フェイズ8「満州国承認?」
1949年10月、北京にて中華人民共和国(共産中華)が独立宣言を行い、それまで中華中央部に存在していた中華民国は、翌年春までには海南島へと落ち延びていった。
それに前後して、日本の勢力圏や領土ながら中華圏内にある満州や台湾、上海の日本租界には、合わせて数百万人もの人々が亡命者や流民として流れ込んできた。
英国が抱える香港も同様だった。
上海からの逃亡の様子は、まさに民族大移動だった。
「人民」や「プロレタリアート」ではない中華地域の人々が、共産主義の前に全てを失うよりも日本人やイギリス人に貢ぎ物をして頭を下げて逃げ出す方がまだマシだという状態が中華中央部に出現したからだ。
この時上海などから逃げ出した中華系資産は、数十億ドルに上ると言われる。
そしてこの時の日本人は、間違いなく資本主義者であった。
日本人保護のために過剰なほど大挙して上海に入った日本船団は、亡命者により積み上げられた大金や美術品などを目にして、今のところ『同志』である筈の共産党の非難や忠告を聞くことはなかった。
技術者や職人、軍人の一部に至っては、日本への帰化を主な条件に積極的に亡命を受け入れている。
日本人は「人道的見地」という美辞麗句で、必要なものを手に入れていったのだ。
なお中華民国関係者やブルジョア階級の逃亡先としては、国民党政府と残存軍主力が落ち延びた海南島という選択肢もあった。
だが、華北や華中の人々にとっては遠すぎるし、何より海南島が長くはもたないだろうという観測が大部分だったため流れる人の数は少なかった。
やむなく海南島に向かった人々も、次の亡命先を探すための階段の踊り場程度に考えている人々の方が多数派だった。
事実、かなりの数がアメリカやイギリス(+英連邦各地)へと移住している。
有名な宋姉妹も、三人共アメリカに移住してしまった。
ただし日本の勢力圏に流れた政治がらみの亡命者のほとんどは、浸透してきた毛派共産党関係者共々日本が丁重に叩き出していた。
日本としても、技術を持つ者や中立的な知識人、政治的に無縁な高価値労働者などは歓迎するが、自らの意に添わない者を抱える気は毛頭なかった。
加えて、中華民国はすぐに滅びるだろうとも考えていたから尚更だった。
そのためだろうか、満州に流れてきた流民の多くについて、有益な人材についてのみ満州国の国民として抱える一方で過半数以上をソ連に渡して、ソ連はシベリアでのタダの労働力として活用しつくした。
噂の限りでは、ほとんどの人が五年以内に死に絶えたと言われている。
またそれまで上海や天津を中心に居座っていたイギリス人やアメリカ人も、結局は共産主義者によって叩き出されてしまう。
いや、中華共産党の掲げる資本主義や近代的発展を真っ向から否定する攻撃的な共産主義に恐れを抱き、我先に逃げ出したと表現した方が正確だろう。
踏みとどまったのは、香港に陣取るイギリス人だけだった。
租界では、如何にアメリカといえども強引に留まれるだけの地盤にならないからだ。
また日本の上海租界、天津租界は共産党との取引により、しばらく「特区」として保持される事が両者の間で決まっていた。
故に日本人は、逃げ出すこともなくそのまま止まり続けたのだ。
だが中華全体の共産化に伴い商売にならなくなると順次日本人達は引き上げ、国交断絶以後は僅かな残りも迎えに来た聯合艦隊と共に一斉に引き上げてしまう。
一方中華地域での混乱は、地方にも波及していた。
主に東トルキスタン、チベットでの勢力争いだ。
東トルキスタン地域では、これまでの新疆省政府に加えて1944年頃からソ連が積極的に支援した東トルキスタン共和国が建国されていた。
もっとも世界に認められていたわけではなく、実力で中華民国から半独立状態を維持していたに止まっていた。
しかもソ連の影響が強く、実質的にはソ連の衛星国や傀儡国に近かった。
第二次国共内戦では、同地域はかつてのシルクロードを辿る形でソ連から中華共産党への補給ルートの一つとなり、双方の共産党の影響はますます強まった。
そして国民党の敗退が明らかになった1948年頃より、ソ連と中華共産党の綱引きが始まる。
中華共産党は清朝地域の継承権が自らにあると、支配権の正当性を主張した。
これに対してソ連は、以下のように主張した。
清朝支配地域のうち既にモンゴルは独立した。
満州一帯も日本の勢力下にある(この時点でソ連は満州国を正式に認めていない。)。
すでに中華共産党の前提は崩れている。
そして現地は中華の主要民族より現地民族の方が圧倒的に多く、民族自決こそが国際的に正統な流れであると。
中華共産党の大きな後援者であった日本もこれに同調。
結局力の差から中華共産党が折れ、しばらくはソ連指導での属領化を認めることになる。
要するにソ連の思惑としては、中華との緩衝地帯がほしかったのだ。
いっぽうチベットだが、こちらは状況は少し複雑だった。
あまりに標高が高い地域のためもともと人口は希薄だった。
近代文明を持ち込むのも一苦労だった。
だがイギリスにとってはインドの後背地であるため、辛亥革命まで自らの勢力圏としていた。
その後現地チベット族が国民党を駆逐。
イギリスも世界大戦で影響力を低下させて半独立状態となる。
そして第二次世界大戦中、日本政府がチベットの独立を承認した。
満州を支持する国を増やしたかっただけという説が一般的だが、とにかくチベットは日本から承認された。
当然中華民国(国民党)が激しく非難したが、すでに敵対に近かった中華民国の言葉を日本はきかなかった。
中華共産党は当面それどころでないので、国民党が困るならと当面は放置した。
そして大戦後、チベットは日本を仲介して国連に使節を送り込んでしまう。
中華民国はまたも激しく非難したが、日本を国際社会に戻すことが一番の課題だった国際社会は、面倒なので各国の判断に任せると事実上独立を容認。
その後独立したばかりのインドが、中華との緩衝地帯ができるためチベットの独立を承認。
国共内戦の激化と共に、承認する国が増えていった。
そして独立宣言した共産中華に対して日本は、チベットの独立を認めるよう働きかけを行う。
散々を援助してやったんだから、チベット独立ぐらい認めろというわけだ。
そしてここでも圧倒的力の差から、共産中華は折れざるをえなかった。
ただし共産中華は、西チベット地区以外は認めなかったし、そのうち併合するつもりだった。
何しろチベットは弱いのだ。
なお、日本が中華でないとした満州は、日本人が何があろうと維持する決意を固め、満州全土には関東軍40万人以上が駐留していた。
だが、この時点で日本は中華共産党の支持者にして支援者であり、満州の一部には一時期共産党軍編成のための拠点ですらあった。
成り行きとは言え実に奇妙な事態だったが、それが現実だった。
そして中華民国の、近代国家としてはあり得ない稚拙な統治を最大の原因として中華市場を失った欧米自由主義陣営だったが、中華中央部に共産主義政権が誕生したため国際問題の一つがほぼ自動的に消えてなくなった事を理解するまでに長い時間はかからなかった。
つまり、満州国の独立を巡る日本との長い対立関係が自動消滅したのだ。
そもそも満州国問題は、中華民国を強力に支援するアメリカと満州国を作り上げた日本との間の、約20年間続いた最大の外交問題だった。
欧州諸国はもう少し穏便に対処しても構わないと考えていたが、アメリカにとって中華市場の橋頭堡の一つである満州を日本が牛耳ることは何があっても許されなかった。
おかげで日本を東側陣営に走らせるという、外交的アクロバットが展開されたのだ。
しかし皮肉にも、中華中央に共産主義国家が誕生した事で大きな変化が生じた。
欧米各国がほとんどの中華利権を失うと同時に、満州は西側にとって中華中央部に返さなくてもよい地域へと180度変化したのだ。
しかも当時の日本は、まだ完全に東側陣営ではないと判断されていたし、当時のアメリカは余りにも愚かな中華民国をほとんど見捨ててもいた。
アメリカにとって、アジア政策巻き返しの絶好のチャンスだったのだ。
かくして、再び米ソ間で日本を巡る外交合戦が開始される。
アメリカは、満州国を国家として正式承認して国際社会に迎え入れ、日本を最恵国待遇にする準備があると言ってきた。
さらには、戦後のアメリカがもう一つ問題としていた日本の天皇主権と軍人主導の政治姿勢も気にしないとも言った。
加えて水面下では、ロシア人に対抗するための安全保障条約を結び軍事力を提供する用意があるとすら言った。
日本が対価として支払うのは、常識範囲内での国際的な市場開放と東側陣営からの事実上の決別だった。
元々資本主義国で反共産主義、さらには歴史的反ロシアなのだから、あるべき道に戻れとアメリカは言ってきたのだ。
日本にとっては、等価交換以上の好条件だった。
対するソ連は、まずはにこやかに資源、食料などの援助や同盟価格での貿易を含んださらなる関係強化を持ちかけてきた。
またより一層の軍事面での関係強化に向けて、原爆を含む兵器の供与や軍事技術の相互開発を持ちかけてもきた。
日本が支払う対価は、今まで同様にソビエト連邦ロシア並びにその友好国との揺るぎない友好関係を維持すること。
ただそれだけだった。
しかし日本がアメリカになびきそうな動きを見せると、水面下で一つのカードを示した。
日ソの関係が万が一にも揺らげば、政治不安から満州や朝鮮半島で革命が起きるかも知れず、ソ連は党のテーゼに従って全力を挙げて助力しなければならない、と。
実際朝鮮半島北部の山岳地帯では、俄に共産党ゲリラの活動が活発になった。
裏に誰がいるのかは、問うまでもない。
そして米ソ以外に独自に首をつっこできたのが、中華人民共和国(共産中華)だった。
彼らは、日本および満州が万が一東側陣営の団結を揺るがすようなら、満州に対する断固とした対応を行うだろうと伝えてきた。
この背景には、中華民国残党が満州が同じ自由主義側となれば流れ込んでくる事を強く警戒した、彼らの国内事情があった。
ただでさえ満州への国民党残党やシンパ、ブルジョワ階級の多数亡命に頭を痛めていたのに、日本と国民党の陣営一致により国民党政府までが満州に落ち延びて自らの存続を宣言などされてはたまったものではなかった。
貧しく小さく、隔てる海峡も狭い海南島ならいつでも潰せるが、日本が巨大化させた満州だとそうはいかないのだ。
万が一懸念が実現すれば、念願の中華統合が大きく遠のいてしまう。
場合によっては、満州をロシア人に分捕られてしまうかもしれない。
そして無定見な日本人ならともかく、ロシア人は未来永劫手にした土地は絶対に返さないという確信があった。
何しろロシアは大陸国家だ。
共産中華の動きの方が切実だったのは当然だろう。
そして世界から注目を集めた日本国内の動きだが、1936年の「二・二六事件」以後依然として軍部が大きな政治力を持ち続けていた。
しかも事件当時佐官級だった急進派が出世して軍の本当の意味での実権を握り、さらに後継者が育っているという状態となっていた。
しかも陸海軍で見つめる仮想敵がバラバラだった。
陸軍は依然としてロシア人とシナ人、特にシナ人を信用しておらず、海軍はアメリカを厳しく見つめ続けるばかりだった。
そして政府、政治家は実権を握る者の多くが外交面では無定見であり、能力のある者の多くが主流派ではなかった。
優秀な官僚団は、彼らの責任内に限り信頼おけるというのが実状だった。
しかもソ連の独裁者スターリンは、日本陸軍の非主流派の現実主義派と日本の優秀な官僚団と強いつながりを保つことを望んでおり、状況はさらに混沌としていた。
そして当時の日本の内閣は、49年に急死した中島知久平首相の後を次いだ形の場つなぎ的な雰囲気の強い内閣だった。
そして当時の内閣は、先の中島内閣の路線を踏襲しただけの、軍需主導の経済に景気回復の重点を置いた軍産複合内閣の典型だった。
国連加盟頃のリベラル傾向の強かった中島内閣の一つ前の内閣である幣原内閣と比べて、西側陣営からの評価は低かった。
また中島内閣は、予算が肥大化する海軍航空隊の基地航空隊を中心として独立軍種の空軍として自立させて陸海軍とは別に空軍省を置き、なお一層の軍国主義を押し進めるような政策を行っていた。
この内閣でもその混乱が続いており、国内各勢力ともめていた。
軍上層部と企業の癒着も、日に日に酷いものになっていた。
つまり日本が賢明な判断を下す可能性は低く、さらには抜本的な変革や外交的転換ができる筈もなかった。
西側陣営唯一の望みは、日本国内及び勢力圏内の共産主義勢力が徹底的に嫌われ、ほとんど殲滅されている事だけとすら言えた。
そして共産主義諸国の全てと国内の軍部に影から睨まれた日本政府が下した決断は、アメリカにとって余りにも身勝手なものだった。
日本としては満州を人質に取られたも同然のための選択でもあったが、日本が関税など貿易面で少し譲歩するだけで、外交面はほとんどアメリカが譲歩するだけの内容だったからだ。
それでも日米の不毛な交渉はかなりの期間続けられたが、結局アメリカが満州国承認に至ることはなかった。
海南島に対して人民解放軍が攻撃を開始した事で、政治環境に大きな変化が現れたからだ。
日本は、共産中華が国民党を海南島から追い出して満州へと亡命させ、それを口実に満州に対する行動を起こすと考えた。
そしてアメリカに対する態度を急に硬化させ、アメリカを失望させる事になる。
以後のアメリカは、共産主義の防波堤として日本列島の代わりにフィリピン=海南島ラインを設定せざるを得なくなり、さらには見捨てたはずの中華民国を急ぎ支援しなければならなくなった。
何しろ、フィリピンも中華民国も、あまりにも国家の地盤が弱かった。
そしてこの紛争を境に、アメリカはかなりの軍備を東アジアに持ち込まねばならず、必要以上の警戒心を日本に抱かせた。
しかもアメリカは、『民主主義の防衛』という政治的理由で死に体同然の中華民国が最低限存続できるように支援し続けなければならなくなった。
だが共産中華は、自分たち(アメリカ軍)には決して武力を用いず、なぜか海南島への全面侵攻を行うことはないため、多くの努力をアジアの僻地に注ぎ続けなければならなくなった。
そして気が付いたら、日本が諸手を挙げて自分たちの側に来ない限り、東アジアで日本にかまっている場合ではなくなっていた。
当然これは、共産中華の政治的駆け引きの結果であった。
日本とアメリカの関係を裂くことで、いずれ奪回しなければならない満州を近隣で一番弱体な日本に「預けておく」事ができるのだ。
そして端から見た場合高慢と映った日本の対応は、意外にも日本の国際評価を引き上げるという皮肉をもたらす結果を残す。
理由はどうあれ、アメリカに対して安易に譲歩しない国である、と。
かくして東アジアを巡る東西最初の綱引きは、東側の判定勝利に終わる。
そして以後の日本を、東西冷戦の中で東側陣営の一角として位置づける事になる。