表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/15

Prologue 魂と人

 曇天の空の下、少年は駆けていた。


 初夏が過ぎたのに嫌に冷たい向かい風が、少年を押し返さんと吹き荒ぶ。

 刈られた稲穂の根元が残る、張られた水すらも腐り果てた田園地帯は、一見で放棄されたものだとわかる。濁りきった水には羽虫すら集らず、枯れた大地には雑草すら根を張らない不毛不浄の荒野原。誰の許可を取らずとも、結果として田を荒らすことになろうとも、彼の行為を非難する者は誰も居ない。

 力強く熟れかけの地面を踏みしめ、速度を落とさずに駆け抜ける。腐敗しかけの泥濘に取られても気合で立て直す。蹴り上げ跳ね上げた泥が顔に飛び散っても、干乾びた木片に服を擦り付けても、必死に動かす腕と脚を止めることは無かった。


 ――誰か、助けて。


 それを言葉にすればどれだけ心が安らぐか。

 それを言葉にしてしまえばどれほど後悔するか。

 それを言葉にしないためにどれまで己を律する必要があるか。


 息せき切って、乾いた喉がぺったりと張り付いて、気道を塞ぐ感覚に苦しんで。けれども、迫り来る骨の髄を凍てつかせる冷風へ、少年は立ち向かう。


 少年を追跡し続ける得体のしれないモノ――化物との遭遇はつい一分もしない前のことだった。




 ふらふら、よろよろ、のそのそと。少年はぼんやりと道を歩いていた。明確な理由も無いが、砂利や小石だらけの畦道を、牛の歩みもかくやな遅さで進み続けていた。

 思い出せるものは何もない。自分がこんな所に居る見当もつかなければ、記憶どころかよもや自分の顔まで忘れてしまっていた。曇り空を映す腐った田んぼの水を鏡代わりに顔を見ても、自分の記憶の琴線に引っ掛かりすらしない。気付いた時には疲弊しきっていた体は思考することを放棄させようとしてくる。


 虚ろな、譫言(うわごと)めいた意識を維持するのが精一杯。見えるのはよく分からない「黒い球体状の何か」だけだ。それでも歩き続けていると、薄っすら街らしき建物群を見つけ、少年は安堵のため息をこぼす。外輪を囲っている塀のあちこちが石の地色を晒していたり、木製と組積造が入り混じっていたり、寂れて錆び付いた正門の材木や彫金……。ついでに街の懐事情も察するが、人どころか血の通う『生命』に会えずにいた少年にとって些事に過ぎなかった。


 とはいえ着の身着のまま、手持ちも何もな少年が街へ入れるか否か。身元も不詳だ。不審者の極みと言えよう。どうにか門をくぐれないものか思案していると、ふと顔を上げた先に動いている何かを捉えた。一、二……確かに生きている人間、走っている男性に間違いなかった。


「あ、あの! すい――ごふぇぅっ! げふぅっ!?」


 感激のあまり口が急いで動くも、干ばつしきった地面さながらにカラカラに乾いた喉が声を出すことを許さなかった。まともな声が(しゃが)れ声に飲み込まれ咳に消える。そんないびつな声だったから聞こえは悪いが、姿を認知してくれたようだ。


 しかし妙だった。それほどまでに人と出会うことが珍しいのだろうか。二人の男たちはそのまま勢いを殺すことなく、一瞥をくれただけでこちらに向かってくるではないか。

 目測でおよそ二百メートル未満だ、このままならすぐに接触するだろう。疑問の余地はあるもののこちらとしてはありがたかった。……などと悠長でのんびりした考えを張り巡らしてた矢先だった。


 一人、赤いなにかをまき散らして転んだのだ。


「あ――ッ――」


 思考が、止まる。倒れた人の後ろに浮かんでいた何かを視認する。


 ――暗い、暗い影……の、塊?


 人が流した赤い液体に近づいた塊は、ばっかりと、中央部から横に割れる。牙の生え揃った口……のように見える空洞を、倒れた男へ重ねると――。


 めりっ、ばきっ、ぶしゅっ。


 空虚に投げ出された感覚が、早鐘に変わりつつある心音を捉える。異質な悪寒が、浮かんでいる汗を冷やす。


 男を咥えた影から響いてくる音は、識別する限りでは咀嚼と磨砕の音。そして認識しつつある液体が微かに喉の奥へと飲み下される音。行っている行為自体は人が生きている上で自然に覚える行為……動物性たんぱく質を取り込む行為であり、嚥下の音も食事のそれと相違無いだろう。

 しかして口の中にあるモノと、取り込んだ様々なモノが破裂し引き裂かれる音、モノが放つ鉄に似た臭い――目と耳と鼻の三つの覚が確かに受け止めた非現実的な情報を前に、少年は今に閉ざされようとしている門へ向けて咄嗟に駆け出していた。


 背を向けて逃げ出す行為……常軌を逸した光景を受け入れないために、敢えて脳が判断したのだろうか。逃走という選択肢を選んだのも遺伝子が与えた防衛本能であったのだろうが、最後に視界の端で捉えた光景――空気に触れて黒ずんだ血を、べろりとなぶり取るため動いた舌も、脳裏に鮮明に焼き尽いた始末だ。仕舞には妙に生々しくげっぷを吐いた音までもが耳に残っていた。


 ……そして彼は冒頭に至った――というわけだが、状況は変わりつつあった。


 自分を喰らわんと迫っている脅威へと振り返ってしまった少年。彼は泥濘に足を突っ込んだ時点で二択を突き付けられていた。


 門を強引に通り抜けるか。

 脅威を追い抜き逃げおおせるか。


 正面に見える街の門を強引にでも通り抜ければ、きっと助かる確率は大きく跳ね上がるだろう。人ごみをかき分け力の弱い老人に女性や子供を蹴散らせば、大きく生存できる確率は高まる。正直、自分の体力脚力を鑑みても後者の選択は愚の骨頂と言えよう。前者を選ぶは当然の帰結、のはずだ。

 ……けれどきっと、それに伴ってより多くの人が死ぬ結末定確約される。自分の代わりに化物に襲われ、耳を塞ぎたくなる痛々しい悲鳴を上げ、無残に死んでいくだろう結末が。例え襲った者に比類なき膂力があろうが貧弱非力であろうが、あの化物は見境なしに暴れ回り喰らい尽くすだろう。


 門の傍には人が立っていた。先ほど無残極まりない遺骸になった人の連れか知り合いか。間柄はさておき怯え切って歪んだ男性の目は少年の背後の脅威に向いていた。つい一刻前まで行動を共にしていた連れ合いが、終ぞ肉片骨片に変わり果てたのだ。反応は至極当然のものであり、それがおそらくこのままでは街中に広まるものだと恐れ戦いているのであろう。


 そして今まさに選択が委ねられた。

 名も無き少年に、行くか止まるかの是非が。


 二つに一つの選択の元で死体が量産されるかの可否が決まる、救いも無く熟慮の時すら与えられない極限の問答に、少年は――。


「くそぉぉぉっ! どうして――なんでだっ!?」


 少年は咆えた。

 腹の底から咆えた。

 振り返って、相対して、吠え立てた。


 助けを求めていたはずなのに。

 自分の身代わりにしようとしていたはずなのに。

 無力な者すら犠牲にして浅ましく生き延びようとしていたはずなのに。


 何故か彼の体は意思と反した行動をとっていた。あろうことか自分を貪り殺さんと追い立てる対象に立ち向かっていくとは。命を惜しむ理性を捨て、本能を拾った。

 

 ――後悔しないために動く。


 忘我の心が思い出したのは、在りし日の己の言葉か否か。


 ――後悔は死んでからできる。


 口をついて出た台詞を決意と共に飲み込む。


 ――答えが無い時は己が意志に従え。


 思いのたけを込めて振り返る。

 そうして彼は、心から後悔することになる。

 こうして向き合った結果が招いた結果に。

 意志に従った結果に呪いめいた意思を感じながら。


 化生、妖怪、怨霊――改めて目の当たりにしたそれを形容するならばどれにも当てはまり、模り形作る物質は確実に『生命』から遠くかけ離れたものであることが理解できる。人間でも動物でない何かが少年の双眸へと映る。


 それでもなお説明するならば、足は無く、宙を浮き、怪談に聞く幽霊亡霊の姿とそっくりな……いや、澱んだ暗黒を煮詰めた塊か、もしくは自我を持ち脈々と蠢く影か。

 右方の眼窩はくりぬかれた真っ暗で底なしの空洞。片や左目には生者が灯すはずの命の輝きは消えており、代わりに名状しがたい暗澹(あんたん)たる意志を宿していた。影の延長のような腕を伸ばし、真っ黒く変色した歯茎を覗かせ、ひび割れた黄ばんだ牙を凶悪そうに剥き出す。奴は小汚いその牙をこの身に突き立て、温かい血をすすり、冷え切った肉を食むのだろう。想像するだけで冷えた汗がさらに冷え切り止めどなく溢れてくる。


 言葉にするだに理解が深まる。こいつはあまりに不可解で異質な存在だということ、そして唯一明確に理解できること。


 ――ああ、こいつは自分を殺す気なのだ。


 獰猛な殺意をこの身に受けても、逃げることも振り返ることもできない。ここで振り返れば立ち止まってしまう。立ち止まってしまえば良い方向で括った腹が悪い方向で据わるかもしれない。


「うぉぉぉぉぉっっ!!」


 だが、再度咆えた少年の覚悟は二度と揺らがず、鋼の鏃の征矢が如き勢いをもって駆け出した。

 彼方へ融けていったはずの記憶も、自己の存在証明も、取り戻せる物も、可能性の何もかもかなぐり捨てる。価値が無い、まだ自分すら価値を見出せていないこの命を使う場所はここしかない。化物がぞわりと伸ばした腕に、死の抱擁に包まれるその刹那――。


 ばしゅん――。


 後ろには閉まりかけの門扉しかないはずだった。

 純白の光芒が背後から通り過ぎたと思うと、化物の体を紡ぐ闇がいくつにも断たれ、分かたれ、無尽の閃光の迸りに熔けていく。


「今し方、貴方を襲ったのは『荒魂(あらみたま)』――数多の邪悪な意思が紡がれ、生まれ出でた化生。生きとし生ける者たちの生命を欲する悪しき霊魂……成り立ての悪意そのものです」


 通り過ぎた閃光から聞き取れた声らしき言葉が、少年の耳に辛うじて届く。

 文字通り光の速度で向かってきたであろう何かは、現状おそらく人間だということが理解できた。ついでにあの闇の塊が、『荒魂』という存在が、どれほど悍ましい物体であるのも同時に理解できた。


「生者が生者であるが故にその身に秘め、燃やし熾す命魂の烈火。それは己が因果と応報の果てに命を落とした死者たちが欲し求める物……大きな罪業を抱え死んだ者が、故も資格も無く羨み、妬み、奪おうとするのは必定。さながら灯蛾のように、本能のままに追い求め、縋るのです」


 交わる光と闇が混沌の渦を作り出し、霧が晴れるように爆ぜれば、爆風にかき消されたかのように曇天から一筋の陽光が差し込んでくる。少年の身体も一緒に吹き飛ばされたが、視界の端で『荒魂』なる存在だった闇を捉えると――日の光に残影の一片をも残さず飲み込まれ、ついには消えさり残光が雨になって降り注ぐ。


 夢か、はたまた幻か。

 化生の(かいな)から抜け出した少年の目に映るのは、眩く煌めく純白の刀を携えた、純白の着物を纏う女性の姿。振り返れば、携えた刀より放たれたであろう斬閃の光芒によって化物が霧散していたではないか。


「よくぞ頑張りました。悪意に耐え、恐怖に堪え、よくぞ立ち向かいました。悪しき魂の魔の手が罪無き人々を襲う前に、貴方自身が犠牲になることさえ厭わずに。己が勇心……是非とも、心より誇ってください」


 耳もどうやら幾分かおかしくなったのか。

 蛮勇を勇気と称えてくれた、少年を労う女性の声はとても穏やかで、心の底から安心できた。


「その苦悩も、その苦悶も。貴方が背負い、負った苦痛は無駄ではありませんでした。……いえ、誰が無駄にするでしょうか」


 触覚も、というか五感全てが狂ってしまったのだろうか。

 生傷から滲む血。擦り潰し切れた草の汁。跳ねた泥なのかすら判別もできない汚れ。襤褸切れ同然の身なり。醜く汚れた自分の体を微笑んで抱きしめてくれた。到底刀を握って闇を祓ったと思えない小さな掌が、頭を撫で、汗を拭い、乱れ切った髪を整えてくれた。


 こうして、名も無き少年は生き永らえた。


「北海道が『旭川爆心地』を統治する者として、心より感謝します――名も無き少年」


 最後に何処までも温かく優しい抱擁は、生きている実感を濃く深く刻み込むに十分足りえた。

 ぼんやりと薄れていく意識の中惜しむらくと思ったのは、命の恩人の名を知れぬことと、その尊顔を拝せないことだった。




 北海道が旭川、その中心部の一地域、永山の住人は、口々にこう嘯いた。

 それは空より出でたのか、はたまた地から湧いたのか。あるいは何かが爆ぜた後なのか。ともかくそこは『黒く靄がかかった何か』に覆われていた。

 暗闇の卵、夜闇の(まゆ)夜帳(よとばり)の領域……新聞、三文小説、宗教詩が謳う、くどいまでに修飾し美化された形容。

 それらを差し置き『黒く靄がかかった何か』を、人は『爆心地』と呼ぶ。

 『爆心地』と、その様相を何と投影して言葉に表した先人には畏敬の念を禁じ得ない。とかく暗く底の見えない漆黒に包まれた領域は近寄る者は居ない。生者が近寄らずとも引き寄せるモノは数多くあるのだ。


 ……永山に住む住人は、口々にこう嘯いた。


 旭川より湧き出る憎悪の霊魂――「『荒魂』には気をつけろ」と。

 最後までお読みいただきありがとうございました。

 兼ねてより書いていた作品です。こうして出せるようになれたのが嬉しいような、まだブラッシュアップしたいようなです。


 北海道を襲う『荒魂』。

 突如として世界に開いた現世と幽世の門『爆心地』。

 そして『荒魂』を祓う女性と出てきた少年――今後の展開は如何に?

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ