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帝国二十一世紀 〜大日本帝國ヨ永遠ナレ!?〜  作者: 扶桑かつみ


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フェイズ19「第二次天安門事件と日本」

 日本経済が第二次世界大戦中の戦争特需以来の好景気に湧いている頃、対照的に中華人民共和国(共産中華)の経済発展は大きく傾いていた。

 

 もともと共産中華は、建国時に近代産業の経済基盤が国家規模に比べてなきに等しかった。

 国家が使える余剰資本、資金もなきに等しかった。

 世界最高密度の人口を養う豊かなはずの広大な国土を持つにも関わらず、アフリカ奥地とたいして変わらないと言われたほどだった。

 ソ連や日本などから、東側陣営として様々な支援が受けられたのも、実質的には1950年代までだった。

 当然ながら、西側諸国からは無視し続けられていた。

 加えて、建国により戦乱は治まったが、小規模な飢饉や疫病は日常茶飯事だった。

 

 地下資源も、タングステンやマンガンなど一部のレアメタルは豊富だが、燃料資源となると豊富な石炭以外では石油がある程度採掘されている程度でしかなかった。

 国内に有望なウラン鉱山がないため、核兵器開発では常にウランの入手が大きなネックとなっていた。

 輸入するにも外貨がなく、元の国際信用が常に低かったため穀物などのバーター取引となり、経済発展の足を引っ張っていた。

 

 にも関わらず、『大躍進』や『文革』という経済や産業を破壊する内政事件を起こして、自ら国内の産業と経済を無茶苦茶にしていた。

 建国から三十年以上経っても、いまだ町中では人民服しか見られないとあっては、西側から見れば処置なしといったところだろう。

 人民服の存在こそが、国内にまともな産業がないなによりの証だからだ。

 

 当然と言うべきか、ほとんど全ての外国が助けてくれなかった。

 国境を接するすべての国が、例外なく鉄道すら外して国境を軍隊を用いて厳重に閉ざしていた。

 いまだ国外にまともな情報は出ていないが、70年代半ばまでは「ちょっとした」飢饉や疫病の流行が日常茶飯事だったと言われている。

 そして近隣諸国は、いつ共産中華が崩壊するのかと、戦々恐々として国境線を軍隊で固めていた。

 誰もが、ここまで国が保つとは思っていなかったほどだった。

 

 それでも70年代には、様々な変革を行った。

 

 まずは西側と電撃的に和解して、東側と決別して西側陣営へと鞍替えした。

 毛沢東死去後の1978年には、いち早く市場経済が導入された。

 

 80年代に入ると、深センなどの華南地方の経済特区では、少しずつではあるが西側欧米資本の導入が行われるようになって、建国三十年を越えてようやく経済と近代産業が上向き始めていた。

 主に進出していたのは、EC諸国の西ドイツ、フランス、イタリアであり、自らの低価格生産拠点として労働コストの低さを狙っての事だった。

 そして互いの利害一致を見た事も重なって、共産中華側の体制が整うに連れて年々欧米企業の進出も広がりつつあった。

 冷戦中、西側の出城状態だった香港やシンガポールが大きく飛躍し始めたのも、実のところ80年代に入ってからだった。

 

 全ては周恩来が命に代えても守ったと言われる登小平(ドン・シャオピン ※「登」は別漢字)の、政治手腕あったればこそであった。

 

 しかし、追い風は長くは続かなかった。

 

 1980年代半ば以降、外資はいっせいに近隣の日本や満州に回ってしまったからだ。

 世界中の余剰資金のほとんども、日本と日本の勢力圏へと殺到した。

 当時何もかも基礎から揃えねばならない中華市場では、欧米が満足する速度と量を揃えられなかったのが大きな原因だった。

 また85年の世界的緊張を作り上げた共産中華の責任に対する西側からの一時的な外交制裁も、経済上では大きな打撃となっていた。

 

 しかも、70年代初頭からの西側との交流では、政治以外での接近は希であり、共産中華が経済的、技術的恩恵を受けることはほとんどなかった。

 西側としては、自分の側に付けて日本の的として共産中華が機能すればそれでよかったからだ。

 また日本は、一円の援助も借款もなく、技術も人材も一切交流しなかった。

 日本、ソ連と友好的な近隣諸国も全く無視し続けたため、近隣経済と連携できない共産中華の経済発展は低調なままだった。

 

 そこにきての東側、わけても日本の変節であり、共産中華の受けた打撃は計り知れなかった。

 

 当然と言うべきか、経済成長の初期段階だった共産中華国内は、すぐにも大きな不景気に突入した。

 経済水準は、開放以前よりも悪くなるほど下落した。

 西ドイツ企業との合弁で建設予定だった上海の巨大製鉄所が、建設半ばで西ドイツ企業が手を引いた程酷い不景気となった。

 外交制裁の関係もあって、技術輸出や移転、安価での譲渡もほとんどが途絶した。

 次世代の『世界の工場』となる計画はとん挫し、経済発展は最低でも十年、最大四半世紀後退したと言われた。

 

 一方では、万元戸という言葉に代表されるように、開放政策で中途半端に富める者が増え始めていただけに、極度の不景気に対する民衆の不満の高まりと反動も大きくなった。

 何しろ真っ先に豊かになったのは、共産党員だったからだ。

 都市部を中心とした高等教育の普及に緒がついていた事も、政府への不満を大きくさせる力となっていた。

 

 もともと共産中華は、建国以来経済基盤や工業基盤、社会資本、流通体制が極めて弱いため、景気後退の速度は早かった。

 基礎教育以外では、アフリカ中央部とほとんど変わりないほどだった。

 外資が簡単に日本に流れたのも、共産中華域内での社会基盤と市場の弱さが原因していた。

 近代的な大規模製鉄所がまともに存在しなかった事にも象徴されるだろう。

 製品管理や共産党に統制されている筈の労働者のモラルの低さは、西側諸国から見たら目を覆うばかりだった。

 国家の背骨を叩き折るような『文革』からわずか十年程度で、どうにかなるようなものではなかったのだ。

 一人当たり国民所得が世界最貧国並の100ドル台の共産中華と、開放政策後に所得が1万ドルを超えた当時の日本を比較する事自体かなり無理があった。

 

 国土もインド程度の規模はあったが、まわりは強度の仮想敵国ばかり。

 しかも、日本、ソロシア、ベトナムという妥協する気のない軍事強国がぐるりと囲んでいた。

 政治的にも、不安定な事著しかった。

 

 しかも弱さが露呈されると、尚更共産中華からの外資離れは激しくなった。

 それが欧米型の傾斜分配を基本とした市場経済というものだったからだ。

 中華お得意の政治的駆け引きでどうにかなるものではなかった。

 しかも市場経済というものが見えていない大多数の共産中華の役人や政治家は、理不尽な強欲さを見せて(主に『対価』としてのあからさまな賄賂強要)西側諸国から不満と反感を買い、なおさら外資の中華離れは激しくなった。

 無論一部では逆の動きもあったのだが、全体として見た場合は焼け石に水に過ぎなかった。

 あまりの不景気に、中華マフィアですら共産中華域内から逃げ出したほどだった。

 

 東京オリンピックの頃からが不景気のどん底と言われ、共産中華は日本列島に深い嫉妬と恨みの目線を送り続けていたと言われている。

 88年の経済成長率がマイナス20%以上を記録したとなれば、嫉妬や妬みも仕方ないだろう。

 


 そして大規模な不景気が、内政不安や政変の温床として最大級の役割を果たすのは古今東西同じだった。

 数々のデモや暴動を経て、1989年6月「第二天安門事件」という形で噴出する。

 

 共産中華にとっては、何度目かの建国以来の危機であった。

 事件発生当初、今度こそ本当に民衆の力で中央政府や共産党独裁体制が倒れるのではないかと世界中で言われた。

 何しろ今度は、民主化を求めた民衆運動だった。

 

 しかし周辺国は、中華解放などよりも、混乱に伴う難民、流民の流出を酷く恐れた。

 当然と言うべきか、ソ連(東トルキスタンとモンゴル)、日本(満州とチベット)、ベトナムなど国境を接する国々は、またも共産中華との国境を軍隊で固めた。

 またチベットなどは、不当に占領されている西部地域(四川省西部など)を回復する機会ではないかと、活発な活動まで開始した。

 

 しかし共産中華中央は、この事件を当初穏便に解決しようとした。

 総書記の趙紫陽など有力な政治家が民衆に譲歩姿勢を示すなど、大きな努力も行った。

 また軍隊に対する鎮圧命令については、騒乱の街と化した首都北京への移動すらほとんど行われていなかった。

 今以上に国際評価を落としては、さらなる不景気とその後に続く負の連鎖が目に見えていたからだ。

 そうなっては、体制維持すら危ういと考えられた。

 

 ただし軍隊が移動しなかったのには、別に大きな理由があった。

 先に書いた通り、国境を接する国の多くが自らとの国境線に多数の軍隊を集結させたからだ。

 特に、「セカンド・ワンリー(第二の万里の長城)」の満州側に集結した日本、満州、韓国の極東三カ国の軍隊の数は多く、増援用部隊や後方まで含めた総数で百万人にも達していた。

 モンゴルや東トルキスタンの後ろにも、数十万の軍隊をシベリアや中央アジアに準備するソ連軍が控えており、人民解放軍の半数以上は身動き一つ取ることが難しかった。

 周辺国の全てが、共産中華の混乱が波及することを恐れていたため、事は慎重を要した。

 

 しかもセカンド・ワンリーの向こう側の日本人達は、北京での混乱の拡大による人民解放軍の移動に過剰反応して緊急的に軍隊の動員を強化し、対抗措置に出た人民解放軍との地味なエスカレーション状態となっていた。

 このため北京と満州境界線を防衛する中央直轄の直隷軍(約80万人を抱える精鋭部隊。

 =北京軍管区)は、北京の事よりも日本人の事を第一に考えなければならなかった。

 

 また一部地方から中央へと動員された部隊(中華全土は6つの軍管区に分かれていて、それぞれ仮想敵と向き合っている)も、まずは万里の長城方面や自らの管区の重要箇所へと向かわざるをえなかった。

 上海軍管区などは、台湾と海岸で日本軍と向き合っていて、兵力拠出を酷くきらった。

 

 かつての恐怖と軍拡を成功させた現在進行形での恐怖が、人民解放軍を日本軍の方向に向かわせたのだった。

 

 しかも日本の改革開放後に日本国内で俄に発生していた『リベラル』政党や組織は、天安門広場の学生や市民を支持すると訴え、共産中華の感情を悪化させていた。

 無論日本政府は政府としての公式見解で共産中華への関与や干渉を全て否定し、満州の国境線を固める以上の行動には出なかった。

 

 冷静だった日本政府の本音としては、『内ゲバのとばっちりはもうご免』といったところになるだろう。

 

 世界中の国々もそう考えていた。

 


 そうして事態は、五月半ばのソ連書記長ゴルバチョフ訪中が終了すると一気に悪化へと向かった。

 

 「第二天安門事件」自体が、日本の開放政策、ソ連のペレストロイカ、東欧の共産主義後退などに影響されているのが事実であるため、共産中華側としては安易に引き下がるわけにもいかなかったからだ。

 日本の政権基盤は、情報公開や開放政策程度で倒れないのかもしれないが、中華世界には力を用いず維持できる政権基盤など数千年の歴史上一度も存在しないのだ。

 ましてや共産主義という虚構の上に作られた共産党政権など、強権と中央集権支配なしには存続できる筈もなかった。

 しかも共産党を支配する長老や党幹部達は、国民が無軌道に暴れ回った『文革』の悪夢を忘れてはいなかった。

 中華世界において、無知な民に無軌道な自由を決して与えてはならず、上から与える飴と鞭で支配するものなのだ。

 

 かくして北京に戒厳令が布告され、これに反発した市民の数が一気に倍加。

 そして5月30日には、天安門広場の中心にニューヨークの「自由の女神」を模した「民主の女神」像が北京美術学院の学生によって作られ、その後この像は民主化活動のシンボルとして世界中のメディアで取り上げられた。

 どちらかが激発するのは、もはや時間の問題であった。

 「民主の女神」は、その名に反して混乱への号砲であったからだ。

 

 しかし事態は、思いも寄らぬ方向から悪化する。

 


 天安門に集結していた学生や市民に同調した一部が内蒙古方面のセカンド・ワンリー先端部(それ以降は、境界がハッキリしていない草原と砂漠)に至り、中華の民主化のために同じ中華の同胞である筈の満州軍の助力を得ようとした行動が発端だった。

 事実満州国内の一部では、共産中華の民主化を歓迎さらには応援する動きが出ていた。

 

 当初彼らは、亡命者ではないかと考えられた。

 だが満州国へはセカンド・ワンリーと兵士達によって厳重に閉ざされており、境界線のハッキリしない内蒙古地域にも優秀な国境警備隊が常に展開していた。

 しかも満州国政府は、直接越境してくる亡命者は一切受け入れていなかった。

 過去にも、内蒙古辺境部から越境しようとした亡命者を射殺した事例が存在していた。

 だいいち草原や砂漠で、人民解放軍のゲリラ戦部隊と亡命者を見分けるのは困難すぎた。

 当時の満州国は、国防と自らの国家を維持するために共産中華との直接的つながりを全て拒絶していた。

 

 しかし今回は、今までのように杓子定規な対応をする訳にはいかなかった。

 どこからか西側に情報がわたっていたらしく、内蒙古と満州を結ぶ辺境なのに西側報道記者(CNN)が衛星テレビの生放送体制で待機していたからだ。

 またセカンド・ワンリーを越えようと境界線付近に集まった人数が、百人の単位に達していた。

 

 一方国境の反対側に陣取る人民解放軍は、主力部隊が第二の長城東部平原に集中しており、また一部が北京と国境の中間地帯にいたため、辺境境界部は希薄となっていた。

 

 そして主に地方からの強硬派学生で構成されていた人々は、大多数が現地の少人数の人民解放軍と小競り合いをしている間に、少数が境界線地帯に侵入。

 双方の混乱を後目に、一気に四輪駆動車で満州領内側に入り込もうとした。

 

 そしてこれがベルリンの壁であったのなら、事件は解決に向かうかもしれないのだが、今度はそうならなかった。

 

 既に『反動勢力』の武力鎮圧を決めていた中央の命令を、国境を警備する人民解放軍が守ってしまったからだった。

 また亡命した形になった学生側も満州領内側から人民解放軍への挑発を行い、強引に満州軍の助力を得ようとした。

 

 かくして、越境した共産中華からの亡命者を、小競り合いから解放された人民解放軍が発砲。

 これに拡声器による二度の警告の後に、満州国境警備隊が反撃。

 後は互いに増援部隊を送り込んで、戦闘は急速に拡大した。

 特に満州国側は、満州国軍、関東軍共々戦闘ヘリすら持ち出して、徹底した敵軍事力の無力化を実施した。

 一部では、固定翼機の投入も実施された。

 日本軍の地上制圧機が、散発的抵抗を試みる人民解放軍国境警備隊の一部隊を粉砕したりまでした。

 

 以後付近での戦闘は数日間散発的に続き、死傷者の数は双方合計で数百名にまで拡大した。

 規模としてはイスラエル軍とその周辺部が時折行う戦闘に近いだろう。

 そして中東と同様に、戦闘の模様は全世界放送されてしまい、事態は単に共産中華内部の混乱だけでは済まなくなっていった。

 

 その上、本来なら亡命者を拘束後に強制送還や第三国に追放する筈の満州国政府は、中華の民主化を歓迎すると発表せざるをえなくなった。

 人民解放軍との交戦の模様がライブで放映された時、満州国国境警備隊が人民解放軍から亡命者を守るように見え、西側報道機関の第一報もそのような憶測や観測で世界中に情報を発信してしまった結果だった。

 そして日本に追従して開放政策に転じていた満州国政府は、自国経済維持のため西側から非難される事を恐れていた。

 

 なお、この一連の国境紛争は規模が若干大きかったため、いつも通りの『満中国境紛争』ではなく『第二次満州紛争』と呼ぶ事がある。

 

 その後、セカンド・ワンリーでの戦闘は何とか沈静化したが、双方の警戒態勢と動員状態はより強化された。

 とてもではないが、双方合計二百万人以上の軍隊は一歩も動けなくなっていた。

 今度動けば、本当にかつての満州紛争に匹敵する大規模戦闘に発展することが容易に予測されたからだ。

 恐らく大規模な戦闘となったら、日中の全面戦争が発生するよりも、本当に共産党政権は崩壊するだろうと考えられた。

 

 しかも日本軍全体も、警戒のために対中華戦争に備えたシフトで動き始めており、ソ連やその他の共産中華と国境を接する国も警戒態勢を強め、一見全面戦争一歩手前と言えるほど情勢は緊迫化した。

 それは、4年ほど前の戦争の危機を上回るものとすら報道された。

 違っていたのは、中華国境に限っての緊張でしかなかった事だった。

 

 なお西側がほとんど動かなかったのは、日本政府などの外交対応が適切であり、それぞれの国も数年前に大規模な緊張を経験して冷静だったためだ。

 日本政府が自らは決して手は出さず、核も使わないと明言している以上、当事者以外にとっては念のための準備を行う以外は高みの見物以外のなにものでもなかった。

 気の早い者の中には、中華民主化後を睨んだ動きを始める者までいる状態だった。

 

 これに対して人民解放軍は、様々なものに対する恐怖心から事実上の準戦時体制に突入していた。

 約360万人の人民解放軍は、それぞれ所定の各国境線や部署へと移動を始めた。

 そしてこの時、建国以来続いている中央政府と地方軍閥(軍管区)の対立が表面化した。

 

 正直中央政府や北京の事などどうでもいい各地の軍閥が、中央の命令を半ば無視して北京に無理矢理動員されつつあった兵力を引き上げて、各地の国防拠点へ移動してしまったのだ。

 また引き返せない部隊は、そのまま北京郊外を迂回してセカンド・ワンリーへと向かった。

 これに対して、混乱する中央政府や政府を牛耳る共産党の長老達だったが、毛沢東が定めた国防命令に従っていると言われては、実戦状態に入った地方軍閥を止める手だてがなかった。

 いつ自分達に砲口が向くとも限らないからだ。

 

 これによりセカンド・ワンリーに120万人の人民解放軍の精鋭部隊が集結するも、北京周辺は武装警察以上の軍事力は存在しなくなった。

 僅かながら存在した戦車や装甲車の姿も北京郊外からなくなり、民主化を求める民衆を武力で弾圧すべき戦力を共産中華中央政府は失ってしまう事になった。

 デモ拡大と(強引な)治安維持能力の低下に伴い、戒厳令もほとんど有名無実化した。

 デモの中には、天安門広場ではなく、その側の中国共産党本部、中華人民共和国国務院、幹部邸宅などのある中南海で行われるものもあった。

 デモ参加者が増えすぎていた。

 


 しかもこの頃共産中華国内では、今回の緊張を引き起こしたのは日本だという根拠のない噂が広がっていた。

 さらには満州国軍が中華の民主化を行うために進軍して来るという根も葉もない噂が集まったデモ隊を中心に広がって、万里の長城から北京に至る道にまでデモの動きが広まっていった。

 そうした民衆の動きに混乱初期の知的で冷静な動きはなく、ただただ大衆による熱狂と混乱だけが人々を動かしていた。

 ここに、強いカリスマ性を持った指導者が一人いれば、間違いなく革命もしくは次王朝の勃興へとなだれ込んだだろう。

 

 だが、人々は熱狂していたかもしれないが、共産中華及び日本政府は冷静だった。

 日中両政府とも事態拡大を望まなかった。

 日本は外交関係の悪化阻止と好景気の維持、共産中華は共産党政権存続、国家存続がかかっていたからだ。

 

 ここで日本の首相後藤田正晴は、セカンド・ワンリーなどでの双方の戦闘態勢の解除と兵力の引き上げを、共産中華政府に提案。

 さらには近日中の日中首脳緊急会談を提案した。

 しかも日本政府は、水面下での秘密交渉において、共産中華の内政不干渉への確約をほのめかした。

 また今後の日中対立を回避する方法が存在するとも提案しており、6月7日の日本国首相後藤田正晴の電撃的訪中が実現した。

 

 世界は当初、この日本首相の訪中を共産党自らの民主化に向けた動きだと考えたが、すぐ後に違っていた事を知る。

 

 中華公安(警察)が全力を挙げて警備する中、電撃的に行われた後藤田・トウ小平会談は一定の成果をあげ、双方の軍隊の動員体制はただちに解除される事になり、また合わせて日本政府は共産中華に対していかなる政治干渉を行わないことを約束した。

 ただしセカンド・ワンリーでの戦闘については、議題にも上らずまた双方とも一切謝罪は行わなかった。

 

 そして6月9日、後藤田が北京を去った翌々日、中央政府が行動を起こした。

 国家を転覆しようとする反動分子鎮圧を行うというものだった。

 

 ただし暴動鎮圧には、当初予定していた地方軍閥を用いることが物理的に難しいため、主にセカンド・ワンリーに展開していた首都防衛軍でもある直隷軍が用いられる事になった。

 

 なお、時点までで民主化要求のデモに参加していた天安門広場の民衆の数は約150万人。

 万里の長城から北京にかけて溢れていた人々を加えると200万人を越えていると考えられている。

 普通の国ならとっくに政権が倒れていてもおかしくない規模だった。

 しかし共産党そのものは長老達により牛耳られており、彼らは共産党による政権維持のためだけに国民を自らの所有物以下の扱いとする決断を下していた。

 

 だが、鎮圧は当初から難航した。

 何しろ万里の長城からの街道には、既に民衆が溢れていたからだ。

 しかも直隷軍を用いたため、一部北京の民衆に同情的で強引な行動を控える向きが強く、一部の将校や兵士は明らかに軍や党の命令に反抗的態度を取る者も出た。

 しかも民主化要求の発端にあるのが経済の困窮だったため、混乱が広がり鎮圧が低調だと分かると俄然民衆の動きが活発化した。

 北京では私欲をむさぼる共産党員とそれ以外の民衆との対立が一般的なものとなり、あまりのデモの規模に軍隊もおいそれと手出しができなくなっていた。

 デモ参加者の数は、6月11日の時点で300万人に達していたとすら言われている。

 

 北京の街は、人民服で溢れかえっていた。

 

 そして北京での混乱によって、再び地方の混乱を誘発した。

 

 またこの時点で、北京郊外に一部の中央政府と取り引きした地方軍が到着したが、今度はエリート意識の高い直隷軍が地方軍の北京入りを許さず、北京郊外で人民解放軍同士の睨み合いとなった。

 

 ここで長老達に牛耳られた共産党中央部から、極めて強い命令が達せられる。

 これにより地方軍閥は北京入りの動きを止め、直隷軍は自らの存在を賭けて一気に天安門広場の武力弾圧を開始した。

 そしてこの武力弾圧は、車載機関銃などを用いた大規模な無差別発砲、隊列を組んでの装甲車での轢き殺しなど、ひじょうに血なまぐさいものとなった。

 そして武力弾圧に反発した一部兵士と弾圧側兵士が交戦する事態が市街各地で発生。

 北京市内は市街戦にまで発展した。

 

 外国の報道機関が既に北京からほとんど追い出され情報が錯綜したため、一部報道では軍の武装蜂起や共産党政権崩壊などが伝えられたが、数多の国難、というより数多の党の存亡(内ゲバ)を乗り切ってきた共産党の長老達は実にしぶとかった。

 

 共産党も人民政府も倒れないまま、北京での混乱はその後一週間近く続いた。

 戦闘は、戦車戦が行われるなど戦闘規模の拡大によって、市街の一割近くが何らかの被害を受け、死傷者の数は十万人を超えたとすら言われるが、とにかく混乱は武力によって鎮圧された。

 地方の混乱も北京沈静化までには鎮圧され、共産中華国内は表面的な平静さを取り戻したかに見えた。

 

 結果的には、文革での教訓が活かされた、と言うべき状況なのかもしれない。

 

 しかし、この混乱による共産中華の受けた打撃は極めて大きなものだった。

 

 まずは、この時の模様は様々な手段で世界中を駆けめぐり、世界に共産党独裁体制の実体を世界に向けて発信する事となった。

 当然ながら中華共産党独裁体制への非難を天井知らずのものとした。

 

 ソ連が改革に向かい日本も変革へと動いた今、冷戦の勝者たるアメリカにとっての取りあえずの敵として共産中華に白羽の矢が立てられたのだ。

 

 しかも一週間近く続いた市街戦により外国人にも被害が発生し、世界中からさらなる非難にさらされた。

 加えて国境での無用な緊張を作り上げた事も合わせて非難された。

 そして国際的な責任は共産中華全体が被らねばならず、同国の国際評価はまたも最低のものとなった。

 アメリカは、一度叩くと決めたら容赦なかった。

 

 共産中華は共産党体制と国内治安の安定と引き替えに、西側諸国からの非難と資本引き上げ、経済封鎖、一部の国からの国交断絶に晒された。

 このため共産中華全土が、極度の国内不景気に10年近くも苦しむ事になる。

 主要各国との関係改善にも5年近い歳月を要し、その間大きく変革した世界に対しての異質性が強まり、諸外国からの投資や企業進出を長らく低調なものとした。

 この「第二次天安門事件」が「大躍進」、「文革」に匹敵する経済破壊と言われるのはこのためだ。

 


 一方で、当事者の一人となった日本だが、当初は戦争回避を行った危機管理能力の高さが国際的にも評価された。

 しかし、結果として共産中華の民主化を見殺しにした上に共産中華政府と連携したとして、徐々に国際的に非難されるようになった。

 

 つまり、共産中華の民主化失敗の原因の大きな要因として、日本の行動があるとされてしまったのだ。

 中華の共産党一党独裁体制が新たな世界の敵とされた以上、それを助長した形になった日本が、アメリカから『お小言』をいただくのは西側政治からすれば当然の結果であった。

 これこそが西側の日本の成功へのしっぺ返しであり、同時に自分たちの側に立ったことを日本に分からせるための通過儀礼であった。

 

 しかし日本は、西側の『リベラル』な論調を、あまりにも見当違いだとして反発。

 政府見解として、正統的な論調と理性的な言葉によって、逆に西側リベラル派に反論した。

 一見好々爺然とした後藤田の言葉は淡々としていたが、まったく正論だった。

 

 そして当然と言うべきか、予期せぬ反論を受けた西側リベラル勢力が感情的となってさらに反発。

 日本に対して、表面上市場開放しただけの一党独裁の軍事国家が偉そうな事を言うなという感情的反発になり、日米の外相レベルでの話し合いでも解決できない堂々巡りのなじりあいとなって、短期間で回避不可能な国際問題と化していった。

 

 そして予想外の国際非難さらされた日本は、相手世論が感情的なためまともな弁明の機会も与えられないまま、アメリカなど西側諸国との関係を冷却化させる。

 

 これは日本自らが背を向けた行動であり、無軌道な民主化世論や冷戦の西側勝利という安易な風潮に一石を投じると共に、前後して始まっていた東側諸国の民主化や政権交代にも大きな影響を与える事になる。

 

 しかし主に市民レベル、報道レベルでの日本と西側諸国との関係冷却化によって貿易が停滞。

 日本は一時的とはいえ不況へと陥った。

 世界的な民意の点で日本の海外貿易は不振となり、結果として翌年の日本経済はV字型で好景気から不景気に転じる。

 


 この裏には、日本の好調すぎる経済成長と発展に、ちょっとしたブレーキをかけようとした西側各国の情報操作が強く存在していた。

 しかも日本側は、西側諸国のやっかみと嫌がらせに対して正面から反発し、正論を押し通してしまう事で自らの立ち位置を鮮明化しすぎた。

 そして自らの立ち位置を鮮明化する為にも、以前ほどではないがまたも西側社会に背を向けることになる。

 

 この時の日本の動きは、かつての満州事変後の国際連盟での会議になぞらえる事が多く、日本外交の実質的勝利と欧米外交の失敗の好例とされた。

 

 欧米に屈しない国日本という図式が、この度もまた明確にされたからだ。

 


 なお、後藤田が訪中で提案した日中間の劇的な関係改善と経済関係構築に向けた動きは、改革開放による急速な民主化と共産党体制の解体を恐れた中華共産党中央の長老達によって、結局共産中華側から反故にされた。

 このため大日本帝国と中華人民共和国との関係は、共産党の長老達と長老達の意を受けた江沢民率いる上海閥が政治の舞台から消えるまで、最低限の状態へと舞い戻ってしまう。

 無論この間、中華の大地に鐚一文も落ちることはなかった。

 

 かくして、日本が経済面で最も頼るべきは、既に崩壊しつつある東側陣営、中でもロシアとなっていた。


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