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フェイズ16「アフガニスタン紛争」

 アフガニスタンでは、78年4月の軍事クーデターによりタラキ政権が誕生した。

 この政権は共産主義的な政策を進めようとソ連と友好条約も結んだが、イスラム教徒を中心に反乱が起きてアフガニスタンは内戦寸前の状態になっていた。

 もっとも、アフガニスタンの政治的混乱は、1973年7月にザヒル・シャー国王の外国旅行中にダウド元首相がクーデターを起こして王制を廃止し共和制となったところから始まっている。

 そしてアミーン首相による政府ができると、事態は俄に緊迫した。

 以上のような例は古代の昔から続いており、険しい山間部に点在する少数民族が国家の統一や団結を阻止していたのだ。

 かつて数多の古代王朝も、この地域の統治には手を焼いていた。

 かのアレクサンドロス大王ですら例外ではなかったのだ。

 

 そしてこの時のソ連政府も、アフガニスタンに軍事介入することに、最初期は国際関係上の影響を考慮した事もあって慎重であった。

 イスラム諸国への侵攻は、外国軍隊の侵略への民族自決の戦いとイスラムの共産主義への戦いの二面性を発生させる可能性が高かったからだ。

 

 しかし西側各国は、東側陣営に日本が属しているため、ロシア人がそれほどアジア・太平洋への執着心を見せなくなり、アフガニスタンへの侵攻や大規模な干渉に消極的なのではと判断していた。

 日本のおかげで、東側の軍艦は世界のそこら中に出没していた。

 アメリカのイランへの過剰な肩入れも不要であり、イスラム相手には危険だとすら言われていた。

 だが、真実は違っていた。

 

 ソ連は、自らの共産主義よりも強力なイスラム教を恐れていた。

 より正確には、イスラム原理主義が自国内に波及することを恐れていた。

 現に79年に起きたイランでのイスラム原理主義革命は、アフガニスタンに波及した。

 故にブレジネフ政権ですら、アフガニスタンの安定をはかるためという名目で軍事介入を決意するに至る。

 何しろソ連邦には多数のイスラム教徒が居住し、自らの文明とイデオロギー教育で何とか統治しているのをかき乱される訳にはいかなかったからだ。

 

 こうして始まったのが、1979年12月に始まったとされる『アフガニスタン侵攻』もしくは『アフガニスタン紛争』だ。

 

 侵攻当初ソ連は、短期的な大量出兵により電撃的に事態解決を図る積もりだった。

 イスラムに対しては、断固たる態度で一撃で沈静化する必要があるとロシア人は過去の例から考えていたからだ。

 ロシア人は、伊達にイスラム民族を自国内に抱えてはいなかった。

 

 また一方では、既にソ連自身の国庫は現状の軍備維持で精一杯であり、とてもではないが長期の出兵に耐えられる財政状態になかったからでもあった。

 しかもアフガニスタンに対する大軍派兵では、空路と陸路(道路のみで鉄道は皆無)による補給が必要不可欠であり、これは戦費拡大を法外なものとする大きな要因だった。

 加えて言えば、当時総数450万人に及んでいた巨大すぎる軍隊の維持に精一杯の財政状況に対して、軍全体、国家全体としてアフガンへの長期出兵は物理的にも極めて困難な状況にあった。

 

 故に出兵自体は、当初は半年程度しか計画していなかった。

 親ソ連政権を樹立して情勢を安定化させた後は、現地政府を支援する事で十分対処できるとも考えていた。

 しかし親ソ連政権樹立後は、反政府勢力の台頭や活動の活発化などによって治安が急速に悪化し、ソ連の目論見は簡単に崩れてしまう。

 

 新政権の強い要望によって、ソ連軍はアフガニスタンに足止めされることとなってしまった。

 そのため、治安作戦とアフガニスタン政府軍の訓練を推し進め、撤退後のアフガニスタンが安定するように努めた。

 ソ連としてはなんとしても『ベトナム化』だけは避けようとしたのだ。

 幸いにして、敵には確固たる指導者がなく国家形態を持っていないため、それも可能だろうと判断された。

 

 しかし、事態は悪化し戦闘は泥沼化していった。

 

 『聖戦』を遂行するムジャヒディンの若者は、ほとんど全てのイスラム社会からアフガンの大地に供給され続けた。

 アメリカや共産中華も、火に油を注いでソ連の国力を奪い足を引っ張る事に怠りなかった。

 かくしてアフガンの大地もまた、冷戦の舞台となったのだ。

 


 そうした状況を当初端からぼんやりと眺めていた日本だったが、ソ連から兵站物資と輸送車両の多数の発注を受けるようになったので、アフガン特需とむしろ紛争拡大を歓迎していたほどだった。

 また一方では、またとない戦訓獲得の機会と考えられ、観戦武官や『特殊部隊』を派遣して軍事情報と技術の収集を熱心に行った。

 特にソ連からも要望があった『特殊部隊』については、実戦レベルの大隊規模の『特殊部隊』が派遣されて実際の任務にも就いていた。

 このため戦争初期に物資の買い付けのために日本を訪れていたアフガンゲリラが日本を敵視するようになり、西側への依存や、ソ連、日本の敵である共産中華への支援を仰ぐようになった。

 ただ日本がアフガンゲリラに敵視されたと言っても、具体的に何かをされるわけではなかった。

 両者にとって、余りにも物心両面での距離が大きかったからだ。

 

 だが日本が、アフガン情勢で物見遊山でいられたのも83年までだった。

 年々アフガン戦争は出口の見えない泥沼へと悪化し、ブレジネフから政権の交代したソ連が友好各国からの『支援』を求めるようになったからだ。

 特に東側第二の軍事力を持ち、独自の兵站維持能力を有する日本軍には強い要請が出された。

 日本もソ連が今以上傾くことは国家戦略上避けたいため、積極的に支援に乗り出すようになる。

 また当時日本軍は海空軍を中心に大規模な軍拡を行っていたため、日本陸軍自身が自らの予算獲得と存在感強調のために大規模な派兵に熱心だった。

 

 当時、日本軍、特に派兵の主力として期待された日本陸軍は、主に満中境界線に展開していた。

 俗に言う『精鋭関東軍』だ。

 野戦軍の第一線上の戦闘部隊だけで1個軍(方面軍)・6個師団・約23万人に及び、支援部隊を含めた総数は30万人に達していた(※日本陸軍は、他国に比べて師団規模が大きい)。

 しかし日本の機甲戦力、機動戦力の過半がそこに集められてもいた。

 それ以外では、共産中華と海峡を挟んで向かい合う台湾を例外とすると、予備師団のような部隊がほとんどで、テロ・ゲリラ・国内治安維持、災害出動のための部隊が日本各地に展開するだけだった。

 つまりは日本としても、おいそれと大軍を海外に派兵するわけにはいかなかった。

 日本陸軍は、国家政策上の産業人口の維持と国家予算の都合もあって、常備兵力が60万人しかいなかったからだ。

 軍全体の総合兵員数も、陸海空三軍合わせてようやく100万人に達する程度だと考えると、軍国主義と言われる日本は冷戦中の兵員数だけだと極端な軍事国家とは言えなかった。

 日本は特に西側諸国から軍国主義国家とされていたが、同時に貿易と加工産業を根幹とせざるを得ない国であり、兵隊よりも労働者の供給を疎かにするわけにはいかなかったのが、兵員数の少なさの大きな原因だった。

 しかも人口比率から見た場合、西側ながら同種の加工産業国家だった西ドイツよりも現役軍人の数は少ないほどだった。

 しかも海軍と空軍は伝統的に志願兵に頼る傾向が強いため、職業軍人とは徴兵よりも志願して任務に就くものだという認識が国民の間にも深かった。

 このため日本陸軍全体の兵士の練度は列強随一と評価されており、陸軍精鋭部隊も海空軍に劣らないほどプロフェッショナリズムに溢れていた。

 在郷軍人会も、日本圏内だけでなく世界各地でも広く活躍している民間警備会社の供給先のような目的まであったほどだ。

 

 なお、満州国、大韓王国、さらには満鉄警備隊などの民間警備会社の多くが満中国境防衛を肩代わりしているため、満中国境には常時100万人以上の兵力が展開可能となっていた。

 

 そうした中でソ連軍が注目したのが、日本国内で即応待機とされている日本陸軍唯一の空挺師団と、日本陸軍が誇るこれまた日本陸軍唯一の空中騎兵師団、そして満州国内で国境警備を行っている満州国国境警備隊と、同じく満州国内でテロやゲリラ、パルチザンと戦い続けていた重武装警備組織(大日本警備、満鉄警備保障など)だった。

 ヘリを大量に保有した一万人以上の空中騎兵師団は、日本陸軍がベトナムの戦訓とアメリカへの対抗心から新たに作り出した部隊だが、師団単位で対歩兵戦、遊撃戦の訓練を十分に積んでいる事から、今回の戦闘に有効と判断されていた。

 また満州国が持つ長城警備隊や対ゲリラ部隊は切り札足りうると期待され、ソ連から派兵要請が出されていた。

 満州国軍の部隊は、古くは40年代から本格的に整備され、主に長城線の境界線を警備するべく歩兵中心の特殊任務に近い役割が強く、国内広くで行動していた部隊も対テロ・対ゲリラ部隊としての性格も持ち合わせていた。

 また満州国自体が、毛派ゲリラや馬賊系ゲリラやテロに対して多くのノウハウを持っていた。

 境界線がいまだハッキリしていない内蒙古方面での人民解放軍との国境紛争や小競り合いも日常的なため、小部隊同士での地上戦にも手慣れていた。

 

 満州国の対ゲリラ要員は、軍事顧問や助言者として早くからアフガンに来ていたほどだ。

 

 ソ連軍はこれらの部隊を他と合わせて派遣してほしいと強く要請し、また同時に大量の輸送車両と運用する後方部隊、巨人輸送機を多数保有する空軍輸送部隊をも追加で要請してきた。

 ソ連軍が本気で他国に頼み事をするのは珍しい事例なのだが、それだけ大日本帝国とソ連の関係が親密になっていた事の現れだと言われている。

 そして日本側もソ連側の親身な頼みは様々な国家戦略上受け入れるべきだと判断し、多少の条件をつけながらも派兵要請の受け入れを伝えた。

 

 なお現地ムジャヒディンは約10万人であり、これを一度の戦いで壊滅的打撃を与えるには30万人の第一線部隊が必要であると結論しての派兵要請であった。

 

 そして日本と満州国は、機材以外は兵站経費と物資そのものの半分以上をソ連持ちとする事で派兵を受け入れた。

 そして半ば無理矢理首を突っ込んできた韓国軍を加えたアジア三国で、在アフガンソ連全軍に匹敵する約10万人もの兵力を83年内に送り込み、到着と同時に死者すら出すような現地での激しい訓練を開始した。

 送り込まれたのは、日本第一空挺師団、日本第二空挺師団(空中騎兵師団)、満州第11特別警備師団(特別編成)、韓国特別近衛師団(特別編成)などで、各警備会社が後方警戒や補給線警備などの支援にあたった。

 加えて日本は、地上制圧機、襲撃機などセカンド・ワンリーに展開していた対地航空部隊を多数送り込み、自軍に対する対地航空支援も充実させた。

 ゲリラや小規模部隊を制圧するのは、敵戦力の脱出(浸透)を許さない歩兵による包囲網と過剰火力による制圧にあると知っていたからだ。

 

 ソ連軍も日本と歩調を合わせ、一時的措置として欧州ロシアから引き抜いた軍団規模の精鋭部隊を追加して体制を整えた。

 しかもそれぞれの国はなるべく極秘に部隊や物資の輸送を行っており、移動したり訓練している当の部隊ですら、上層部や高級将校をのぞいてほとんど実体を知らないほど機密保持が徹底された。

 一部の兵士など、日本と満州にある警備会社の社員として入っていたりしたほどだ。

 

 アメリカが、ベトナムで空母や戦略爆撃機を並べたのとは対照的光景だった。

 当然と言うべきか、作戦前の米軍の評価は極めて低かった。

 僅かばかりの増援を受けただけのヘリや歩兵だけで何ができるものか、と。

 

 しかしここに、日ソ連合軍つまり東側が総力を傾けて行う戦闘が開始される。

 それは軍事先進国が高度に訓練された対歩兵戦部隊を30万人も用いた、20世紀後半では例を見ない戦闘となった。

 徹底的に訓練された兵士達が、豊富な物量と火力、航空支援、機動力を用いて、無慈悲に敵兵を自らの手で殺戮してく様は、後に『地獄』として語り継がれる事にもなったほどだ。

 しかも作戦中は、物量と火力、そして犠牲をいとわない戦闘を行ったため、ゲリラ側では対処のしようがなかった。

 全ての面で上回る軍隊が消耗覚悟で殴りかかってきたら、ゲリラに出来ることは地の利を活かして逃げる以外ほとんど存在しなかった。

 

 なおこの時の戦闘は「第7次パンジシール作戦」と呼称され、1984年4月に決定的な戦闘が行われている。

 

 作戦中に反ソ連軍ゲリラの司令官マスードが逃走中に司令部組織ごと殺害され、ゲリラの過半数を拠点ごと殲滅することに成功した。

 アフガン全体でも10万人いると見積もられていたゲリラ兵の数は、三ヶ月後にはわずか2万人以下にまで低下したと見積もられた。

 残存組織もバラバラだった。

 

 事前の徹底した足を使った偵察と囮行動、各部隊の素早い機動による二重三重の包囲網を敷いて相手を逃がさないようにした事、豊富な航空支援の存在が成功の秘訣だとされた。

 そしてこれは、対ゲリラ戦用の訓練度の高い歩兵部隊の大量投入がもたらした、近代戦史上希に見る結果であった。

 またこのことは、世界一の陸軍国家であるソ連軍自らが、大規模に機械化された正規軍を用いる以外での有効な戦い方が何であるかを端的に示した戦いともなった。

 

 なおこの時の戦闘こそが、西側報道機関のいうところの『アフガン・ジェノサイト』である。

 

 そして西側諸国が大騒ぎした事からも分かるように、以後アフガンでの戦闘は完全に下火となり、アフガン現政権の安定度も増した。

 つまりは、東側陣営の勝利で戦争がほぼ終結に向かったのだ。

 

 それを確認した日満韓軍も、半年ほどで一部を残して順次撤退。

 特に85年春の世界的な緊張状態の時に、残りの兵力も急ぎ本国及びその近辺へと撤退していった。

 日本にとってアフガンでの戦争は、しょせん手伝いでしかなかったという事だ。

 その一方では、治安の安定化に伴い日本企業が現地に入り込むようになり、都市部を中心に勢力を拡大していった。

 

 その後のアフガンは、ソ連軍の残敵掃討と政府側の勢力圏拡大に伴って、ムジャヒディンもさらに数を減らしていった。

 その後のアメリカやパキスタンなどのテコ入れにも関わらず、アフガンに入り込むムジャヒディンも攻勢以後大幅に減少し、地の利をなくしたため無為に政府軍に攻撃される対象となった。

 日本からのタダ同然の借款などで、アフガン国内の開発なども促進して雇用や所得も上向きとなり、民心のゲリラ離れも強くなった。

 87年には、ソ連領トルクメン共和国から、ヘラートやマザリシャリフへの鉄道敷設すら開始された。

 農村での芥子栽培も若干だが低下した。

 

 治安の安定化と政権の安定に伴い、87年にはソ連軍主力も撤退する運びとなった。

 ソ連はギリギリではあったが、アフガンのベトナム化回避に成功したように見えた。

 

 しかしあしかけ約6年間続いた戦いで、ソ連では約一万人の兵士が戦死し六万人が負傷した。

 さらに悪路での補給を原因とする巨大すぎた戦費はソ連の財政を圧迫して、国家と社会に大きな疲弊をもたらした。

 ソ連国民の軍に対する信頼もゆらいだ。

 アフガンのベトナム化はある程度避けられたが、超大国である筈のソ連はアメリカほど体力(国力)がなかったのだ。

 


 一方、ソ連同様に原理主義に対して我慢しきれなかったのが、もう一つの超大国アメリカだった。

 

 それまでアメリカは、イランに強く肩入れして実質的に属国に近い状態に置いていた。

 理由は二つ。

 埋蔵量世界有数の石油利権を確保する事と、ロシア人の南下を少しでも封じ込めるためだ。

 そして豊富なオイルマネーによりある程度の発展があったイランだったが、その富は一部の者に偏り民衆の不満は高まり続けた。

 繁栄の中には、イスラム国家らしからぬアメリカ的解放政策や、豊富なアメリカ製最新兵器もあったが、虚構は虚構に過ぎなかった。

 

 そして1979年4月に、アメリカが全く予測していなかった事態が発生する。

 

 親米のパーレヴィ朝独裁体制が打倒され、原理主義勢力の極めて強いイスラム共和制が樹立された。

 これをイランでは「イスラム革命」という。

 そして開放政策と偏った資本主義に対する反動が強いため、宗教的国家としての偏りと反米意識も強いものとなった。

 

 しかもアメリカ大使館が占拠されるなどイラン側の強硬な姿勢が続くため、アメリカは一つの陰謀を動かしたと言われている。

 

 1980年に勃発した「イラン・イラク戦争」がその結果だというのだ。

 無論これは水面下での一説に過ぎず、イスラム教内でのスンニ派とシーア派の対立、原理主義と直接王政の対立という側面の方が強かった。

 


 戦争勃発と共に、俄に原理主義の防波堤となったイラクは、西側ばかりか親ソ政権だったため東側からも支援を受けてイランへと攻め込んでいった。

 原理主義は共産主義を上回る世界のガンであると、世界の有力国家全てが認識していた何よりの証拠であった。

 

 そしてイラン革命とイラン・イラク戦争は、アフガニスタン侵攻で苦しみ始めていたソ連にとって大きなチャンスとなった。

 また日本も、自らの資源政策のためそれなりに動き始めた。

 

 中東の一部を起源とする宗教とは無縁である日本の利点を利用した動きであった。

 

 そして日本は、西側諸国が驚く中で中東に対する全方位外交を展開した。

 これには原理主義を掲げるイランやアラブの天敵イスラエルも例外とはされていなかった。

 

 日本としては、もともとアメリカを中心とした西側自由主義陣営ではないし、ロシアを中核とする東側社会主義陣営に属しながら市場経済を持つ立憲君主国であるため、原理主義を他の国々ほど重く見ていなかったからだ。

 無論ソ連政府から厳しい要請や助言が行われたので、イランべったりの外交は行わなかった。

 日本自身も原理主義への深入りと対立が危険であることは、それなりに認識していた。

 だが、だからと言ってせっかくアメリカのコントロールから離れた大産油国を見逃すわけにもいかなかった。

 日本の国家戦略上で、石油供給国をソ連などごく一部の国に頼る事の危険性を少しでも回避するのは、国家として当然の行動だと判断されたからだ。

 

 かくして米ソを後目に、また中東の多くの国からも不評を買いながらも日本はイランとの一定の関係を維持し続けた。

 そればかりか少数ながら軍事顧問団も派遣され、石油とのバーター取引で物資や資源のやりとりも行われた。

 一部では兵器や先端工業製品の輸出も行われ、アメリカが仕掛けたイランの経済封鎖の一部を台無しにしていた。

 イランから日本への出稼ぎ労働も、両政府の承認のもとで行われた。

 

 当然だが、アメリカの日本に対する表面的怒りと内心の焦りは大きくなるばかりだった。

 ソ連もハラハラしながら日本の行動を見守った。

 しかし、日本とイランの関係は、二国間に限ってしまえば、好転こそすれ悪化することはなかった。

 主にアメリカにより妨害も行われたが、妨害した国が双方から敵視されるだけでむしろ逆効果だった。

 それに日本とイランの関係が主に経済面で進んだと言っても、世界的に何か大きな動きにつながる事はなかった。

 何しろ日本ほど自然な形で政教分離が進んだ国家はほとんど存在せず、国民も無知故に他の宗教に対して寛容で、原理主義との化学反応が起きなかったからだ。

 この点は、日本政府の認識通りだったと言えるだろう。

 


 なお、イラン革命に伴う西側を覆った第二次オイルショックは、さらに日本のプラスに働いた。

 日本が依然として西側経済にごく浅くしか足を踏み入れていないからだった。

 省エネルギーと産業合理化の遅延などマイナス面も大きかったと言われる事もあるが、経済に悪影響がなかった事は主にアメリカとの競争を考えれば大いなる恩恵であった。

 73年の第一次、79年の第二次オイルショックのおかげで、日本と西側欧米各国との名目GDPの差が大きく是正されたからだ。

 実際第二次オイルショック以後、日本のGDPは世界第四位の地位を確固たるものとした。

 

 加えて日本は、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教、そして共産主義とは無縁の東側第二の大国という立ち位置を利用して、イランやアフガニスタンなどとの現実的な面での関係を強めていった。

 

 ただし、その後世界の懸念通りに各地で原理主義革命が波及し、スーダンやアルジェリアでは、後にイスラム革命が起こった。

 

 そして中東での政治地図激変は冷戦構造にも影響を与え、冷戦最後のそして最盛期を迎えさせる事になる。


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