#6 『荒魂禊師』淀川樒 其の二
八足に牙の付いた頭胸部、膨らんだ腹部、糸の排出腔。生物学上で分類すれば蜘蛛と断定できるそれは、黒と黄土色のストライプがかった体毛に覆われている。目を凝らせば髑髏の文様に思えて実に不気味だ。
「なんだ……? 蜘蛛の『荒魂』か? なるほど、報告も確かだったな。にしてもなんだあの腹は。出産寸前の蜘蛛みたいだな」
さらに蜘蛛の土台に移植されたように屹立する人型が、この世のものとは遥かに乖離していることを嫌というほど教えてくれる。未だ意思を持つように動いている人型は、およそ人の肌と思えない黒い灰をまぶしている風に見える。露出した剥き出しの肉も血の一滴も通っていない炭の色。辛うじて胸のふくらみから、人型の造形が女性だということが分かるくらいだ。
「黒と黄の模様、腹の膨らみ、大型の蜘蛛……まさか、絡新婦? ベースはそれでも、そも北海道には居ないはずじゃ……」
――我らながら呑気な観察に分析だな。
などと思っていれば、一鬼が珍しく称賛してくれた。
「ほぉ……昆虫博士でもやってたのか?」
「……いや、なんとなく。形状と、名前のノリというか……」
「なら都合がいい。ついでだ、講釈をしてやろう」
得意げに笑う一鬼。
「荒魂には二つの核がある。その内一つでも破壊されれば、現世にはとどまることができなくなる。つまりは幽世に還るということだ」
「……あいつの、頭とか心臓部にあるんですか?」
「基本的にはな。なんせ体の構造は生き物と同じだ。心臓と脳、だいたい頭と胴体には核がある。こちらのどちらかを潰せば……ということだ」
なるほど、とレイシは納得する。
心臓と脳、生物の最たる急所だ。
「怨魂は? あの不定形のヤツに、急所なんてあるんですか?」
「あいつらは荒魂でもある意味で別物だからな。霊力を押し固めたような体だから、簡単に対処できる」
「簡単って……」
相も変わらず戯言のように言ってのけるのが困りものだ。あんな化物相手に真っ向立ち向かうことなんて、今後二度としたくないというに。
「なら、よーく見ておくことだ」
「……心読まないでくださいよ」
「本チャンの荒魂戦だ。目に焼き付けろ」
再び櫓から戦場を見下ろすレイシ。
異形の荒魂――レイシ名付けて『絡新婦』は、奇声を上げながら人型と頭胸部に一対ずつ備えた黒い目を、ふらふらと彷徨わせている。
「アギッ……キキィッ……ガカッ……」
樒は変わらず下段に『禊』を構えたまま。再び絡新婦が動き出すのを待っている。
樒の刀術は門派や刀法、勢法の概念で纏まったものではない。状況に最も適した動きを取り、我が身に降りかかるあらゆる害意を払いのけ、最大最高の剣戟を最短最速で叩き込む。
偏に己が身と隣人を護り、共に生き残り、害成す荒魂を祓うための戦法――流派といった御大層な修飾など不要な、ただただ荒魂との攻防に特化した専用専門の戦い方だ。
「ココハダレェ? ワタシハ、ドコォ? オナカノナカ、ダレカ、アルノォ?」
おぼろげなうわごとを上げている絡新婦。
――既に霊体を統率する意識は無い。
「オナカ、ヘッタナァ、オナカ、オナカオナカオナカ――」
幾十人もの女性の声の合成音じみた鳴き声は、しきりに腹部を気にしている風だった。
膨らんだ腹部はむずむずと振動しており、まるで中から出たがっているようにも見える。突き破りたそうに蠢いている腹部を愛おしげに撫でると――。
「アカチャン、アカチャン――」
うわごとが確かになっていく。
赤ちゃんと、絡新婦は確かにそう言った。
「アカチャンアカチャンアカチャンアカチャン――――」
ぶつぶつと呟いていた声が大きくなるにつれ、樒の推測は確信に変わる。
――あの荒魂を構成しているのは、おそらく子供の母や子持ちの女性の……。
樒は心を平静に保ち、体を強張らせる緊張感をほぐす。
あの荒魂がどのような人生を歩み、どのような死を迎えたか。他者の生き様までも樒には分かるはずもない。ただでさえそれら全てが混ざり合って、分からなくなっているのだ。
「貴女の想いを掬い取ることはできませんが、どうか赦していただきたい」
「アァァァァァッッ――!!」
「淀川樒……いざや、参ります」
カチカチと前脚を震わせると、鋭い切れ味の爪先が縦横無尽に襲い掛かる。
速度は怨魂の鞭以上、先端が地面に刺さるだけで地を揺るがし風穴を開ける。まるでつるはしのように鋭利な打突面は、防御も容易く貫いてしまうだろう。
――受け太刀はできない。
振り乱される脚から後方に飛び退いて射程距離外へと離れる。
荒魂と人間では肉体の基本性能は段違いだ。素の筋力では受け太刀どころか、パワー勝負で叶うはずもない。付け加えるのなら爪先は魂の具現化した産物、鉄や鋼とは素材として根本が違う。そんじょそこらの鋼では防ぐことすらままならず、枝でも折るかの如くへし折られる。
「ふっ――!」
一つ息を止めて絡新婦に向けて駆け出した樒。一瞬にして最高速に加速して疾走する。
「アァッ――ァアァァアッッ――!!」
迎え撃つは絡新婦の前脚で挟み込む刺突攻撃。脅威は刺突だけではない。前脚による抱擁は、人間の骨を簡単に砕くだろう。万力に飛び込むのと同義だ。樒は搔い潜り脚の付け根に斬撃を加える。頭上を通り抜ける前脚、手応えすら無く『禊』の刃は蜘蛛の外骨格すらも両断する。
「キィェッ!?」
「まずは右側――」
攻撃の慣性で断ち切られた脚が空を舞って落ちる。さらに踏み込んで右脚を後脚まで切り抜けていった。柔軟ながらも硬質な外殻を持つ関節を、豆腐のようにぶった切っていく。
――狙いは脚部、頭部、そして人型。
右脚を一瞬にして全て失い絡新婦はバランスを崩す。
攻撃に用いるのは主に前脚だ。右側を落とせば攻撃の軌道は左側に限定されて予測しやすい。体の支えも利かせなくして、武器になりそうな脅威を少しずつ削っていく。
――動きを封じ、最後に本体を祓う。
そのまま左後脚から左前脚目がけて再度切り抜けにかかるが、糸の排出腔がひくついているのが樒の眼に入る。蜘蛛の体躯から次の行動は予測できるが、咄嗟に対応が遅れる。
「樒さん、糸が来ますっ!」
レイシの声が聴こえた時には発射されていた糸。
僅かに反応速度を上回り、樒の眼前でばらけた糸が右足と右腕を絡めとる。
「ぐっ……」
「ァハァ――――ッッ!!」
断ち切りにかかるも一刀で切れない。さすがの強靭さに歯噛みする。絡新婦が体を揺さぶり糸を巻き上げれば、体格差に膂力差が物を言う。樒の身体が軽く空中に放り出された。
「クールクル、クゥールクル! アーアソビマショ――ッッ!!」
残った左脚を軸にぐるぐると回りながら、樒を振り回し続ける。生前の人間の意識が合わさり混濁しているはずなのに、まるで玩具で遊んでいるような動きだ。
「ハァーイッ、ドッカーンッッ!!」
十分な速度を付けたまま、脳天から垂直落下――地面に思い切り叩きつけられる光景を目の当たりにしてレイシが叫んだ。
「樒さんっ!」
「心配するな。むしろ着地させてもらえただけ有難いだろう。地に足が付いていれば斬撃がしっかり放てる。糸を斬るにはちょうどいいくらいだ」
一鬼の言う通り、樒はあの高さから落とされても両手を付いてしっかりと受け身を取っている。それどころか糸までも知らぬ間に見事両断している。手足は自由を取り戻したようだ。……それにしても理外の高さからの落下だ。心配するなとは言うものの、まともな人間ならば骨折どころか即死も免れないはずだ。
「アハッ! オモチャ! オモチャ、コワレテナイワ!」
瓦礫の中から出てきた樒に、高笑いを上げる絡新婦。
「オイシイゴハン、イッタダキマースッッ――!」
脚を失った次は頭の牙――鋏角と呼ばれるものだ――を剥きだして食らい付こうとする。薄ら汚れた牙は血によるものか、別のものか。切れ味に加え咬合力が合わされば、胴体なんざ軽々真っ二つになるだろう。
「残念ながら、ご飯になる気はありません」
樒は鋏角へと剣戟を加える。斬って落とすでなく、弾いて押し返すための剣戟だ。衝撃で跳ね上げられた口腔にはずらりと並んだ歯が露わになる。
「シッ――」
開いた口の接合部、口角に目がけて斬撃を叩き込む。
「キィッ――!?」
幾度切り結んでも変わらない『禊』の一刀が、今度は下顎を切り離した。次いで剥き出しの歯茎へと刺突連打。呻きに合わせて真っ黒な血液がどろりと溢れた。固い箇所でなく柔らかい箇所を徹底的に刻んでいく狙いか、近距離で回転しながら頭部を真っ二つに斬り裂く。
「ギャゥアァッ!」
大きく離れようとする絡新婦にさらに追撃。切っ先が頭胸部の肉をずたずたに引き裂いていく。
「止め、です」
最後に横薙ぎ一閃――蜘蛛の口を完全に両断する。
「ギィァァァァッッ――!!」
「終わったな」
「うわぁっ……」
口から落ちる真っ黒な血はヘドロのように粘性を持っている。べちゃっ、べちゃっ、と。おびただしい量の澱んだ血をまき散らし、奇声を上げる口も喉も裂かれたのか絡新婦は完全に沈黙する。
「――ッァァァァ――ッッ」
ただし、沈黙したのは蜘蛛の部分。
突如として人型がけたたましく叫び出す。
叫喚――あまりにこの世のものと思えない聲に、レイシは怯んで耳を塞ぐ。
狂ったように身をよじらせる人型が、最後の力を振り絞ったのだろうか。後脚が関節の稼働限界を超えて動くや、自らの腹へと爪先をねじり込んだではないか。
「――――」
「ィィィェァァァッ――!!」
一切の感情を表情に出さず、こと冷静にその状況を眺める樒。
痛みなど意に介していないのか、腹は見るも無惨にズタズタに破られる。絡新婦自らの爪で、二度と直らないだろう襤褸切れになるまで。
そうして露わになった腹部より、うぞうぞ、うぞうぞ……と。小さな何かがひしめき、ざわめき、溢れ出さんばかりの音が聴こえだす。
「子蜘蛛……!?」
いち早く気付いたレイシが悲鳴を上げる。
中身に詰まっているのは、小さな小さな蜘蛛。
同じ柄に髑髏の文様は、絡新婦の子である証左だ。
「物量が多いな。……だが、問題ないだろうさ」
一鬼の信頼はどこから湧くのか、もはや信奉しているぐらいの言葉に疑問を抱いたその時――。
「〈雪花〉――」
五体の脱力――揺らいだ全身を瞬時に連続稼働し斬撃が放たれる。
音速の連撃が軌道上の子蜘蛛をまとめて断ち切り、即座に拡散を阻止。散らばる前に一網打尽にしたのだ。散る前に最短距離で叩くことが最も効率良い手段だが、言うは易く行うは難し、だ。
――それもたった一本の刀で……。
まるで捉え切れなかった剣速に、レイシは驚嘆を禁じ得ない。
しかし、果たして、刀を振るった当の本人が誇らしく思っているかは別問題である。
確かにこの手で斬り裂いた子蜘蛛は、見事一匹の取りこぼしも無く光になって祓われた。同時にざわざわと心の内を撫でつける感情。斬るたび斬るたび湧き上がるこの感情が、樒の心を苛ます。
目前の絡新婦の、頭胸部と人型の瞳が固まったように地へ向いた。
無くなった己が脚よりも大事そうに、慈しみを以て、光になっていく子蜘蛛へと触れる。
掌ではなく爪先が触れるも、掴めぬままにふわふわと空へと消えていく。
存在がないまぜになった絡新婦の心中で、どのような感情が湧いたかは知る由もない。ないが――。
自らの子が、生まれたばかりの我が子が、産声を上げる間もなく狩られたこと。
甲高い合成音のような鳴き声が、もはや用をなさないだろう喉から紡ぎ出されること。
絡新婦が、彼女たちが、泣いていること……。
『禊』を振るうべく、再び強く握りしめる。
「ァ――ア……」
「自身の確たる意思が存在せぬとはいえ、私は貴女の子をこの手で殺めました。……いえ、貴女たちの、と言うべきですか。それについては心からの謝罪を」
語り掛ける樒の言葉を理解しているとは到底思えない。
「ですが、私にも護りたいものがあるのです。貴女にとっての赤ちゃんのように、この町の人たちを護りたい……この手を汚すことになろうとも」
けれども、樒は相対しながら語り続ける。
「ですからせめて……幽世でゆっくりと眠ってください。きっと居るはずの、貴女の赤ちゃんと共に」
終に振るわれた無慈悲な白刃が、慈悲の心をもって絡新婦の人型を斬り裂いた。
「ギ……ア……」
振り絞られた悲鳴。
異形の身の声とは思えぬほどに悲痛で、傷ましい声。
決して避けずにその身で受ける樒。
「ワタシノ……ア――」
最後に何を言おうとしたのか、樒には伝わらなかった。『禊』の力で斬り伏せた彼女の体は、少しずつ光の粒に変わって天へと昇って行っている。霊魂を禊ぎ祓う刀は、ある種一切の容赦も無く、現世を彷徨う者を幽世に送り還す。
――禊ぎ祓う。ある種、魂を殺すとも言えるのかもしれない。
数多の人間の霊力が逝く様はさながら光の帯が昇っていくようだった。
レイシは合掌し、再び祈りを捧げる。この行為に何の意味があるのかも分からない。彼女たちの魂を慰めることもできるのかすら分からないのだ。
「今度こそ……是にて、終いだ」
一鬼は櫓から飛び降りる。レイシにとってはあまりにも高すぎるため梯子で降りる。
彼女の言った通りに目に焼き付いた光景は、覚悟しても辛いものだった。
禊ぎ祓われる最後。絡新婦の今際の際にて理解した。彼女を構築していた霊魂はまず間違いなく子を持つ母、子を失った母のものだ。混ざった意思が各々残っている分、強い意思が上書きして勝手に増幅されているのかもしれない。自分の赤子を求めて、存在を探して……。
――もしやその一心で永山まで……。
「同情するなよ。レイシ」
降りるレイシに向けて、回答を待たずに続ける。
「人に仇なす荒魂は得てしてああなる定めだ。失って、喪って、どこどこまでも堕ちていく。そんなやつに同情してたらキリがないぞ」
こちらの返答も聞かずに正門へと向かっていく一鬼に、レイシは浮かぶ言葉が一つもなかった。
「あっ、一鬼! レイシ!」
祈りを捧げていた樒がこちらに気付いて手を振った。
どう見ても取り繕って笑っている。
「……さあ、我らが御屋形様を迎えに行くぞ」
「了解、です」
禊ぐべくして刀を振るう樒の表情は、悲しくも美しい。
それでも、樒には屈託のない笑顔が一番似合う。
なんて気取ったことを思いながら、頑張って微笑んでいる彼女の元へと二人で急ぐのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。