ぼくのいとしい悪役令嬢
「ミリィ、ぼくのこと大好きって……ほんとう?」
そう嬉しそうに言ったあの男の子は誰だったろう。
星屑の舞う夜空のような黒髪で……目の前で婚約破棄だと叫ぶこの人では、ぜったいになかった。
*
ミリディアナと第二王子カミーユとの婚約が整ったのは、14歳の時だった。
突然喜べ、最高の相手だと満面の笑みで父に婚約証明書を見せられた。
驚いた。
カミーユ殿下はミリディアナを、嫌っている様子だったから。
様々な折で顔を合わせたが、素行の悪い子息、令嬢にもそつなく対応するのに、王の側近、ラッセル侯爵の娘であるミリディアナには傍目にわかるくらいに冷淡だった。
だからミリディアナは、年齢、容姿、立場から第二王子の婚約者候補筆頭とされていても、正式に選ばれるのは自分ではないだろうと思っていたのだ。
それなのに。
「なぜ、わたくしが?」
静かな声で問うミリディアナに、父は笑顔を引っ込めた。
「王が、陛下が望んだのだ。きみは真面目で美しく素晴らしい令嬢だと。私と縁を結べるのもいいし、娘になるのはきみがいい、と。ずいぶんと気に入ってくださって……ミリディアナは、嫌だったかい?」
父はカミーユ殿下の冷淡な振る舞いを知らないとでも言うのだろうか。
挨拶に返事もしていただけないのを、目の前で見ているだろうに。
しかし、親の整えてきた、しかも王族との婚約に異を唱えられるわけがない。
「お父様が最高だと仰るならそうなのでしょう。でも……わたくしの意志を聞いてほしかったとは思います」
あの王子と夫婦になるなど、できるのだろうか。
ミリディアナにとって不本意で不安な婚約だった。
しかし、ミリディアナが父にねだって婚約者の座に収まった、という噂が社交界中に広まった。
不本意なのはカミーユ殿下もだったのだろう。
噂を鵜呑みにし、ミリディアナに向ける視線には冷淡どころか憎しみがこもった。
それは側近たちにも伝播し、婚約者となり行動を共にすることが増えたミリディアナにきつく当たるのが当然になった。
「そんな簡単な問題で躓いているのですか。王子妃を望んだのだからもっと努力をしては?」
苦手な数式に手間取れば、宰相の次男エリオットがすぐに嫌味を言ってくる。
「こんなところにいたのかよ、探させるな! 俺を殿下のおそばから離れさせるなよのろま!」
カミーユがエスコートを放棄したせいで行先がわからず困っていたと言うのに、探しにきた騎士団長の末子ジェラルドは怒鳴り散らす。
そんな様子を見て、やはり噂は本当だったのだと令嬢たちもミリディアナを侮る。
泣き喚きたいのを下唇をぐっと噛み締めこらえ、表情を殺した。
赤い巻き毛につり目がちな金の瞳。
きつく見えがちなミリディアナがそんな表情をすると、機嫌が悪いようにしか見えなかった。
不機嫌を隠すこともできない未熟さだと、新たな噂をばら撒かれた。
ミリディアナを貶める噂は広まるのが早い。明らかに意図的に広められていた。
真面目に、愚直に、やるべきことをやる。
ミリディアナにはそれしかできなかった。
*
婚約から2年ほどたったある日。
カミーユが珍しくミリディアナを庭園に誘った。
エスコートも珍しくきちんとしてくれて、着いた薔薇の咲き誇る一角の東屋にはお茶の用意がしてあった。
「まぁ……」
薔薇の見事さに、はじめての心遣いに、思わず感嘆が漏れた。
「気に入ったか」
「はい。とても、素敵です」
「そうか……今日はここで、お茶にしよう」
メイドがお茶を注ぎ、お菓子を取り分け下がっていく。
こくりと飲むと、優雅な薔薇の香りの紅茶だった。
殿下も口をつける。
風で乱れた黒にも見える濃い青の髪を耳に掛け直し、切れ長の青い瞳をまっすぐミリディアナに向けた。
2年もずっとそばにいたのに、しっかり顔を見るのは初めてな気がした。
「ミリディアナ。君には……ずいぶんな態度を取ってきた」
「……ええ」
「はじめは、父上がなにかで君を褒めたのが気に入らなかったのだ。それで……私の態度が悪くなってしまったことに、泣きもしない君を父はまた褒めたのだ。それがまた気に入らなくてな……」
いったい幾つのときの話だろうか。
ミリディアナはまったく記憶にない。
「そして父上が望んだ婚約だというのに、不本意な婚約だと、君のわがままのせいだと……八つ当たりをした。
しかし、この婚約は覆らない。私がいずれ王弟となる時、ラッセル侯爵と縁付いていることが一番波風を立てないからだ。だからこの婚約は結ばれたのだ。だから……君とはうまくやらなければいけなかったのだ。そんなことにも思い至らず、子供じみていた。愚かだった。本当にすまなかった」
「殿下……」
頭を下げるカミーユに呆然としてしまう。
これは本当にあの無言で不快を示すだけのカミーユ殿下だろうか。
「この2年でよくわかった。君は一見派手に見えるが真面目だ。それに私に好意もない。私との婚約は君だって不本意だったのだろう? それなのに、私のせいでひどい噂になっている」
カミーユは静かに立ち上がり、ミリディアナに歩み寄り、長い足を折り跪き。
乞うように手を差し伸べた。
「私はこの2年で君がとても好ましい人間だと知った。いずれ夫婦となるのだ、女性として愛せるよう努力する。だからどうか、一から私とやり直してもらえないだろうか」
なんてずるいのだろう。
カミーユの話を聞いてもミリディアナはいままでの仕打ちに納得なんていかなかった。
しかし下がったとはいえ、侍女が、護衛が、こちらを見ている。
跪いた王子殿下の手を取らないなどと、婚約者であるミリディアナにできるはずもない。
そっと、震える手をカミーユの手に乗せた。
するとカミーユはその指先に、くちびるを落とした。
「もうすぐ入学だ。学園でいっしょに過ごし、仲を深めよう」
貴族子女の集う学舎、王立ラングリッド学園。
婚姻前の最後の自由。
全寮制のため親の目が離れ、身分差や家の確執を超えた交友が生まれるそうだ。
父も兄も、学園での日々は宝物だと笑っていた。
しかしカミーユに冷遇されているミリディアナは、居心地が悪かろうと不安だった。
それが、殿下との関係改善を示す場になるのなら……楽しいものになるかもしれない。
友達ができるかもしれない。
男女の愛が芽生えずとも支え合えるよう、学園の3年間で信頼関係を築ければ、婚姻後も幸せになれるかもしれない。
「はい、殿下」
ミリディアナがぎこちなく微笑むと、カミーユもふっと笑顔を浮かべた。
「カミーユと呼んでほしい。君は……その、ミリィと呼んでも?」
「はい……カミーユ様」
ミリィ。その呼び方はなんだか胸がざわめいた。
穏やかな会話をしながらお茶を楽しみ、帰宅したミリディアナに父は真剣な顔で言った。
王子殿下の態度は酷すぎる。ミリディアナが望むなら婚約を解消しよう、と。
カミーユは、父の動きを察知した国王陛下に叱られ、今日のあの場を設けたのかとミリディアナは悟った。
ミリディアナはカミーユとやり直すと承諾してしまったし、穏やかに話せた殿下とは意外と趣味も合うようだった。
だから父の話は断った。
ばかなミリディアナ。
あの時、解消してしまえばよかったのだ。
*
「カミーユ様、制服がとてもお似合いですわ」
「ありがとう。ミリィもよく似合うよ」
並んで現れたカミーユとミリディアナに、学園はざわめいた。
同年代の子息令嬢、ほとんどが2人の冷えた仲を知っていたからだ。
学園でカミーユはミリディアナを常にそばにおき、2人が親しいことを示した。
はじめは訝しげな目で見ていた側近2人もカミーユの取りなしで少しずつ打ち解けた。
そのうちに周りも認識を改めていった。
エリオット。
ジェラルド。
そしてカミーユ様。
ずいぶんまともになった3人と過ごす穏やかで楽しい学園生活が送れたのはたった1年だった。
「リリア、お手をどうぞ」
「なんだよ俺がリリアと話しているのに!」
「リリア、君はとても可愛らしいな」
「やぁんみんな、リリア困っちゃうよぉ〜♡」
「……は?」
待ち合わせた学園のカフェのど真ん中で、べたべたとピンクの髪の、制服のスカートが短すぎる令嬢に触っている3人に、ミリディアナは呆然とした。
居合わせた生徒たちも困惑していた。
ピンクの髪の彼女は、コーヒーを飲みながらミリディアナを待つカミーユたち3人になれなれしく話しかけた。
「こんにちはぁ♡わたしリリア♡3人ともかっこいいねっ♡」
エリオットが怒り、ジェラルドが引き離し、カミーユに冷たく一瞥される。
そう誰もが思ったのに、彼らは我先にと彼女の手を握り甘い言葉を囁きはじめたのだ。
「カミーユ様……エリオット、ジェラルドもこんな場所で一体なにを……」
「きゃあ〜ん! いじわるそうな人ぉ! みんなぁリリアこわぁ〜い♡」
声をかけたミリディアナに悲鳴をあげた令嬢が、カミーユの腕にしがみついた。
「大丈夫かいリリア」
「おまえ! リリアが怯えているだろう!」
「は? あなたたち本当にどうしたの……」
ミリディアナは戸惑い、カミーユに目を向け、
そして固まった。
カミーユの目には、最近見慣れた親しみどころか……憎しみが見えた。
「ミリディアナ! 何の用だ。私は忙しい! リリア、私の部屋へ行かないか?」
「きゃあん♡嬉しい〜♡」
「リリア! 私もお供します!」
「俺も!」
なんだこれは。
なぜ。
なにがあった?
動揺しふらふらと立ち去るミリディアナに声をかける者はいなかった。
*
3人は学園中どこででもリリアを離さなかった。
ミリディアナが近づこうとするとリリアが叫び声をかけることもできない。
不快そうにリリアを見ていた令息たちもすぐにリリアリリアと囲むようになった。
令嬢たちも同じくだ。
婚約者があの輪にいる、と泣いていた令嬢までいつのまにかリリアを囲んでいた。
教師はまるでリリアが見えないかのように淡々と授業をしていた。
孤立したミリディアナは、学園の隅の小さな東屋で一人、ランチを取っていた。
食欲もなくベーグルサンドを持て余したミリディアナのふくらはぎに、ふわりとしたものが触れた。
テーブルの下を覗くと、小さな黒猫が尻尾を絡ませていた。
「まぁ……。学園に住んでいるのかしら? 子猫ちゃん、ベーグルは食べられる?」
にあ、と鳴いた黒猫を恐る恐る抱き上げ、具のないところをちぎってそっと口元に寄せるとぱくりと食べてくれた。
「おいしい? ふわふわね、あなたとってもかわいいわね」
背中を撫で、また一口ちぎって食べさせる。
「あの子、いったいどこの家のご令嬢なのかしら。同じクラスじゃない子が授業中殿下のお膝にいることをなぜ誰もおかしいと……いえ、不審に思った子もすぐにあの子の取り巻きになったんだったわ。おかしいわ、なにもかもおかしい」
一人呟くミリディアナに、黒猫はにあ、と鳴いた。
愚かなミリディアナ。
その言葉を父に伝えるだけでよかったのに。
*
「カミーユ様、わたくし今日こそお話を……」
カフェでリリアを膝に乗せ食事をするカミーユに、ミリディアナは声をかけた。
エリオットはリリアのピンクの髪を撫で、ジェラルドは足を撫でている。
ひどい光景だ。
「きゃあん♡こわぁい♡」
「リリア大丈夫か! 下がれ、リリアが怯えている!」
意を決し話しかけたミリディアナは、しかし今日は食い下がった。
「いいえカミーユ様。わたくしは」
「きゃあん♡たすけてぇ♡」
「リリアに近づくな! 殿下が下がれと言うのが聞こえないのか!」
ジェラルドが立ち上がり、一歩進み出たミリディアナを突き飛ばした。
硬い床に倒れたミリディアナに、カミーユが冷たく言った。
「誰に許しを得て馴れ馴れしく私の名を呼んでいる」
ミリディアナの心に小さな小さなひびがはいった。
カミーユと呼んでほしいと言ったのはあなたではないか。
「カミーユ様……忘れてしまったのですか? 私たちの婚約は覆らないと……仲を深めようと仰ったではないですか。あの時、カミーユと、呼んでほしいと……」
金の瞳に涙を浮かべ見上げるミリディアナに、カミーユは叫んだ。
「黙れ! 知らぬ! リリアを虐めるおまえなど私の婚約者に相応しくない! 婚約は破棄する! ミリディアナ・ラッセル! 婚約破棄だ! 私の前から去れ!」
ぴし、ぴしり。
ミリディアナの心のひびが広がっていく。
『ミリィ、ぼくのこと大好きって……ほんとう?』
そう嬉しそうに言ったあの男の子は誰だったろう。
好きだなど思ったこともないカミーユ。
しかし誠意を持って接してくれた。
尊重してくれた。
だから、私もそうしようと、努力をして、それで、それなのに………
「はい、殿下。仰せの通りにいたします」
ふらふらと立ち去るミリディアナに声をかける者はいなかった。
にあ。
よく知る鳴き声が聞こえた。
立ち止まった足元に擦り寄る小さな黒猫を抱き上げ、ミリディアナは門を出た。
*
『もういいよ、ありがとね』
リリアの頭の中に声が届いた。
リリアはぱんぱん! と手を叩き、カミーユの膝から飛び上がった。
「はーい! みなさんお疲れ様でしたぁ! いかがでしたか? 最高の気分だったでしょー?」
リリアは先ほどまでのスカートの短い制服姿ではなく、胸あてと、尻しか隠れないような短いズボンを身につけていた。
そして背中には蝙蝠のような黒い羽根が生え、ふわりとカミーユたちの頭上に浮かんでいた。
「リリア……? き、さま、なにものだ……! 私たちになにをした!」
「きゃはは! 遊んであげただけだよぉ! ねぇねぇ気持ちよかったでしょー?」
リリアが近づいた途端、リリア以外がどうでもよくなった。
リリアに触れるとたまらなく幸せで幸せでもっと触れたくなって、リリア以外は不愉快で…
…
「おれ、ミリディアナ様になんてことを」
ジェラルドはミリディアナを突き飛ばした両手を震わせた。
「悪魔、ですか……?」
エリオットは血の気の引いた顔で、浮かぶリリアを見上げた。
「おしいっ! 正解はぁー……淫魔でした! みんなぁ、おいしかったよー!」
きゃはははは!
笑うリリアを周りにいた子息令嬢たちも青ざめて見上げた。
リリアは学園中の人間を片っ端から食べた。
依頼をこなすには魅了だけで十分だったが、そのほうがリリアが楽しいからだ。
「淫魔……ほんとうに? 淫夢ではなかったのか」
「わ、わたし、どうしよう、あんなこと」
「そんな、そんな……純潔、を」
魅了が解けて騒然とする中、カミーユは懐の短剣を抜き、リリアへと放った。
「きゃあん! ひどぉい、カミーユサマがいちばんおいしかったのになぁー!」
きゃはははは!
投擲を軽く躱したリリアは、そのまま上へと昇り、天窓を破り飛び去った。
「待て、魔性!」
「殿下、ミリディアナ様を探さなければ! おひとりで外に行かれたかもしれません!」
「そ、そうだ! ミリィ!」
エリオットの声に、カミーユは身を翻し駆け出した。
幼い頃から言い知れぬ嫌悪を感じたミリディアナ。
父に連れられ引き合わされた大神官に祓いを受けた途端、なくなった悪感情。
魔性に惑わされていたと知り、誠心誠意許しを請うた。
真面目なミリディアナ。
気が強そうに見えるが、そんなことはない、普通の女の子なのだ。
近頃は赤い髪の彼女をかわいらしいと思っていたはずだったのに、またしてもこんなことになるなんて。
「ミリィ! どこだ、ミリィ!」
涙を浮かべ見上げるミリディアナの顔が焼き付いてはなれない。
カミーユは王都中を駆け回ったが、ミリディアナを見つけることはできなかった。
*
こつん。
ラッセルの屋敷に向かって歩いていたはずなのに、いつのまにか薄暗い建物の中にいた。
割れたタイル。
絡みついた蔦。
朽ちた、城だろうか。
「ここ、は……?」
ミリディアナは目を瞬かせた。
黒猫を抱く両手に力がこもる。
「ねぇミリィ。ぼくのこと大好きって言ったの、おぼえてる?」
神官に祓われ、ずいぶん力を失った。
淫魔に協力させて、やっと、やっと、ぼくの領域に引き摺りこめた。
いとしい、ぼくのミリディアナ。
音もなくミリディアナの腕から飛び降りた黒猫は、艶やかな黒髪の青年に姿を変え、驚き震える彼女に深く深くくちづけた。
魔性に気に入られてしまったミリディアナのお話でした。