フェイズ20「冷戦終幕とロシア経済」
1989年12月、地中海のマルタ島でブッシュ、ゴルバチョフの米ソ首脳が会談。
冷戦終結を宣言した。
それがペレストロイカがもたらした、一つの結論だった。
そもそも「ペレストロイカ(諸改革)」は、ソビエト連邦の中央部としては経済成長率と国家財政、さらに国際収支が何とかプラス方向で維持されている間に国内経済と国際問題を抜本的に立て直し、共産党を中心とする政治体制を強化するのが狙いだった。
そして最終的には、ソビエト連邦ロシアを中心にした巨大なユーラシア国家連合を再編成し、引き続きアメリカを中心とする国家同盟に対抗して、最終的にはソビエト連邦ロシアが世界一の大国となる事が目標とされていた。
ソ連中央は、ソ連経済の停滞こそが体制のゆるみをもたらしたと考えていたからだ。
ペレストロイカが政府中枢で議論されていた頃は、日本型の公平分配型で中央官僚主導型の資本主義を見本に出来ないかと真剣に議論されてもいた。
段階的に取り入れるのならば、社会主義体制に最も合致した市場経済体制と考えられたからだ。
何より中央官僚が強力に制御できるのは魅力的だった。
また日本も、官民挙げてソ連の改革には協力的だった。
ソ連の憲法や行政、経済システムのどこをいじれば、最低限のコストで改革が実行できるかを提示し、積極的に経済顧問団を派遣した。
沿海州などの一部では、西側に開放される前に今までとは違う日本向けの経済特区までが形成されたりしている。
あまりの進出規模に、『シベリア出兵』と、日本人官僚や企業人に揶揄された程だった。
しかし改革は、共産党首脳部が考えていたようには進まなかった。
国内外を問わず、東側社会全体で経済開放に伴い民主化要求が急騰。
結局ゴルバチョフは、なし崩しに政治の民主化(複数政党、秘密投票制、議会権力の強化など)と情報公開を進めなくてはならなくなった。
しかしそれは、ゴルバチョフの失敗ではなかった。
ソ連中央が考えていたよりもずっと経済の傾きは大きく、産業の停滞は酷く、民衆も強く懸念していたからだった。
経済停滞の原因の多くは、国家予算の実質五割以上と言われた巨大すぎる軍事費と野放図な宇宙開発、友好国に対する法外な援助と同盟価格での安価な資源売却にあり、それを行ってきた共産党と歴代政権にあると民衆は考えていた。
経済の社会主義体制そのものがおかしいと思っていたのは言うまでもない。
現に、ロシア主要都市にある「ギンザ(日本経済特区)」はいつも賑わっている。
日本経済圏の影響が強い極東やシベリアの経済も、ロシアにとって辺境だと考えると不可思議なほど繁栄していた。
東から頻繁にやって来る鉄道貨車には、キリル文字のプロパガンダではなく日本企業のロゴマークが常に並んでいた。
軍への信頼や親近感も、軍そのものの内部腐敗やいじめの横行などが情報公開で明らかになって大きく下落しており、法外な軍事費の上に胡座をかいている状況はもはや受け入れらなくなっていた。
アフガンでの戦争もあまり好意的ではなく、勝利よりも人的損失の方が注目された。
優秀だった中央官僚達も、短くはなかった支配の間に世襲化と貴族化が進んでいた。
それだけなら、まだ多少の我慢も出来たかも知れないが、腐敗した宗教組織のような腐敗と堕落、賄賂と横領が横行、そして組織の硬直化が進んでいるとあっては、民衆の側も『赤い貴族』と言われた人々の専横を黙って見ているわけにはいかなくなっていた。
ソ連という壮大な実験国家は、全ての面において『老朽化』しすぎていたのだ。
そして民衆が民主化を求める一番の理由として、共産主義という虚構そのものを受け入れ続ける事に限界を感じていたことも、一度緩み始めた動きを加速させていた。
既に、経済の民主化や所得の向上でごまかせるような状態ではなかったと言えるだろう。
ポーランドの「連帯」の合法化、 ハンガリー民主化運動、ルーマニア革命、ユーゴスラビア解体、そしてドイツの『ベルリンの壁崩壊』が、その後東欧各地で起きた事件の代表になるだろう。
これら東欧各国での変化を、歴史的には『東欧革命』と言うほどだ。
さらに連動してCOMECON解散、ワルシャワ条約機構解体がこの時期の変革として加わるだろうか。
東側各地の「ギンザ」から事態を克明に世界に伝えていた日本での『平成御一新』も、影響の一例と言える。
また天安門事件での中華共産党と日本が見せた動きが、ソ連の各国に対する軍事介入を抑制した事は間違いなかった。
逆に、日本が70年代から東側陣営各地に経済的に深く関わっていた事は、こと『革命』に関する限り大きな影響力はなかった。
経済的な影響は、その後の日本と各国の関係と、市場開放後の西側先進国との経済格差の是正程度でしかなかったと言われている。
開放直後に西側の家電量販店に買い物に行った人々が、それほど多くの買い物をせずに帰宅した事が、日本が東側経済に根を下ろしていた影響と言えば影響なのだろう。
CNNのインタビューに「高額すぎる最新鋭はともかく、廉価製品は日本製の方がいい」と首を傾げながら言ったものだ。
しかし『革命』の方は、ついに東側陣営の本丸をも突き崩しにかかった。
ソ連国内では、書記長を廃止して大統領制となり、バルト三国の独立宣言を経て、1991年8月の軍部・保守派のクーデター未遂に行き着き、ついにその年の聖誕祭の日に世界最大の実験と言われたソ連邦は崩壊する。
ロシアの権力者も、ゴルバチョフからエリツィンへと変わった。
これら一連の変化を、西側は冷戦崩壊という美辞麗句によって自らの勝利だと宣伝し、ロシア人の多くを意気消沈させてしまう。
なお、ソ連邦崩壊に前後して、東側陣営のほとんどの国でも共産党政権が崩壊したわけだが、共産主義を掲げ共産党一党独裁が続く国はまだいくつか残っていた。
最大規模の中華人民共和国を筆頭に、ベトナム、キューバという冷戦時代を作り上げた国々だ。
そして東側陣営の特殊な国として、大日本帝国が存在する事になる。
ただし日本の行動は、別の視点から見た場合極めて行動的だった。
ソ連が大きく傾き『自壊』という形で崩壊していく頃、日本は限定的ながら国際的孤立を深めていた。
必然的に、関係が深いままの国々とのさらなる関係強化に奔走した。
そうしなければ、一旦西側世界に開放し大きく上向きだした国内経済と域内経済を最低限維持することができず、経済の傾きが自らの体制崩壊に至るのではと日本の一部の為政者を恐怖させたからだ。
東側の崩壊を突き詰めてしまえば、日本も支えようと相応に努力した東側全体の経済が行き詰まったから起きたのだと、感覚的に感じさせたからだ。
そして、経済という現実に対しては、いつもの通り体面ばかりを取り繕っている場合ではなかった。
もう、やせ我慢をする時代は過ぎ去っているのだ。
そしてソビエト連邦ロシア(ソ連)が崩壊した以上、必要以上に義理立てする必要はなくなったと、日本人達は考えた。
日本が国家として盟約を結んだのは、ソ連という壮大な実験とされる人工国家であり、ロシアそのものではなかったからだ。
しかもこれまで大日本帝国は、国家の体制や歴史的経緯を考えれば、十分以上にソ連に尽くしていた。
そして、今までソ連に尽くした分の取り分を西側の禿鷹が入り込む前にロシアの大地から取り立る事は、日本人の中では半ば当然の行動であった。
ロシアの大地に、せっせと市場経済や資本主義の種をまいたのは日本だからだ。
こう考える点で、日本人も資本主義に染まっていたと見るべきなのだろう。
日本人の足下を見た裏切りとも言える行動だったが、一方では相対的にはロシア社会とロシアの覇権を守ることになるとロシア人は考えた。
日本人より欧米人の方が遙かにどん欲で強かなのは、歴史が証明しているからだ。
消費文明の寵児たるアメリカについては、今のロシア人には予測すらつかなかった。
経済面でのアメリカは、白頭鷲などではなく禿鷹なのだ。
それに日本人は、半世紀の間の自分たちのつき合いで多少は理解や信頼ができていた事も、日本人がロシア人の大地を我が物顔に闊歩することも節度の範囲内ならば許しても構わないと思わせていたと言われる。
とにかく今のロシア人には元気がなく、妙に元気な日本人達がロシア人に代わりロシアの大地で西欧の悪魔と向き合ってくれるなら、それなりに都合が良いと考えられた。
なんでも、冷戦崩壊後の日本のプロパガンダ放送では、企業戦士とやらは二十四時間戦えるらしいのだ。
かくして1970年代に始まり1980年代半ばから拡大しつつあった本格的な日本企業のロシア地域への進出は、ソ連崩壊が確定的となった89年頃から衛星軌道に打ち上げられるラケータのように加速度を増した。
日本の「円」と特定の日本商品が、一時的に紙くず同然になったとすら言われたルーブルを後目に旧ソ連内での不動の地位を確保し、日本人は旧ソ連内の利権と金目のもの、そして人材を誰よりも早く買い漁った。
ロシア中枢部が世界の全てから死守しようとした鉱山や地下資源の利権獲得は難しかったが、他の利権は比較的容易く手に入れることができた。
それに地下資源については、より強固な日本への優先的供給権を得ることができた。
中でも日本とほとんど一体化してしまっていた北サハリン(北樺太)では、エリツィン政権時代にほとんどの利権が日本のものとして双方合意に至り、その後のロシア側も日本を自分たちにつなぎ止める一種の人質と考えて奪い返さなかった。
そして日本は、当面手に入れることのできた不動産、農地利権、技術パテント、軍事技術、科学理論などの買収を熱心に行った。
体制崩壊により有効な法律が分からなくなっていたロシア人を騙してまで、様々なものを自分たちのものとして、多くを日本列島や満州へと持ち去っていった。
地下資源についても、既に保守管理や各種関連機械の分野で進出しているので、一部を押さえることには成功した。
さらにロシア人が全く未熟な流通を押さえ維持することで、日本への資源の流れを維持することに成功している。
特に物流のかなりを以前から担っていた効果は大きかった。
ロシア経済の沈下を多少なりとも防ぎ各地の物不足を緩和したのも、日本資本が維持運営に回った物流の流れがあったればこそだったからだ。
またその副産物として、以後ロシア及び後のCIS国内での日本流通業の影響力は非常に大きなものとなっていった。
そして様々なものの買収には、日本経済が70年代から東側での決済をルーブル建てから円建に徐々に移行していた事が強く効いていた。
日本は東側以外での決済を、円建てで行っていた。
冷戦崩壊頃には、東南アジアや印度との取引のかなりも円建て決済が進んでいた。
円建てが無理な場合は、主に欧州諸国の通貨、フラン、リラ、マルク(後にユーロ)、ポンドなどで行っていたからだ。
ただしドル建て決済は、日米両政府の伝統的反目関係から常に意図的に小規模に抑えられていた。
例外は、ドルを重視する中東産油国との取引ぐらいだ。
また開放政策後に欧州通貨を中心に膨大な外貨も抱えるようになっていた事も、ロシアでの円の信用を大きく高めていた。
おかげで西側資本が本格的に入り込むまでは、ロシア国内での円の価値は急上昇した。
ルーブルに限り最低でも3倍、90年には30倍近くに拡大していた。
一時世界は、日本がロシアの全てを買収してしまうのではと言ったほどで、日本経済の中心である大阪証券取引所はかつてない賑わいを見せ、やせ我慢できなくなった西欧の外資が、慌てて日本に大挙戻ってきたほどだった。
また一時的に帝国を失ってしまったロシア人自身も、都落ちするかのように日本や満州へと移住や移民してきた。
特にロシア社会が存在した満州北部への移住は多く、短期間で数十万人の移民が発生した。
同時に日本も、自国にとって有益な人材の移民や帰化、企業によるフィッシングを熱心に行った。
特に技術者や一部の科学者、学者は、好待遇かつ丁重に扱われた。
日本がソ連時代の軍事、宇宙開発、先端技術の正当な後継者になるのではと言われたほどだ。
事実、日本及び日本圏の大学や企業の研究施設には、数多くのロシア人や東欧系の人々の姿が見られるようになった。
京都や筑波の学術都市では、ロシア正教の教会が新たに建立されたほどだ。
かくして日本での理論面での科学技術は、質と量両面で大きな発展が見られた。
特に宇宙開発や軍事部門、そして理論物理学で多くの発展があり、日本各地で旧ソ連の学者や技術者が見られた。
嘉手納宇宙基地は、予算面での一位であるアメリカを差し置いて、宇宙開発の世界一の拠点とすら言われるようにすらなった。
アメリカのGPSに対抗した衛星自動位置特定装置(通称:コスモス)の構築が本格化したのも、この頃からだ。
この背景には、軍事と軍需だけに受注を頼ることができなくなった日本の各企業においてフィッシング活動が活発だったことが挙げられ、日本人達の危機感を見ることができる。
日本政府が『科学立国』と言うようになったのも、この頃からだ。
世界の商業原子力を日本企業が牛耳るようになったのも、アメリカでの衰退に並行して、この頃の日本での変化が大きく影響している。
軍事にも民需にも利用可能な科学技術において、日本は一躍世界最先端へとのし上がりつつあった。
一方では、ロシア人から必要以上の反感を買わないようにするためのように、ロシアに利益のある様々な行動もあった。
ロシア域内での流通の確保と維持、生産力の維持と生活物資の輸出と流通に力を入れ、主に民衆からの支持を得た。
特に欧州ロシアから供給されていた物不足が深刻だった極東、シベリアでの日本の流通組織の働きは大きく、加えて医療や衛生管理、果ては社会資本の維持管理にまで範囲を広げて民衆から大いに感謝された。
少なくとも90年代は、バイカル湖より東の経済と公共機関の維持は日本抜きには語れなくなっていた。
黒猫や飛脚などを描いた日本の民間物流企業と町中にある不夜城のごとき便利雑貨屋が、現地で守護神扱いされていた事を語れば多くが理解できるだろう。
当然と言うべきか、日本が国内で影響力を強くする事に対するロシア政府の警戒感を増大させ、後に一部で日本締め出しの動きを行わせる事になる。
それほど深く、日本はロシア経済の深部を握るようになっていた。
一時は、シベリアが日本に買収されるとか、独立国家が作られるとか、果ては日本の属領になるなどと、まことしやかに言われた程だった。
また同時に、混乱に乗じて私腹を肥やす旧ソ連特権階級やロシアン・マフィア(露助やくざ)からの妬みや恨みを買っていた。
もっとも日本人たちも自国の警備会社を大挙乗り込ませたり、親日系のロシア人(主に庶民寄りの元軍人)を大量に雇い込んでマフィアへの対抗組織を作るなど、もはや傍若無人の振る舞いだった。
日本のロシアでの全ての組織が、一時的にマフィア化したようなものだったからだ。
一方では、長年の経験からロシア人とのつき合い方も心得ていたので、後に西側の人間が入り込んできてからは、ロシア人との関係は良好なものへと戻っていく。
日本人は、自分たちの利益のためにロシアの利益を守ることにもなるからだ。
加えて日本は、満州国などで保護していたロシア正教を積極的にロシア国内に持ち込み、自らの市場進出のために利用した。
これは宗教が滅ぼされた筈のロシアの大地に、再びロシア正教を浸透させる大きな切っ掛けとなった。
なお当時の日本人にとっては、全ては大日本帝国の維持のためであり、日本人の中では全ての行動が肯定されていた。
当時の日本人にしてみれば、ソ連を始め東側陣営が突然のように自壊した事は、ある種の裏切りであると同時に国家存亡の危機に匹敵する国難だった。
そしてロシアへの支援も、国家や民族のエゴだけを抜き出して見れば、日本がアメリカに対抗するため、自分たちが根こそぎ絞り取るまでロシアを持たせるためであった。
また活発に行動する日本人の気持ちは、戦時と似た雰囲気があったと言われている。
ロシア駐在の日本人の間で、「御国を離れて三千里、離れて遠き御露西亜の〜」という戯れ歌が流行ったとも言われている。
それでもロシアとの関係が極端に悪化しなかったのは、日本人がそれなりに自腹を切ってロシア経済を支え活動していたからであり、半世紀近くの間に日本人がロシア人とのつき合い方を心得るようになってもいたからだった。
加えて、ロシアが財政不足から維持困難となった一部の兵器を、ロシア人との完全な合意の元に購入して、その代金でロシアは軍の維持状態を少しばかり改善している。
開発や製造が困難になった兵器の一部は、日本軍側が多額の援助を行ったりもした。
ロシアでT80以後の新型戦車ができたのも、日本企業が全面的に協力したからであった。
また主に太平洋方面での防衛の肩代わりも日本軍が一部を行い、ロシア人のプレゼンス低下を防いでいた。
これが日本の乗っ取りでない事は、事前に交わされた各種条約と21世紀初頭にロシア軍に様々なものを戻したことからも明らかであり、ロシアからも大いに感謝されている。
ロシア人の内心は心安からずだっただろうが、少なくとも旧西側諸国、わけてもアメリカの浸透を少しでも防いだのは、日本のこの時期の行動にあった事は明らかだった。
アメリカの日本に対するマイナス感情が長引いたのも、この時期のロシアに対する日本の活動があった事は間違いない。
ただし、ロシアをある程度維持させることが、日本の国防と外交、国益にかなうからこそ行われた行動だという点は忘れるべきではないだろう。
欧米(文明圏)に対抗するという一点で日ソ(日露)の強固な団結が取られるのは、冷戦構造が崩壊しても何ら変わりなかった。
長い冷戦構造の間に、東西対立とはヨーロッパ文明圏とロシア・日本文明圏の争いとも重なっていたからだ。
そして日本及び日本の勢力圏では、旧東側から様々なものが流れ込んできたため、1989年夏の天安門事件以後内需拡大政策で何とか持たせていた経済が、早くも翌年夏頃には大きく持ち直した。
さらには、西側経済と深く連動しない中で高い経済成長を97年頃まで維持するようになる。
古くから交流の深かった東南アジア地域との経済連携も開放政策の影響で一層強まり、インドとの関係もより親密化した。
また日本経済自身も、西側との関係冷却化を挟んでいても発展と革新を続け、主に民間企業の努力によって大きな経済的、技術的発展を達成する事ができた。
最盛時の三分の二程度に下がっていた西ヨーロッパとの貿易、少し遅れてアメリカとの貿易も再び大きく増大し、貿易黒字による膨大な外貨が日本列島とその周辺部になだれ込んできた。
輸出産業として、軍需に代わって電子機器、家電、自動車などで大きく隆盛したのも、90年代に入ってからの事だったからだ。
この流れは、旧西側諸国が徹底的に強化していた金融業による事実上の反撃、いわゆる『アジア通貨危機』まで続くことになる。
なお、この時の日本の異常なまでの好景気を、アメリカのマスコミは『ロシアンバブル』と呼び、その後日本でも使われるようになった。
そして1982年から15年近く続いた日本の経済拡大を締めくくりともなった。
この間、最盛期となった約十年間を見るだけでも、日本経済は実質経済でも二倍以上、名目経済で三倍、ドルとの完全な変動性となった為替相場上では、「円」の強大化によって四倍以上の成長を遂げることになる。
これは欧米先進国の市場経済、特に世界最大の大衆消費市場であるアメリカ市場と深く連動しない形で達成されたこと、日本自身が既に一定の発展を遂げていた事の双方を合わせて考えれば、経済学上では奇跡以上の出来事だと言われている。
ただし、ドルの相対的な価値低下が冷戦時代の後半から始まっていた事を考慮すると、見た目ほど日本経済が発展したわけではないのかもしれない。
だがそれでも、日本経済が短期間で躍進を遂げたことは間違いなかった。
GDPが1兆ドルから4兆ドルとなったのだから、軍事以外で世界に与える影響力がより大きなものとなった。
無論全てには理由がある。
理由を突き詰めてしまえば、西側の停滞期の間隙を上手く突いたことと、西側経済のあふれ出した部分を日本が吸収した結果に過ぎなかった。
加えて言えば、世界的に見れば日本も立派な大衆消費国家であったことが、日本経済全体の経済活動の一定の発展を常に促していたと言うべきだろう。
日本と日本の直接影響下だけで、総人口は3億5000万人を数えるのだから、自分自身に対する波及効果も大きいのは当然だった。
しかも日本経済は、一旦の停滞を挟んで次なる安定成長へと入っており、日本は一世代を経ずして新興国的な旧世代の軍事国家から、世界第一級の先進国への飛躍を遂げる事になる。
だがそうした日本の成功は、皮肉な事に帝国がそれまでの帝国でいられなくなる前兆でもあった。




