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雪溶かす頃

作者: 梨本みさ

 窓の向こう側では雪が降っている。

 舞っているなんて綺麗な表現は似合わない。大きくて重たそうな片が、ぼたぼたとひっきりなしに空から落ちてくる。地上に降り立った雪たちは着実にかさを増やしていた。


 窓際の席で頬杖をつき、わたしは外を眺めていた。降りすぎだよ、と心の中で呟いてみる。昨日用務員のおじさんが雪かきついでに作った力作のオラフの雪だるまが、すでに新雪に埋もれようとしていた。昨日はたくさんの生徒に囲まれて写真を撮られていた彼は、もう一人ぼっちで消えてしまいそうだ。

 窓から伝わる冷気に身震いし、くしゃみを一つ。

 勉強しよう。

 そう思いペンを持ち直したところでチャイムが鳴った。三限目の授業の終了のチャイムだ。

 大学入試センター試験を終え、国公立の本試までは特別編成の授業が組まれている。基本的に自教室で自習で、各々が自分に必要な科目の授業だけを受ける形だ。

 教室を見渡してみても、チャイムが鳴ったにも関わらず、ペンを投げ出す者はいない。寝ている者も、当然いない。全体的に空気がピリピリと張り詰めている。ほんの少しの私語や怠惰な態度が、誰かを酷く苛立たせてしまうこともあるのだ。わたしも何度か経験した。両方の立場で。


 四限目の数学の授業を受けるべく、教材をまとめて指定の教室に向かう。

 着いた選択教室は今日は一度も使用していないのか、空気が冷えきっていた。生徒は操作してはいけないという決まりのストーブのスイッチをいれ、一番近くの席を陣取る。

 しばらくすると、同じクラスの男子生徒が一人やってきた。彼はわたしから一つ席を空けて座った。彼の持つ赤本には、わたしの志望校とほぼ同じ偏差値の中堅国立大の名が印刷されていた。


 担当の先生は、チャイムから一、二分送れて入ってきた。二十代半ばの若い男性教師だ。

「起立、礼」

 は、先生が自分で言う。

「お願いします」

 と、わたしともう一人の男子が軽く頭を下げる。この授業を受ける生徒は、わたしたち二人だけなのだ。

 志望校のレベルや出題範囲によってクラス分けされた数学はもともと一クラスの人数が少なかった。しかし、それでも最初は十人以上はいた。自習状態の授業に参加する意味を見出だせない人。他の科目に重点を置く人。私立大受験のために勉強していた人。そんな人たちがやがて来なくなり、今では二人だけになったのだ。

 わたしは、この数学の時間が気に入っていた。特に親しいわけではない男子。三年生の担任でもない先生。自称進学校らしく「受験は団体戦」といわれる「団体」から隔離され、密かに息をつける場所であったのだ。

「どんな感じですかね」

 先生はわたしの手元を覗き込みながら、気の抜けるような口調で尋ねた。基本的に先生はわたしたち生徒の間を往復し、時折ストーブの側で休んでいる。質問はしたい時にいつでもできる、ほぼマンツーマンだ。

「えっと、ここまでやってはみたんですけど、わからない問題があって……」

 解けなかった問いを指し示すと、先生は体を屈めて問題文を覗き込んだ。ふわっと、コーヒーの香りが漂った。

 ちなみに今解いている問題は、わたしの志望校の過去問だ。最新の赤本には載っていない古い問題を、先生がわたしのためだけに集めてきてくださったのだ。誰よりも勉強面でわたしを支援してくれているのは、この数学の教師だと思う。非常にありがたい。励ましになる。そして、ほんの少しだけ、荷が重い。しかし、しっくりくる重みだ。空っぽの鞄は背負いづらい。ある程度負荷があるほうが歩きやすいように。

「解答は、一応渡しましたっけ?」

「はい。でも、答えを見てもよくわからなかったんです」

「そうですねぇ……」

 問題と解答を見比べた先生は、やがて黒板を使用して解説を始めた。

「……で、ここでこの法則が使えるので、」

「あ、先生……、その、今の法則って何ですか?」

「公式ではないんですが……、これはですね……」

 生徒が少ないのは寂しくもあるが、こんなときは少なくて良かったと思う。わからないことは何でも気兼ねなく聞ける。先生も、わたし一人が理解すればいいため、ペースを合わせてくれる。こんなに濃い授業を、今まで受けたことはなかった。

 解説を聞いてわたしがなんとか答えを導きだしたのを確認すると、先生は男子生徒の方へ行ってしまった。

 わたしは、まだ解いていない問題に自力で取り組み始めた。もらった六年分の過去問のうち、最後、一番古い年の問題だ。まだ、解答はもらっていなかった。

 確率の問題を一問解き終わったところで、先生がこちらに戻ってきた。そして、わたしの解いている問題を確認する。

「すみません、その年だけ答えがなかったんですよ」

「あ、そうなんですか……」

 それなら合っているか確認できないのかと思っていると、先生はわたしの解答を読み始めた。そして言った。

「そうですね。先生が解いたのと答えが少し違いますが、まあ、そんな感じです」

「そうですか……」

 内心で「ええええ」と呆れ叫んだが、なんとか表に出さぬよう抑えた。テキトーだな、とは思うが、文句は言えない。計算量の多い問題だったし、しかたないだろう。

「五通りに分けて考えたんですよね」

「はい」

「じゃあ……、大丈夫です」

 でもやっぱりテキトーだな、この先生。

 先生が背を向けたのを確認して、こっそりとマスクの下で笑った。

 次の問題を読みながら、頭の半分ではさっきの先生とのやり取りを反芻していた。


 先生は元々わたしたちの学年は担当してない。だけど担当の先生の代理なんかで何度か授業を受けたことはあった。

 小柄な体型にぱっとしない顔つきで、ぽやっとした印象を受ける先生だった。その印象通りのんびり穏やかに話す人だが、時折さらっと毒を吐くこともあり、そんなところがうちの学年の男子に受けよくいじられていた。授業中にいじられても表情を変えず「うるさいです」と言い放ち、それがまた男子たちには面白かったようでさらに騒がしくなる、なんてこともあった。

 いじられるといっても悪意ある嫌がらせはなく、むしろ好意から絡みに行っているだけだと傍目で感じていた。生徒からは何気に人気だったのだ。ただ、先生本人がどう受け取っていたかはわからない。なんせ、表情をめったに変えないから。何を考えているかわからない、掴めない人だった。きっと、先生をからかっていた男子も同じだったんじゃないだろうか。謎な部分が多過ぎて、本当の彼を引き出そうとしていたんじゃないか。

 わたしも彼の本心が気になって、でも近づき方がわからずにいた。そんな彼を、今は一人占めできるのだ。相変わらず彼の内側は見えてこないけど、でもここまで近づけたのはなんだか不思議な気分だ。


 手持ちぶさたになった先生は教卓でガリガリと何やら問題を解いているようだった。そしてぱっと手を止める。彼にチラッと視線を向けただけのつもりが、バッチリ目が合ってしまう。そして先生はくしゃっと笑った。初めてわたしだけに向けられた笑みだった。

「ごめんなさい。さっきの問題解き直したら、僕が計算間違えていました。さっきのあれで合ってます」

「あ、はい。……ありがとうございます」

 普通なら生徒のわたしが計算ミスしてると考えるのが妥当だろうに、わざわざもう一度解いてくれたというのか。それにしても……。

 そういう顔もできるんですね、先生。





 今年はどうやら例年に増して豪雪の年らしい。テレビで大雪警報発令のニュースが流れているが、ここらへんの地域の人はそんな注意報や警報を出したくらいでは動じてくれない。もう、毎年のことだから。でも今年は、わたしにとっては大事な受験の年だ。あんまり雪が降るのは、ちょっと困る。

 週間天気予報が流れ、お母さんが料理の手を止めて顔を上げた。

「来週もずっと雪予報ね。受験気を付けてね」

「向こうはそんなに雪降らないでしょ。大丈夫だよ」

「行くまでが心配じゃない。電車も止まるかもしれないし」

「そしたらお父さんが送ってくれるんでしょ? ホテルも近いし、心配ないって」

 わたしだって雪予報は不安材料なのに、なぜか母に対してつっけんどんに返してしまう。

「そう……。勉強の方は調子どう?」

「もう余裕」

「ふふ、さすがね」

 お母さんが天ぷら鍋に具材を落としていく。ジュワー、パチパチと賑やかな音が鳴り出す。

「裏の家のミユちゃんはもう大学決まったんだって。ヨウ君は車の整備会社に就職するって言ってたよ」

「そうなんだ」

「中野さんとこの子は東京の賢いとこ受けるらしいし、あんたも負けてられないね」

「そうだね。……夕飯までまだ時間あるよね。もうちょっと勉強してくる」

「はいはい。できたら呼ぶね」

 台所から逃げるように自室へ行き、大きなため息をつく。

 あぁ、うるさいなぁ。わたしの『余裕』を真に受けないで欲しいなぁ。

 模試でA判定はとっくに出てるし、センターもまぁまぁ上手くいった。学力的には確かに余裕ではある。本番でコケたりしなければ。

 そう、本番で何が起こるかわからない。絶対受かるなんて言えない。ゲームみたいに直前でセーブして、失敗したらセーブポイントからやり直すことができたらいいんだけど。

 平静を装ってるつもりだけど、内心はめちゃくちゃ不安だ。不合格の夢を見て酷い寝汗で目覚める夜もある。お風呂でわけもわからず泣いてしまうこともある。

 そんなわたしの心境を理解しろとまでは望まないけど、プレッシャーになるような話は聞きたくない。他人の言葉で自分のペースを乱されるようなことにはなりたくないんだ。

 心を掻き乱すモヤモヤをわたしは対処できずに、力ずくで押さえつけるように机に突っ伏した。涙が滲んできた目蓋を強く閉じる。

 目蓋の裏に、教室で自習するクラスメートたちの姿が浮かんだ。一緒に数学の授業を受けている男子生徒の横顔が浮かんだ。そして、数学の先生が浮かんだ。


 先生。


 助けてよ。押し潰されそうだよ。もう、逃げ出したいよ。わたしがこんな苦しんでるなんて、きっと想像もしてないでしょ。いつもすました顔して授業を受けてるつもりだから。虚勢を張った覚えはないけど、弱音を晒したことだってない。

 心配されたいわけじゃない。むしろ、実力があるって認めらるようになりたい。だけど、先生……。わたしは、ただあなたに気に掛けてもらいたいだけなんです。




 前期試験の二日前、試験前最後の登校だった。数学の授業は、昨日までいつも一緒に受けていた男子は今日はいなかった。三十人入るはずの教室で、わたしと先生二人きりの授業となった。気持ちが落ち着かないのは、試験直前だからか。

「出発は明日ですか?」

「はい」

「じゃあ、今日が最後の授業ですね」

「…………」

 息がつまる。センター後から淡々と勉強する日々が続いていた。それが終わろうとしている。試験の日程は、待ってはくれない。

 不安と緊張で顔が強張ったことに気づいたのだろうか。先生はふっと微笑んだ。

「大丈夫ですよ。着実に実力が伸びているの、僕が見てましたから」

 急に泣きたくなったのを堪え、「そうですかね」と笑いながら答える。ちょっとだけ声が震えた。先生は相変わらずの気の抜けるような口調で「そうですよ」と頷いた。

 そこは力強く言って欲しかったような気もするけど、でも最後までブレないところも安心する。

 先生にとってわたしは、担任するクラスの生徒でもない。学年も違う。数学教師というだけで、三年生の追い込みの面倒をみさせられている。彼にとってわたしは、そんな特別思い入れもないはずの一生徒だ。それはわかっているけれど。


 ねぇ先生、わたしが志望校に落ちたら悲しんでくれますか?

 受かったら、喜んでくれますか?

 合格しますようにって、一緒に願ってくれますか?

 あなたの感情を、わたしのために使ってくれますか?


「先生」

「はい」

 伝えたいことがある。でも、伝え方がわからない。抽象的で曖昧な感情は、言葉にならない。

「明後日、応援しててくださいね」


 そうだ。わたしは、誰よりあなたに応援されたい。


「はい、もちろんです」

 柔らかく微笑んだ彼に、わたしは喉の奥がきゅっと締め付けられた。

 




 2月25日。受験生のために、駅からは大学行きのシャトルバスが何台か出ていた。そのバスに乗って試験会場である本キャンパスで降りると、冷え冷えとした空気が鼻腔を刺激した。寒いというより、冷たい。こっちは地元と違って雪が降らないからといって油断していた。雪は降らないけれど、冷え込みはとても強いようだ。雲一つなく澄んで晴れ渡った空、西側には雪化粧した山脈が連なっている。オープンキャンパスの日は、晴れてはいたが山脈なんて一切見えなかったはずだ。

 先生は、今頃何してるだろう。遠くはなれた地元に思いを馳せてみる。受け持ちクラスの授業準備に追われているだろうか。それとも、職員室でコーヒーを飲みながらのんびりしているかな。忙しい中で、ほんの少しでいい、わたしのことを思い出してくれたら嬉しい。頑張れ、と心の中で祈ってくれたらもっと嬉しい。

 温かくて、優しくて、ちょっと苦しい。この気持ちは憧れか、恋慕か。ほんの少し考えてみたけど、すぐにやめた。今、わたしの気持ちに名前をつける必要はない。名前なんて、つけない方がいい。だって、もう高校は卒業するだけなんだから。そしたら、先生と会うこともなくなるんだから。

 四月にはこの土地で、新たな一歩を踏み出すんだ。余計なものは地元へ置いていく。決して報われないであろうこの感情も、もういらない。未来のわたしには、必要ないから。荷物となるだけだから。

 でも、今だけは。ほんのちょっとだけ、この感情の温もりに浸らせてほしい。


 先生、見ててね。再来週、会いに行くから。きっと、笑顔で今日の結果を報告をするから。


 学部や専攻別に、係員が会場案内を始めた。心の中で「よし!」とちょっとだけ意気込んでベンチから立ち上がり、わたしは試験会場となる教室へ向かった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 相変わらず上手いですね~♪ 石坂啓が漫画『安穏族』の中でこの頃の受験生達を包む空間を「エアポケット」と表現していたのを思い出しました。何物にも属さない、特別な時間… 何も起こらない淡々とした…
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