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 学校から家までは、自転車で一時間弱。誰かと一緒に帰る訳でもないので、その間は暇になる。音楽を聴きながら帰ったことがあったが、耳にイヤホンがあると周りの音が聞こえなくてどうにも落ち着かない。だからいつも周りの景色を見るか、なかったであろう過去を想像することで帰宅途中の時間をつぶしていた。


 最初の五キロまでは、ほぼ、田園風景。ちらほらと住宅も見えるけど。視界を三つに分割したとき、下から、道路と田んぼ、山、空と分けられる。


 田んぼは、夜になるとより美しく見える。水が張っているときは、水面に家や雲が映し出される。比較的近くに見えるのだが、意識して遠目で見るとより対称になっているのがわかってそれに見とれることもよくあった。はっきり言ってしまえばその見方で見る景色が好きだった。


 見回せば山しかない。暮れなずむ頃に見渡せば、富士山ほどの大きな山にも引けを取らないと思っている。いくつもの溝が影をつくりだし、凸の部分をより鮮やかに夕日が照らす。オレンジに。自分の目まで光っているんじゃないかというような錯覚に陥れさえする。感傷に浸るような気分になれる。


 空は、うっすら雲が広がっているときが一番綺麗に見える。一面に染まるのではなくて、隙間や雲の上から、薄い光が照らす程度。普通に見たらそんなに明るくないと思うだろう? そんなときは、隣に流れる小さな用水路を見るといい。直接見るより明るく見えるから。ただ明るい空を見るのではなく、水を通してみるからこそ感慨深いものが見える。ついでに、見方によっては自分の姿も水面に映るから、未来を垣間見た気分にもなれるよね。自分の未来をちょっとだけ覗いてしまうような。


 風によってできた波紋が、染まった空を揺らす。


 そんな景色たちを見ているだけで、いつの間にか暇つぶしだった時間が目的に変わっていて、時間ってものはあっという間に過ぎる。



 家のドアを開ける。

「ただいまー」


 いつもならすぐ「おかえりー」と返ってくるのだが、今日は少し遅れて返ってきた。


「お友達来てるわよ」

 ばあちゃんはそう言うが、俺に家に来るほどの友達なんていない。だから、この家には似合わない靴が置いてあったのを見たときは「ああ」と納得した。


 廊下に面する戸襖をあけると、彼女は正座をしながらこちらに向かって体を逸らした。

「白石……」

「お邪魔してます」


 なぜこいつがここにいるのか。鞄を無造作に下ろしながら、思考は止まらない。今考えられる理由は二つ。一つは、さっきのメールの要件。返信していないままだったのを今思い出した。二つ目は、トイレでの出来事。これはどっちかと言うと触れて頂きたくない話だ。立場上、半々の位置にいるからね。


 上着を脱ぎながら俺は話し出した。

「なんか用? 家にまで来るなんて中学以来か?」

「中学の頃は、何回か来たなあ。懐かしいね」

「俺は、思い出したくないことの方が多いけどな」

「ごめん。そんなつもりじゃ……」

「もう過ぎたことだ。思い出そうとしても思い出せねえよ。で、なんだ? 要件は」


 そう急かすと、途端に口を噤んでしまった。


 勝手な妄想だけど、トイレでのことを話しに俺より先にこの家に来て、雑談しながらなんとなく話そうとしたが、俺が核心に迫ろうとするから、なんとなく話せなくて困っている、といったところだろうなと頭に浮かんだ。俺より先に来たのは、断られないため。もしくは、自分を逃げられないようにするため。彼女も、ちゃんと覚悟してきたのだろう。憶測でしかないが。


「聞かないの? さっきのこと」

 やっぱり濁してきたか。きっぱり言えばいいのに。まあ、彼女の気持ちもわからなくはない。


「奢ってくれるって話か? それとも、いじめていた話か?」


『いじめ』というワードが出た途端に、彼女の表情はまた一変し、視線は下がる。何かを噛み締めているようで、下を向く横顔からは涙がこぼれそうだ。でも、その顔は綺麗にも見えた。哀愁? 郷愁? 語彙力のない俺には選び抜けないが、人が後悔する瞬間とか、思い出したくないものを思い出すときってのはこういう顔をするんだろうなってのは、わかった気がした。


 後悔って別に悪いことだとは思わないんだよ。寧ろ、それが人間らしさじゃないかって。悔やむほどの時間があったことに対して悔いている。その瞬間に人は成長する。美しいよ。慈しむべきだ。

だからって後悔しようと思って生きるのは、お門違いだけどね。後悔しないのが一番いいんだから。


 話の要点なんてそっちのけで、ただその横顔を眺めていた――。


 昔の自分に重なった。


 弱く、沸々と赤い感情が込み上げてくる。


 白石と同じ空気を吸ってしまったようで、溜まっていたもの、抑制していたもの、それを繋いでいた鎖が千切れた感覚に襲われ、自然と自白してしまった。


「別にいいんじゃない? いじめられる方も悪いんだから。嫌だったら反抗すればいいんだから。仕返せばいいんだから。でも彼女はそれをしない。だから私は悪くない。私はたまたまこっち側にいるだけだ――。そういう奴が俺は、大っ嫌いだ!!」


 いきなり声を張り上げたせいで、彼女が震えたのを見逃さなかった。ばあちゃんは、何事かと部屋を覗きに来た。


「どうしたんだい?」

 本当に心配そうな顔だ。ばあちゃんにこんな顔されると敵わない。


「ごめん俺が悪いんだ。悪かったな、白石。忘れてくれ」


 一時の感情に流された自分を恥じた。軽く皮肉るつもりだった言葉は、だんだんと鋭さを増して、怒鳴るような声の大きさへと発展。おまけに白石とは全く関係のない私心を押し付けた。嫌いな自分が出て来てしまった。あれだけ否定していたのに。あれだけ他人を罵ったのに。


 言葉に出した途端、中学の家畜どもと同じになった気分だった。吐きたいけど吐かない。儚い。もう昔の俺じゃない。


 俺は、「もう大丈夫だから」とばあちゃんを部屋から半ば強引に追い出す。そして、白石の隣に胡坐をかく。手は後ろに突いた。


「泣いても何にも解決しないんだよなあ」

 白石が泣いているせいか、上を向いてそんなことを言った。

「泣いても明日は来るし、学校辞められねーし、ばあちゃんは心配するし。知ってるか? ばあちゃん俺のせいで、自殺未遂してるんだわ? あのときだけはちゃんと泣いたなー。止まんなかったよ、涙」


 自分から話しておきながら、話したことを後悔した。


 あの日の記憶が蘇る。

 俺の泣いている姿が客観的に映る。リンチに遭う俺の姿が客観的に流れる。台所で倒れているばあちゃんに近寄り、腹に刺さった包丁を見た瞬間。血を見た瞬間。目を閉じているばあちゃんを見た瞬間。抜いてやりたいけど、抜けない包丁。急いで電話に走る俺。足が痺れる俺。床を這った俺。焦って上手く伝えられない俺。救急車を待つ俺。気が気でない俺。


 血は幾度となく見てきたけど、この血は見たことがなかったなあ。


 ちゃんと思い出せちゃってるよ、俺……。


「私、彼方のこと知ってるから、余計に咲奈ちゃんの気持ちわかって……。でも、自分があの姿になるって思うと……」


 さらに、せき込むほど泣き出す。女がこんなに泣いてるの、初めて見たよ。じゃあ男は見たことがあるのかって? 散々、鏡の前で見たよ。血を流したこともあったな。


「他人なら、痛みは心だけで済むからな。短い消費期限付きの。結局、自分を選び取ったんだろ? だったら、そんな甘っちょろい考え捨てちまえ。お前の中に選択肢は二つしかないんだよ。いじめるか、いじめられるか。相手の気持ちなんて汲み取ってたら、お前の方が辛くなるぞ。やるんなら覚悟してやれ。それが相手への敬意ってもんだ。誰にでもいい顔して、八方美人みたいに中途半端な奴は、俺が許さない」


 グスグス音を立てながらも、縦に何度も頷く。両手の指の腹で目を拭き、右手の甲で顔を拭う。「ハアー」という声とともに、彼女の背筋は伸びた。


「私、彼方のこと好きだから」

 ん?

「あ、え、あ。あ?」

 言葉にならない驚きと戸惑いが滲み出た。


「決めた。私、彼方に好きになってもらうまであきらめないから!」

 そう言い残し、「おばあちゃん、お邪魔しましたー!」と高らかな声であいさつし、さっきまでとは打って変わった態度で玄関を出て行った。


 呆然とはしても、驚きはしない。なんかちょっと違うような気はしたけど。


「あの女、咲奈って言うんだなー」

 きっと明日には忘れているだろう名前だ。


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