フェイズ18「ペレストロイカと平成御一新」
極度の緊張状態が過ぎ去った1985年の初夏の頃、ソビエト連邦の新たな書記長となったミハエル・ゴルバチョフは、「ペレストロイカ(諸改革)」の開始を宣言。
共産主義国、社会主義国だったソ連国内に、社会主義内での市場経済化をもたらした。
同時に、各国に無尽蔵の軍事費を要求する東西冷戦の終幕にも尽力した。
ただし国内の共産党一党独裁体制は維持したままであり、情報公開も政治の民主化も行われなかった。
開始当初は、この数年前に動き始めた共産中華の市場開放政策と似た動きといえるだろう。
しかもソ連の場合は、70年代から日本企業を限定的に受け入れたり日本に進出したことで、市場経済移行への準備運動も終わっていると一部では見られていた。
そして、ソ連の大規模な改革と外交方針の転換を殊の外喜んだ国があった。
ソ連の盟友、大日本帝国だった。
日本は、明治維新の建国以来ずっと資本主義・市場経済社会であり、そして共産主義とは正反対とすら言える立憲君主国であった。
一党独裁と言われながらも、曲がりなりにも議会制度と政党政治を保持し続けてもいた。
西側から軍国主義国家と言われながらも、一時期を除いて中央選挙だって毎度行われ、議員制内閣制度に従って内閣総理大臣は数年おき(平均4年程度)に替わっていた。
田中角栄のように学歴のない者が首相になった事すらあった。
民意で退陣に追い込まれた首相も、一人や二人ではない。
民主化の一つの指標とされた婦人参政権も、西側とそれほど違わない1940年代に達成している。
一面から見れば、自由の国アメリカより進んでいるとすら言えるだろう。
一方では、国内及び域内の共産党を法律的に一度も認めたことがなかった。
国家として常に大国や列強と呼ばれるほどの規模と国力があった日本が、不必要なまでに深く東側陣営に属していることは、冷戦時代の七不思議の筆頭と西側で言われていたほどだ。
ただし日本は、建国以来在民主権ではなく天皇主権の憲法を持ち続け、国家制度上では西側陣営の言うところの独裁国家に当てはまった。
また、軍事優先の社会が1930年代から半世紀続いたままの軍国主義国家とされていた。
軍人が首相になる事も、60年までは何度かあった。
華族(貴族)などの身分制度すら、ゆっくりとした形骸化が進みつつも憲法上でいまだに残っていた。
旧時代の残滓である貴族院もずっと存続している。
貴族院を構成する華族も、憲法上で特権を持っていた。
西側諸国から見た場合、間違いなく『最後の帝国』だったのだ。
もっとも帝都(首都)を軍隊が完全武装で勝手にうろつき回ったという事態は、1936年2月の「二・二六事件」を最後に一度もなかった。
『六十年騒乱』ですら、憲兵が出動した以外は自らの関連施設を警備したに止まっている。
軍服姿こそ今でも街中で多く見かけるが、武装兵は閲兵以外では駐屯地や軍関連施設にでも行かなければ見ることは難しかった。
軍隊も三分の一が常に海外展開していたが、侵略のための『帝国軍』と言うよりは、アメリカ軍などよりよほど『国防軍』としての性格が強かった。
軍部の国内での政治的影響力も、軍事予算を増額させ軍備を揃える以外では必ずしも高いとは言えなかった。
しかも『六十年騒乱』以後は、軍人を大臣にできなくなるなど政治的影響力はかなり低下してもいた。
西側から軍国主義の象徴であるとされる天皇を守護する筈の近衛隊(師団)も、60年代以後は帝都郊外に民衆の手によって追い出されてしまい、実質的にはただの名誉称号程度でしかなくなっていた。
一部は儀典部隊化しているほどだ。
これではイギリス連合王国とたいした違いがなかった。
そうした日本がソ連の側、東側陣営に与し続けていたのは、日本の側としては大きな理由が存在し続けていた。
初期においては、満州国を中心とする中華地域の諸問題が西側諸国、特にアメリカと妥協できなかったからだった。
満州国承認後は、ソ連と日本の関係が深まりすぎていて、互いに歩み寄ることが難しかった。
また西側と妥協した共産中華との対立と、西側から阻害された国々と関係が深いため、西側諸国と深く交わることを自ら拒絶させていた。
当初は成り行き上でしかなかった筈の東側寄りの政策運営も、西側にとっては問題以上の事象だった。
「最悪の無定見」とされる日本の政治の行き着いた先こそが、東側唯一の資本主義国という立ち位置だったのだろう。
ただし日本は市場経済を持つ資本主義諸国であり無資源国なため、常に資源と貿易を必要としていた。
全ての発端と言われる事の多い満州事変も、単に自由になる資源と市場が欲しかっただけだった。
初期において米英や中華と仲直りできなかったのも、近視眼的な資源問題が重要な原因の一つだった。
そして欧米諸国との決別から数十年後、冷戦時代中の発展のためソ連を中心とする東側、合計約4億5000万人(冷戦終末期)の限定された市場だけでは足りなくなっていた。
故にインドや東南アジア諸国など友好的な第三世界を中心に、貿易拡大を図る方向性が維持されていた。
西側諸国との国交の方も、アメリカとは独自路線を取る事の多いフランスなど一部の国とは関係を先端技術分野以外では相応に深まっていた。
日本国内の女性にフランスブランドの鞄やアクセサリーがもてはやされ、フランス料理店が賑わっている事で象徴されているだろう。
また同じ東側陣営に近い資本主義国だったフィンランドとの関係も、工業面、技術面での交流では重要だった。
冷戦時代の日本の基盤工業力や先端技術力が西側から一歩劣る程度で済んでいたのは、間違いなく第三世界やフィンランドとのつながりを重視していたからだった。
またアメリカの牙城である中南米でも、反米感情につけ込んで一部の国と経済面でつながりを持っていた。
常に混沌状態のアフリカに対しては言うまでもない。
ソ連の尻馬に乗る形や、自らの独自性を売り込むなど、様々な方法であちこちの国と関係を作り上げ、アフリカの混乱を助長していた。
西側兵器よりも安価で劣悪な環境での稼働率が比較的高い日本製兵器は、現地では好評だった。
ただし主に軍事面や国際政治姿勢面では東側陣営に属し続けているため、東側対象となる西側のココム対象国となり、先端技術の吸収と貿易の拡大、つまりは日本の経済的発展は抑制されていた。
自由競争が強引に抑制された状態のため、自らによる技術発展にも足かせがついたままだった。
さらに日本は軍備に多くをかける傾向が強いままのため、常に軍事費に国庫や様々な資金利用が圧迫され、国の発展と技術開発、生産性の向上を阻止していた。
おかげで兵器や軍隊は立派だったが、民間部門での技術停滞は間違いなく軍国主義国家である事を現していた。
最強の軍備と停滞した国民生活という図式は、実に軍事国家らしかった。
だが大きな変化が訪れる。
東側盟主のソ連自らが冷戦終結と市場開放に動いたのだから、第二次世界大戦からの盟友であり続けた日本が、遠慮することもなくなったのだ。
西側もソ連が無用の競争を止めると言ったのだから、日本に対する規制や制限も続ける必要性が大きく低下した。
かくして日本は、ソ連中枢の動きを掴むが早いか、さっそくつながりのあったフランスや第三世界との交流を活発化させた。
無論西側とのチャンネルを太くするためだ。
同時に、西側列強、特に対立の少ない欧州諸国との直接的な関係改善を模索し始めた。
動きは83年の段階で既に始まり、共産中華との睨み合いを過熱化させた政治的失点回復のため、84年のロサンゼルスオリンピックにも東側のボイコットに参加せず政治得点を稼いでいた(※ただしこれは、次が自らの国でのオリンピック開催だったためと言われている)。
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87年のIMF全廃も批准した。
そして、88年ついに東京での開催が決まった夏期オリンピックも最大限政治利用された。
86年には、電撃的な日本国首相の訪米も実現した。
それ以前に、日本の「元首」である天皇を擁する皇室は、1960年代中頃から『皇室外交』と呼ばれる世界各地の王室訪問を続けており、同86年には皇太子によるイギリス王室訪問すら実現させ、西側社会との関係改善を大きく後押しした。
また1986のチェルノブイリ原発事故においても、ソ連側の情報公開直後から積極的な救援活動と国際活動を行い、事件後長らく世界最高レベルにある各種放射線病(原爆症や癌疾病)対策などに力を尽くした。
特にこの時は、自ら核兵器を使用した教訓を逆手にとって、逆に国際評価を上げることに成功している。
とにかく何でも利用した。
日本の文化輸出が急速に拡大したのも、この頃からだ。
一方では、市場経済化したソ連には、いの一番に大挙押し寄せた。
今まで関係を深めていた政治家や共産党関係者、高級官僚などと結託し、さらには数十年間培ってきた地盤を利用して、西側よりも早くソ連経済内での確固たる地位を築いていった。
しかも既に70年代から限定的な進出と、特区でのソ連自身の市場経済化が始まっていたため、日本人の浸透と広がりは早かった。
さらにロシア人には、資本主義がどういうものであるかを懇切丁寧に教え、ソ連領内での商売のためのロシア人パートナーを捜し出すと同時に、ロシア人に恩を売ることも忘れていなかった。
ただし最後の点は、お人好しの日本人として親切の押し売りをしたと見るべきかもしれない。
事実日本人がロシア人に分厚い指南書付きで教えた『資本主義』は、社会主義経済に近い中央官僚主導の公平分配型の資本主義であり、当時欧米、特にアメリカ、イギリスで標準とされる傾斜分配型の資本主義ではなかったからだ。
そしてロシア人が体感した資本主義が日本中心だったため受け入れられ、ソ連の経済や財務の官僚たちも熱心に日本の行政や経済の仕組みを勉強した。
また日本は、日本本国、満州国を中心に、西側諸国に対する市場開放政策を大規模に進めた。
国内の多くでは、それまでの軍事費を転用するような予算配分の変更により国家規模の社会基盤整備と民間での民生技術研究に大きな力が入れられ、必然的に日本国内の景気は、軍需以外での内需拡大という方向で大幅拡大をもたらした。
ただし日本は、無理矢理にでも大規模な景気拡大を図らねばならない理由が存在していた。
それは1982年から86年にかけての大幅な軍備拡張に伴う財政政策のツケが、借金(国債)返済という形で数年後(最短で92年)に回ってくるためだ。
今までの積もり積もった財政赤字を合わせて考えれば、ソ連同様に国家財政上の致命的な失点になりかねなかった。
冷戦中ずっと赤字国債を大量に含んだ国家予算の四割以上(最大六割)を軍事費に投入していたのだから、当然の結果ですらあった。
なんとかそうなっていなかったのは、日本経済と財政、そしてGDPが名目ではなく実質において何とか成長を続けて、借金の利子返済が回っていたからだ。
だが、流石に今回は限界だった。
何しろこのままでは、国債の利子だけで国家予算の四割を占めることが確実だったからだ。
故によほどの規模の緊縮財政を行わないのなら、影響を回避する経済政策を急ぎ行わなければ、国内に大きなインフレーションが訪れ経済に大打撃を受ける事が確実だった。
つまりは、ロシア人のような経済的破局を避けるために、総力戦体制による日本の景気拡大が開始されたと言えるだろう。
GDPと国家予算規模を大きく引き上げて相対的に借金を小さくしてしまう以外、破滅を回避する方法はなかったのだ。
実際ロシア人の惨状が見え始めたため、日本人の動きは急速だった。
そして日本を背負っていると自負している中央官僚達の行動も迅速かつ果断だった。
この時の官僚達の機敏さと行動力は、六十年騒乱を経験した官僚達が各分野のトップや中堅に位置していたからだとも言われるが、日本中央官僚組織が有効に機能した最善の例の一つとなった。
明確な目標を持った時の中央官僚統制は、時として強い力を発揮するのだ。
なおこの時の動きは、特に初期が官僚と国が手厚く保護・主導したため『護送船団方式』と呼ばれ、日本で維持されていた資本主義がどのようなものであったかを、西側社会はようやく知る事になる。
日本は景気拡大に際して、まずは日銀の低金利政策を行い、新紙幣の発行という手法で紙幣の大量発行を実施した。
これにより国内を回る資金が豊富となり、同時に為替相場が強引に円安となって海外輸出体制が整う。
次に国内の市場開放と合わせて、西側資本の大幅導入を図ろうとする。
西側の心証を良くするため軍備の大幅削減が予算面以外でも行われた(実際は、兵員面以外では旧式装備の一斉処分に近いが、それでも軍事費は一気に三割も低下した。)。
この時期米ソが何度も行った核軍縮条約にも批准し、出られるのなら軍縮のための国際会議にも率先して出席した。
そして、85年2月末に田中角栄が倒れた後に首相を引き継いだのが、警察官僚、内務官僚として経歴を積み重ねた後に政界に転身した後藤田正晴だった。
彼は警察官僚や内務官僚として軍への反発が強い人物とされていたが、官僚の動かし方を熟知し、また危機管理能力も高く評価されており、俄に訪れた混乱と新たな時代の流れには最適の宰相と言われた。
ちなみに後藤田は、六十年騒乱時の警察官僚幹部で、その時の手腕を見込まれて政界に進出。
この時、遂に宰相の座を射止めた。
首相就任後の後藤田は、西側から非民主的と言われた憲法も一部を改訂した。
内務省と三軍の和解も行ってみせた。
官僚時代に『剃刀』と言われた彼の政治的バランス感覚が、数々の政策と外交を成功させていった。
また軍事以外でも、海外資本を受け入れるための法制度整備、社会資本整備も推し進められた。
西側諸国も、自ら積極的に動き始めた日本の行動に好意的だった。
日本経済圏は、今まで閉鎖されていた域内の市場規模が3億人以上あり、その市民の生活程度は東側トップクラス程度に高かった(合計のGNPはソ連以上)。
西側基準で見ても、先進国に次ぐレベルだった。
国民の識字率や基礎教育程度などは、西側先進国を凌ぐほど高い。
しかも全土が既に十分に開発され、流通基盤もしっかりしていた。
進出のための社会資本が十分以上に整っていることもあり、早期の企業進出も順調だった。
実際進出してみると、欧州先進国ほどではないが十分な発展が達成されている事が分かった。
特に鉄道を中心として国内流通が整備されている点は、並の欧州国家よりも優れていた。
故に、自国経済が傾いていたアメリカなどは、新たな世界最高級の市場にして資本主義的な生産拠点足りうる日本の市場解放政策を、待ちに待っていたとすら言えただろう。
早くも87年には、アメリカ文化を代表すると言われたファストフードチェーン店が東京で一号店を開店した。
99年には、アメリカ文化の象徴であるディズニーランドすら開業している。
日本への生産移転も急速で、日米合弁の企業ばかりか多数の直接進出も無数に発生した。
アメリカメディアが、アメリカ企業が日本に白旗を振りながら駆け込んでいると表現したほどだった。
一方で日本企業もどん欲かつ強かであり、様々な技術パテントを安価で買い入れ自らの底上げと、生産コストの安さを利用した大量生産品を北米大陸へと一気に注ぎ込んだ。
西側欧州諸国にも、関係の深かったフランスを介して大規模な進出が次々と実行された。
冷戦時代中、常に関係が悪かった西ドイツとの和解も達成され、西ドイツの企業群も日本圏へと大挙進出した。
その他の欧州企業も、安価な生産拠点として日本とそして日本の衛星国への進出を猛烈な勢いで開始した。
冷戦に勝利した筈の西側先進国は、自らの大量消費社会を健全化するために日本が必要だったのだ。
何しろ代わりになる国が、地球広しといえど当時どこにも存在しなかったからだ。
日本の市場開放と景気拡大は、すでに国内に存在した軍需景気に続く形で急速だった。
GDPの伸びは、83年から86年までの軍需景気時で平均8%台、87年から89年の三年間は平均で15%を越えるほどとなった。
そして内需での景気拡大を後押ししたのが、念願叶って遂に開かれた東京オリンピックだった。
83年頃から始まった東京オリンピックの開発では、それまで商都大阪に比べて開発が遅れていた帝都東京の景観を一変させるほどの都市改造が、会場施設建設と合わせて実施された。
帝都東京自身は、それまでの旧時代的な大都市から、自動車社会を迎えるための道路網や新たなビジネス地となる新都心の整備、大規模な埋め立て地の造成、羽田飛行場の大幅拡張などすさまじい勢いで開発が行われた。
関西でも、新たな商業拠点、生産拠点となるべく主に民間主導での新規及び再開発計画がいくつも開始された。
日本最大の国際貿易港となっていた神戸の沖合には、新たに造成する埋め立て地に巨大な二十四時間稼働の空港建設がメガフロートという新規技術を用いて開始された。
そうした巨大な公共事業による建設景気は、日本の景気拡大を力強く後押しした。
オリンピックのあった1988年には、国際為替相場内での円の価値の上昇(1ドル=3円台まで落ちていたものが、2円台半ばに戻った。)もあって、GDPがソ連、西ドイツを抜いて世界第二位となった。
世界は『日本の奇跡』と驚いた。
経済自体も名目GDPで二倍以上に拡大していた(実質GDPは1・5倍程度。)。
もともと日本は資本主義国であり、1940年と1964年にオリンピックを開こうとしたように、時代時代で見ても世界平均的に十分発展している国だった。
しかし一部では常に新興国的な状態を残しており、その中半端さ故に大規模な資本と国内に有り余っていた余剰資金(国家政策のおかげもあって、驚くほどの銀行預金があった。)による開発効果は劇的だった。
また国家事業としてオリンピック開発とその他の開発が実施されたため、ここでは中央政府の強権発動という軍国主義らしい一面を見せることになった。
それ故に急速な開発も可能となったのだ。
一方で日本は、今までは西側との政治対立のため、世界の半分以上(6〜8割。時期により変化)を占める巨大市場だった欧米諸国(アメリカとEC諸国)に対する一般製品の輸出がまったくふるわなかった。
よしんば西側より優れた製品や技術が登場しても、冷戦の壁に阻まれていたからだ。
西側への一般製品の輸出も多くが第三世界を経由するため、利益は大きくはなかった。
こうした状態のため、とあるノーベル賞経済学者は、日本の市場経済を資本主義経済のガラパゴス諸島だと発言したほどだ。
だが国内及び域内での内需の要求応えるためと、武器市場で世界と長らく渡り合ってきたため、工業製品を中心に相応の開発力と製品精度を持っていた。
独自の厳しい製品基準もあったほどだ。
それがある程度自由に手に入るようになった西側の先端技術で瞬く間に洗練され、日本国内の新たな需要を強く喚起するばかりか、市場開放された西側諸国へとなだれ込んだ。
日本製品は労働賃金の差からそれなりに低価格であり、しかも独自性と応用性、そして小型化技術に優れていたため瞬く間に欧米市場を席巻していった。
今まで冷戦の壁に遮られていた、日本製の小型家電、サブカルチャー産業などは、自らの高コストから停滞期に入っていた西側産業に大すぎる衝撃を与えた。
早くも1988年には、日本経済脅威論が言われる程になった。
アメリカ経済が生産分野で大きく傾き、欧州製品全体が高コスト化していたことも、日本製品の進出を容易としていた。
当時の日本経済が西側国家として振る舞うために足りないのは、アメリカ同様省エネルギー技術だけとすら言われたほどだ。
そして日本では、この大きな変化を89年1月の昭和天皇の崩御と新たな時代の幕開けをかけて『平成御一新』と呼び、東側陣営にありながら特に大きな混乱もなく新たな時代を迎えようとしていた。
しかし、成功が大きいほど他への影響と他者からの妬みも大きかった。




