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あの聴きなれた鉄琴を上り下りする音が校舎の方から鳴った。始業のベルが鳴る。
「じゃあ始めるぞー。隣見て、いない奴いるかー?」
体育教師が適当な点呼を取り始める。
「先生! 長谷川がいませーん」
「は? いるっつーの。何言ってんだよ」
周りからは半笑いの声が聞こえてくる。この程度の声だったら、多分、呆れて黙っている人の方多いだろう。苦笑の方が正しかったね。
「大谷、マイナス一万点だ」
色黒の体育教師、満面の笑み。
「えー、勘弁してくださいよー」と言いつつも、冗談だろうと高を括っている様子。
「今日はサッカーだから、サッカー部中心にやれよー。先生はもう帰るから、時間になったらちゃんと片付けて、次の授業に遅れるなよー」
教師がそう言うと、前後両脇から黒い影が伸びて消える。一斉にボール籠の方へ走って行った。俺と安広を除いて。
俺たち二人は、グラウンドの隅の草むらに座る。先生がいない日はこれが恒例。帰ってしまう人がいてもおかしくないのだが、俺たちのクラスはやたらとやる気がある奴が多い。そのせいか、クラスマッチではいつも上位の成績を収める。今日は、今度行われるクラスマッチの練習という体。
クラスマッチの前の一週間くらいはこんな授業が続くから正直うれしい。
俺たち二人は、いつも卓球を選択する。普通、他のクラスだと卓球を選ぶ人が多いのだが、なんせこのクラスはみんな元気だから、サッカーとか激しいスポーツの方へみんな行ってしまう。だから、俺たちは安心して卓球を楽しむことができる。
俺たちだってサッカーや激しいスポーツをやりたくない訳ではないんだよ? でも、あの独特の空気感というか、ピリピリした雰囲気。あれが苦手なんだ。やっぱり、ただ純粋に楽しみたいじゃん? 俺は、クラスマッチは仲良く楽しくっていうものだと勝手に解釈しているから、そういうのは部活でやってくれって。
そんな言い訳は自分の中にだけしまっておいて、「外って暑いじゃん。太陽に当たっちゃダメな病気なんだよ」なんて虚言をぬかしてみたりもする。
「元気だよなー、みんな」
俺は、雑草の上で両膝を抱えながらそう言う。
「僕たちが普通じゃなくてマイナスに思えるよ。僕たちが普通だよな?」
「ああ、普通だ。他のクラスだったら平均以上だわな。これが異常」
にぎやかにボールを蹴りあう二人。ゴール前でシュートを打つ者。それを止める糊のよさそうな短髪。それらを両端に置いて、サッカー部のまとめ役らしき人がその他の野郎どもに指示を出している様だった。
チームが決まったようで、程なくして試合らしきことが始まった。普段積極的ではないモブキャラたちはゴール前にたまり、雑談。要キャラたちは前線へとひた走る。多少技術を会得している者は、たまにいい動きを見せて要キャラにパス。自陣に戻る。
それでも、やる気のある人間が大勢いる。客観視することで少数派が浮きだって見えた。モブキャラ以下の我々二人は、当然俺の視界に入らない。
思ったことを素直に頭の上に浮かべながら観戦していたのだが、「どうする? 教室戻る?」と安広が戻りたそうな目で見つめてくるので、「戻って寝るかー」と俺は身体を伸ばした。
「えー、寝るなよー。ゲームしようぜ」
そんなことを話しているときには、直立していて、すでに身体は歩ける状態になっていた。
「これで、俺らも平均以下の仲間入りかー」と安広も立ち上がりながら呟く。
「悪い。トイレ寄ってから行くから、先行ってていいよ」
「もしかしてデカい方か?」
「マジで漏れそう。急に来た」
「早く行け。こんなとこで漏らしたら赤っ恥だぞー。いや、もしかしたらバレないんじゃないか? サッカー部が部活のときにスパイクで踏んだりして」
彼の冗談を聞き流し、俺は小走りでグラウンドのトイレに向かう。こういうときって、速く走ると漏れそうになるし、悠長に歩いていても漏れるから考えどころだよね。
急ぎつつも急ぎすぎずということを意識して、訳のわからない走り方でトイレの前に来ると、見覚えのある女が立っていた。
「おお、白石じゃん。今授業中だろ。何してんの? こんなところで」
「彼方こそこんなところで何してんのよ」
体育の時間のせいか、髪は馬の尻尾。耳がひょっこり。白いジャージに紺の長ズボン。
「俺はトイレだ。だからそこをどいてくれ」
彼女を分け入って中に入ろうとするが、両肩を止められた。
「ちょっちょっと待った。トイレなら校舎にもあるじゃん。そっち行きなよ」
「マジで漏れそうなんだって。高校生にもなって、こんなとこで漏らしたかねーよ。てかお前がいるべきなのはそっちの女子トイレだろ。頼むからどいてくれー」
「いろんな事情があるんだよ。掃除とか……」
「掃除ぃ? お前がそんなことするわけないだろ。マジでほんとに」
「しょ、しょうがないなあ。早く済ませてよ」
そう言って、男子トイレの前から離れてくれた。それと同時に勢いよく扉を開けて、個室の扉を開けようとする。が、
「何ぃー。この時間に二つとも使用中とかありえんだろー。あ、やばいマジで……」
待っていようかとも思ったが、本当に耐えられなくなってきていたので急いで外に出る。
「おい白石! 両方使ってんならそう言えよ。マジで時間の無駄じゃねーか!」
「え、そ、そっちだったの? だったら先に言ってよ」
「小便だったらそこらへんでするっつーの。てかお前、男子便所入ったのかよ。なんか怪しいなー」
「怪しくなんかないわよ」
「ああーもう駄目だあー。やばいい。マジで校舎とか間に合わねえよー」
穴に力を入れて耐える。
「ここで漏らすのとかはやめてよね! ほんとに」
そんな言葉を鵜呑みにできるほど余裕がなかった俺は、思考を巡らす。え、思考は巡らせるんだ。
浮かんだ一つの回答。
「もう女の方でいいや。白石、誰も来ないように見といてくれー」
呆然と立っていた白石の姿は残像となり、返事を聞く前に女子トイレのドアを開けて、勢いよく個室のドアを開け閉めする。バンバンと。速攻でズボンを下ろし、ことを経た――。
俺は手を洗って、外に出る。
「ああーマジで危なかったー。白石マジで覚えとけよ。今度奢ってもらうからな」
「え、あ、あたしでいいならいつでも……」
「え? マジで奢ってくれんの? 素晴らしいな」
「まあ、ね。というか、よく普通に女子トイレ入れたね……信じらんない」
「いや、もう考えてる暇とかなかったわ。これで校舎まで行ってたら、確実に漏らしてたからな」
そのとき「ガチャっ」と音が鳴った。不意に見えた目線の奥には、女らしき影が見えた。
「あっ」と声が出たが、次の瞬間には「授業戻りまーす」と右肩が耳に付くほどしっかりと手を挙げて言い、俺はその場をそそくさと立ち去った。
馬鹿みたいな奴に思われたかもしれないが、これには意図があった。
俺はその後、少し離れたところから彼女たちを見ていた。二人は少し何か話していたが、その場を完全に立ち去ったのを確実に確認してから、戻った。
男子トイレのドアを開ける。タイルの上には、水が流れていた。さっきは急いでいて気付かなかったのだろう。視線を前に移すと、手前の個室は白になっていた。でも奥へ行き、扉の前に立つと、こちらは赤のままだった。
「いるんだろ……」
不確定で浅はかな思慮。返事は帰ってこない。
確信はなかった。でも確信していた。なぜか。なぜだろう。なんとなく? それこそ明白でない。
勝手に話を続けた。
「強く見える人間ってのはな、一度甘えちまうとそっちに溺れて出られなくなっちまうんだ。どこにでもさ、いい奴ってのはいるもんで、手を差し伸べてくれるんだよ。でも、それ以上もそれ以下もない。そいつらにとって俺たちは他人だ。一時の自己満足でしかない。長く続けようとすれば、当然自分を犠牲にしなければならない。自分がかわいいってのは誰でもそうだろう? 自分しかいないんだ。本当の意味で信じられるのは。だから……」
俺は、上に着ていたジャージとズボンを脱いだ。そして、投げ入れる。上手く引っかからずに落ちたようだった。落ちた音がまさに自分の想像していたそれと同じだった。
「さっさと逃げろ。居場所なんかいくらでもある。自分が変わる必要なんかねーよ」
鼻を啜る音が聞こえる。風邪かな。
「もう俺の前になんか現れるなよ。じゃあな」
濡れたタイルの上を、わざと「ぴちゃぴちゃ」と音を立てながら歩き、ドアを力いっぱいに閉めた。
外へ出ると、トイレの中が暗かったせいか太陽が眩しかった。
「また余計なことやっちまったわー」
中が暗かったせいで、太陽の光がさっきよりも明るく感じる。遠目に見えたグランドの人々は、まだ賑やかさを保っている。どこかではそういう姿に憧れているのだが、またどこかではそういう姿に歪な想いがある。今、ここから走って「俺も混ぜてー」と言えば、普通に混ざることはできるだろう。受け入れてくれる。みんな元気だし、心が広いからね。でも、俺自身がそれをどう受け止めるのかがわからないし、何より怖い。やってみて初めてわかる。そのわからない、歪み続ける小さな感情に恐怖を抱き、いつまでも逃げたままの自分が、浮き彫りになった。
「あ、やべ。安広のこと忘れてた」
こういうときの感情は隠せるほど余裕がある。人間上手くできているものである。
急ぎつつも、ゆったりと、教室に向かった。




