管に薬品でも垂らすように言葉を投げかけて、注意深く観察しているだけなんだから。カトリーナの言葉には意図なんてなくって、結局全部、雑音みたいなものなんだから。

「ひとつめ、くーちゃんにね。この数年のあなたの情けなさを教えてあげるの。どれだけ泣きべそをかいてきたかと、それから、ずっと一人ぼっちを怖がってたこと。いいわよね。だって、これからあなたの面倒を見るのは、たぶん、くーちゃんなんだから、ちゃんと、伝えてあげないと、あなたを一人にしないでねって」

 そりゃどうも、あいにく、余計なお世話だよ。出来ればやめて欲しいけど。そんなお願いは無意味だって知っている。ただの嫌がらせだもんな。ああもう、お前って、まじで腐った性格してるよ。さっさとペアレントに喰われちまえばいいんだ。ほんとにさ。

「それからね」

 カトリーナは続ける。

「くーちゃんにね。死んだほうがましだと思わせてあげるの。ねぇ、日浦知ってる?人間はね。自ら死を選ぶ前には必ず、死にたくないって、そういうきれいな思考を中継するのよ。ああほんとうに愉しみ。くーちゃんは、ほんとうに辛いとき、どんな顔するんだろう。日浦、あなたのおかげ、あなたがもたもたしていたから、わたしは愉しめるの」

 そんなこけおどしもさ。べつに問題なかったよ。くーちゃんが発現しねぇのは、あいつのせいだし。たださ、カトリーナの得意げな口調が鼻につくから、ほんとに恍惚とした顔してるんだろうから、うぜぇなぁって、そりゃ誰だって思うだろ。

 そう思ったらさ、もうわたしは駄目なんだ。頭の中がおかしくなってしまっているんだ。ねずみが暴れていやがる。駄目なのに。もう抑えられそうにない。身体と感情を制御する権利はわたしからあっという間に失われていって、ぴくりって左眉がつりあがって、くーちゃんは、未だにごみ箱の辺りで、ぼんやりしてた。わたしの意識はとっくに身体から分離して、宙に漂っていて、あたりの様子を俯瞰していたから、よく見えたんだ。

「あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝あああああ」

 わたしの身体から絶叫が聞こえる。さいあくだ。通話はまだ切れていなかった。カトリーナにも届いちまったと思う。だから、あいつは今のせりふに二重丸を付けたに違いなくって、明日、わたしに嫌がらせするためだけに、わたしを発狂させるためだけに、くーちゃんに必要以上に酷いことするのかもしれない。そうなったら、それは流石にわたしのせいなのかな。

 ねぇ、わたし。いい加減にしてくれよ。「〝あ〝あ〝あ」って、叫ぶ声も、今日はもう二回目で、掠れているじゃん。でも、たとえのどが枯れ果ててしまっても、わたしは叫ぶのを止めてくれないんだろうな。わたしは身体を弓なりにして、夜空に向かって、まるで狼みたいに遠吠えをして、それから、さっきまで座っていたベンチを蹴飛ばして、ぱらぱらと木片が舞って、おんぼろとはいえ、わたしにそれを砕けるほどの脚力があるとは思えないから、肉体は信じられないくらい無理をしているに違いないのに、まだ満足していないらしくって、もう一回ベンチを蹴って、叫んで、わたしはふらついていて、平衡感覚を失っているらしくって、もうくたばりかけみたいな感じで、そういうはた迷惑なタイミングでわたしの意識は舞い戻っていく。

 ああ痛い。全身が痛くてたまらない。

 わたしは立っていられなくって、うずくまって、まぶたをきつく閉じる。

 ああもう。ほんとうにさ。ままならないんだ。頭が痛い。身体もやっぱり無理をしていた。腕と足がまだくっついているのが、不思議なくらいで、わたしはぎりぎりつながっているに違いないそれらを、なんとか操って、死にかけのなめくじみたいに、身体をひきずって、ベンチに座って、項垂れる。少し遅れて、背中から脂汗滲んできて、もう、ほんとうに気分が悪い。こみ上げる吐き気を必死に抑えて、ただ呼吸が整うのをずっと待っている。

 くーちゃんは。あれ、今回は嬉しそうにはしないんだね。何が気に召さなかったのかは知らないけれど。やたらと深刻そうに、わたしを見下ろしていた。

「日浦を、わざわざ怒らせるなんて、物好きなやつだね」

 だって。

くーちゃんにそのせりふを言う資格はないと思うな。くーちゃんだって、ていうか、普段はくーちゃんが一番物好きだと思うけど。でもまぁ、その通りだよね。

「ああ、カトリーナってくそ野郎がいてさ。ペアレントはそいつが倒したから、もう今夜はおしまいだ。いつだって帰れる。よかったな」

 ふぅん。くーちゃんはいつもの、大して興味もなさそうな、相槌を打って、それから、わたしに向かって手を伸ばしていた。そのままわたしに触れて、ああ背中を撫でられているんだ、そう気づくのに、しばらく時間がかかって、そのままにさせていたんだけど、ふと「触るな」ってわたしは言っていた。

「あ、ごめん。つい。日浦、今にも吐きそうだし」

 なんて、くーちゃんはあっさりと手を引いた。謝まるなよな。くーちゃんはべつに悪くないよ。ぜんぜん悪くないのに。ねぇ、明日はさ。ううん。これからはさ。この世界から消えてしまうまで、ずっと、理不尽にひどい目に合っちゃうんだよ。

 わたしは深呼吸して、顔を上げて、まだ鈍痛を残している身体に鞭を打って、立ちあがり、ふらふらと歩いて、夜空に浮かんだあのつまんない形の月を捕まえるように、手を伸ばした。

発現するときに、そうしなきゃいけないって、決まりはないんだけど、でもさ、そうすると、不思議とわたしは手のひらが輝き始めて、発現できるんだよな。なんでだろ。分かんないけど。でもたぶん、わたしが消えるのは、曇っているか、それとも新月の夜なんだろうなって思うんだ。だって、月さえない夜空を眺めて、明日も生きようって気分にはならないに決まっているだろ。

 やがて、真っ白な光が手のひらを包む。その光は眩くて強烈で、けれど、決して眩しくはないんだ。

 その光が形を成すと、真っ黒なショットガンが現れて、振り返ると、くーちゃんは、手品でも見たみたいに、「日浦、それ凄いね」って、昨日と似たようなせりふを繰り返す。だからさ、お前にも出来るはずなんだって。

「黙れよ」

 わたしはそう言って、ショットガンの銃口をくーちゃんに向けた。こいつはやっぱり、困った顔さえもしないで、わたしの瞳をじっと覗いてくる。さっきまで、わたしが絶叫して、暴れてたの、忘れちゃったのかな。いつまでも、わたしの頭の中のねずみが大人しくしてくれている保証なんて、あるはずもなくって、そうなったら、このショットガンには安全装置なんて、ついていないんだから、くーちゃんはたぶんあっけなく死んじゃうのに。

 くーちゃんの首元に銃口を触れさせて、ぐりぐりと脅かすようにして、押し込んでやると、くーちゃんは、煩わしそうに顔はしかめるんだけど、それでも、いつまでたっても、死にたくないとも、生きたいとも願わないんだ。

そう願うだけで、ごく簡単に光り輝くはずのくーちゃんの手のひらは、いつまでたっても、だんまりでいる。ねぇ、ちょっとは怖がったほうがいいよ。ひょっとして、死ぬはずがないなんて、勘違いしているのかな。だったらやっぱり一回はぶん殴ってやらなきゃ。身体を傷つけられたら、痛いんだよって、そんな馬鹿なことを教えてあげなきゃいけないのかな。

「なぁ、お前、明日はどうするんだ?」

 わたしは聞く。くーちゃんは、ようやくわたしから視線を外して、夜空を見上げた。

「さぁ、何事もなきゃ、学校に行くんじゃないかな?」

 ってどうでも良さそうに言うんだ。

何事も、だって。いまここで撃たれなきゃってことかな。べつにさ、わたしは不登校だから、分からないけど。取り立てて、面白い場所でもないんだろうな。だってくーちゃん、死にたくないって思いやしない。だから、そんな場所、行けなくなっても、大して惜しいとも感じていないんだろうな。

「つまらないんだろ。そんなの。辞めちまえよ。どうせもう普通の人生なんてお前には訪れないんだしさ。この機会に、なんか他にしたいこととか、ないのかよ」

 そう言うと、くーちゃんは、むー、って感じで鼻にしわを寄せてた。しばらくはそんな風に、考え込んでて、そうして不意に、

「ああ、じゃあ、動物園に行きたいかも。象とキリンが見たいな。ぼくはまだ、見たことなくってさ。こんな街に住んでいるせいかな。縁がないんだ。日浦も一緒にどう?」

 なんて、馬鹿みたいなことをくーちゃんは大まじめに言った。わたしはため息をついて、「行かねぇよ、馬鹿」って答えた。

 くーちゃんは、ちょっとだけ口を尖らせて、「だよね」って。

 べつにね。嫌ってわけじゃないんだよ。くーちゃんと動物園に行くのはさ。どっちかっていうと、ううん。べつに行きたくもないかな。どうだっていい。場所がどこでもそれは変わらないな。でもさ、そんなのは、完全に死を受け入れた人間の言いだしそうなことじゃん。ノートにやり残したことを書き出していって、その一つに線を引いたみたいな答えだろ。わたしが聞き出したかったのはさ、どうしたら悔いなく死ねるのかって話なんかじゃなくて、どうしたらくーちゃんは死にたくなくなるのかってことなんだよ。

 少なくとも、お前は頭の中に、ねずみなんて飼ってないんだから。そいつが、事あるごとに暴れまわるってわけじゃないんだから、こんな風に夜に眠れなくなる前から、日常生活さえも、ままならなかったわたしとは違って、なんだって出来るだろ。

「なぁ、お前、いったい何考えてんだよ。文句の一つも言わないで、ぜんぶ受け入れるなよ。お前はさ。何にも悪いことしてないよ。だからさ、ごく普通に生きれば、そのうちに幸せになるはずだったのに。もうそんな可能性は奪われちまって、理不尽に、ひどい目に合うのにさ」

 くーちゃんには、わたしの言いたいことの半分も伝わらなかっただろうな。そりゃあな。だってわたし、この生活のこと、ほとんど何にも説明していないんだからさ。

「じゃあ、言うけど」

 くーちゃんは、そういって、わたしを睨んだんだ。

「撃たないなら、銃下ろしてよ」

 わたしは下唇を噛んだ。こいつはさ。ほんとうは撃ってほしいんじゃないのか。そんな風に挑発して。なぁ。でもさ。わたしはくーちゃんの目をまともにみれなくなってしまって、俯いた。おかしいよな。いまわたしは指先一つでくーちゃんのことなんか殺せるのに、それでも、なんか怖くてさ。

 くーちゃんの言う通り、ぜんぜん撃つ気なんかないのに、ほんと子供みたいに意地を張って、ショットガンはまだ構えていたけど、指先は引き金に触れてさえいなかった。

ああ、今夜わたしはもう、使い物にならなそうだな。完全にしょげちゃってる。気を抜いたら、泣きべそさえかきかねなくって、でも、くーちゃんをこのままカトリーナに引き渡したら、明日はもっと使い物にならなくなっちゃうだろう。

 カトリーナは、わたしに目をそらすことも許さないだろうな。わたしが泣いちゃっても、喚いても、くーちゃんを苛め続けるんだろう。

「明日はわたしも学校に行こうかな」

 って、だからわたしは、仕方なくそう言った。しょせんは問題の先送りに過ぎないんだけどさ。まぁ、夜までは時間があるわけだし。この馬鹿にやる気を出させるのは、昼間でもいいかなって、だって、いまわたしの頭はちょっとも回っていないわけだし。

「いいと思う。来なよ」

くーちゃんは、どうせわたしの気持ちなんて、ちっとも理解していない癖に、簡単に言うから、流石にむかついて、目線を上げると、すげぇいい顔しているから、力が抜けて、ショットガンもいつの間にか、わたしの手から滑り落ちて、夜闇に消え失せていて。

 それから、くーちゃんの右手が淡く光っていたんだ。

 発現はいつだって、きれいだと思う。あの白くて眩い光が、黒く物騒なショットガンに変化してしまうのが、惜しいと思うぐらいにはさ。。

 くーちゃんは、「あ」って驚いたように声を漏らしていた。わたしはもう呆れてしまって、それから、質の悪いことに、また頭の左奥がひりつき始めているの感じていた。

「そのショットガン、明日も生きていたいって願ったらさ、出てくるんだよ。発現ってわたしたちは呼んでる」

「すごい、これ、こんなに軽いんだ」

 わたしの声。ちゃんと聞いてるのかな?クリスマスプレゼントを貰った、小学生みたいに、そんな風に、ショットガンを眺めてさ。ペアレントに襲われているときも、わたしが脅かしても、たった一度も死にたくないって考えなかったくーちゃんは、どうして、わたしが学校に行くって言っただけで、発現しちゃうのかな。

 ああ、ねずみが騒ぎ始めている。

 ねぇ、くーちゃん。そんなにわたしのことが好きなの? だったらほんとうに、不登校になってからの、わたしのこの2年はなんだったんだろう。2年前には、今頃にはもうとっくに消えちゃう予定で、でも、なんとか耐えてしまって、その間は苦しいだけだったのに、たとえば、あの日にわたしが、いいよ、って頷くだけで、ほんとうはもう少しましになったのかな。わたしは意味もなく一人ぼっちでいただけなのかな。

「ああ、日浦、そういえば日浦って何組なの?」

 くーちゃんが喋っている。

「4組」わたしは辛うじて答えて、頭の左側がうずいて、つまり、ねずみはどうしようもなく駆けずり回っていて、左手でこめかみを抑えた。顔の筋肉が引きつって、ああ、駄目だ。今はちょっと嫌なのにな。ほんとうに上手くいかないな。

そうして、左眉が、ぴくりって跳ね上がった。

「あ〝あ〝あ〝あ〝あ〝ああああああああああああああああああああああああああああ」

絶叫。わたしの意識は宙に浮き上がる。

だから、あの暴れている身体は空っぽになっている。

くーちゃんは、わたしの発狂には慣れてしまっているのかもしれない。ちゃんと距離をとって、巻き込まれないようにしていた。

それでさ、わたし、やっぱりくーちゃんのことが理解できないよ。どうしてそんな風に、嬉しそうな顔が出来るのかな。ひどいよね、ほんとにさ。

わたしの身体は、手あたり次第、八つ当たりできるものを探しているようで、一番手近だったのは、やっぱりあの壊れかけのベンチだったみたいで、それをわたしは思い切り蹴飛ばしている。がきんって鈍い音が響いて、さっき端が欠けただけだった背もたれの、左半分は今度こそ完全に砕け散って、今日三回もわたしの身体は無理をしているんだ。流石に限界みたいで、たったそれだけで、ねずみも大人しくなって、わたしの意識は身体の中に納まっていく。

そうして、いつもと変わらず、ひどい頭痛だ。あまりにも痛くって、ちょっとでも気を抜いたらわたしは倒れてしまいそうで、ふらふらと数歩よろめいて、くーちゃんが寄ってきて。

「大丈夫?最近はなかったって言っていたのに、今日はもう三回目、昔よりひどくない?」こいつはさ、まったく心配している奴の顔じゃないんだ。なぁ、今日わたしがこんな

風になったのは全部お前のせいなんだけどな。

「近寄るな」

 わたしはそれだけ言って、咳き込んだ。何か生暖かい液体があごをつたっている。まさか血じゃないとは思うけど、涎とかだろうな。それじゃあ格好もつかないや。拭おうにも腕さえ上がらないんだ。辛うじて、足は前に進んだ。ほんとうにわたしはゾンビみたいに、身体中が腐ってしまったように、手をだらりとぶら下げて、足を引きずって、とにかく家に向かって歩いている。だって、ともかく今日はもう帰れるんだからさ。

 近寄るなって言うのに。くーちゃんはわたしの腕をつかんで、ゆっくりと引っ張ってくれていて、まぁ、助かったよ。それがなきゃ、わたしは途中でぶっ倒れていたかもしれないしね。でも、たぶん、わたしはずっと寝ていなかった時みたいに、ひどい顔をしていただろうから、あんまりこっちを見ないでいてくれてたら、いいなって思ったよ。家に着くまで、ずっと下向いてたから、くーちゃんがどこを見てたか、ひょっとして、ずっと瞳をきらきらさせていたのかもしれないけど、実際のところは分からないな。



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