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朝に制服を着て、家の外に出て、その上に学校に行くような羽目に会うような日は、わたしの残りわずかな人生には二度と訪れないものだと思っていた。そうなったのは、だいたいはカトリーナのせいだし、くーちゃんのせいだし、けれど、最後に決断したのは、他の誰でもなくわたしなのだ。
「さっきの、あなたが叫んでた、くーちゃんって知り合いなの?」
「家が近くて、年が同じ」
「男の子?女の子? その子って可愛い?」
「さぁ、どうかな」
「ふぅん。そんな態度とるんだ。へぇ、興味わいてきちゃった。いいわ、勝手に調べておくから」
って、この女、わたしが嫌がりそうなことには、すごく鼻が利くんだよね。どうせ、そのうち、気分が悪くなるまで、からかわれるんだろうな、カトリーナの嘲笑と、それから、その予感だけでひりつき始めているわたしの頭の奥のほう。わたしがそのうち発狂しちゃうのは、決まり切った未来に思えて、ちょっぴり気が重い。
ともかく、わたしはため息をついて、それから、ぼんやりと喋り始める。
「くーちゃんさ、ペアレントに喰われかけてたのに、発現もしてなかったんだ。あいつ、ほっといたら、明日にでも消えちまうかもしれない」
「べつにいいでしょ。生きていたくないんだったら、勝手にさせておけば」
「まぁ、そりゃあさ」
それでわたしが黙りこくって、反論もしないのは、カトリーナは間違っていないから。
いや、違うんだよ。わたし、くーちゃんと、もう少し一緒にいたいんだ。もう少し喋りたいんだ。って、そんなのは、わたしだけの理由だし。それから、カトリーナ相手に無防備に本音をさらけ出すと、あとで痛い目を見るに決まっているから。わたしは仕方なくただ無言で、前髪をくりくりとこねくり回していた。
「まぁ、その子のことは、あなたに任せるわ。そのくーちゃんって子が消えたら、あなたのせいよ」
カトリーナは言う。
そんなはずもないけど。わたしたちが消えるときはいつだって自分自身のせいだから。ついさっきまで、自分だって、勝手にすれば、とか薄情なこと言っていたくせに。その程度の質の低い嫌味ぐらいは、いくらわたしでも受け流せて、「そうかもな」って、感情がこもっていない相槌を打ったのだ。
こういうのが昨夜のカトリーナとの通話の内容だった。あとは30分ぐらいどうでもいいやり取りと、わたしの欠伸交じりの吐息と、カトリーナの憎たらしいぐらいに、きれいな笑い声が続いて。そんなことをやっていたせいで、眠ったのは深夜三時を過ぎたあたりだった。いつもなら、別にそれでも問題ないのだけど、わたしは朝からくーちゃんに会いに行こうって思っていたから、カトリーナが電話を切ってくれないのは、ちょっと迷惑だったんだよね。ひょっとしたら、そこまで含めて、そこまで見越して、あいつの嫌がらせだったのかもしれないけどさ。
だってわたしはくーちゃんを消されたくないわけで、そのうえで、わたしのせいだ、なんて冗談でも言われちゃったら、何かしなきゃなって気分にもなるじゃんか。やっぱりさ。カトリーナなら、それぐらいはお見通しなのかもしれないな。わたしがそう動くように仕向けたのかもしれないな。
ともかく、夜更かししちゃったものだから、起きたのは7時半を回ったあたりだった。共働きの両親は、もう家にはいない時間。寝ぼけた目をしながら、台所に転がっていたバナナをかじって、身支度をして、ブレザーを羽織って、外に出てみたら、すごく晴れてて、太陽はまぶしいし、日差しが強いし、暑いしで、今しがた着たばかりのブレザーを仕方なく脱いだのだけど、だったら、この血に浸したみたいな色してるネクタイも外した方がいいなとか、どうでもいいことを、しかめつらで考えて、まごついちゃって、わたしはくーちゃんの家の前で、くーちゃんが出てくるのを、待ち構えているつもりだったのに、そんな時間はとっくに過ぎ去っていて、その時点で、結構わたしはぐったりしていた。
だから、もう止めておけば良かったに決まっていたんだ。始まりからぐだぐだで、ろくなことにならないのは目に見えていたのだから。それなのに、わたしは、おかしな風に覚悟を決めていたんだ。
自転車にまたがって、意味もなく、じりん、じりん、とベルを二回叩いて、
「よし、じゃあ行くか」
そんなことを言ってた。
ほんと何やってんだろうね。
暑くて暑くてたまらなかった。
わたしの住む街は、どうも、もともと山ばっかりだったらしくて、そこを切り開いて、無理やりに人が住めるようにしたものだから、坂ばかりで、道中に平坦なところなんて、100メートルも続くことはなくて、しかも、目的地の高校は馬鹿みたいに高い丘の上にあって、校門へと続く、長い坂を自転車を押して歩くうちに、あごにまで汗が滴っていて、そのうえ、校門にたどり着いても、まだわたしは階段を上らなきゃいけないのだ。だって、一年生の教室は4階に配置されている。年功序列ってやつなのかな、一年生が4階で、三年生が2階、職員室は1階なのだ。
べつにわたしは夜にしか、出歩かないだけで、引きこもりではなかったし、それに毎晩けっこうな距離を歩いているから、そんなに体力に自信がないわけではなかったけれど、こんなに暑いのは久しぶりで、太陽はもしかして、人間の一人や二人は殺すつもりでいるのかもしれなくって、ようやく一年生の教室がならぶ4階のフロアにたどり着いた時には、でこぴん一発でぶっ倒れかねないぐらいには、へろへろになっていた。
だいたい、わたしはここにきて、どうすればいいのだろう。普通に教室に行けば良いだろうか。わたしのクラスって確か4組だったけど、入学式から夏の初めまで一度も顔を出さなかったわたしの席って、まだ存在しているのかな。
途方に暮れているうちに、なんだか、わたしはここに来ちゃいけなかった気がして、廊下を歩くのもいけないことのような気がして、気が付けば背中が丸まっていた。
どうも今の時間は授業中らしい。いくつかの教室からは教師の声が漏れていた。でも4組には、1ー4のプレートが掲げられた、この教室には誰もいなかった。空っぽ。移動教室なのかな。
入ってみる。電灯は全部消されていて、窓は締め切られていて、薄暗くって、蒸し暑い。並んだ机の間隔はこれしかないってあんばいで、まるで誰かがデザインしたみたいに絶妙に、無秩序に、不均一な感じで、たまに斜めになっていたりして、その雰囲気がごく自然だった。だからさ、少しぐらい個性的でも、この空間は受け入れてくれるんじゃないかなって気がした。もちろん、わたしみたいなやつは例外だろうけどさ。
「ふぅん、こんなもんか」って訳知り顔で、意味もなく言った。座席表が、一番後ろの壁紙に張り出されている。そこに日浦って名前を見つける。この日浦ってわたしのことだろうか。それとも、わたし以外の誰かなのかな。分かるわけない。少なくとも、この教室には、この座席表によると日浦はひとりしかいないみたいだけど。
チャイムが鳴った。きんこんかんこんって、あの音色を聞いたのも久しぶりだったな。
きりつ、れい、ありがとーございました。やがて、そんな風に、どこからか声が漂ってきて、そうだ。くーちゃんを探さなきゃって、わたしは思い出した。探して、見つけて、それからどうするつもりなんだろう。きっとわたしは「よぉ」って挨拶して、それから「昨夜のこと気になるだろ」って言って、本当にわたし、なんでわざわざ学校なんて来たんだろうね。そんなのくーちゃんが帰ってくるのを待ってからでも、ぜんぜん遅くはなかったのに。ねぇ、わたし。そそのかされたとか、覚悟を決めたとか、理由をつけて、たった半日さえも一人でいるのが嫌だっただけとか、そんなことないよね。
くーちゃんを探すのにはあまり手こずらなかった。ともかくも、このクラスの人たちが帰ってくる前に、教室から廊下に出て、隣のクラス、ええと、うん、3組を覗いたら、くーちゃんの姿を見つけたから。
あいつ、呑気そうな顔して、窓際の席で誰かと喋っていた。
わたしは、ふぅ、って息を吐く。良かった。あてもなく、この辺りを彷徨うのは、心細いなって思っていたから、歩けば歩くほど、自分が何をしているのか分からなくなってしまいそうだったから。
教室に入る。うるさいなぁ。この場所。みんな誰かと喋っていて、騒がしい。なのに、わたしが通ったところは、すぅーっと静かになる。あいつらから、わたしはどんな風に見えているのだろう。目の下にできた隈が、ずっと消えていないことは知っている。日に少しも焼けていないせいで、肌は真っ白で、余計にその隈が際立っているのも知っている。だからって、急にお喋りを止めちゃうくらい不気味なのかな。お化けじゃん。そんなの。それとも、中学生時代の同級生がこのクラスにはたくさんいるのかも。そいつらは、まぁ、くーちゃんも含めてなんだけど、わたしにいい思い出はあんまりないのかもしれない。
くーちゃんは、ぼんやりと窓の外を眺めていた。わたしが席のそばまで行ったのに、まったく気づかない。さっきまでくーちゃんと話していた、後ろの席のやつのほうが、わたしを見つけて、それから、ぎょっとした顔をして、ぽかんと口を開けた。
くーちゃんの肌はじっとりと汗ばんでいる。目を細めて、窓から風が吹き込んでくるのを待っているみたいだった。蒸し暑いもんね。この場所。信じられないくらい、人間がこんな狭いところに押し込められているせいかな。学校の外も酷かったけど、ここよりはましだったよ。少なくともこんな風にアマゾンの奥地みたいな湿度じゃなかった。まだ7月にもなっていなくって、これからもっと暑くなるのに、この場所はこれから、いったいどうなっちゃうんだろうね。
「加藤、どうしたの?」
くーちゃんが言う。加藤ってのは、たぶん、いまだに間抜け面で、固まっている男の子の名前なんだろう。そいつから、芳しい返事がなかったから、くーちゃんは、眉を寄せて、それから、ようやくわたしのほうに視線をよこした。
そうすると「ああ」ってくーちゃんは納得したように頷いて、
「来たんだ、ちょうどさっきまで日浦の話をしていたんだよ」
って言った。それは、どんな話だったんだろう。たぶん昨日見た化け物の話とかはしてないんだろう。「ねぇねぇ、聞いてよ。真夜中に怪人に襲われたんだ」そんな風に一瞬できちがいに認定されるような話を、べらべらと触れ回るほどにくーちゃんは馬鹿じゃない。
「何が、ちょうどだよ。ここまで来るの大変だった」
「大変って、ただの学校だよ。・・・日浦、なんでそんなに不機嫌そうなの?」
くーちゃんは頭を掻いていた。
困った風にさ。まぁ、そうかもね。わたしが勝手に来ただけなのに、くーちゃんは、特に何かしたって訳でもないのに、それなのに睨みつけられていたらたまらないよね。でもわたしはその質問を無視するのだ。
「来いよ。話したいことがある」
くーちゃんは、うぅん、って鼻息を漏らして、それから首を曲げた。
「昼休みとかにしない? 休み時間あと五分しかないよ」
こいつは、まだ何にも知らないから、いまだに席に座って授業を受けることなんかが大切なんだ。くーちゃんがおもむろに指さした先には、たぶん、時計とかがあるのだと思う。ほら、と口を動かしている。そのしぐさは聞き分けのないこどもに言い聞かせるみたいで。
なんか、苛ついた。くーちゃん。お前はさ。すごく顔に出るんだよ。ねぇ、今さ。面倒くさいって思ってるよね。
わたしは手を伸ばす。掴んだのはくーちゃんの襟首。力を籠めると、くーちゃんの身体は簡単に持ち上がってしまう。ねぇ、だから、もうちょっとは肉を付けたほうがいいんだって、頼りないからさ。
がしゃりっていすが倒れてしまって、そのあとは、教室中が静かになった、わたしは煩わしい騒音がなくなって悪くない気分だったけど、まぁ、実際のところ、こういうのはあんまり心地の良い静けさとも言わないんだろうな。
こくりとくーちゃんの喉が動いた。
「いいから、ついて来いよ。撃たれたくはないだろ。帰り道とかにさ」
「昨日もいったけど、ぼくはべつにいーよ」
そうやって、くーちゃんは、平然として生意気を言うから、わたしは一発だけ、ぶん殴ったら、おとなしくなるかなって、めちゃくちゃ本気で考えている。くーちゃんはさ、わたしに何か聞かれたら、はいかYesで答えればいいんだよ。他に口を利く必要なんてないんだよ。
いいよ。5秒だけ待ってあげるから、心の中で呟いてから、くーちゃんを睨みつける。
「もう、わかったって。どこへでも行ってあげるよ」
そうすると、くーちゃんはしかめ面で言った。
くーちゃんは、なんだか、呆れたような目つきで。そんな態度はすごく不満だったけど、でも、まぁ、殴らなくっても、従順なら、それに越したことはないかなって。わたしは気分が良くって、そのまま、くーちゃんの首根っこを摑まえたまま、引っ張っていく。ぼそぼそと、わたしたちに向けて、誰かが何かを言っている。聞き取れない。それはたぶんあんまり好意的な感じでもないだろうけど、べつに構わない。
そいつらは、どうせ、わたしのことなんて、すぐに忘れちゃうんだろうから。でも、くーちゃんは当分の間、わたしのこと憶えているんだと思うな。二年間、何にもなくって、顔を合わせなくても、名前もちゃんと呼んでくれたし、それに、これからくーちゃんの苦しみを理解してあげられる人は、たぶん、この学校にはひとりもいなくなるんだから。
特別教室棟ってのが、この高校にも、もちろんあるらしくって。それは化学室とか視聴覚室とか、そういう雑多な教室群が集まった校舎のことで、渡り廊下を渡った先にその校舎はあって、とくとー、ってくーちゃんは呼んでいて、たぶん、特棟ってことだろうけど、ともかく、その特棟の5階には滅多に人がやって来ないらしい。
くーちゃんは、二人で話したいなら、そこがいいんじゃないって、あからさまに投げやりな態度をとっていて、こいつをおとなしくさせるには、やっぱり一発殴っておいたほうがいいのかなって思ったけど、でも、案内するよって、言ってくれたから、少しは優しいみたいで、まぁ、許してあげることにした。
特棟に辿り着いて、階段をワンフロア分だけ登って、4階から5階に上がって、そこには教室がいくつか並んでいて、くーちゃんが、そのうちの一つ、空白のプレートが掲げられた名前のない教室に、躊躇もなく入っていくから、わたしもそれに続いていく。普通の教室と中身はほとんど変わらないけれど、くーちゃんの言う通りここは本当に誰もやってこない場所らしく、椅子の足とかが錆びかけていて、全体的にちょっとほこり臭い。それで、さっきまで密封されていたこの空間は、やっぱりサウナみたいになっていて、暑くって、わたしが眉間にしわを寄せるうちに、くーちゃんが窓を開けていた。開けたそばから、風が入ってきて、繊維のほつれた、どこか色褪せたカーテンはふわふわとかすかに揺れている。
ぼーっとしてたら、くーちゃんが、「座ったら」って言った。素直に従うことは、なんだか気に喰わないけど、まぁ、べつに無理に逆らう理由もなくって、わたしは椅子を引いて、適当な席に座る。
しばらくしたら、くーちゃんが隣の席に座って、それから、ふぅって息を吐き出して、「暑い」ってうんざりした顔で呟いた。
そうだね、相槌すら打たず、わたしが無言でいるのは、同意と同義で、そのうちにこそばゆくなって、右斜め上を見た。くーちゃんは左隣に座っていたから、その反対方向になる。わたしたちは、しばらくそのままだったけど、ふと、くーちゃんが、本当に、独り言みたいな感じで、喋り始めた。
「日浦、べつにさ。こんな風に無理やりじゃなくても、ぼくは逃げ出さなかったよ。家近いんだから、夕方とかに、インターホンでも鳴らしてくれれば、それでよかったのに」
まぁ、そうかもね。って言うわけにもいかないし、そんなこと認めたら、わたしが何をしたかったのか本当に自分でも分からなくなっちゃいそうだし、わたしは頬杖をついて、遠くを向いて、ただ口をとがらせる。
「ねぇ日浦。あんまり、変なことしないほうがいいよ。急に胸倉掴んだり、そのまま連行したりさ、日浦ってただでさえ目立つんだから。学校に来にくくなるよ」
うるさいなぁ、わたし、くーちゃんにお説教されるために、わざわざ会いに来たわけじゃないんだけど。
「わたしは不登校なんだし、べつに関係ないだろ」
ようやく口が自然に動いた。やれやれと、わたしは立ち上がって、くーちゃんに人差し指を向ける。
「そんなことより、話があるんだよ。昨日の夜のこと、お前だって、興味がないわけじゃないだろ?」
くーちゃんは、その指先をじっと見つめていた。くーちゃんにとって、ショットガンもわたしの指も大差ないのだろうか。昨夜、わたしに銃を突きつけられていたときと、表情がまったく同じなんだけど。なんだか、わたしのほうが困ってしまいそうな、平坦な表情で、くーちゃんはじーっと、瞳を覗いてくるのだ。
「言っておくけど、僕はあんまりあれに関わるつもりはないから」
よく分からないことくーちゃんが言うから、「はぁ?」ってわたしはしかめ面する。
くーちゃんは、肩をすくめた。
「だってさ。あんな怪物との戦いで、僕は君の力になんて、なれなさそうだと思うんだ。中途半端に関わるぐらいなら、むしろ、何にも知らないほうがいいと思う。日浦、ぼくは昨夜のことは一切合切ぜんぶ忘れるよ」
イッサイガッサイゼンブワスレルヨ?
言葉を理解するのに少しだけ時間がかかる。というか、受け入れたくないってだけ。わたしの脳が受け入れることを拒否しているのだ。
だけど、別に難しい日本語じゃないから、すぐに理解してしまった。ああ。えっと。そんなかんじになっちゃうんだ。
わたしは、昨日の話をしたあとのくーちゃんの反応を、いろいろとシミュレートしていたのだけど、こんな風になるとは、すこしも想像していなかったな。
わたしは、怒りさえ湧かなくって、ちょっとだけ寂しくって、首を傾げてしまって。
くーちゃんの望みはたぶん叶うよ。その気になれば今夜にでも、ペアレントに消された人間は、ペアレントにまつわる記憶を全部失うのだから。
「まぁ、そういう道もあるにはあるけどさ」
わたしが渋々漏らした言葉に、くーちゃんは「じゃあそうする」って間髪入れずに頷いたんだ。
「その代わりさ。昨夜見た出来事はぜんぶ忘れるけど、命を助けられた恩は忘れないよ。日浦、頼みとかあったら何でも言ってくれよ。ぼくが出来ることならなんだってしてあげるからさ」
くーちゃんは、そんなせりふをきっと悪意のかけらもなく言い放った。こいつは、ひょっとして、わざとわたしを怒らせようとしているのかもしれない。
わたしがさ、好き好んで、あのつまんない街を、毎晩毎晩、徘徊しているとでも思っているのかな。
頭の中がぴりぴりし始めていた。それはわたしの脳みその左の奥の方。
たぶん、きっと、そこには、ねずみが住んでいる。
薄汚くて、くすんだ灰色の可愛くないやつだと思う。
それで、何か感情が揺れ動くと、そいつが駆けずり回り始めてしまうのだ。わたしは生まれつき、そういう性分で、だからそのせいで、事あるごとに、頭の奥が、脳みそが、ねずみにかき回されてしまうものだから、その度に、右も左も、前も後ろも分らなくなってきて、身体がぐるぐると回転し始めてしまって。
だいたい、今日はもともと気分が悪かったんだしさ。
蒸し暑いし、疲れたし、寝不足だったし。
ああ。まずいなぁ。わたしは頭を押さえて深呼吸しようとするけれど、もうわたしの身体は制御不能になっている。痙攣しはじめた顔の筋肉のせいで、ぴくり、と左眉が持ち上がる。こうなったら最後、上手くいった試しがない。
くーちゃんは、ああ、ちゃんと距離を置いてる。うん、まぁ、ならいいかな。少なくともくーちゃんは怪我しないだろうから。なんて、ぜんぜん、ちっとも、よくはないんだけどさ。
ぷちん。
そうやって、何かが千切れてしまった音がして、
「あ〝ああ〝ああ〝ああ〝あああああああああああああああああああああああああああ!」
絶叫がわたしの身体から飛び出してくるのだ。
身体と意識が完全に分離した。いつものこと。まともなわたしの意識は幽体離脱したみたいに、宙に浮き上がっていて、頭上から、好き勝手に暴れているわたしの身体を眺めている。
「あ〝ああ〝ああ〝ああ〝ああああああ」
わたしは叫びながら、机を蹴って回っていた。がしゃがしゃと騒音が鳴って、空き教室中にドミノみたいな風にして、机といすは倒れていって、ああ、わたし、あんまり足上げちゃダメだって、スカートなんだから。
くーちゃんは、教室の端っこで廊下側のほうを眺めていた。ぜんぜん、わたし、のほうには目もくれない。でも、あいつもやっぱり、ペアレントに襲われるような、くそったれなんだよな。くーちゃんは、本当に顔に出るんだ。こいつは昔からそうで、わたしが発狂すると、すごく嬉しそうにするんだよね。あの横顔、あの瞳。きらきらしてる。なんだか、雪を初めて見た犬みたいに、きっと尻尾があったら、ぶんぶんと振っているに違いないのだ。
わたしはまだ叫んでいる。
「〝あー」って、叫んで、叫んで、机といすは、ますます散乱して、散らかり切った教室の真ん中でわたしの身体は暴れていて、そうして、ふとそこにわたしの意識が、まるでだれかがスイッチでも押したみたいに戻っていった。
ぱちり。
わたしは瞬きをした。
頭痛が酷かった。好き放題に叫んでいたのどは、千切れそうになっている。全身の節々が悲鳴を上げていた。吐き気がして、身体に力が入らなくって、うずくまる。荒い呼吸で酸素を急速に取り入れようとしているのだけど、いつまでたっても不十分で、息苦しいままだった。
「日浦」
くーちゃんの声がして。んー、とわたしは呻いて、髪をくしゃくしゃとかき混ぜた。
「取りあえずさ。ここから離れたほうがいいんじゃないかな。誰か来たら面倒だよ」
「分かってる。すぐに立つけど。・・・吐き気がするんだ。水が飲みたい」
「飲み物ぐらいは今度おごってあげる。でも、ここにはないかな。いいから、ほら。早く立って」
くーちゃんがわたしの腕をつかんだ。頼りないはずの細腕がわたしの身体を、軽々と引っ張り上げて、つまり、わたしも、もう少し肉を付けたほうがいいってことで、くーちゃんと目が合うと、ああくそ、こいつはやっぱり、心底愉しそうな顔をしているんだよな。
「てめぇ、人の気持ちも知らないでよ。最近は平気だったんだ。お前のせいだぞ。それなのに、」
「いいから、はやく行きなって」
くーちゃんは、やっぱり殴ってやらないと駄目なのかもしれない。そうじゃないと、痛みを知らないと、他人の気持ちが分からないのかもしれない。そんな風に、昔っからわたしが発狂してると、苦しんでいると、嬉しそうなのを隠そうともせずに、とたんに生き生きし始めるような、くずだから、ペアレントに襲われるような目に合っちゃったのに違いないのに。
「いい加減に・・・」
怒鳴りかけて、すぐに息切れしてしまった。声が出ない。くーちゃんがわたしの背中を押したから、よろよろと足は教室の外へ進んでしまう。せめて、振り返って、睨みつけてやるけど、ぜんぜん効果なんてないんだろうな。「じゃあね」って、くーちゃんは言っていて、わたしはむすっと鼻を鳴らす。
階段を下りる途中、慌てたように小走りで、それから、目を見開いた男の教師とすれ違う。「待て」って、わたしに向かって、なんか言いかけたとき、どこかでガラスが割れる音がした。
誰が何をしたか、なんて、すぐわかるけどさ。
くーちゃん、何やってるんだろう。馬鹿だなぁ。そんなことして、怒られても知らないよ。考えているうちに、その教師もいなくなっている。
わたしの頭はまだ割れそうなぐらいに痛くって、それでも、しょうがないから、だって、立ち止まっていたって、誰かが助けてくれるわけでもないんだから、わたしは無理やりに足を引きずって家に帰ったのだ。