#2 比良坂堂の淀川樒 其の二
カラン、コロン。カラン、コロン。
下駄? ブーツ? どっちか、いやその両方か?
高下駄に似たブーツのような靴の奏でる足音は、未だ夢から覚めぬ心地の意識を徐々に覚ましてくれる。お団子ヘアーの老婆こと褥が開く『七竃診療院』から出た後、少年は先導する女性と共に街を歩いていた。雪のように真白い髪の毛が風になびくと、心なしか花の良い香りが感じられる気がする。
――それにしても。
「あ、あの……」
「どうかしましたか?」
その後に「なんで手を繋いで?」とは気恥ずかしくて言葉に出せずにいた。
身長もあちらの方が高く、一見すれば子供を引き連れる親のように見えるかもしれない。しっかりと繋がれている彼女の左の掌から、平均よりやや低めの体温が感じられる。
「あ……手、繋いじゃダメでした?」
彼女本人もそんなに意識してなかったのだろう。気付いたのか見透かしたのか、目を丸くしてそう言うと、みるみるうちに表情がしゅんとなっていくではないか。
「迷子にならないように、と思ったのですが……ごめんなさい。嫌、でしたか……?」
「いえいえそんな! ……むしろ光栄というかなんというか……って違う違……いや違わないけど……」
「……ッ! それならよかった……!」
いたたまれなくなった少年はつい前のめりに否定すると、今度はパッと花開いたような笑みに変わった。目まぐるしく、コロコロと表情を変えるこの女性は、存外子供っぽい性格なのかもしれない。
そして再びの無言。
「貴女は何処へ向かっているんですか?」
「そちらも心配ご無用ですよ」
「……回答になってない」
ぴしゃりと言い切られ、つい質問の続きを押し切られてしまう。
――……会話が続かない。
どうも続かない。決して彼女自身が会話をしたがらない、というわけでもなさそうだ。
しかし続かない。なにせこちらから詰め寄る話題題材もないからだ。
まあ、どのみち、結局のところ。会話はその後も大した発展も見せぬまま、続かなかった。
手持無沙汰で仕方がないので、この町を観察することにした。分かったのは、あらかたの成り立ち。そして件の女性が天然というか、やや変わり者だということだ。
永山の町は寂れてはいるものの、人が脈々と生きている気配……炎々とした活気が感じられる。少なくともあの『荒魂』とやらが纏っていた、皮膚を凍てつかせ引き裂く寒波のような気配とはまるで違っていた。
雑多な石材を詰め込んで舗装した道路には老若男女と人の往来があり、質素な長屋が立ち並ぶ商店街では銭と物の取引が盛んに行われ、声と声が交錯する世界がここにはあった。
まるで古めかしい映画のワンシーンみたいで、どこか、何故か、懐かしく感じる。
しかし、それでも少年は拭い難い違和感というか、敵視にかなり近いであろう気配も同時に、ひしひしと感じていた。それくらいに自分たちへ向けられた人々の目は様々だった。
先んじて女性に向けられているであろう、尊敬や敬意を込めた視線。対して自分へと向けらているはずの、奇異や奇怪を込めた視線。先にとった己の行動を顧みれば納得せざるを得ない。けれどもやりきれない気持ちがこみ上げる。
「ふふっ。不安もあるでしょうがどうか安心してください。ここには貴方を脅かす敵は居ませんよ」
そんなことを考えていた自分の表情を見られていたのか、女性は笑みをたたえてそう言った。
「……そうだといいんで――どぁっ!?」
その返答前に声は衝撃によって潰された。
「おかえりなさい、おやかたさまー!」
「あっ、ホントだ! おやかたさまだ!」
「おねーちゃん! 帰ってきたんだ!」
つないだ手を思わず放してしまうほど鋭い衝撃――その正体は子供の低空タックルだった……まあただ子供が腰目がけ勢いよく突っ込んできただけだが。
予想外の痛打に悶える暇もなく吹き飛ばされている間に、女性はわらわらと集う子供たちにあっという間に囲まれたではないか。元気よく手を挙げたり振ったりと、親し気に近づいて話しかけている子供たち。
御屋形様、それにお姉ちゃん。敬称に愛称、一人ずつ女性を呼ぶ声は違うものの、心の底から慕っていることはよくわかる。そんな分析をしながら困り気味の女性を少年は外輪から眺めていた。子供特有の年長者に対する遠慮なしの圧に負けながらも。
「あらあら……ええ、ただいま戻りましたよ。みんな仲良くいい子にしてましたか?」
「「「はーいっ!」」」
正面からは一度だけ薄れゆく意識の中見て、これで二回目だが――やはり綺麗だ。
感嘆するようについ長く、深く、見つめてしまう。
化粧気の薄い白い肌、薄めの紅を引いた細めの唇、整った形の鼻。道行く人が振り返るのも仕方ない美しい顔立ちと、つい無難でありきたりな表現に落ち着いてしまう。美辞麗句を尽くせばむしろ、その凛として透明に完成された彼女を穢し、濁らせてしまう。そんなくらいに美しいと思えた。
よく手入れされた髪の毛は純白の新雪のようで、短めに切り揃えられていたそれは子供の話を聞いて頷くたびにふわふわと揺れる。長めに伸ばした二房の銀髪を触角のように前に垂らし、さらりと流した前髪を紫色の花飾りで留めている。これまた腕の良い彫金師が手掛けたのだろう。花弁一枚一枚に精緻な細工を施してある高級品だ。身に纏う樹氷を描いた純白の着物も、彼女の透明感をさらに醸していた。
澄んだ深みを持つ瑠璃色の右目と妖しく艶やかに輝く紫水晶のような左目――左右の虹彩の色が違う所謂オッドアイと呼ばれるものだ――は柔らかい笑みを浮かべるたびにふにゃりと細まる。本当に表情豊かで、何より今この瞬間が楽しくて仕方ないのだろう。
気になるのは左目だけ妙に形が散らかっている瞳孔。着物の間から覗いた首筋の付け根に薄っすら見える黒い毛細血管のような何か。そして端整な顔立ちの中にあって異常に見えるはずの一対の真っ黒な角。一見奇妙であり妙に馴染んでいるそれは、左方だけ中ほどからものの見事に砕け、ぺっきりと折れている。
ここ日本の奇譚、昔話に言い伝えられる妖魔の象徴――鬼の角のように見えるのが気になるところだが、子供たちが恐怖する様子は毛ほども無い。しかも無遠慮に触っているではないか。しかして異形を恐れる目も、怪異を怖れる目も介在していない。周囲の大人の反応は怖ろしく、畏れている、そんな具合だ。
――まあ当然だろうな。
少年はさめざめとした気持ちだった。彼女の地位や身分がこの場に居る誰よりも高いであろうことは、容易に理解できるからだ。
まずは身なりの良さ。明らかに子供や周囲の大人たちより、仕立ても状態も良い服を着ている。こまめに洗濯して、素材を選び、装飾品まで付けている。
対する子供たちは前時代的な無地単色の木綿製の服だった。各々スカートや短パンだったり、はたまた絵を印刷していたり、アップリケやワッペンを付けていたり、個性個人差様々だ。それら不ぞろいで味のある装飾は、工場の大量生産品のそれとは違った。たぶん親のお手製なのだろう。
大人もまた簡素且つ動きやすい仕事着らしきものが多い。薄汚れたツナギや擦り切れて色落ちしたデニム生地のパンツなど、多種多様ながらどれもが古着だった。
だが、少年はそれに関して特段大きな疑問も不可解さも持たず、ましてや快不快の琴線に触れるものではなかった。
そして褥や子供たちが彼女のことを『御屋形様』――武将や藩主などの敬称をもって呼んでいた。それこそ彼女がここでどのような立場であるか証明する呼び方だ。蛇足だが、門の外で『荒魂』を打ち倒した際、確かに彼女は「北海道が『旭川爆心地』を統治する者」――自身を一市街を治める者と名乗っていた。さすがにあの状況で身分を偽る必要はないだろう。信じるに値する十分な理由だ。だけれど――。
――そんな貴人が、こうして街で護衛もつけずに談笑していていいのだろうか?
もしお付きの人とかが居ればたぶん普通に怒るんじゃないだろうか。でも辺りでこっそり見てたり、隠れてたりもしてないし……。
うーむ、うーむ。などと、唸りながら御屋形様と呼ばれた女性をじろじろ見ていると、こちらの視線に気づいたのだろうか。子供たちの頭を撫でると手を振りながらこちらに来た。
「お話、終わりましたか?」
「ええ、おかげさまで。ごめんなさいね、長々と立ち話をしてしまって。さ、この先ですよ」
こちらの手を引く女性の上品な所作に一々目を奪われながら、再び歩み始める。
この先と、そう言って指さしたのは大きな屋敷――それも塀の外から眺めた、寂れ具合の象徴だった屋敷だ。
「……やっぱりかぁ」
「あそこが私が住んでいる家……といっても、広すぎてほとんどが倉庫のような扱いになってますがね」
つい感嘆に似た声を上げると、照れくさそうに女性は苦笑する。
荒涼とした街並みを象徴しつつ溶け込んでいる質素な屋敷は、日本人特有にして失われかけていた侘びと寂びを感じられる。派手さは無いが堅実堅牢な造りであり、古びていながらもしっかり手入れが行き届いていることが見て取れる。
屋根は雪国には珍しく瓦屋根であり、雪国特有の三角屋根や平たい造りではないようだ。雪が降るとどうなってしまうのだろうか? などと余計な心配をしてしまう。
ちらちら目線を忙しなく動かしている少年に微笑みかけ、小さな屋敷の門扉を開けると――ついと指を門の上にさす。
「改めまして、ようこそ。旭川の永山が比良坂堂へ。歓迎しますよ」
『比良坂堂』――古びた木の看板には、掠れた墨文字でそう書かれていた。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ほんわかした女性が戦闘中すさまじく冷静沈着なのが私の好みです(どうした急に)