表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
16/28

フェイズ13「満州国承認と中ソ対立」

 ベトナムが米ソ冷戦の表舞台となっていた頃、東側陣営では勢力の分裂が起きていた。

 とはいえ東側から分裂したのは、既にソビエト連邦ロシアとのリンクが深まりすぎていた大日本帝国ではない。

 袂を分かったのは、50年代後半から関係が極度に悪化していた中華人民共和国(共産中華)であった。

 満州紛争からキューバ危機頃のソビエト連邦ロシアと共産中華の対立を考えれば、自然な結末だったといえるだろう。

 日本と中華の関係など、満州紛争以後は大使館すら撤退して断絶したままで、日米の関係よりも冷え切っていた。

 ただし当時者の共産中華にとって、ソ連から完全に疎外(敵対視)された事は国際外交上で国家存亡の危機であった。

 

 共産中華は、それまでに日本と大規模紛争(満州紛争)を引き起こしてまでして仲違いしていた。

 これは日中の関係を考えれば当然の帰結なので、西側諸国も馬鹿な東洋人同士が内輪もめをしているという以上の感覚はなかった。

 紛争自体も誰も介入できないほど短期間だったため、結局誰も動かなかった。

 この点だけは、日本の意図通りだった。

 

 紛争後の共産中華自身の扱いも、近隣と紛争ばかり起こす孤立した共産主義国なので、国家規模に反して国際的な扱いは最低クラスの低さのままだった。

 西側陣営との関係も、1964年に国交樹立したフランスなどの例外を除いて常に最悪だった。

 加えて東側陣営盟主のソ連とまで敵対する事は、国際政治的には致命傷と言えた。

 さらに加えて当時の共産中華は、建国以来の国内での資金(資本)不足と重工業基盤の貧弱さから、なかなか核兵器を開発できなかった(※開発成功は68年)。

 しかも一人当たり所得は目を覆わんばかりの低さのため、ほとんどの国や企業にとってまともに相手にする理由がなかった。


 国際的な共産中華の扱いは、現状の中央政府がただ滅びなければそれでよい存在でしかなかった。

 しかも人口だけは異常な勢いで拡大しているのだから、世界中にとっては不気味でしかないと言うのが感情面での正直な気持ちになるだろう。

 米ソ両大国では、万が一滅びたり全面戦争が起きた場合はキロトン級の核兵器を共産中華領内に雨霰と叩きつけ、彼らの言う人民の過半を滅ぼすことすら計画内にあったほどだ。

 日本の対中華対策については、言うまでもないだろう。

 こうした点からも、毛沢東の多産政策が外交的にはむしろ逆効果だった事が窺える。

 

 そんな共産中華を、さらに追いつめる事件が内外で1つずつ発生する。

 

 ここでは日本から少し離れて、共産中華を中心にして見ていきたいと思う。

 


 内政面での事件は、言わずと知れた『文革』こと文化大革命だ。

 1966年から以後約十年も続いた文革の推進による粛清の嵐と事実上の内乱状態、それらに付随した文化・経済・教育の破壊、そして国民の虐殺と餓死によるマイナス効果は、戦争で敗北するよりも破滅的効果を中華国内に発揮した。

 共産党内でのただの権力争い(内ゲバ)を、国家規模で行ったが故の近代国家史上希に見る愚行であった。

 一時期中央政府が存在しない国家だと言われ、実際ほとんどがその通りとなったほど酷い状態だった。

 

 ただし国内というより党内での権力争いだけに、毛沢東の復権により国内政治的には大きな成果があったと言われている。

 事実『大躍進政策』の失敗で事実上失脚していた毛沢東は、見事完全な復権を果たした。

 だが一方で、ただでさえ低かった共産中華の国力と経済力は、さらにどん底にまで低下した。

 とても世界最大の人口を抱える国とは思えないほどの経済レベルとなった。

 一人当たりGNPは、アフリカの最貧国にすら匹敵するほどの世界最貧国状態だ。

 このまま革命もしくは飢餓で政権が倒れなかったのが不思議なほどだと、後の調査で言われるほどだった。

 

 そしてこの時期の日本は、共産中華の天敵に相応しく、当初は『文革』に対して火に油を注ぐ工作を熱心に行っていた。

 偽造文書やデマで殺されたり権力を失った共産中華の有能無能な政治家、高級官僚は数知れなかった。

 様々な謀略の一環として、親日勢力を支援すると宣伝した上で領海ギリギリまで有力な艦艇を近づけてみたりもした。

 また水面下では、共産中華内部から満州や台湾への亡命工作も行い、分裂工作と共産中華の知識や資産の減少を熱心に行った。

 東トルキスタン、チベットには、混乱波及や紛争状態にならないように、武器援助などが今まで以上に行われた。

 また一部では、中華域内の伝統工芸技術者を亡命させ、満州国などで再興させたりもした。

 相手が勝手に自滅に突き進んでいるのだから、助長するのが天敵としての勤めとばかりに日本は熱心だった。

 

 しかし『文革』開始から3年後の1969年になると、日本ばかりか世界中が真っ青になった。

 

 『文革』が余りにも破滅的だったからだ。

 

 いくらなんでも自国をそこまで破壊するとは、世界中の誰もが考えなかった。

 教育の国家単位、年度単位での停止など、近代国家の行うことではなかった。

 一時期は、世界の全ての人々が中華人民共和国が今度こそ崩壊、いや自壊すると考えた。

 アクティブに動く事の少なかったソ連書記長ブレジネフも、モンゴルや東トルキスタン方面の国境警備を大きな援助を与えて厳重にさせて、満州国に対しても最大限の援助を行うという旨の発言を行っている。

 日本も事実上の海上封鎖に踏み切ったり、関東軍の増強すら行った。

 満州紛争以後建設が始まった『第二の万里の長城』や『アジアのベルリンの壁』と呼ばれる満州国の防衛帯(金網と鉄条網と監視哨、地雷原など)が、急ぎ完成したのもこの頃の事だ。

 

 誰もが共産中華の自滅による好機到来と考えるよりも、共産中華崩壊後にいかに難民や流民を自らの域内に入れないかが真剣に議論するようになった。

 ひとたび国家が崩壊したら、国境を接する国々に億単位の難民や流民が流れ込むと考えられたからだ。

 一説には、国境を接する東側陣営が共産中華と関係を完全に悪化させたのは、共産中華崩壊時に徹底的に国境を封鎖するためだったのではと言われている。

 実際、ソ連崩壊後に公開された資料からも、事実そうだったと後日明らかになった。

 

 そしてこの時、最も危険と判断されていた満州国の国境近辺の軍事警戒が強化されたのだが、この強化は満州奪回を掲げた無秩序な紅衛兵の越境阻止に大いに役立った。

 

 「蛮夷駆逐」、「東北奪回」、「長城破壊」などを掲げた紅衛兵数十万人が万里の長城及び満州と共産中華の境界線に殺到し、大規模な争乱状態に発展したからだ。

 

 時期はテト攻勢の混乱続く68年5月の事で、世界中のメディアも新たな報道先として注目した。

 また共産中華と日本軍が盛大な戦闘を始めるのではないかと予測したからだ。

 

 しかし幸いと言うべきか、当時あるのかないのかすら分からなかった共産中華中央が外国との戦闘を強く否定したため、満州紛争のような大規模な武力紛争や全面戦争に至ることはなかった。

 日本側も、西側メディアをまたも引き入れて宣伝合戦を活発にして共産中華の愚行を世界に発信し、徹底的に戦闘回避に動いた。

 何しろ戦争や大規模紛争になったら、また核兵器を大量使用する以外人の海を止める手だてが存在しないからだ。

 西側メディアを引き入れたのも、そうなった場合の国際世論を味方につけるために行われたものだった。

 

 そして、人民解放軍の一部が『自発的』に荷担した事、紅衛兵の多くが人民解放軍の武器庫などから無断で多数の武器を持ちだしていた事などから、紅衛兵は無軌道な行動に出た。

 

 広範な地雷原を紅衛兵にとっての『罪人』を歩かせることで排除しようとしたり、挑発どころか意図的な発砲すら行った。

 また日本側が支配していない地域の万里の長城を破壊する愚行にも出て、放映された映像によって世界中のひんしゅくを買った。

 そして今度は、西側メディアとそれにつられた西側市民も日本側こそが被害者だと判断するようになり、世論の上昇によって国連総会で緊急PKFの派遣が決定した。

 西側メディアはともかく世界の列強は、ベトナム戦争で揺れるこの時期に日本と中華がぶつかり合うことを望まなかったからだ。

 

 この間日本側は辛抱強く警戒行動以外取ることはなく、一部では紅衛兵に満州国領内への侵入もあえて許した。

 これは西側諸国のほとんどが満州国を認めていないので、反撃が国境侵犯に当たらないと言われないためだった。

 

 そうして一週間後に西側以外の親日的な国から数千名の国連PKFが入ってきたが、事態はあまり変化がなかった。

 国際常識や慣例を知らない無知な紅衛兵にとって、国連PKFは単なる東洋鬼(日本兵)の増援でしかなかったからだ。

 

 このため各地で、PKFと紅衛兵の衝突が発生。

 慌てた共産中華政府は、直属軍を用いて自らの紅衛兵を退かせようとした。

 だがしかし、毛沢東語録を高々と掲げた紅衛兵たちは、今度は人民解放軍に矛先を向け、事態は収拾不可能な事態へと発展するかに思われた。

 

 しかし呆気ない幕切れが訪れる。

 

 毛沢東自らのラジオ放送が、紅衛兵を自主的に引き下がらせたのだ。

 流石の紅衛兵も、毛沢東自らの声には従わざるを得なかった。

 

 あとに残されたのは、不必要なまでに無惨に破壊された万里の長城の一部と、紅衛兵が残した大量のゴミだけであった。

 

 なおこの時日本軍は、日本軍(関東軍)、満州国軍、韓国軍、ソ連軍、満州内の各種民間傭兵及び警備会社など合わせて80万人もの兵士を準備しており、満州紛争同様に住民の疎開を積極的に進めていた。

 日本軍が戦闘行為に及ばなかったのも、住民の一時疎開が終わるまで行動に出られなかったからだという説が存在している。

 またかつてほど水際だった疎開が行われなかった背景には、満州国も辺境にまで開発の手が伸び始めていておいそれと住民が動けなくなっていたからであった。

 

 また事件後の日本軍(関東軍)及び満州国軍は、対歩兵戦装備及び部隊の充実を一層強めるようになり、長城ラインは東西両陣営の最前線である欧州正面と違った軍隊が睨み合うようになっていく。

 

 そうして、万里の長城での紅衛兵の無軌道な行動は、日本を中心とした報道と記録によって『文革』の愚かさや醜さを海外に伝えただけに終わった。

 また無闇に武器を使用しなかった日本及び日本軍に対する評価を見直す切っ掛けの一つともなる。

 


 一方外交面での事件は、共産中華自らが関与したくてもできないものだった。

 日本とアメリカが政治的に一部で妥協を図ったのだ。


 

 ベトナム戦争の政治的敗北で政治的に追いつめられ経済的にも傾き始めていたアメリカが、国内の改革と経済の建て直しに成功し、さらにはベトナム戦争で国際的存在感を再び増していた日本と一定の妥協を図ったのが政治的な流れとなる。

 

 そして両者にとっての一定の妥協とは、日本が誰に言われることもなく進めていた朝鮮半島の独立承認と同時に、日本が望んで止まなかった満州国の独立国家として承認を無条件で行うというものだった。

 

 アメリカの意図は明白であった。

 

 日本を東側陣営というよりソ連から少しでも引き離し、少しでもベトナム戦争での政治的傷を小さくする事だ。

 またフランスや西ドイツの独自外交に対する政治失点をいくらかでも補うことを意図していた。

 

 無論アメリカも、今更日本が満州国を認めたぐらいで東側と決別して安易に西側というよりアメリカ自身に走るとは考えていなかった。

 だが、敵対した状態のままの日本が邪魔で仕方なかったというのが本音だった。

 そして安易な戦争で問題を解決できない以上、外交で解決するしかなかったという事になるだろう。

 

 なおアメリカとしては、中ソ関係が完全に悪化したため日本にとって人質とされていた満州の安全度合いがかえって高まっていると見た事も、日本に交渉を持ちかけた大きな要因となっていた。

 これは、ソ連が極東防衛の多くを日本に肩代わりさせ、中華対策の多くも任せた状態になっていた事が影響している。

 

 またアメリカが外交的に遂に折れたのは、二つの理由があった。

 

 一つは、日本の核軍備の充実だ。

 日本が自力で水爆開発及び量産配備に成功するばかりか、戦略原子力潜水艦、新型戦略爆撃機、中距離弾道弾など強力な兵器を開発及び配備し始めており、いい加減関係希薄のままでは外交上、国家戦略上と国防上に大きな問題があるという背景があった。

 1965年の日本独自による人工衛星打ち上げは、アメリカをして相当のショックだったと言われている。

 日本とのホットラインの設置が、アメリカの内心を強く現していると見るべきだろう。

 

 またかつてのように最恵国待遇など持ち出さなかったのは、日本とソ連の交流が一定以上に深まり過ぎているので、今更決別はあり得ないと考えられていたからだ。

 また中途半端な状態で日本がアメリカの最恵国となり様々な技術や製品が流れると、それがソ連に自動的に流れると考えられており、とてもではないがかつてのように日本を全面懐柔できなかった。

 

 二つ目は、歴史上あまり表に出てきていない問題だった。

 その問題とは、アメリカ合衆国国内における人種差別問題である。

 キング牧師の「I Have a Dream」の演説や公民権運動などが表面的には有名だろう。

 そしてこれらの白人による有色人種差別問題は、国家としての予算の消費、経済への悪影響、軍や警察による自国民の弾圧とその政治的影響は、『自由の国アメリカ』という幻想を破壊するまで悪化しなかった。

 だが国庫、国家財政に与えた影響は計り知れない。

 ベトナム戦争と月競争がなくても、アメリカ財政は傾いていたとすら言われているほどだ。

 しかし、アメリカ合衆国が一種のイデオロギー国家だと考えれば、体制の維持にこそ最も国力を消耗するのは自明の理と言えるだろう。

 

 そしてアメリカ自身は、そうした弱みを他者に見せないためにも大きな外交的成果が必要だった。

 そして有力な有色人種国家との政治的妥協は、国内の人権問題ともリンクさせやすく、呆気なくアメリカが日本側が求めていた外交的要求を受け入れたと言われている。

 

 一方日本側も、アメリカの意図はある程度見透かしていた。

 またある程度西側と妥協することは、自らの共産国以外の友好国との関係を進める上でも上策だと考えられた。

 無論ソ連が色々と言ってきたが、多方面での様々な交渉の結果、ソ連は日本とアメリカのある程度の関係修復及び進展を是とした。

 この背景には、共産中華が西側から東側に鞍替えした外交を補うという動きもあったし、米ソ間のデタントの一環として受け入れられた背景があった。

 

 また日本側の政治的背景には、日本が1970年開催予定の大阪万国博覧会や良性な経済発展のため、満州紛争以後の西側との断絶から多少でも関係改善を図ろうとする動きの一環という向きが強くあった。

 当時の首相(佐藤栄作)の掲げた『日本改造』政策の一環であるという事だ。

 資本主義国からの外資なくして、日本域内だけでの発展に行き詰まりを見せ初めていたのだ。

 


 かくして日米の交渉は極めて短期間でまとまり、1969年4月に「大韓王国」が西側社会からも承認され、同年10月には「満州国」を西側社会が承認して両国並んで国際連合への加盟を行った。

 

 なお、日本にとって「大韓王国」独立承認は、国際的には「ついで」のように思われたが、実際は少し違っていた。

 

 日本は、朝鮮半島を自国領土とする事が重荷と考えていた。

 長い間の統治で朝鮮半島が予想以上に『日本化』しすぎていたのが原因の一つだった。

 無論台湾や満州国での統治のように、日本の植民地政策は他国の同化政策とは少し違う『日本化政策』が基本ではあった。

 だが、あまりにも『日本の地方組織』として日本本国におんぶにだっこな経済及び財政状態の朝鮮半島は、慢性的に高額な軍事費を原因とする常態的な財政赤字に悩んでいた日本にとっては重荷だった。

 企業で言えば、万年赤字部門という事になる。

 もしくは、成人しても独り立ちできない子供のようなものだった。

 

 そこで、原爆使用で落ちた国際評価の失点回復と西側との交流再開のため、1962年にアフリカ各国の独立に便乗するような形で、岸信介の長期内閣時代(1958年〜64年)に独立準備が発表される。

 そしてキューバ危機頃から続く日本の国際評価の上昇に沿う形で、佐藤内閣時代の1965年に独立した。

 ただし、立憲君主という建前の独裁体制な上に朝鮮半島内で日本からの独立に反対する声が強く、また在住日本人・日系人(約120万人)への富の集中など日本の権益が残りすぎているなどの国際非難もあって国際承認と国連加盟に手間取っていた。

 故に、アメリカからの申し出はまさに渡りに船だった。

 

 そして日本の軍国主義からの脱却の一歩となる植民地独立の動きを、アメリカ以下西側社会は高く評価し、少しでも東側の分裂を図ることでベトナム戦争での傷(※正確には、68年2月のテト攻勢以後のベトナム戦争)を相対的に小さくしようとした。

 

 ただ、日本が事前に長い時間をかけて根回ししていたソ連に対しての政治的効果は小さかった。

 ソ連としては、むしろ国連での自分たちの投票数が増えたと考えていたからだし、事実そうなった。

 大韓王国は、日本と極めてよく似た立憲君主国で市場経済を行う資本主義国でありながら、西側諸国が呆れるほどの親日、親ソ連国家であった。

 しかも朝鮮独立以後日本の財政状態は若干ながら改善し、日本にとっては良いことずくめとなった。

 

 一方で、共産中華の受けた政治的ダメージは大きかった。

 中華の一部である筈の満州が国際政治レベルで中華と切り離されてしまった事、朝鮮半島が西側に認められた事、二つの国が自分たちより先に国連に加盟した事、日本が外交的に大きな得点を上げた事、どれもが大きな失点だった。

 このため内政での巻き返しを図るべく、文革がより激しくなったと言われている。

 しかしその文革で国力と国際評価がどん底になっている共産中華に、多数の水爆と多彩な投射手段を有する日本に、まともに対抗できる力はなかった。

 今度満州紛争のようなことを行えば、有力都市の全てに日本製水爆が降り注ぐと考えられていたからだ。

 

 故にその後の共産中華は、文革での国力異常衰退の中にもあってなりふり構わない政策に打って出る。

 一つは、国内の全てを犠牲にしてでも核兵器の開発を行う事。

 こちらは今までの文字通りの血を吐くような努力もあって、1968年に原爆実験にこぎ着けることができた。

 そしてもう一つは、ソ連と軍事力を交えた衝突を行ってでも西側陣営と和解する事だった。

 

 対するアメリカは、ベトナム戦争を政治的に解決するためと、核軍備を中心に力を大きくするソ連に対抗するため、共産中華の動きに沿う形でもう一つの外交転換を行った。

 1971年の中華人民共和国の承認と、翌72年の大統領の訪中だ。

 

 共産中華の核実験成功と、満州国承認による日ソ離反工作や日米融和政策が思ったほど効果がないための行動でもあった。

 

 だがしかし、このアメリカの政策転換は大きな外交的失敗をもたらしてしまう。

 満州国承認によって得られた日本との新たな協調関係を、短期間で再びもとの水準に戻してしまったからだ。

 

 主な理由は、アメリカが実質的に二股外交を行った事と、共産中華が依然として満州国を認めず、アメリカは共産中華との国交樹立を優先したからだ。

 アメリカは共産中華との国交復帰の条件として国連加盟国全ての相互承認を要求したが、共産中華側は旧清帝国領域各地の独立は断固受け入れらないと強く拒絶。

 それでもアメリカは、自らの様々な面での失点を補うため共産中華と国交を開いた。

 加えて、共産中華が満州国などを受け入れない代わりに、日中会談の場を用意して時間をかけて事態解決を図ることにした。

 これで実現したのが、「周恩来・佐藤会談」だ。

 

 しかし、アメリカが用意した日本と中華そして満州の話し合いは、二人の個人的な関係やノーベル平和賞受賞以外で実は結ばなかった。

 両者の会談のおかげもあって最低限の国交再開と一部デタントを果たしたのみで、他の分野ではほとんど物別れに終わったからだ。

 効果があったと言われたのは、辛うじて最低限の国交を回復した事と、共産中華から日本に仲直りの印として珍獣のパンダが贈られたぐらいだった。

 だがそれでも世界的には、ノーベル平和賞に匹敵すると考えられ、事実佐藤栄作と周恩来はノーベル平和賞を受賞した。

 無論アメリカがそう世論を誘導したのであり、アメリカが東アジア各地で受けた政治的傷と国内での傷がそれほど深かったと言えるだろう。

 

 そこにソ連が、アメリカの実質的な政治的失敗を見透かしたかのように日本とのさらなる関係強化を打ち出し、東側陣営は共産中華を完全に敵と見なすようになる。

 無論日本も共産中華への実質的な敵視政策を続けて満州への軍備増強を行い、アメリカと西側陣営から一定の距離を置く姿勢を維持し続けた。

 そして日本にそっぽを向かれたアメリカは、関係を大きく改善したばかりの共産中華に肩入れせざるを得なかった。

 しかも国連から追い出した中華民国(海南)を見捨てないというアンビバレンツな政治状態を続けざるを得なくなる。

 

 そして以後の二十年間は、アメリカ外交の連続する敗北を象徴するかのように「日ソ蜜月時代」と呼ばれるようになる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ