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フェイズ4「第二次世界大戦と日本 2」

 1941年6月22日、突如日本を取り巻く状況が大きく変化する。

 ナチスドイツが、突如ソビエト連邦ロシアに攻め込んだからだ。

 

 世界中が予想外と考えた事態の発生で、ソ連が満州に攻め込む可能性は、ほぼゼロと言えるほど激減した。

 日本の軍政財界から国民一般に至るまでの安堵感は、内心極めて大きいものだったことは間違いない。

 

 そしてその日から、日本とソ連を巡る国際情勢が文字通り一変した。

 世界が変わった瞬間となったのだ。

 

 開戦から一週間も経ずして、ソ連側から日本に対して相互不可侵と大規模な援助を求める要請が出された。

 ドイツの予想を遙かに上回る快進撃と、ソ連赤軍の余りにも不甲斐ない敗北が原因だった。

 

 一方では、40年半ばから強まっていた、日本に対独参戦を求めるイギリスなど連合国各国からの声は若干トーンダウンした。

 独ソ戦開始により、40年夏以後ほとんど孤立無援だったイギリスが一息ついたからだ。

 フランス敗退後にイギリスと共に戦う国は実質どこもなく、欧州への傾倒を強めたアメリカが支援するのみだったのだから、イギリスの安堵感も大きなものだった。

 もっとも、当時中立状態の列強と言えば、アメリカ、ソ連、日本なのだから、イギリスの置かれた状況は致し方ないとも言えるだろう。

 


 独ソ開戦後の日本外交は、俄然活発なものとなる。

 日本は、独ソ共倒れ、できればドイツの判定勝利での独ソ共倒れを求めるべく、それまでの外交を一転させて劣勢なソ連に対する好意的な動きを加速させるようになっていく。

 

 戦況不利なソ連に対しては、ソ連側の申し出を受ける形で、早い段階で資源とのバーター取引の形で武器や食料の大幅な貿易拡大が取り決められた。

 すぐ後には、ソ連の苦境の増大を受けて援助も行われていくようになる。

 日本が短期間に援助にまで手を広げた背景には、アメリカが1941年3月にレンドリース法案を可決して、各国に膨大な貸与を始めた事に対する対抗政策という外交原則が作用していた。

 ソ連に対しても、41年10月には援助開始が決められている。

 そして、いまだ国内の軍部と政治家の不毛な駆け引きで大胆な外交的結論の出せない日本としても、欧州大戦に参戦しないまでも各国に対する発言権拡大による国際政治上での浮揚と孤立化打破を図ろうとしたのだ。

 

 なお、日本とソ連との関係が簡単に進展した背景には、ソ連が日本同様に国際的に孤立していたという事情があった。

 ソ連は、フィンランド侵攻によって国際連盟加盟国で唯一除名された国だったからだ。

 そして日本の外交を預かる一部の者には、独ソ戦開始以後は同じ爪弾き者だったソ連との関係を強めることで、国際社会復帰への足がかりにしようという思惑があった。

 ソ連はドイツとの戦争開始により、連合国に加わるようになっていたからだ。

 そして日本としては、裏側からの国際復帰を図ろうとしたと言えるだろう。

 何しろ表側にはイギリス、アメリカがいて、簡単には日本を受け入れてくれないからだ。

 

 そうした中、1941年9月に5年間を期限として定めた「日ソ不可侵条約」が締結された。

 さらに追加の交渉では、日本がソ連への援助を行う事と、相互に最恩恵貿易待遇とする事も決められた。

 また水面下では、ソ連がそれまで二つの中華勢力に行っていた武器売買や援助の全面停止が約束された。

 当然と言うべきか、後者は日本が求めたものだった。

 そして日本にとって重要だったのが、ソ連やコミンテルンが中華共産党に対して命令していた、日本との戦争を起こせという命令を全面撤回させた事だろう。

 事実、主に満州国や華北地域での共産テロはピタリと止んだ。

 これにより日本が抱えていた近隣の外交問題のほとんどが解決された事になり、残すはアメリカとの関係をどのようにして修復するかだけとなった。

 

 しかし、そこまでが日本外交の限界だった。

 

 太平洋方面では、依然としてアメリカ海軍との緩やかな対抗状態が続いていた。

 アメリカ太平洋艦隊は依然としてアメリカ西海岸を本拠地としていたが、決して日本への警戒を緩めた訳ではなかった。

 事実アメリカ領ハワイ真珠湾の海軍の拠点強化工事は、ゆっくりながら続けられていた。

 当然ながら、中華問題、満州問題の影響で、欧米中心の国際社会への復帰もできなかった。

 日本政府にも復帰しようという意思はあったが、軍部の政治影響力が強く、常態的に無定見な外交と主に華北部での軍事行動を行うため、欧米からの信用を得ることができなかった。

 欧米諸国は、ここ十年ほどの日本軍部の動きと、第一次世界大戦での日本のアジアでの振る舞いを忘れていなかったのだ。

 日本側も、ギリギリのところで欧米諸国を信頼できないため、欧米との関係改善の最大の手段となりうる欧州大戦への参戦に踏み切れなかった。

 

 また世界大戦勃発後、国民党を少しばかり支援していた日本だが、独ソ戦後は逆に不活発となった。

 アメリカが国民党を全面的に支援するようになり、しかも国民党が日本の華北への動きを阻止するべく無理矢理連合国側で参戦してしまったからだ。

 そしてアメリカは、支那問題、満州国問題となると頑なかつ一方的な外交を相変わらず続け、これも日本の態度を連合国参加に傾かせない大きな障害となっていた。

 

 一方でソ連と日本の関係は、国境を接する事もあり急速に親密化していった。

 活発にバーター貿易や援助を行うだけではなく、ソ連が支えられないソ連極東経済を日本が支えるようにすらなりつつあった。

 またソ連極東軍は治安維持組織を除いてほとんどが東部戦線へと転用され、関東軍の数も国内での生産強化に対応した若年層の必要もあって多くが削減された。

 

 しかも42年春からの日本は、41年内に派遣した観戦武官ばかりか、なし崩しに義勇軍すら派遣するようになっていた。

 ドイツ軍の侵攻がモスクワ前面に迫った41年秋頃に、ソ連側から悲鳴となりふり構わない交換条件を付けてきた要請が毎日のように送られてきた影響だった。

 11月頃には、3ヶ月以内に関東軍全てを東部戦線に派遣してくれとすら要請してきた。

 ソ連側の焦りと恐怖がかいま見える一例と言えるだろう。

 

 ただし当初は、主に日本陸軍からは強い反発があった。

 それまでの日本陸軍のロシア憎しの感情から考えるとあまりにも妥当な論調だった。

 ただし、ソ満国境からほとんどソ連軍が消えた事は、日本陸軍に少なくない心理的余裕も与えていた。

 

 そして日本政府は、ドイツ軍に日本兵が絶対に捕虜にならない場所というソ連側が提示した条件を改めて約束させた上で、義勇軍派兵を受け入れる。

 この結果、まずは相応の規模(陸海軍双方から一個航空戦隊)の義勇航空隊を派遣する事が決定する。

 

 最初の義勇軍派兵は42年2月に一部航空隊による派兵が早くも行われ、ソ連の窮状を少しばかり手助けすらしていた。

 42年夏頃には、日本陸海軍の「モスクワ防空隊」や「ウラル防空隊」は日ソの間では有名となった。

 一部はスターリングラード方面後方でも活動したほどだ。

 

 ただし日本の意図は、ドイツ憎しやソ連の好意を得るなどという要素や意図は低かった。

 ソ連側の示した日本から見ての法外なバーター物と、貴重な戦訓確保のためであった。

 もっとも義勇航空隊の派遣は、日本陸海軍の競争意識から日本自らが拡大するという事態を引き起こしてソ連側を意外がらせた。

 他者から見れば、日本人が損得感情をほとんど外に置いて自分から義勇兵を寄越すと言っているようなものだったからだ。

 皮肉な事に、日本義勇軍のマーキングにも、自身の鼓舞のための「義」や「忠」、「誠」、「勇」、「士」などと言った言葉が溢れていた。

 

 そしてロシア全土で、最終的に総数で数百機にも上った日本義勇航空隊の活躍が、ロシア国民の対日感情を極めて良くするようになる。

 ソ連女性兵による「魔女飛行隊」に並んで日本義勇兵の「侍飛行隊」が、ソ連お得意の国家宣伝を賑わしたほどだ。

 何しろロシアの大地でロシア人の為に血を流した連合軍はなく、唯一日本軍義勇兵だけがロシア人と肩を並べて戦った事になるからだ。

 加えて言えば、ロシア史上でロシアの大地でロシアの為にロシア人と肩を並べて戦った外国勢力というのも極めて希と言うべきであり、当時のロシア人の親日感情を天井知らずとさせたと言われている。

 そして日本の義勇軍派遣こそが、その後の日ソ(日露)外交を百八十度転換したと言われている。

 

 しかし日本は、遂に対独参戦には踏み切らなかった。

 


 そうして日本が世界大戦を半ば傍観している間に、欧州での戦争は進んでいく。

 1941年12月ドイツ軍のモスクワ攻略は、冬将軍と自軍の兵站不足の前に失敗した。

 翌1942年10月には、北アフリカでも敗北。

 11月には、ソ連赤軍がスターリングラード方面で大反撃に転じた。

 

 そして1942年10月、ついにアメリカがドイツに対して宣戦を布告。

 宣戦布告と同時に北アフリカへと大軍を進め、英本土に膨大な数の重爆撃機隊を配備した。

 既に国家総動員態勢で兵士を徴兵し、戦時経済の稼働により兵器や輸送船を無尽蔵に整備していただけに、アメリカ軍の威力は絶大だった。

 

 なおアメリカの開戦理由は、アメリカ商船がドイツ潜水艦により撃沈され、多数の犠牲者が出たという第一次世界大戦と同じものだった。

 事実、戦争行為に当たる兵站物資支援をしているアメリカ商船は、既に何隻も撃沈されていた。

 この場合悪いのはアメリカなのだが、事実よりもアメリカが本格的に参戦した事の方が遙かに重要だった。

 それまでドイツは可能な限りアメリカを参戦させないように努力していたが、アメリカが正面から殴りかかってきた以上どうにもならなかった。

 

 一方でアメリカは、参戦に前後して日本に対する態度を大きく軟化する。

 その時期の日本は、戦乱に乗じての勢力拡大よりも戦時特需に乗ることでの国内経済拡大と財政健全化を画策していた。

 ちょっとした義勇軍を派遣する以外、他にすることがなかったからでもあった。

 そして日本、アメリカは互いに当面の太平洋での安定を望み、互いの兵力増強に関しては通知・公表し合うことにもなった。

 もっとも日本としては、著しく増強されてしまったアメリカ海軍の前に海軍が意気消沈してしまい、対米強硬論が小さくなったという背景がある。

 また交渉成立と共にアメリカ政府から送られた分厚い書類を目にして、当時の陸軍大臣と参謀総長が揃って卒倒したといわれた。

 

 対するアメリカは、日本が完成させて間もない巨大戦艦『大和』『武蔵』に驚き、急ぎ軍備計画を変更させるという変化をもたらしてもいた。

 アメリカが大型空母の追加建造を止めて欧州では必要性の薄い巨大戦艦の建造を続けたのは、間違いなく日本の影響だった。

 ハワイ真珠湾に交歓のため入港した戦艦『大和』に対しての屈辱こそが、アメリカに不必要な数の巨大戦艦を建造させたのだ。

 これはアメリカ海軍の一部に、「真珠湾を忘れるな」という合い言葉があった事にも象徴されている。

 

 また華北での共産党との小競り合いがようやく沈静化した日本陸軍だったが、余りにも膨大な物量で戦われている欧州戦線とアメリカの軍備増強を前に、欧米に対しての強硬姿勢を鈍らせざるを得なかった。

 しかも観戦武官などが実際見た独ソの戦いは、彼らの想像の域を大きく越えていた。

 何しろソ連赤軍は、最大で1500万人もの将兵が所属していたからだ。

 兵棋演習にかまけていたエリートたちにとって、仮想敵の駒の数と質が自分たちの十倍や百倍もあるという現実は、余りにも残酷だったと言うことだろう。

 そしてこの時のショックが、日本陸軍将校の中のロシア憎しの感情を逆に消させてしまったと言われている。

 妄想と現実との差が、憎いとか恐るべしとかいった幼稚な感情論を押しつぶしてしまったのだ。

 

 そうした中でも、日本陸軍の視点で可能な限り重武装化及び機械化された一個軍(1個戦車師団、2個自動車化師団+重砲兵旅団)の義勇陸軍の派兵が43年春から開始される。

 彼らは日ソ友好の格好の宣伝材料とされ、日本の目的の第一は勿論戦訓獲得にあった。

 だが現実レベルでの最大効果は、日本陸軍以外が期待した宣伝にこそあった。

 ただし装備の一部は、ソ連軍から供与を受けていた。

 戦車の主力ですら自前ではなくアメリカからソ連に貸与されていたM4で、ハーフトラックやトラック他ジープなどの自動車両のかなりもアメリカ製のものだったと言われている。

 無線機もイギリス製だ。

 他にも重砲兵旅団には、カチューシャで有名なソ連製武器によるロケット砲大隊が臨時編成で存在していた。

 小銃ですら、アヴァトマットと呼ばれるロシア製の初期型自動小銃が、三八式歩兵銃と銃弾規格が同じのため、日本軍に供与されていた。

 

 義勇陸軍のロシア戦線での実戦参加は43年秋のドニエプル川での戦いからだが、それまでにモスクワをパレードするなど、主にソ連側が求めた政治的な活動を行ってばかりいた。

 ようやく割り振られた戦場も、比較的目立つが敵の抵抗が弱い場所ばかりで、ソ連と日本の友好と日本義勇軍の勇猛さがソ連の手で世界中に宣伝された。

 戦ったのもドイツ軍という事はほとんど希で、多くがドイツ以外の枢軸国軍の弱小部隊だった。

 

 ただ日本も、ソ連が連合国に属しているので宣伝ばかりなのはそれほどは気にしなかった。

 ソ連の手による宣伝は、日本の外交にとっても利益があると考えられていたし、政府や外務省も義勇軍の宣伝を強力に後押ししたからだ。

 

 なお日本義勇陸軍は、大戦勃発前のソ連国境まで至ると前進を止めてしまう。

 そして自らの役割が終わったことをソ連に伝え、東欧へ足を踏み入れる事はなかった。

 あくまでソ連領奪回のための義勇軍であるというのが理由だが、実際はドイツ領内に入る事への後ろめたさがあったと言われる。

 そしてこれは、ソ連側から求めた行動ではなかったのだが、日本軍の行動はある意味で世界中から注目される事になる。

 少なくともドイツの略奪に参加しなかった事は、ソ連とは違う日本の姿を、真実を知る者に印象づける事になる。

 


 そして戦争から全く関係ない日本列島自身だが、第一次世界大戦ほどではないが大規模な戦争特需に沸いていた。

 GDPの伸びは、1932年からの好景気を加算すると十年あまりで三倍近くになっていた。

 しかも国内での物価上昇は物資や以前よりも商品が豊富になったため最低限なので、日本中が活況を呈していた。

 

 しかもソ連は、戦況が安定するようになると、レンドリースには含まれずまた緊急に必要な物資以外を日本に発注するようになった。

 さらに戦況が有利になると、ソ連の兵器(水面下では英米のレンドリース品も加わる)と日本の海軍艦艇のバーター取引すら行われるようになる。

 有名なものに、ソ連軍の戦車千両と引き替えにした日本の旧式戦艦2隻を中心とする艦隊が、三大海洋を越えて白海のアルハンゲリスクまで至ったような例もある。

 あまり知られていないが、帝国海軍も欧州の戦場に出かけていたのだ。

 

 そして日本政府は、各国との不可侵条約だけで大きな利益が転がり込んできた事と、国際外交復帰の足がかりができた事に当面満足してしまっていた。

 もちろん一部には、国際社会復帰への大きな足がかりとすべく、欧州大戦への日本参戦を促す声もあった。

 ロシアへの義勇兵ではなく、正式参戦すべきだと。

 だが、かつては協力関係を結んだドイツを完全に敵としてまでは戦えないという余りにも日本的な感情論もあってか、遂に参戦には至らなかった。

 また中華民国がほとんど形だけだが連合国に参加した事も、日本の連合国への参加を押しとどめることになった。

 

 しかし日本が正式参戦しなかった最大の原因は、米英との関係冷却化を引きずり続けていたという要因が強かった。

 日本は、自らが連合国に加わる事で、かえって満州国問題などについて干渉されるのではと恐れていたのだ。

 無論参戦の引き替えに満州国を認めさせようという意見も多くあったが、欧州諸国はともかくアメリカが水面下の交渉で否定した事も参戦に傾かなかった大きな原因となっていた。

 


 その後欧州での戦争は、42年冬にドイツがロシア戦線で劣勢に立たされて攻勢が止まる。

 そしてアメリカ軍が参戦した北アフリカでも敗退し、43年秋にはイタリア半島への上陸を許してムッソリーニ政権が崩壊。

 その後イタリアに入り込んだドイツ軍と連合軍の間に、新たにイタリア戦線が形成された。

 

 アメリカが総力戦の準備がほぼ終わった段階で参戦したため、その威力は絶大だった。

 

 しかもアメリカは国力リソースのうち4分の1を自国経済の維持に傾けるほどの余裕の戦争経営だった。

 他レンドリースが5%で、残り70%の国力リソースが米軍の力としてドイツ軍以下枢軸国に叩きつけられた事になる。

 

 猛威を振るっていたUボートは、43年前半には無数の対潜艦艇と護衛空母及び航空機により封殺された。

 同年半ばには欧州のほとんど全ての空に、連合国軍の戦略爆撃機が連日連夜1000機単位で舞うようになっていた。

 

 またドイツ側がアメリカ参戦から二年は大西洋からの反攻はあり得ないと考えていたが、それもアメリカの巨大すぎる国力を前にして、予測が大きく覆される事になる。

 1944年6月、ついにフランス正面で連合国軍の総反攻が実施されたからだ。

 

 この時点で大勢は決したのだが、その後も戦争は続いた。

 

 1945年4月ドイツの首都ベルリンには、数十キロ東で地団駄を踏むロシア人を横目にアメリカ海兵隊の手による星条旗が翻り、戦いは劇的なカーテンコールを迎える。

 

 むろんそこに日本の姿はなかった。

 

 日本人は、アメリカ人とロシア人の行うスチームローラーのごとき戦争を、ただただ傍観するだけだった。


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