#5 『荒魂禊師』淀川樒
レイシは元来た道を引き返すでなく、大通りの歩道を走っていた。比良坂堂の正面入り口は大通りに面しているので迷わず戻れる。昔のように道路を自動車が走ることはそうそう無いが、牛車や馬車など動力源を切り替えた乗り物は通ることがある。幅広に作られた歩道を進む人波をするする縫って行く。
こうして三分ほど走ってた頃か。人ごみの密度が増し、抜けるに抜けれなくなった頃、やけに人の歩みが遅く感じてきた頃だ。速度を落として人の声に耳を澄ますに、どうやら何かが居るらしい。
「……ねぇ、アンタ。あれなんとかしてよ」
「無茶言うなよ。岩垣の土方衆だぜ? ……殴られたかねぇよ、オレも」
「やぁねぇ、公衆の面前で……」
岩垣の土方衆、名前を聞くからに土木作業に従事している組合か会社に属する者たちだろう。仕事の内容に違わぬ屈強な体つきを各々している。少なくとも、レイシはともかく辺りの男衆では腕っぷしは到底敵いそうにないくらいには。
「おっ、それポン」
「なぁまたかよ。鳴き3900ヤロウが」
「ケケケッ、むしられてるからって喚くなっつの」
およそ成人四人分くらいの横幅がある歩道。そのさらに外脇に露天や家屋が並ぶので、一方通行になるはずもない。けれども、土方衆は憚らずも歩道にまで乗り上げて木卓を囲っている。上に載っているのは絵柄や漢字が刻まれたブロック。たぶん発言からも察するに麻雀だろうか。小気味いい打牌音にぶさいくな声が入り混じる。
「――やってらんねぇよなぁ……」
「ああ、ったくよぉ。いつまで安い金とマズイ飯で雇われてんだっての」
それを眺めながらぶつくさ呟いている周りの男も、めいめいに茶色の瓶を持っていた。顔の紅潮具合を見るに、中身が酒の類であることは容易に想像できる。
「俺なんざぁこの一か月冷や飯と漬物だけだぜぇ? たまにゃあじっくり炙った燻製なんかをつまみに、日本酒をキューっとキメてぇってもんだろ?」
「ガハハッ、そりゃ酒買ってりゃ残るはってなぁ! まあ、こんなクッソ安い蒸留酒でも酔えるってもんだがなぁ……けッ」
「今頃、あの「お姫様」は屋敷で旨い飯食って酒かっ喰らってぐーすか寝てたりなァ……ハハッ」
――くだらないな。
止める人も居ない中、レイシは極めて無関心な表情でさっさと通り過ぎ、なお誰よりも関心を持って話を聞いていた。ただのないものねだりだろうし、彼らの風体を鑑みても同情もできない。
一国一城の支配者……と呼べば樒はきっとしゅんとなる。威圧的な呼ばれ方も能動的に敬われるのも好まないからだ。それでもともあれ、彼女は今や永山の街の顔役だ。それについて間違いはないだろう。
樒が永山の町を可能な限り良好に保っているのは、ここ数日見聞きしただけでも明らかだ。男どもはお姫様などと揶揄していたが、彼女の待遇は順当で、この町を守っている事実に対する正当にして、至極真っ当な報酬だ。奴らが不満を漏らすのは、当人の実力不足によるものが大きいだろう。
――でも、やっぱり自分より若い人が支配者ってのは受け入れられないものなのだろうか。
レイシにはあまりピンときてなかった。年功序列が一般の日本では珍しい考え方なのか、あるいは古臭い思考として刷新されているのか。
人を率いる人間の力は外見でなく内面……とは一概に言い切れない。若ければそれだけ舐めて見られるのもままあるものだ。初対面見の人の評価は外面が大半を占めるのは実に的を射ているとレイシは思う。
誠実な者と胡乱な者、凛然な者と怠慢な者。鏡合わせの人間を見るだけで、信用に値する人間か容易に測れるだろう。
そもそも立場とはいえ人の上に立つ人間が「舐められる」なんてあってはならないのだ。肩書の価値を証明しなければならないのだ。相応の服装に身なり、態度や振る舞いと求められるものは様々だが、常に己の研鑽をすることも求められる資質。
客観的評価ながら、樒は「御屋形様」として民草に親しみすぎているのではないだろうか、などと思えてしまう。……まあ、レイシでさえやや懐疑的に思ってしまうのだ。彼女の苦労も苦悩も、レイシには計り知れないのだろうが。
――それに、僕も今の環境だからこんなことを言えるのかもしれないけど。
呑気に他人事めいた独白を心でぼやいた。
にしてもあの男ども、まだお日様が真上にすら来てないのによく酒を煽る気になるものだ。記憶を取り戻した後、自分があんなあれこれ破綻した人間だった……なんてしょうもない結末だったらどうしようか。喧嘩になるのも嫌だから無視していたが、ややもすればあの連中も勝手に酔い潰れて静かになってくれるだろう。気に留めてなかったレイシだが、突如背後の人波の速度が大きく上がる。
「ちょっ、押すなって!?」
「きゃっ! ちょっとちょっとなになに!?」
「あっ、おいバカ野郎! 手牌倒れたじゃねぇか!」
唐突に始まるおしくらまんじゅうに、あちこちから悲鳴と罵声が上がる。辛うじて飲み込まれるのを回避していたレイシだが、思いがけぬ圧迫に急遽近くの軒先に避難する。
「……なんだろ?」
いまいち状況を飲み込めてないレイシは元凶を探るべく、家主に怒られたら逃げ去ろうと思いながら手近な木箱の上に乗って遠くを眺める。
人の波の最後尾、数人の男女を連れながら、全力疾走している集団が見えた。あれが駅前に遠征に行った人たちだろうか。
……どうも数日前の自分とシンクするのに気付き、まさかと思い集中しながら耳を傾けると――。
「せ、正門に『荒魂』が三体! 振り切ったけど、間近でうろついてやがる!」
想像通りの展開だった。
あっという間に騒ぎは広がり狂騒になる……かと思いきや――。
「急げ! 収奪品はこっちへ、全員建物に避難!」
「正門が壊される前に防壁用意! 増強用の材木かき集めてこい!」
「おい岩垣のっ! 帰家の衆に手ェ貸してやってくれや! 古酒だがいい酒後でおごってやっからよぉ!」
瞬く間に、この場に居た全員の目の色が変わる。
「「「おぅっ!!」」」
「ウチにゃあ酒浸りのバカ野郎はさんざっぱら居るがなぁ、宵っ張りの朝寝坊する奴も居なきゃあ仕事しねぇクズ野郎は居ねぇってなぁっっ!」
あの酒を飲んでいた土方衆も一杯の水をがぶ飲みした途端に動き出す。どたどたと、喧しい足音を立てながらも工具建材を担いで走っていく岩垣の土方衆。
「すげぇ……」
荒波の潮流のように人々が動き出す様に、レイシはつい立ち止まってしまう。
「なにをボーっと突っ立ってるんだ」
「――っい……一鬼さん?」
「『荒魂』が現れてお前みたいに呆けてる奴は少ないからな。遠くから一目見て分かった」
木箱の上でそんな光景を眺めていると、後頭部に手刀を浴びせられた。
「こら、一鬼。出会って早々暴力に訴えるのはよくありませんよ」
振り返ると、そこには樒と一鬼が立っていた。平時の姿で一鬼は武器を携えてすらいない。あの時と変わらず、樒が携えた白い刀――浄刀『禊』が白光を纏っている。
「御屋形様。観測通り正門の方角です。鉢呂と部田の者に避難、椎井に簡易防壁の設置を指示しております。正門は『結界』の薄片……御屋形様と言えど、どうかお気をつけて」
「ええ、有り難う一鬼。行ってくるわ」
報告を受けた樒は颯爽と駆け出すや、人混みの真上を一足飛びで跳躍していった。
その姿を見た民衆から、大雨のような声が上がる。
「お、御屋形様だ! 御屋形様が討伐に出向いてくれたぞー!」
「急げよ! 事が済んでから資材持ってきたじゃあ、だらしなさすぎるからなぁ!」
「がんばってー! おやかたさまーっ!」
悪しき霊を祓う英雄の姿に向けられた賛美称賛の喝采。常軌を逸しているはずの跳躍力にも見慣れているのか、それすらも少し恐ろしく思える。
――なんだか自分すらも化生になった気分だ。
「私らも行くぞ」
「はっ、はい!」
後を追う二人。ずるずると差が開いていく。一鬼の桁外れの速力を前に遅れるわ、すぐに息が上がるわ。見かねた一鬼が担ぎ上げて運んでくれた。
「ひょろひょろもやし男め」
「い……一鬼さんが……怪力すぎる……んです……」
永山正門前。
なんとか樒に追いつくことができた。米の詰まった袋みたいに投げ降ろされながらも、正門付近の櫓から門外を眺める。
「どこに……あっ居た!」
こちらの声に気付いた樒が手を振り返す。いつもと変わらない、優しい微笑みを絶やさない彼女そのままだ。視線をさらに奥へと移すと、件の敵影を視認する。
「同じだ……前に現れた奴らと……」
暗い影の塊、『荒魂』――レイシは息が詰まりそうになる。
「む。なんだ、ただの『怨魂』か。斥候連中もそうだが、遠征部隊も『荒魂』と言うもんだから来たんだが……焦って損した」
「焦って……って……いや、そもそもあれ……種類あるんですか?」
異形に怯むレイシとは対照的に、一鬼は随分と拍子抜けした様子だった。
「それに一体足りないですよ? たしか、三体って言ってた気が……」
「見間違いだろ。体はあんなだし、そもあれは私たちと根本から違うしな」
「根本から……?」
レイシが口元に手をやると、「察しの悪い奴だ」と一鬼は嘲る。
「私たちの肉体が数多の霊魂で構築されていることを以前話しただろう。『荒魂』と呼ばれる存在は、体を構築する霊魂を自身の意志で完全に支配し、統率している。数多の魂の霊魂を強引に手足や臓器、血液に骨と組み替えてるのに等しいな」
「……そう、でしたね」
「今更戸惑うな。どうあれお前がこの先、その肉体に成っただろう霊魂を解き放つことはできないんだ。もはやお前の一部だからな」
何度でも、事実を聞くと黙りこくってしまう。
「話を戻すぞ。あいつら『怨魂』ってのはいわば、統率している霊魂たちが暴走した状態だ。取り込んで体にしたはずの霊魂たちがそれぞれ自我を持ってしまい、全身に命令が行き渡らなくなってるんだ」
「……船頭多くして船山に上る、ってやつですね」
「基本的にああなってしまったら、お前みたいに善良な意志を持つ霊魂なんて飲み込まれているさ。善の意志を遥かに上回る悪意によって、塗りこめられてしまっている。終いにゃ心の赴くまま、破壊し、喰らうだけになる」
どこどこまでも冷めた目で、彷徨っている怨魂を眺めている。
「絵具みたいなもんだ。白が如何に濃くても黒を完全に塗り替えれない。逆に黒が濃ければ白はあっという間に塗りつぶされる。白よりも、善意よりも、真っ黒な悪意が強いんだ。覆水盆に返らず、一滴でも黒を白に垂らせば、白が戻ることは二度と無い」
禍々しいばかりに鬼灯色の瞳を暗く染める一鬼。
「天秤の軸が砕ければ、簡単に堕ちてしまう……ってことですね」
「まるで詩人みたいな台詞だな。さて、どうやら侵入は抑え込めたようだな。ま、いくら薄片になっているとはいえ、正門には結界が貼ってあるんだ。そうそう簡単に入れるはずもないがな」
知覚能力の無いはずの怨魂が樒を捉えたようだ。人の孕む霊力を嗅いだのかさておき、ふらふらと近寄ってくる二体の『荒魂』……いや、『怨魂』に相対する樒。呼吸一つ乱すことなく、剥き出しの殺意を前に屹然と立ちはだかっている。
「御屋形様のお手並み拝見、だな」
「助けには行かないんですか?」
「なら、お前は行けるか? なりそこないとはいえ同じ『荒魂』、同じ御屋形様の配下だぞ?」
逆質問に当然ながら「行けません」としか答えられなかった。如何に同類の『荒魂』であれ、この体には戦闘能力と判定できる技術技法はなに一つとして備わっていない。多少走って飛んでができるくらいだ。
「ならばせめて、よく見ておけ。旭川の爆心地を封じ、永山の街、お前を、私たちを守護せし『荒魂禊師』の力を」
鼻を鳴らす一鬼。レイシも眼下を見やる。
「汝ら魂に、せめてもの平穏があらんことを――」
文字通り鎮魂と哀悼の意を捧げながら、腰帯に差した刀を――『禊』を抜き放つ。
「浄刀『禊』……万物の邪悪を禊ぎ、穢れを祓い、魂を清め『幽世』へ無傷で還す刀――」
「よく覚えているな。だが、『禊』で斬り祓われた『荒魂』がどうなるか。それはまだ知らんだろうよ」
きゅむっ、と。自分の着物の袖を掴んでいた一鬼。
やはりあの刀から放出されているだろう「祓う力」が、彼女を脅かしているのだろう。
とはいえ彼女に何ができるもなく、ただただ刀を抜いた樒の御業を眺めるだけだ。
「『旭川爆心地』を統治せし荒魂禊師、淀川樒。いざや、参ります」
白刀を握りしめ下段に構えたのが戦闘開始の合図となった。
構えを見るや二体の怨魂は、うぞうぞと体を蠢かす。体をゆらりと捻っては力を込めると、それぞれが備えた黒い触腕を一斉に樒へと振り抜いた。立体的な軌跡を描くそれは、さながら闇を練り固めて生み出した鞭。そのくせ凄まじいまでの破壊力を備えており、樒の前方全ての角度から文字通り人外の速度で襲い掛かる。
「〈雪花〉」
しかして、それすらも容易く上回るは人の業――緩やかに繰り出した横薙ぎを見るに、軌道を変えた触腕目がけ繰り出された一閃。同時に二本の触腕を切り飛ばしたのだ。
「脱力から放つ連撃。中段薙ぎ払いで腕の軌道を上下に固定、そこからさらに一閃ずつ。計三連の斬撃だ。まあ、お前には一瞬の出来事だったろうな」
かたかたと、片手を震わせながらも得意げに解説する一鬼。当然の如く、レイシは呆然と光景を眺めているだけが限界だった。
さて、己が身に備えし最大の武器を失った怨魂たち。獣でも本能的に脅威へと警戒の意思を見せるだろう。しかし彼の者らが持つ最大の本能は、ありとあらゆる魂を喰らい、飢えと渇きを満たすことだけ。今度はボロボロの牙や爪を突き立てんと、樒に向けて身一つで真っ向から突っ込んでいく。
やぶれかぶれだが実力の差や勝算など度外視しているのだ。思考の末に出た結果ではない。本能がはじき出した当然の帰結。対する樒はまるで動じず。白刀を腰に差した鞘へ納めて斜に構える。所謂居合の構えだ。
「〈瞬天〉」
すれ違いざま、一陣の風が駆け抜ける。
「是にて、仕舞だな」
刹那、二体の怨魂に光が奔る。
ぴたりと止まった怨魂の身体が、闇が、横にずれる。
ずるずると、塊の片割れが地面に零れ落ちると、そのまま動くことなく沈黙した。
「――――」
絶技一閃――あまりに一瞬の出来事。
レイシはコメントのしようもなく、口をあんぐりと開けたままだった。
二対一の状況から一転、まず最初の立ち合いで怨魂の触腕を、神業のようなカウンターで切って落とした。最後に疾風怒涛の居合切りが二体同時に、真っ二つに裂いたのだ。
「な? あの程度、相手になるはずもない」
震えながらも主人に代わって最後まで得意げにしている一鬼をよそに、レイシは驚愕のるつぼから未だに抜け出せないでいた。なにせ改めて目の当たりにしたのだから。自分が記憶している世界とは百八十度真逆の、とんでもない世界に居るのだということを。
「……なんて非科学的な」
「今更だろ、それ」
まったくもってその通りだった。だが、非科学的で非常識な光景なのは、尋常の思考回路しか持ち合わせないレイシには変わりなかった。
息を一つ付き、視線を下ろす。斬られた怨魂たちはピクリとも動かない。少しずつ、偽りの身を模る闇の煙を、光の塵へと変えながら天へ昇っていく。
「昇天、ですか」
「正しく逝けているかはさておき、とりあえず現世からは解き放たれるだろうさ」
「よもや、この世界で「正しく逝けている」かの確証なんて無いでしょうに」
「だろうよ。逝った矢先、別の魂に喰われてるやもしれんよ」
言いながらもレイシは無意識に手を合わせていた。
光の塵が狼煙のように空へ昇り、終に消えたころ。そっと手を降ろして空を仰ぐ。レイシ自身死んだ記憶は忘れてる。それでも目の前の明確なる「死」に対して、彼が取った行動は実に人間的だった。
清める。祓う。禊ぐ――如何なる美辞麗句で取り繕おうと、彼の魂は再び死んだ。
混ぜこぜで、誰が誰だか分からない命の汚泥みたくなってしまった恨みの塊。自分と同じく誰にも悼まれず、祝福もされない魂。だからせめて――。
僕だけでもいいから。
彼への。彼女への。どこの誰かへの祈りを捧げよう。
その時ざわりと、背筋に言い知れぬ寒気が走り、中てられたレイシの身体がびくりと大きく跳ねる。
「うぉっわぁ!?」
「うわぁっ! なんだ急に!?」
正門前。水田の泥濘の中。
「……もう一体――」
祓いあるべき世界に還った怨魂たちのさらに奥。
「もう一体――さっきのより、ヤバいヤツがいます!」
一際巨大で、一際異形な存在がそこに居た。
最後までお読みいただきありがとうございました。
〈雪花〉――交差法の刀術。
〈瞬天〉――疾走しながらの抜刀術。
となっております。